↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/16

第7話 九つの部族

王暦七四六年、春。


融雪から十七日後。


霜谷村の道は、ようやく橇ではなく靴で歩けるようになっていた。


雪はまだ畑の端へ厚く残っている。


だが、霜谷式排水の溝には茶色い融雪水が流れ、去年選んだ種を入れる畝が少しずつ姿を現していた。


ヴァイは九牙会議へ向かう前に、もう一度だけ村へ寄った。


倉の鍵を誰が持つか。


配給板を誰が書き直すか。


咳の出た者をどこへ移すか。


乾草棚の補修を誰が見るか。


冬のあいだ自分が握っていた仕事を、一つずつ他人の手へ渡すためだった。


「坊ちゃん、ここまで渡したら、次の冬は何をするんだ」


ハルクが不満そうに言った。


「俺がいなくても回るか確かめます」


「いた方が早い」


「それでは、俺が死んだら止まります」


「九歳が縁起でもねえこと言うな」


「年齢で冬は手加減してくれません」


ハルクは顔をしかめた。


その顔を見ていたヴェルドが、配給板を抱えたまま笑った。


「だからこいつ、嫌なんだよ。言ってることが正しいから殴りにくい」


「殴る前提なんですか」


「たとえだ」


「なら、たとえも直してください」


「ほら、嫌だ」


九歳同士のやり取りに、倉番たちが笑った。


二年前なら、大人がヴァイの言葉を笑った。


今は、ヴァイとヴェルドの口喧嘩を笑う。


意味はまるで違った。


ヴァイは最後に、村の入口へ立てた色札の束を確認した。


赤、黄、白。


牛疫を止めるために作った色が、人間の病を分け、避難民の寝所を分け、今では子供の遊びにまでなっている。


仕組みが生活へ溶けるとは、こういうことなのだろう。


「では、行ってきます」


ヴァイが言うと、ハルクは鼻を鳴らした。


「会議で偉そうな奴に何か言われても、殴るなよ」


「兄上ではありません」


「ローヴェン様にも同じことを言っておく」


ヴァイは少し笑い、村を出た。


ヴァナールがその横を歩く。


黒い大狼の足元で、残雪が小さく沈んだ。


二人の姿が丘の向こうへ消えるまで、村人たちは見送っていた。


そして、見えなくなってから。


一人の女が膝をついた。


冬の半ば、三歳の娘が高い熱を出した女だった。


共同寝所から白札の区画へ移され、水差しを分け、寝具を干し、夜ごと薬師に診てもらった。


娘は今、母の隣で雪解け水を棒でつついている。


女はヴァイが去った方角へ額をつけた。


その隣で、避難民の男も膝をついた。


吹雪の日、門を閉じられると思っていた男だった。


彼の妻も、二人の子も、生きている。


誰かが命じたわけではない。


祈り方を決めた者もいない。


それでも、一人、また一人と頭を垂れた。


ハルクは止めようとして、口を閉じた。


彼らにはもう、ヴァイがただの人の子には見えていないのかもしれない。


九歳の子供が、冬を二か月延ばすことはできない。


四百を超える人間へ食料を生み出すこともできない。


だが、その九歳の子供が来てから、家畜が残った。


畑が残った。


冬に墓が増えなかった。


理解できない異常を、人は自分の知っている形へ押し込める。


ある者には、それが天才という言葉だった。


ある者には、冬王の仔だった。


そして、家族を冬から返してもらった者にとっては。


――現人神。


そう呼ぶ以外に、受け入れ方がないのだろう。


その光景を、少し離れた道からハーヴェン・ハルセンが見ていた。


黒狼族の最長老は、祈らなかった。


止めもしなかった。


ただ、深く刻まれた皺の奥から、丘の向こうを見た。


「ヴァイセル」


古い音を確かめるように呟く。


ヴァ。


狼。


アイ。


予兆、まだ来ぬもの。


セル。


灯、導き。


まだ見えない未来への道を照らす狼。


族長家が末子へ与えた名は、もともと古い言葉から取っただけのものだ。


予言があって名付けたわけではない。


だが、老人は知っていた。


人は出来事のあとから、古い言葉へ意味を見つける。


冬王が現れた。


牛の病を止めた。


水を地の下へ通した。


二か月も長い冬に、墓を一つも増やさなかった。


