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低身長転生 ~もう一度の人生を送る物語~  作者: 普通の人
第3-3章「少年期 発覚編」

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第37話「心配」

西暦256年10月30日の夜。


視点は変わり、俺、ピサロ・ファンジアス視点。


「ねぇ、ピサロ……。私たち、これからいったいどうすればいいのかしら……」


静まり返った石造りの別荘のリビングで、ランプの灯りに照らされたミサが、不安に押しつぶされそうな、今にも消え入りそうな声で俺に問いかけてきた。


「ミサさん。何をそんなに不安がっているんですか。それはもう、最初から既に決まっていることではありませんか」


ミサの弱音を遮るように、向かいの席に座っていたアーシャが、いつものような「〜ですわ♡」という間延びした語尾ではなく、珍しくハッキリとした、メイドとしての芯の強さを感じさせる声で静かに答えた。


「私たちが考えるべきことは、第一に、グライちゃんの無事と生還を信じて待つこと。そして第二に、あの上空に現れた不気味な紋章から逃れてきた私たちが、これからこの異国でどうやって生活していくか、その基盤について考えること。……ただ、それだけでしょう?」


アーシャの正論に、俺は深く頷いた。


「ああ、アーシャの言う通りだ。ミサ、心配するな。

そもそも、あの時、危険な村の外の世界へグライを冒険に出したのは、父親であるこの俺だからな。

もしあいつの身に何かあれば……全責任は俺が取る。そのための覚悟も、とっくに出来ている」


俺が力強く言い切ると、ミサは少しだけうつむき、ギュッと両手を握りしめながら、震える声で返した。


「……そうね……ピサロのその強い覚悟があったからこそ、あの子を外の世界へ冒険させたんだものね。

でもね、ピサロ。もし……万が一にも、私たちの愛するグライちゃんが死んじゃったりしたら……。

あの日も言った通り……私も、母親としての責任をとって、命を絶つわ」


その言葉の重さに、リビングの空気が一瞬にして凍りついた。


俺たちは今、レストリア村から遥か北に離れた、「ブレイン帝国」の領土内にある俺の別荘に避難し、身を隠している。

約3週間前。俺たちはあの不気味な紋章から逃れるため、西ガルバン王国の北の果て、海に面した辺境の極寒の港町まで死に物狂いで馬を走らせた。そこから密航同然で船を使い、荒れる冬の海を渡って、ようやくの思いで「ブレイン自由国」へと上陸したのだ。

さらにそこから、検問を潜り抜けながら2週間かけて雪道を北上し、ようやくこの北の強国「ブレイン帝国」の山奥にひっそりと建つ別荘へとたどり着いた。


この別荘に腰を落ち着けてから、早くも1週間が経過した。


だが、無事に逃げ延びたとはいえ、こんな先が見えない逃亡生活の状況で、俺たちの気分や調子が上がるわけがない。

俺たちは常に、「外の世界で戦っているグライの生死」という、とてつもなく重く、そして暗い『何か』を心に背負いながら、息を潜めて生活しなければいけないのだから。


俺は、この別荘に着いてすぐ、独自の裏のギルドのルートを使って、一日でも早くグライを村の方角からこちらへ帰らせるために、手紙を送った。

その手紙の詳しい内容はここでは教えないが、一つだけ確かなことを言うと……それは決して、「俺たちは無事だから安心して旅を続けろ」というような、『明るい』意味の知らせではないということだ。


順調にいけば、1ヶ月後くらいには、遠く離れた場所にいるであろうグライ本人の手元に、あの手紙が届いているはずだろう。

俺の送ったあんな残酷な内容の手紙を読んで、グライは一体どんな返事を返し、どんな行動を取るのか。


そのことを考えるだけで、息子の無事を信じているはずの母親のミサや、メイドのアーシャだけでなく、歴戦の戦士であるこの俺ですら、心臓が握り潰されるような極度の緊張が、いつまで経っても消えないでいるのだ。


* * *


重苦しい沈黙が続く中。

すると急に、うつむいていたミサが、決意を固めたように椅子から立ち上がり、俺の目の前へとズカズカと歩み寄ってきた。


「えっ……? おい、ミサ、どうし——」


俺が驚いて声をかけようとした、次の瞬間だった。

ミサは俺の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せると、彼女の柔らかい唇が、俺の荒れた唇に、強く、そして熱く触れたのだ。


