第29話「夜森林の神」
いきなり、その巨大な魔獣が、僕たちのすぐ目の前でピタリと立ち止まっていた時。
僕も、隣にいたギーガさんも。
声を発することはおろか、ただの一歩たりとも、指先一つすら動かすことができなかった。
まるで、見えない巨大な手で全身を氷の塊の中に縫い付けられてしまったかのような、圧倒的で絶対的な重圧。
静寂に包まれた夜の森の中で、僕たちの荒い呼吸の音だけが、やけにうるさく耳の奥で響いていた。
「ちゃう……これ……グレントウルフやあらへん……」
突然、隣で身を固くしていたギーガさんが、地を這うような掠れた声で、そう絞り出すように言った。
(……えっ? グレントウルフじゃないの……?
じゃあ……これは、一体……なんなんだよ……)
僕は、ギーガさんのその言葉を聞いて、突然のことにかなり困惑し、頭の中が真っ白になった。
確かに、暗闇の中から姿を現したその化け物を見た瞬間、今さっき僕は「僕が記憶の中で想像したサイズの五倍はデカイ」と、恐怖と共に思っていた。
けれど、姿形は狼に似ていた。だから、特大サイズのグレントウルフの変異種か何かだと、そう思おうとしていたのだ。
だが、百戦錬磨の獣人であるギーガさんが、あれはグレントウルフではないと、明確に否定したのだ。
まさか、グレントウルフじゃないなんて……。
「じゃあ、この化け物は一体何なんですか!!? ギーガさん!!」
僕は、恐怖とパニックで完全に冷静さを失い、必死に大声でその言葉を放ち、後ろへ逃げようと一歩、足を強く踏み出そうとした。
その瞬間だった。
「動くなボケ!! グライ!!」
ギーガさんの、短く、そして空気を切り裂くような鋭い怒鳴り声。
その一言が、真夜中の森全体に、ビリビリと響き渡って聞こえるように感じた。
それと同時に、僕は全身の血が凍りつくようにビクッとして、踏み出そうとした右足を空中でピタリと止めた。
こんなに必死で、余裕が全くなく、焦燥感を剥き出しにしているギーガさんを見たのは、初めてだと……僕の本能が警鐘を鳴らしていた。
「ええか、グライ! これからワイが言うこと、一言一句、絶対に聞き逃すなよ!!」
ギーガさんは、目の前の巨大な化け物から一切視線を外さないまま、歯を食いしばるようにして早口で告げた。
「目の前におる相手は、ただのグレントウルフやあらへん。
この神聖大陸の奥深くに潜んどる、『五種神』の一体……『|フィスティア』や。
通称、『夜森林のフィスティア』とも呼ばれとんねん!!」
五種神。フィスティア。
「ええか!! 相手への挑発は厳禁や! 背中を見せての逃走も絶対に不可や!
ワイらはもう、朝日が昇るまで、この化け物とやり合い続けるしかない相手ちゅうことや!!」
ギーガさんが悲痛な決意と共にそう言った瞬間。
僕は、彼の言葉の意味が全く理解できず、頭の中がショートしそうになった。
(五種神?夜森林のフィスティア?
朝日が昇るまで、やり合い続けるしかない相手……?
……ギーガさんは、一体何を言っているんだ?)
僕が毎日擦り切れるまで読み込んでいた、あの分厚い『全世界の歴史と地理』という本。
その本のどのページにも、そんな「五種神」などという恐ろしい存在のことは、ただの一行も記載されていなかったはずだ。
それなのに、目の前の化け物は現実に存在している。
つまり、それはどういうことだ?
ギーガさんたちのような、裏の世界や前線で命を懸ける「ギルド民」たちだけは、その隠された真実を知っているというのか?
ギルド民じゃなくても、高位の貴族や、西の十字軍、あるいは強国出身の限られた者たちだけは、この世界の裏側に潜むその絶望的な存在を知っているというのか?