それだけ重なれば、古い歌へ重ねる者が出ても不思議ではない。


――予言の子だ。


そう口にし始めた老人が、もう黒狼の谷だけでも何人かいる。


ハーヴェン自身は、未来を見られるなどとは思っていなかった。


それでも、願わずにはいられなかった。


凍らぬ湖。


一年を通して家畜が草を食める大地。


子を産んだ女が、春までその子を抱いていられる冬。


北方人が、何代それを欲しただろう。


南へ行けば土地があると、祖先は何度も剣を取った。


寒さに追われ、飢えに追われ、雪のない土地を奪おうとした。


そして負けた。


また冬が来て、また南を羨み、また負けた。


繰り返した果てに、古い盟約の下で王国へ膝を折り、辺境を守る代わりに生きる場所を認めさせた。


南への憎しみだけではない。


豊かな土地への羨望。


祖先が敗れた恥辱。


そして何より、自分たちを何度でも南へ追いやった冬への憎しみ。


それは血と同じように、北方の家々へ受け継がれている。


あの子なら。


長い、長い冬そのものを終わらせるのではないか。


そんな願いを、老人が抱く程度には。


北方の歴史は長かった。


だがハーヴェンは、祈る村人たちから目を離すと、杖を雪へ突いた。


「灯であることと、族長であることは別だ」


誰に聞かせるでもなく言う。


長兄ローヴェンは強い。


戦士たちはあの背を知っている。


次代を決めるには、冬一つでは足りない。


そう考える自分の心に、老人はわずかな苛立ちを覚えた。


わざわざ言い聞かせなければならなくなった時点で、何かはもう変わり始めていた。



◇ ◇ ◇



その夜、黒牙砦。


ヴァイは旅支度の確認を終えたあと、父の執務室へ呼ばれた。


九牙会議への出発は翌朝だった。


机の上には会議札のほかに、三通の書付があった。


霜谷村の越冬方法を聞きたいという白兎族。


乾草棚と排水路の型を見たいという緑鹿族。


そして、死者零の数字を確かめたいという蒼狐族。


ヴァルフラムはそれらを閉じた。


「ヴァイ」


「はい」


父はしばらく黙っていた。


戦の話なら、もっと早く口を開く男だった。


「……お前は、族長になりたいか」


ヴァイは父を見た。


質問の意味がわからないわけではなかった。


黒狼族は長子相続ではない。


族長の子は全員が候補になる。


武力、統率、狩り、交渉、部族への貢献。


それらを族長会議と契約狼が見て、次を選ぶ。


それでも、これまで最有力が誰だったかは明らかだった。


ローヴェン。


長兄。


家族最強の大剣使い。


十五で学院へ向かうまで、次代の戦士頭として育てられてきた男。


「特には」


ヴァイは答えた。


「少なくとも、兄上と争ってまで欲しいとは思いません」


ヴァルフラムは、大きく息を吐いた。


「お前たちがそう思っていても、周りがそうとは限らん」


「兄上の退学ですか」


「それもある」


父は椅子へ深く座った。


「中央に辱められたローヴェンだからこそ族長に、と言う者がいる。王都へ頭を下げぬ男がよいとな」


ヴァイは黙って聞いた。


「逆もいる。怒れば剣を抜く者に、九つの谷の話を聞けるのか、と」


ヴァイの眉がわずかに動いた。


「兄上は、理由なく剣を抜きません」


「俺も知っている」


父の声が少し硬くなった。


「だが、知らぬ者は結果を見る。退学。重傷三人。請求書。そこだけをな」


兄が学院から帰ったあの夜、ヴァイ自身が兄へ言ったことだった。


怒りだけで話せば、相手は怒りだけを記録する。


今、その記録が北方内部でも兄を追い始めている。


「それで、俺を推す者がいる」


「冬王と契約した」


父が一本指を立てる。


「病を止めた」


二本目。


「畑を残した」


三本目。


「兵の気の使い方を変えた」


四本目。


「そして、人を冬に死なせなかった」


五本目は立てなかった。


父は拳を握った。


「九歳だぞ」


「はい」


「そこを、お前だけが気にしていない」


ヴァイは少し考えた。


「兄上は、今の俺よりできることが多いです」


「例えば」


「千人の兵の前に立てます。俺が同じことをしても、半分は子供だと思うでしょう」


