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飯場の源さんの話

 汗で滲んだのか、何度も雨に濡れたのかシミだらけの白黒写真は被写体の輪郭をかろうじて残しているだけで、どこで撮られた写真なのか背景もわからなかった。小さな女の子を中心に、手をつなぐ三人のかすかな肖像。彼女たちは家族なのだろう。

 遺品となったこの写真は男の持っていた古い社員手帳に挿まれていた。誰もが知る大企業の社員手帳には丁寧な文字で「藤原与一」と書かれていた。それがこの飯場で「源さん」と呼ばれた男の本名らしかった。

 源さんの葬儀は既に執り行われており、僕は源さんの雇い主である橋梁工事会社の総務責任者として部屋の整理と遺品の処分を行うことになった。死因は心臓発作だった。一二月の良く晴れた朝に、作業服を着たまま、丁寧にたたまれた布団の上に正座して、こと切れていたそうだ。

 遺品はキルティング生地で作られた巾着にまとめられていた。手垢で汚れた巾着はほころんでいて、古くから持ち歩いていたのだろうと思われた。巾着には写真の挿まれた手帳とスケッチブック、十万円の現金が入った郵便局の封筒と「藤原裕子」名義の預金通帳が入っていた。通帳には毎年一二月に十万円が積み立てられていた。残高はきっちり二百万円あった。年月が経って黄ばんだスケッチブックには色鉛筆で描かれたたくさんの絵(三十枚ほど)があった。そのスケッチブックには幼稚園くらいの子供が描くかわいらしいタッチで、たくさんの似顔絵が書かれていた。一番手垢のついたページには、ひげを生やした男の顔の下に、子供のつたない字で「おとうさん」と書いてあった。

 本社から三十分ほど郊外の山の中腹にある飯場は資材置場に隣接していて夜になると歩いては外出もできない。飯場には二階建ての二棟のプレハブが建てられていて一二室に十人の土方が住んでいた。部屋には風呂もトイレも水道もなく、食堂と共同トイレ、雨ざらしの洗濯機が二台、一室だけのシャワールーム(すべてプレハブや簡易施設)が居住棟の周りにあった。

 源さんが住んだ四畳半の小さな部屋には会社支給のストーブと布団がきちんと畳んで置いてあった。部屋にはテレビもラジオも冷蔵庫もなく、小さな作業服がハンガーにかけて窓のサッシにひっかけられていた。源さんが死んだ日に部屋の掃除をしてくれた食堂の賄い婦さんは、数枚の下着とセーターを処分したことを僕に告げた。源さんの持ち物は巾着と手持ちの現金数百円を除き、それしかなかった。僕は六十歳を超えた老人が、この小さなプレハブの部屋で身を隠すように、寒さと孤独に耐えていたかと思うと、うら寂しく思うと同時に「自分にはとうてい我慢できない」と感じた。

 年が明けて僕は源さんの身内を探した。藤原与一の名義をたどると埼玉に住む裕子さんと連絡が取れた。彼女は源さんの娘であった。彼女が遺品を引き取りに来ることになった。

 三十歳前後と思われた源さんの娘は、堺の橋梁工事会社の本社で現金と通帳を受け取ると、遺骨と遺品は「会社で処分して欲しい」と現金の入った封筒とともに僕に手渡した。彼女はスケッチブックを懐かしそうに手に取ると、「どうして帰ってこなかったのだろう」と小さな声で呟いて「いまは幸せなのです」と言い訳がましく僕に言った。彼女は僕の前ではスケッチブックを開いて見ることはなかったが、瞳は落ち着きなく揺れていた。

 数日後、源さんの遺骨は本社の近くのお寺に無縁仏として納められ、遺品も同じお寺で供養してもらうことになった。

 飯場の仲間数人が僕と一緒に供養に参加した。誰も源さんの娘を悪く言わなかったし、無縁仏になった源さんを「可哀想だ」と語るものも一人もいなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは! タケノコです。 飯場の源さんの話を拝読しました。 悲哀なムードで展開し、テンポも速すぎず遅すぎずで流石だなあと思いました。 源さんはどのように思われて、生活を継続してい…
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