……キスだ。

こんな深刻で重苦しい状況の最中に、突然のキス。夫婦とはいえ、あまりにもいきなりの行動だったため、俺は目を丸くして完全に驚愕してしまった。

だが、彼女の震える唇から伝わってくる、切実で、すがるような感情を感じ取り、俺はそっと目を閉じて、そのキスを深く受け入れた。


俺にも、そしてミサにも、グライを危険な目に遭わせているという重い責任がある。

もしものことがあった時のために、あるいは、押し潰されそうな今の不安を少しでも和らげるために、彼女は今、自分からこうして愛情と絆を確かめようとしたのだろう。

もし本当にグライが死んでしまい、彼女が後を追うようなことになれば、俺たちはこうして熱いキスなんて、二度とすることはできなくなってしまうのだから。


数十秒の長い口づけの後、ミサの唇がゆっくりと離れた。


俺が、少し照れくさそうに彼女の顔を見つめていると。

すると、次にミサが向かったのは、俺の隣に座って顔を真っ赤にしてその様子を見ていた、アーシャの方だった。


(なるほど……。俺の次は、ずっと一緒に家族として過ごしてきたアーシャに対して、ミサなりの今の『感謝』と『愛情』の気持ちを伝えるんだな)


俺が、微笑ましくそう思って見守っていた、その瞬間だった。


ミサは、椅子に座ったままのアーシャの顔を両手で優しく包み込むと、そのまま顔を近づけ、なんとアーシャの桜色の唇に、自分の唇を直接触れさせたのだ。


「…………えっ!?」


…またキスだ。

しかも、俺とミサの夫婦間のキスならともかく、あのミサとアーシャの、女同士の二人が、だ。


俺はあまりの予想外の展開に驚愕し、目玉が飛び出そうになったが、ここで野暮なツッコミを入れて雰囲気を壊すまいと、必死に口を噤んで何もいわなかった。

それでも、こんな極限の状況だからこそ、彼女のその行動の真意が、俺には痛いほどよくわかっていた。


それは、言葉ではなく、行動で示すこと。

「私たち三人は、グライの帰りを待つために、こうやって心も身体も一つにして、絶対に『団結』しなければいけないということ」を。


突然のミサの唇が触れた瞬間、アーシャは驚いて暴れたり、拒絶して逃げようとは一切しなかった。

寧ろ、ミサのその深く温かい愛情を、全身の力を抜いて静かに受け入れていた。

顔を耳の先まで真っ赤に茹でダコのようにしながらも、彼女はミサの細い腰に両腕を回して強く抱きつきながら、その甘い口づけを止めようとはしなかった。


「んっ……ちゅっ……ぁん……」


静かなリビングに、二人のかすかな水音が響く。

数十秒経った時、ミサは名残惜しそうに自ら唇を離し、二回の甘く、そして深い絆を確かめるキスを終えた。


これは決して、いかがわしい悪いことではなく、逃亡生活という極限状態において、残された俺たちが家族として強く団結するため。

言葉だけでは不安に押し潰されてしまう彼女たちにとって、このように肌を合わせ、愛情を確認しなければならないほど、精神が追い詰められているということを、俺は初めて知った瞬間だった。


「ハァ……ハァ……ミ、ミサさん……。何故、突然……私にまで、このようなことを……?」


息を乱しながら、アーシャが潤んだ瞳でミサを見上げて尋ねた。


「アーシャちゃん。これはね、決して悪いことではないのよ」


ミサは、母親のような慈愛に満ちた笑顔で、アーシャの頭を優しく撫でながら答えた。


「じゃあ、何で……こんな、恋人同士みたいなことを……」


「それはね……アーシャちゃんも、私とピサロにとって、かけがえのない『家族の一員』だからよ」


ミサが、はっきりと、何の淀みもなく告げたその一言。

その言葉を聞いて、アーシャは雷に打たれたように完全に驚愕し、目を見開いた。


次の瞬間。

彼女の大きな瞳から、堪えきれない大粒の涙が、まるで壊れた蛇口のように大量に溢れ出してきた。

大粒の涙は、ポロポロと彼女の膝の上へと、止めどなく下に落ちていく。


「ミサさん……私なんかを、家族だなんて……」


「あの時の約束……忘れたの? ……もう、アーシャちゃんは本当に『忘れん坊(じこぼうえい)』なんだから」


ミサは、涙を流すアーシャの頬を拭いながら、優しく微笑んだ。


「約…束……? ……あ、あの時の、約束……。

……あれは、私が勝手に思い込んでいただけで、嘘じゃなかったんですか……?」


「えっ? 嘘だと思ってたの!? あんな大事な約束が、嘘なわけないでしょ!!?