「もう半分は冬王を見る」


「だから余計に危険です」


ヴァルフラムの目が細くなった。


ヴァイは続けた。


「俺の言葉ではなく、ヴァナールを見て従うなら、俺が間違えたとき止める人がいなくなります」


「……九歳が言うことか、それは」


「九歳だから言います。まだ間違えます」


父は額へ手を当てた。


誰が子供同士の争いを見たいものか。


まして一人は、王都から傷を負って帰ったばかりだ。


もう一人は、まだ十にもならない。


父としてなら、比べたくなどない。


だが族長である以上、比べないという選択も許されない。


民が先に比べ始めるからだ。


「ローヴェンには、この話を?」


ヴァイが尋ねた。


「まだしていない」


「なら、俺からもしません」


「なぜだ」


「今、俺が兄上に『族長になる気はない』と言えば、それは慰めに聞こえます」


ヴァルフラムは息子を見た。


まただ。


九歳の顔で、相手の誇りがどこで傷つくかを先に考える。


前世を知らない父には、それが時々ひどく不気味だった。


同時に、少しだけ安心もした。


「明日の会議で、統一などと言うなよ」


「言いません」


「九部族は、お前の村人ではない」


「わかっています」


「本当に?」


ヴァイは机の書付を見た。


「だから見に行きます。何を持っていて、何が足りなくて、何を嫌うのか」


父は一瞬、返す言葉を失った。


族長会議へ行く九歳の子供が、誰が強いかではなく、何が足りないかを見ようとしている。


それが良いことなのか、恐ろしいことなのか。


ヴァルフラム自身にも、まだわからなかった。



◇ ◇ ◇



翌朝。


出発前の訓練場で、アストリッドは戦斧を肩へ担いだ。


「一本だけよ」


ヴァイは短い訓練剣を構えた。


「一本?」


「九牙会議は言葉の場所だけど、北では弱い者の言葉は軽くなる。今のおまえが、どこまで自分を守れるか見ておく」


第一夫人アストリッドは、赤熊族長の妹として生まれた。


戦場を知っている。


その戦い方は、ヴァイから見れば恐ろしく単純だった。


最初の一撃へ、足、腰、背、肩、腕、斧のすべてを乗せる。


外したあとを考えないのではない。


外さない一撃を作るために、二撃目の余力まで最初へ捨てる。


前世の歴史を無理に重ねるなら、示現流に近い。


速く。


重く。


一撃で終わらせる。


そして、それは知っているからといって簡単に避けられるものではなかった。


アストリッドは、息子ではなく対手を見る目になった。


ヴァイの身長は、この二年で伸びた。


肩も少し広くなった。


七歳のころより気を安全に流せる回数も増えている。


それでも、九歳だ。


肉は薄い。


骨も腱も完成していない。


自分の斧を正面から受ければ、訓練用の刃でも腕ごと折れる。


「受けるな」


「はい」


「避け損ねたら止める」


「止められますか」


アストリッドの眉が上がった。


「生意気になったわね」


「確認です」


「なら、自分で確かめなさい」


アストリッドの足が雪解けの土を踏んだ。


ヴァイは剣先を下げた。


冬脈式は、気の使い方だ。


誰でも再現できるように、力を必要な場所へ必要な瞬間だけ通す。


それとは別に、ヴァイはこの一年、誰にも教えない身体の使い方を組み始めていた。


前世七十八年で学んだ剣道。


軍人として覚えた、人間が倒れる角度。


災害現場で知った、どの関節が壊れれば人は歩けなくなるかという現実。


今世で身につけた群牙戦技。


雪の上を走る狼の重心。


それらを冬脈式へ重ねる。


人を生かすために覚えた身体の知識と、人を殺すために覚えた軍人の知識は、奇妙なほど同じ場所を見ていた。


どこへ力が通るか。


どこを壊せば止まるか。


どうすれば、一瞬で終わるか。


ヴァイはそれを、自分の中だけで冬狼流と呼んだ。


第一式。


踵。


アキレス腱の周囲。


下腿。


腿の裏。


臀部。


体幹。


一か所へ溜めない。


壊さないために保護しながら、気を順に通す。


まだ九歳の身体では、一度が限界に近い。


ならば、一度で終わらせる。


「ハァッ!」


アストリッドが踏み込んだ。


ドン、と地面が鳴った。