こんな、家ほどもある巨大な化け物と、朝日が昇るまで朝まで持久戦をするなんて。
そんなこと、一体どうすれば……僕たちにできるというんだ。
絶望で足の震えが止まらなくなっていた、そんな時だった。
「何の騒ぎだ!! いきなり大声だして起こした奴は、いったい誰だ!!」
背後の暗闇から、突然、怒りに満ちた大きな声が飛んできた。
足音をドタドタと立ててやって来たのは、僕たちが乗ってきた駅馬車の馬を操る、御者の若い男性の人だった。
彼は、先ほどの僕とギーガさんの大声のやり取りに驚いて目を覚まし、文句を言うために、ギーガさんの声がした方へと怒り心頭でやって来たのだ。
「あんただな!! こんな静かな夜中に、大声を出して騒いだのは!!」
男性は、とても怒っている状態で、顔を真っ赤にして、僕たちの前に立つギーガさんの近くに、ズンズンと歩み寄ろうとした。
(……おい、ちょっと待ってくれ!
ギーガさんの前に、その位置に立ち止まったら……フィスティアが、あんたのすぐ後ろにいることになるんだぞ!!
気づいていないのか、あの人は!!)
僕は、男性の背後にそびえ立つ巨大な絶望のシルエットを見て、声を出して警告することもできず、ただ心の中で絶叫した。
「おんどれ!! 危ないから、そこで立ち止まっとんな!! 死ぬ気か!!?」
ギーガさんが、男性の無謀な行動に対して、最大級の怒りを発散して怒鳴りつけた。
さっき僕を制止した時よりも、さらに荒っぽく、そして切羽詰まった声だった。
「何だと!! それが、客を運ぶ馬の操り者に対しての言葉か!!?
俺を侮辱しているのか!!? 罰金だ!! 罰金!!
さっさと罰金払って、今すぐ馬車から降りてもらうからな……ッ」
男性が激怒して顔を真っ赤にしながら言い返し、そして、後ろを指差そうとして、ゆっくりと自分の後ろを振り向いた。
そこにいたのは……。
圧倒的な死の気配を放つ、巨大な『フィスティア』だった。
「……えっ、ちょ……はっ?
なんだよ、これ……」
男性の怒りの声が、一瞬にしてヒュッと空気を抜かれたような掠れた音に変わった。
彼は、自分を見下ろす家のような巨大な獣の姿を見て、完全に腰を抜かしかけ、震える声で言葉を紡いだ。
「グ、グレントウルフ……だよな……?
そ、そうだよな!! ただのデカいグレントウルフだよな!!」
男性は、恐怖から逃れるように、必死に自分に言い聞かせるように叫び、僕たちの方へとすがるような視線を向けてきた。
「……おい!! あんたら、何か言ってくれよ!!
おい!! 聞いてんのか!!?」
だが、僕とギーガさんは、その悲痛な問いかけに対して、何も言わなかった。
いや、一言も喋ることができなかったのだ。
何故なら、不用意に声を出せば、目の前のフィスティアを挑発させてしまうことになりかねないからだ。
最悪の場合、こちらが攻撃の意思を見せたと、思い込みで一気に襲いかかってくるかもしれない可能性があるためだ。
僕たちは、ただ呼吸を殺し、石像のように固まって沈黙を貫くしかなかった。
「おい!! 聞いてんのか!! お前……ら……」
男性が、返事をしない僕たちに向かって、絶望の声を震わせていた、まさにその瞬間だった。
男性の左右の暗がりから。
突然、カサカサという不気味な音と共に、フィスティアの子供たちらしき、小型の——それでも普通の狼よりも遥かに大きな——化け物たちが何体も姿を現し、あっという間に男性の周囲をぐるりと囲み込んだのだ。
「ヒッ……!?」
男性は、周囲を囲まれたことにすぐに気づいた。
だが、それに気づいたのも束の間。同時に、彼が逃げるための道は、完全に、そして無慈悲に塞がれ、逃げる方法は一切なくなってしまった。
「待て!! 待て待て待て待て待て待て!!!!」
男性の口から、恐怖に完全に狂ったような悲鳴がほとばしった。
「助けろよ!! おい!! 聞こえてんのか!!?