あなたは、あの雪の夜に出会った時からずっと、私たちの娘であり、家族の一員だったのよ!!

あなたは、絶対に一人じゃないのよ!!」


ミサが、少し怒ったように、けれど涙声で強く抱きしめ直すと。


「……うっ……うわぁぁぁん……!! 申し訳ございません……ミサさん……っ。

私、ミサさんだけじゃなくて……ピサロさんにも、本当の家族だとは少しも思われていなかったと、勝手に勘違いして悲しんでいました。

私は、自分が『忘れん坊』のせいで……あの時みたいに、ずっと、ずっと一人ぼっちで生きていくんだと……っ」


アーシャは、声を上げて泣き崩れた。


無音無言の、重くも温かい空気がリビングを包む。

俺は、たまらなくなり、椅子から立ち上がると、泣きじゃくるアーシャの小さな背中を、とっさに力強く抱きしめた。

それと同時に、俺は痛む胸をごまかすように目を閉じた。


キスはしなくても、こうして強く抱きついた状態でも、十分に「団結」とは言える。俺たちの絆は伝わるはずだ。

だから俺は、父親として、男として、彼女を強く抱きしめたのだ。


「アーシャ……泣かせてごめんな。

俺も、アーシャがすぐ色んなことを忘れちゃう『忘れん坊』だから、俺たちがお前を家族だと思ってるってこと、ちゃんと口に出して言おうとしていた時が毎回あったんだ。

……でもな。お前が、あの過去の凄惨な記憶を思い出して、もう一度苦しむ姿を絶対に見たくなかったから……俺たちは、あえてその話題から逃げてしまっていたんだ」


「ピサロさん……うっ、ピサロさん……」


アーシャは、俺の厚い胸板に顔を埋めながら、首を横に振った。


「いいんです。私は……もう大丈夫です。

どんなに過去の辛いことを忘れる『忘れん坊』でも……この家で過ごした、お二人とグライちゃんとの楽しい時間だけは、絶対に、一度も忘れたことなんてありませんから。

だから……もう、謝らないでください。目を開けてください、ピサロさん。私は、本当に大丈夫ですから」


彼女のその健気な言葉に、俺はゆっくりと閉じていた目を開けた。

俺の目に飛び込んできたのは、涙を腕で拭い、泣き止んで最高の笑顔を見せているアーシャの顔だった。

その笑顔は、俺が愛するミサと同じように、純粋で、美しくて、俺たちを救ってくれる天使のような笑顔だった。


「……そうか。それはよかった。アーシャがそう言って安心していてくれて、本当によかった。

俺はつい……アーシャのことが実の娘みたいに愛おしくて気になったから、勢いで抱きついっ——」


俺が照れ隠しで言い訳をしようとした、その時だった。


「ああぁ〜〜♡ ピサロさんったら、なんて熱くて厚い胸板なのかしら〜♡」


突然、アーシャは泣き顔から一転し、俺の分厚い胸板に両手をペタリと付けながら、上目遣いで甘く囁いてきた。

そのとろけるような甘い声、そして、サキュバスも顔負けの艶っぽい甘い表情。


それは間違いなく、彼女が俺に対して「好き」だという感情を、微塵も隠さずに全開で表現しているということだろう。


「ああぁ〜〜♡ なんて太くて、頼りがいのある丸太のような腕なのかしら〜♡

それに……このがっしりとした傷だらけの体格に合う、高い身長。あなたは、私が世界中に『世界一強くてカッコいい夫』だと自慢したいぐらいに、素敵な殿方だわ〜〜♡」


「えっ……!?」


俺がアーシャの突然の猛烈なアピールに戸惑っていると、続けて、俺の背後からミサが力強く抱きついてきた。


「ふふっ♡ そうよ、アーシャちゃんの言う通り。私のピサロは、誰にも負けないくらい、世界一強くて優しくて、最高の夫なんだから♡」


ミサは、俺の広い背中に顔を押し付け、とても強く、背骨がミシミシと鳴るほどに力強く抱きしめてきている感じがしたが、俺はそんな痛みなど全く気にしなかった。


寧ろ、男として最高に嬉しいに決まってるじゃないか!!