斧が空気を押し潰す。


ヴァイの身体が、左へ揺れた。


アストリッドの目が左を追う。


次の瞬間、右へ戻る。


ただのフェイントなら、そこまでだった。


ヴァイの踵が地を蹴った。


視界から消えた。


アストリッドには、本当にそう見えた。


もちろん消えてはいない。


小さな身体が、自分の重心予測から外れた場所へ一歩で滑り込んだだけだ。


斧が地面へ落ちる。


土が弾けた。


ヴァイは振り下ろされた柄の外側へ入り、低い位置から剣を突き出した。


そのまま刃を振り上げ、身体を捻る。


母の横をすり抜ける。


止まったとき、訓練剣の刃はアストリッドの首筋へ触れていた。


静寂。


「俺の勝ちです、母上」


アストリッドは動かなかった。


九歳の子に負けた。


そんな悔しさは、あとから来た。


最初に来たものは別だった。


――畏怖。


今の剣に刃があり、息子が止めなければ。


自分の首は開いていた。


赤熊の戦場で何十人もの斬撃を受けてきた女が、それを間違えるはずがない。


腕力で負けたのではない。


気の量でもない。


自分が最も得意とする最初の一撃を、完全に読まれ、その一撃を出した瞬間だけを殺された。


十にもならない子供に。


アストリッドはゆっくり斧を起こした。


「……二度は通じないわよ」


「はい」


「嬉しそうね」


「同じ相手に同じ手を二度使うつもりはありません」


アストリッドは口を開き、閉じた。


やがて大きく息を吐く。


「本当に、誰に似たのかしら」


「母上では?」


「今のは私への悪口?」


「褒めたつもりです」


アストリッドは斧を肩へ担いだ。


ようやく笑った。


だが、その笑いの奥に残った薄い寒気を、彼女自身は消せなかった。


冬王より先に恐ろしいものがある。


この子は、人の殺し方を理解しすぎている。


しかも、それを必要なとき以外には使わない。


それが、なおさら恐ろしかった。



◇ ◇ ◇



九牙会議へ向かう道で、最初に異変へ気づいたのは護衛だった。


「族長」


先頭の戦士が、森へ手を伸ばした。


木々の間に灰色の影がある。


一つではない。


右にも。


左にも。


黒狼族の軍用狼ではなかった。


首輪がない。


耳の欠けた個体もいる。


冬の山で生きてきた野生の狼だ。


護衛が槍へ手をかける。


ヴァナールが一度だけ振り返った。


それだけで、狼たちは伏せた。


ヴァイは足を止めた。


以前から、砦の外で遠くに影を見ることはあった。


だが、これほど近くまでついてくることはなかった。


「ヴァナール」


黒冠狼の金の目がヴァイを見る。


言葉ではない意思が、短く伝わった。


――使え。


ヴァイは森を見た。


狼たちは魔法生物ではない。


少なくとも、固有の魔法は感じない。


だが普通の野生狼より大きく、目の動きが妙に落ち着いている。


冬王の近くで魔力を浴び続けた影響なのかもしれない。


それ以上は、まだわからない。


「俺の命令を聞くのですか」


ヴァナールが鼻を鳴らした。


違うらしい。


「あなたの命令なら?」


もう一度、鼻が鳴る。


「面倒ですね」


父ヴァルフラムが横から言った。


「おまえら、契約して四年になるのに、その会話で足りるのか」


「大体は」


「それで、何と言ってる」


「手足が足りないだろうから使え、と」


父は森の狼を見た。


「九歳の息子が、会議へ行く途中で野生狼の群れを拾う父親の気持ちを考えたことはあるか」


「ありません」


「少しは考えろ」


ヴァイはヴァナールへ頼んだ。


会議場へ入る必要はない。


街道の前後と森の外側を見てほしい。


黒冠狼が低く喉を鳴らす。


灰色の影が散った。


音もなく木々へ消える。


軍用狼のように隊列は組まない。


人の合図も知らない。


それでも、野生の群れは群れなりのやり方で周囲へ広がった。


ヴァイはその背を見た。


自分が求めたわけではない力が、また増えている。


冬王の権威。


民の祈り。


野生狼。


力は便利だった。


便利だからこそ、数えなければならない。


どこまで自分のものか。


どこから自分のものではないか。