助けろよ!! おーーい!!!」
男性は、僕たちに向かって両手を伸ばし、涙と鼻水を流しながら、必死に、必死に助けを求めた。
その姿を見て、僕の胸が激しく締め付けられ、吐き気のような痛みが襲ってきた。
(もし、これが前世の僕だったら。
いじめられて、誰にも助けてもらえなかったあの頃の僕だったら、あんな風に助けを求めている人を、一番助けたかったはずだ。
絶対に、見捨てたりなんてしたくなかった)
でも、こうするしかないんだ。
今ここで僕たちが動けば、ギーガさんも僕も、フィスティアの標的になり、確実に死ぬ。
(でも、こうするしかないんだ!!
泣くな!! グライ!! 泣くな!!)
僕は、自分自身の唇を噛み切り、心の中で必死に自分を殴りつけた。
(僕の本当の冒険は、まだ始まったばかりじゃないか。
こんな残酷なことは、この外の世界では、日常茶飯事なことかもしれないんだぞ!!
ここで感情に流されたら、僕が死ぬんだ!!)
そして、残酷な現実は、僕の葛藤など一秒たりとも待ってはくれなかった。
男性は……ついに、化け物たちの牙の餌食となった。
「痛でぇ!! 痛でぇ!! ああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
静かな夜の森に、人間の、この世のものとは思えない絶叫が響き渡った。
「やめろ、噛むな!! 噛むんじゃねぇ!!!
死にたくないんだ!!! 俺はまだ、死にたくない!!!ああああああああああぁぁぁぁぁぁ………!!!!」
バリッ、グチャッという、肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が、絶叫に混ざって聞こえてくる。
腕を噛み千切られ。脚の肉を削がれ。顔を無残に噛み砕かれ。腹を食い破られ。最後に、首の頸動脈を深く噛みちぎられた。
そして、男性は……完全に声を発しなくなり、死んだ。
僕とギーガさんの目の前で。
フィスティアの子供たちらしき化け物たちは、狂乱したように、ピクピクと痙攣する男性の死体に群がり、温かい臓器や新鮮な肉を、貪るように食い散らかした。
ブシュッ、ブシュッと、破裂した血管から結果として大量の血が噴水のように吹き出て、森の土を赤黒く染め上げていく。
数分後。
化け物たちが満足してその場から立ち去った後、そこに最後に残っていたのは。
血まみれになった白い骨と、僅かにこびりついた臓器の残骸と、噛みちぎられた肉片だけだった。
「…………っ!!」
(うっ!! うっ!!)
僕は、目の前で繰り広げられたあまりの惨劇に、胃の中のものがすべて逆流して吐きそうになった。
だが、両手で口を強く塞ぎ、必死に、必死にそれを堪えた。
男性の死体——いや、死体の残骸は、かなりのグロテスクで、もはやかつて人間であったとは到底思えない、ただの肉塊の状態になっていた。
「グライ!!」
不意に、ギーガさんが鋭く声を潜めて僕を呼んだ。
「他の連中、急いで呼んでこい!!
ワイとお前の二人だけやったら、あんなバケモン相手に瞬殺されるわ!!
パーティー全員で、朝まで持久戦すんねん!!