長年連れ添った最愛の妻のミサに、こうしてストレートに「世界一強い夫」だと面と向かって褒められ、言われたのは、もしかすると結婚してから初めてのことかもしれないだろう。


(逆に何故、あんなに愛し合っているのに、今まで一度も『世界一強い』って言われていなかったのか?)


と、他人は疑問に思っているかもしれないが。

俺は、そんな疑問を抱いたことなど一度もない。


だって、そんなの、いちいち言葉にしなくても「お互いの行動と瞳を見れば、一瞬でわかる」からだ。それが長年連れ添った夫婦の絆というものだ。


* * *


その後、しばらくして、感情の高ぶりが落ち着いた俺たち三人は、別荘の広い寝室で、ひとつの大きなベッドで一緒に就寝についた。


俺が真ん中に寝て、二人が俺の左右の腕枕にスッポリと収まる形だ。同じ温かいベッドで一緒に寝られるんだから、男としてこれ以上の最高なシチュエーションはない。


泣き疲れた二人は、安心したのかすぐにスースーと可愛い寝息を立てて深い眠りについたが……両脇に美女二人を抱えている俺には、色んな意味で興奮と緊張が勝ってしまい、到底すぐには眠りにつくことなど無理だった。


どうしても眠れないと確信した俺は、天井を見つめながら、アーシャが抱えている過酷な過去について、静かにもう一度思い出すことにした。


アーシャは、西暦234年に、『()()()()()()』の次女としてこの世に生を受けた。

だが……彼女が生まれたその場所は、あの血で血を洗う、「紛争地域」という、神聖大陸の中でも最悪な場所だったのだ。


そこは、法律も倫理も存在しない。力こそがすべてであり、弱者は強者にひたすらに蹂躙され、搾取されるのみの、文字通りのこの世の地獄である。


アーシャは、強大な魔族である『デーモン』の父と、か弱き『人間』の母との間に、ハーフ(半魔)として生まれた。

彼女の幼少期は、そんな血で血を洗う過酷な環境の中で、常に命の危険に晒されながら育ったのだ。

そして、彼女はある時、その地獄のような故郷から、単身で命懸けの脱出を果たした。


いつ、その紛争地域から脱出したのか? まだ幼い少女が、どうやって魔物の群れや追っ手をかいくぐって脱出したのか?

俺たちは昔、彼女を保護した時に、泣きじゃくる彼女から断片的に聞いていたため、その壮絶な脱出劇の全貌を鮮明に覚えているが、アーシャ本人は、現在その記憶を失った『忘れん坊』だから、当時のことをほとんど覚えていないのだ。


じゃあ、何故アーシャは、自分の大切な過去の記憶を失ってしまうような、そんな都合のいい『忘れん坊』になってしまったのか?