それを間違えれば、いつか自分まで「冬王の仔」という言葉に飲まれる。



◇ ◇ ◇



九牙会議は、九部族が同じ場所で同じ言葉を使いながら、まるで別々の国であることを見せる場所だった。


ヴァイは父の後ろ、黒狼族の末席へ座った。


九歳の子供が本来座る位置ではない。


それでも、誰も追い出せとは言わなかった。


視線だけが集まった。


冬王の仔。


死なない村の子供。


その二つの噂が、先に席へ座っていた。


ヴァイは視線を返さず、板を膝へ置いた。


まず、赤熊族。


族長グラウス・ロスグラードは、座っていても大きかった。


厚い肩。


太い首。


片腕だけでヴァイの胴ほどありそうな男だ。


その背後には鋼炎熊ヴォルカが伏せている。


赤熊は鉄を持つ。


鍛冶を持つ。


重装兵を持つ。


そして、正面から勝つことを誇りとする。


次に灰鼠族。


衣には木屑と石粉がついていた。


手には細い刻み棒。


坑道、木工、罠、歯車、測量。


霜谷式排水を形にしたトーマと同じ、土の下と構造を見る者たち。


だが、赤熊の戦士の何人かは、彼らと目を合わせようともしない。


小さい。


穴に潜る。


それだけで、戦士より下だと思っている。


白兎族は薬草の匂いがした。


戦う人数は少ない。


だが、冬に子を取り上げ、傷を縫い、天候を読む者がいなければ、どの部族も一冬で弱る。


蒼狐族の席には、革表紙の帳簿が三冊積まれていた。


南方語を話し、銀貨を数え、相場を知る。


北方で最も南へ近い目を持つ者たち。


だからこそ、他部族からは「北より利益を選ぶ」と疑われている。


銀梟族の前には文書がある。


法律、歴史、星、暗号。


文字を持つ者は、文字を持たない者から敬われる。


同時に、嫌われる。


知っていることを教えなければ、知識は権力になるからだ。


緑鹿族からは樹脂と馬の匂いがした。


林業、弓、馬、荷車、山道。


赤熊が炉のために木を欲しがるたび、緑鹿は山が死ぬと怒る。


鉄山羊族は石のように黙っていた。


砦、採石、山岳戦。


自分たちの谷の中だけで生きられるため、谷の外へ興味を持たない。


氷鴉族は黒い羽飾りをつけていた。


偵察。


伝令。


空からの観測。


戦場では死体を回収し、行方不明者を探す。


だから「死に近い」と不吉がられる。


そして黒狼族。


狼。


狩り。


集団戦。


辺境伯という王国の爵位。


だが実態は、この九つの席の議長に近い。


税も兵も、父が命じれば出るわけではない。


頼み、条件を出し、納得させる。


それで初めて動く。



◇ ◇ ◇



セレネは、ヴァイの斜め後ろからその横顔を見ていた。


銀梟族に生まれ、黒狼族へ嫁いだ彼女にとって、九牙会議は子供のころから見慣れた場所だった。


誰が誰を嫌っているか。


どの婚姻が、どの谷の争いを止めたか。


どの古い盟約の一文を、どの部族が自分に都合よく読み替えるか。


セレネは文字と歴史を教わる過程で、それを覚えた。


だから、族長家の子が初めてこの場へ来れば、普通は人を見るのだと知っている。


強い族長。


敵に回してはいけない家。


婚姻で結ぶ価値のある血筋。


将来、自分へ一票をくれるかもしれない長老。


ヴァイは違った。


赤熊族長グラウスの大きさより、赤熊が鉄を持つことを見た。


銀梟族の古い家格より、文字を持たない者が契約を読めないことを見た。


灰鼠族が低く扱われていることを見て、その小さな身体ではなく、排水と坑道の技術が他部族へ渡っていないことを見た。


五歳のころ、セレネが文字を一つ教えると、ヴァイは十を尋ねた。


六歳では、帳簿の書き方を教えると「誰が間違いを見つけるのですか」と聞いた。


九歳の今。


この子は九部族そのものを、一冊の未完成な帳簿のように見始めている。


教師としては、誇らしかった。


北方人としては、怖かった。


もしこの子が本当に、九つの強みと九つの欠けたところをつないでしまったら。


黒狼族だけではない。


自分が生まれた銀梟族が長く守ってきた「知っている者の優位」さえ、形を変えるだろう。


セレネは息を吐いた。


それでも、止めたいとは思わなかった。