せやから、早よ、駅馬車に戻って呼んでこい!!」
「は、はい……!!」
僕は、震える声で返事をすると、寝ているメガロンさんやヨナさんたち仲間を呼ぶため、足をもつれさせながらも、駅馬車の方へと向かって走り出した。
だが。
僕の心臓は、走り出した途端に、突然、異常なほど速くドクンドクンと鳴り始めたような感じがした。
息が全くできない。空気が肺に入ってこない。
しかも、視界の端から徐々に黒い靄がかかり始め、どんどん暗くなっているような……。
僕は、ふらふらとした足取りで、なんとか駅馬車の扉の前に着いた。
冷たい鉄の取っ手を握り、開けようとした、その時……。
限界だった。
「おぇ!! おぇぇぇぇ!!!」
胃の奥からこみ上げる強烈な吐き気に、僕はついに身体の限界を迎えてしまい、その場に崩れ落ちて、胃液を激しく吐き出してしまった。
それだけじゃない。
極度の恐怖とショックで自律神経が完全に崩壊し、下半身の感覚が抜け落ちた。
「ちょろちょろ……ジャーーーーーー!!!」
ズボンの中から、生温かい液体が止めどなく流れ出し、太ももを伝って地面へとこぼれ落ちていく。
自分が失禁してしまったのだと、冷えゆく意識の中で理解した。
下から、ひどく温かい感じがした。
(誰か……助……けて……)
そして、僕はその場で完全に糸が切れたように倒れてしまった。
冷たい土の上に倒れた僕は、視界が少しずつ、完全に暗闇へと沈み込み始め……。
そして、意識を失った。
* * *
「……………………………………………」
暗闇の中。
底なしの沼に沈んでいくような、深い意識の底で。
なんで……自分はこういう時、絶対に上手くいかないんだろう……?
新しい人生を始めて、強くなったはずなのに。
いざ本当の命の危機に直面したら、ただ怯えて、何もできずに、お漏らしをして気絶するなんて。
やっぱり、僕の本質は……前世のあの惨めな僕と、何も変わっていないなぁ……。
『チ…ビ…』
んっ?
暗闇の中で、突然、声が聞こえた。
『チビ…消えろ…死ねよ…』
……やめろ。
やめてくれ。その声は。
『うわぁ……最悪……。変態じゃん』
『キモい……ほんとに……近づかないで』
『中浪おめでとう!!』
前世の、僕を地獄に突き落とした、同級生たちの嘲笑う声。
僕の尊厳を踏みにじった、あの悪意の言葉の数々が、頭の中で反響する。
「やめろ!! お前らのことなんか…今はもう、どうでもいいんだよ!!
僕をほっといてくれよ!!」
僕は、暗闇の中で両耳を塞ぎ、叫んだ。
(なんで、なんで急にここで前世の記憶が蘇るんだよ!!
僕はただ、この世界で、新しい人生を真っ当に送りたいだけなのに!!)
『グライ…君…好き、付き合っ…』
突然、僕をいじめた連中の声に混ざって、色んな人の声をグチャグチャに混ぜ合わせたような、不気味で歪んだ何かの声が、僕の後ろから聞こえてきた。
「うるさい!!!」
僕は、恐怖と怒りに任せて後ろを勢いよく振り向き、そこにあった『何か』を、力任せに思い切り殴りつけた。
ゴスッ、という嫌な感触が拳に残った。
しかし。
僕が殴り飛ばしたのは、悪意の亡霊なんかじゃなかった。
暗闇の中に立っていたのは……顔中から血をドクドクと流し、虚ろな目をした、エマだったのだ。
「エ…マ…? 違うんだ…これは…わざとじゃない……」
僕が、震える声で彼女に謝ろうとしたのも、束の間だった。
「グライ君なんか………いなくなっちゃえばいいのに!!!」
エマの口から、あの別れの日の呪いの言葉が、血反吐と共に吐き出された。
「……殺して、やる…殺してやる!!!!!!!!!」
エマの顔が、悪鬼のように凄惨に歪んだ。
彼女は、血まみれの狂乱した姿で突然僕に襲いかかってきて、僕の首を、細い両手でギリギリと恐ろしい力で絞め始めたのだ。
息が、できない。首の骨が軋む。
そして……。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
エマの、この世のすべての怨念を込めたような鼓膜を破る絶叫の声とともに。
僕の首は、彼女の手によって、骨もろとも、グチャリと無残に破壊された。
最後に僕の視界に映ったのは。
一面を真っ赤に染め上げる、生暖かい、自分の血だった……。
To be continued