その理由は、明確だ。

それは……「彼女が助けを求めて逃げ込んだ先の『王宮』で、人間の屑どもによって、精神が崩壊するほどの数々のトラウマを植え付けられたから」だ。


彼女は、地獄の紛争地域から、ただひたすらに平和を求めて北東に向かって脱出した。

国境を越え、エルニスタンを抜け、ラスロ王国へと入り、そしてついに、最も安全で正義があるはずだと信じて疑わなかった、王都の「ラスロ王宮」にまで逃げ込んだのだ。


まだ幼い彼女が、どんな過酷な移動方法を使ってでも、とにかく安全な場所へ脱出したかったのだろう。

彼女は、見たことも、行ったこともない見知らぬ場所。人間たちの言語も、最初はわかるはずもなかったはずだ。


そして、ボロボロになってラスロ王宮の豪華な門前で行き倒れていた彼女を、たまたま通りかかった王族の子供が気まぐれで拾ったのだ。


だが、その気まぐれな『救済』こそが。

彼女のその後の人生において、紛争地域よりもさらに恐ろしく、狂気に満ちた一番のトラウマを植え付ける、最悪の地獄の始まりだったのだ。


王宮内に保護という名目で連れ込まれた彼女は、王族や腐敗した貴族たちの、歪んだ性癖と暴力の『発散のための暴行用具(サンドバッグ)』にされた。


大雪が降り積もる、凍えるような冬の夜中の外に放り出され、全裸の状態で寒さに震えながら朝まで我慢させられたり。

宴の席で、下劣に笑う国王や王族たちの目の前で、屈辱的な姿勢で『排泄物をする』のを強制させられ、それを肴にして嘲笑されたりしたのだ。


それに……彼女は半分は人間の血が流れるハーフとはいえ、忌み嫌われる『魔族』の特徴を持っていたため、王宮の人間たちから日常的に酷い差別と迫害を受けてきた。

簡単に言うなら……保護などではなく、彼らの欲望を満たすための、完全に「奴隷」あるいは「汚物」のような扱い方を、長年にわたってされていたということだ。


しかし、ここで俺の思考の中に、一つの大きな『おかしい点』、矛盾が生まれるだろう。


確かに、一般的な歴史書や世間の認識では、この『神聖大陸』が、エルフも魔族も人間も対等に暮らす、種族間の奇跡的な共存が成立している平和な大陸だというのは、動かしがたい事実と言われている。


だが、アーシャが王宮で受けたあの地獄のような差別と虐待の現実を見ればわかる。

それは、体制側が自分たちを正当化するために作り上げた、真っ赤な嘘だ。


グライが五歳の時の誕生日に、雪子からプレゼントとして受け取った、あの分厚い『全世界の歴史と地理』という本。

その貴重な本は、グライが旅立つ時に俺たちに預けていったため、今は避難先のこの別荘の荷物の中で、俺たちが大切に保管している。


実は、この別荘で時間を持て余して過ごしている時、俺はその本を引っ張り出して、中身を少しだけ読んだのだ。

俺自身、過去の冒険で世界を巡ってきた最低限の歴史と地理の実体験の記憶があるとはいえ、今の最新の書物には、一体どんなに詳細で詳しいことが書かれているのかを、ただ純粋な興味で見たかっただけだった。


パラパラとページをめくって、俺は絶句した。


………おかしい。完全におかしい。

その立派な装丁の本に、あたかも真実のように記載されている世界の歴史や国家の成り立ちは、俺の知る現実とは全く異なる、完全に作られた『嘘丸見え』のプロパガンダだったのだ。


俺が実際に血を流して体験し、知っている大規模な戦争の真実の勝敗や、裏で糸を引いていた重大事件の黒幕、英雄とされている重要歴史人物の本当のクズっぷり、そして国を分かつ階級の本当の意味が。

その本の中では、為政者にとって都合の良いように、完全に間違った内容で美化され、改ざんされて書かれていたのだ。


だから……俺は今、その本を読んでハッキリとわかった、恐ろしい真実を言う。


「あの『全世界の歴史と地理』という本は、真実を伝えるためじゃない。

無知な民衆や若者を、体制の都合の良いように『|騙し、洗脳するためのプロパガンダ』でしかない」と。


話が世界の闇の方へと大きくそれてしまったから、俺は頭を振り、再びアーシャの個人的な過去について思い出すことにした。


* * *


西暦244年12月。

王宮の地獄から、彼女が奇跡的に逃げ出し、俺たちの前に現れた、彼女が十歳だった時のことだ。


大雪が深く降り積もり、すべてを白く凍らせるような、厳しい冬のある日の夜だった。

俺とミサは、暖炉の火を落として就寝につこうとした時。

突然、家の木製の玄関の扉の向こうから、「ドン……ドン……」と、力なく叩くような、微かなノックの音が聞こえたのだ。


ただならぬ気配にとっさに気づいた俺は、剣を手に取り、警戒しながら扉を勢いよく開けた。


そこにいたのは……。


手足は凍傷で真っ赤に腫れ上がり、無数の暴行の生々しい傷跡を残していた。

全裸の状態で、恐怖と寒さのあまり、その場に「ブリブリッ、ビシャァッ……」と、下痢状の排泄物を止めどなく垂れ流し続けながら、ガタガタと震えている、ガリガリに痩せ細った幼い少女の姿だった。