知識を守るために人が冬で死ぬなら、その知識の守り方の方が間違っている。


そう思える程度には、彼女もまた、この冬に墓が増えなかった事実を重く見ていた。



◇ ◇ ◇



ヴァイは板へ三本の縦線を引いた。


余るもの。


足りないもの。


嫌うもの。


父が横目で見た。


「何を書いている」


「まだ見ています」


「会議を人買いの品定めみたいに見るな」


「人ではなく、困りごとです」


「なお悪い気がするな」


会議が始まった。


最初の議題は、やはり霜谷村だった。


父ヴァルフラムが概要を語り、すぐにヴァイへ視線が集まる。


最初に口を開いたのは白兎族だった。


「咳で寝込んだ者が三十七。死者なし、と聞いた。病人を一か所へ集めれば、かえって病が濃くならぬか」


「最初、濃くなりました」


会議場が少し静かになった。


成功談を聞くつもりだった者には、意外な答えだったらしい。


「共同寝所を暖めることばかり考えて、換気が足りなかった。だから上へ穴を増やし、寝具を干し、器を分けました」


白兎族の者が頷く。


「失敗したあと、どう記録した」


「咳が出た日、寝ていた場所、同じ器を使った者を板へ残しました」


次は灰鼠族だった。


「換気穴の大きさは、寝所ごとに同じか」


「違います。最初は同じにして失敗しました」


「なら、型にできん」


「人数と炉の数を一緒に記録します。そこから型を作りたい」


灰鼠族の男は、初めてヴァイの顔をまともに見た。


緑鹿族が言う。


「薪を集めるために森を削っただろう。死者を減らしても、三年後に山が裸なら同じことだ」


「今年は余分に伐りました」


ヴァイは認めた。


「だから次は、乾草だけでなく薪も夏のうちに量ります。倒木と間伐材を先に使う。森ごとの回復量は、俺にはわかりません」


「わからんのか」


「緑鹿族の方が知っています」


言われた側が、わずかに顎を引いた。


子供に教えてやる、と上から言うつもりだった顔が変わる。


「……なら、見に来い」


「お願いします」


鉄山羊族からは、倉の屋根について質問が飛んだ。


雪の重みで潰れなかったのは偶然か。


黒狼の大工が強いのか。


灰鼠の補強が効いたのか。


ヴァイは木枠の間隔と雪下ろしの順番を答え、石造倉ならどう変わるかは知らないと付け足した。


氷鴉族は別のところを見ていた。


「避難民百四十一。どこから来た」


「黒狼領内の小集落が中心です」


「道中で死んだ者は」


ヴァイは一拍置いた。


「霜谷村へ着く前の死者は、霜谷の死者零には含めていません」


ざわめきが起きた。


「ならば、死者零は嘘ではないが、北方全体を救った数字でもないな」


「はい」


ヴァイは即答した。


「だから、次は道の途中で死なせない仕組みが必要です」


氷鴉族の者は、黒い羽飾りへ指を触れた。


「道なら、我らが知っている」


板の「足りないもの」の下へ、ヴァイは一つ書き足した。


道中の目。


銀梟族は、記録の形式を問うた。


文字の読めない村人がどうやって人数を誤魔化さず数えるのか。


ヴァイは色札、刻み棒、絵、複数人の照合を説明した。


「文字を教える方が早いのでは?」


銀梟族の一人が言う。


「長く見れば、その方が早いです」


「なら、なぜ最初から教えぬ」


「冬は、字を覚えるまで待ってくれないからです」


何人かが笑った。


銀梟族だけは笑わなかった。


だが怒りもしなかった。


蒼狐族からは、ようやく予想どおりの問いが来た。


「いくら使った?」


会議場の空気が変わる。


他部族には、どこか品のない問いに聞こえたらしい。


ヴァイには違った。


一番必要な問いだった。


「銀貨では出せません」


「なら、わからない?」


「干魚、羊毛、鉄棒、労働日数、家畜の追加屠殺、薪の増加分なら出せます」


蒼狐族の席で、誰かの指が帳簿を叩いた。


「それを銀貨へ直せる?」


「今の北方の交換率では、正しくは無理です」


「なぜ?」


「同じ干魚でも村で交換率が違う。鉄棒も長さと質が違う。南方商人が持ってくる銀貨の価値だけが共通で、北方側の物の値段が共通ではないからです」


蒼狐族の数人が初めて笑みを消した。


ヴァイは気づいた。