それが、王宮の地獄から命からがら逃げ出してきた、後のアーシャの姿だったのだ。


俺は、その惨状に言葉を失いながらも、とっさに彼女を抱き抱え、暖かい家の中へと急いで入れさせた。


彼女の尋常ではない悪臭と悲惨な姿に気づいたミサは、悲鳴を上げる代わりにすぐに動き出し、お湯を沸かして、彼女を鉄製の大きな釜のお風呂に入れ、長時間かけて、こびりついた汚物とこびりついた血の汚れを、泣きながら優しく洗い落としてやったのだ。


後にミサから聞いたことだが、彼女が温かいお風呂に入って少し落ち着いた時に、一体何があってこんな姿になったのかを、ポツリポツリと話してくれたらしい。

当時の彼女の瞳は、光を失ってとても暗く絶望した状態だったが、それでも俺たちに何かを伝えようと、必死に口を動かしながら、身振り手振りで話していたそうだ。

その時彼女が使っていた言語は、間違いなく、彼女を虐待していたあのラスロ王宮の人間たちから叩き込まれ、学んだ言葉だった。


それから、俺たち夫婦は、身寄りのないアーシャを、実の娘のように必死に育てた。

俺は彼女がこの世界で自立して生きていけるように読み書きや勉強を教え、ミサは身を守るための最低限の魔術と、生きていくための料理や家事を教え込んだ。


そして、彼女が十一歳になり、少し笑顔を取り戻した時には。

ミサが何日も徹夜して、長時間かけて採寸し、丁寧に縫い上げて作った、彼女にピッタリと似合う可愛らしい『メイド服』を着させることにしたのだ。

それと同時に、彼女が社会との繋がりを持てるように、俺の口利きで、理解のある隣の家で雇われ、お手伝いとして仕えることとなったのだ。


でも、隣の家に住み込みで働くようになってからも、彼女は1週間に一度か二度は、必ず俺たちの家に「遊びに来ました〜!」と元気に会いに来ることが、我が家の日常茶飯事となった。


それからの彼女は、「ピサロさんたちの家も、私が働いている隣の家も、どっちも私自身の本当の実家なんです〜!」と、満面の笑顔で言うほど、俺たちの家も、隣の家も、心の底から大好きになってくれたのだ。


そして、彼女が十五歳になったある日。

俺の目の前で、彼女がペロッと舌を出して「実は私、大きな借金しちゃいました〜」と明るく言った時のことだ。

驚いた俺が「何に使ったんだ!」と問い詰めた時。


アーシャは、かつての暗い影など微塵も感じさせない、とびきりの笑顔で。

「今まで育ててもらったご恩という、私の中にある記憶の『借金』を返済するために……これからも、ずっとピサロさんたちのお家のお手伝いを頑張ります〜!」と、そう言ってのけたのだ。


俺は、その言葉に完全に一杯食わされ、そして、男泣きした。


そんなこんなの壮絶な過去と温かい日々があって、今の、明るくて少しドジなメイドの「アーシャ」という一人の女性が、ここに存在しているのだ。


どれだけ時間が経ち、俺たちの愛で辛い過去を乗り越えたとはいえ、彼女の心の奥底には、まだ王宮で受けたあの残酷なトラウマの傷跡が、消えずに深く残っている。だからこそ、自分の心を守るために、彼女は時折都合の悪いことを忘れてしまう『忘れん坊』になってしまうのだ。


彼女の、その悲しくも愛おしい過去を最後まで思い出した俺は、ようやく心に静かな落ち着きを取り戻し、深い眠りにつき始めた。


……今日も、本当に色々なことがあって疲れた。

明日も、グライが無事に帰ってくるその日まで、愛する家族を守るために、父親として、男として、しっかりと気を引き締めて頑張らなきゃな。


俺は、腕の中で眠る二人の温もりを感じながら、静かに意識を暗闇へと手放していった。


To be continued

次回第38話   7月1日(水) 午後8時投稿予定

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