ここは彼らの領分だ。


そして、触れられたくないところでもある。


南方と取引できること自体が、蒼狐族の力だからだ。


「面白い子ね」


小さな声がした。


蒼狐族長の少し後ろ。


ヴァイと同じくらいの年頃の少女が、帳簿の端へ何かを書いている。


ノエル・フェンリス。


蒼狐族長の姪。


名前だけは、セレネから聞いたことがあった。


その視線はヴァナールにも、ヴァイの剣にも向いていない。


数字だけを見ていた。


そのとき、赤熊族長グラウスが腕を組んだ。


「話はわかった」


低い声だけで、会議場の空気が重くなる。


「だが、四百人の村を救ったから何だ」


何人かがグラウスを見る。


敵意のある言い方だった。


だが、ヴァイは怒らなかった。


問いの中身は正しい。


「赤熊は三万近い」


グラウスは続けた。


「一つの大鍋に集めて食わせるつもりか。病人を色札で分けて、三万の寝床を作るか。村でできることと、部族でできることを混ぜるな」


ヴァイは板から顔を上げた。


「混ぜていません」


「なら、どうする」


「まだ知りません」


会議場が静まり返った。


グラウスの眉が動く。


「知らん?」


「四百三十二人までは試しました。三万人は試していません」


「冬王の仔でも、知らんことがあるか」


「知らないことの方が多いです」


ヴァイは答えた。


「ただ、三万人を一つにする必要はないと思っています」


「ほう」


「村ごとに倉を持つ。足りない村を早く見つける。道を切らさない。部族の大倉は最後の補充に使う。誰がどこまで見るかを分ける。霜谷村でやったことを大きな鍋にするのではなく、小さい仕組みを何十個も同時に動かす」


グラウスは黙った。


ヴァイは続ける。


「でも、どれくらいの道が必要か、何日で運べるか、赤熊族の村がどこに何人いるかを俺は知りません。だから今、答えを決めるのは嘘です」


しばらくして、グラウスが鼻を鳴らした。


「少なくとも、口だけの賢者ではないらしい」


褒め言葉ではない。


だが侮辱でもなかった。


ヴァイは頭を下げた。


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「では、訂正します」


「そのままでいい」


会議場の一部で笑いが起きた。


父ヴァルフラムまで口元を押さえている。


ヴァイは板へ目を落とした。


九部族。


それぞれが、できないことばかりではない。


むしろ逆だった。


赤熊には鉄がある。


だが炉を焚く森を巡って緑鹿と争う。


緑鹿には木と馬と道の知識がある。


だが鉄の農具は赤熊から買う。


灰鼠は水を通し、坑道を掘れる。


だが小柄だというだけで発言権が弱い。


白兎は人を生かせる。


だが戦える人数が少なく、他部族の庇護が必要になる。


蒼狐は南方の値段を知る。


だが知っているからこそ疑われる。


銀梟は文字を持つ。


だが文字を独占すれば、他部族はいつまでも自分で契約を読めない。


鉄山羊は砦を作れる。


だが谷から出なければ、その技術は谷の中で終わる。


氷鴉は遠くを見る。


だが死に触れる仕事を嫌われ、必要な情報まで遠ざけられる。


黒狼は戦える。


だが、戦う以外のことを軽く見すぎる。


貧しいのではない。


持っているものが、隣へ渡っていない。


ヴァイの背筋に、奇妙な感覚が走った。


前世で見た、災害直後の自治体に似ている。


食料はある場所にある。


車もある。


人もいる。


医者もいる。


それなのに、情報と役割がつながらず、必要な場所へ届かない。


九部族は九つの弱い集団ではない。


九つの強みが、別々の方向を向いている。


ヴァイはその考えを口にしなかった。


父に言われたからではない。


まだ早いからだ。


統一という言葉は、聞く者によって「黒狼の下へ膝をつけ」に変わる。


今必要なのは、誰を従わせるかではない。


誰が何を持っているかを知ることだった。


板の三列は、会議が進むほど埋まっていった。


その様子を、最長老ハーヴェンは少し離れて見ていた。


戦士なら、グラウスの肩を見る。


族長候補なら、誰が自分へ味方するかを見る。


ヴァイは、赤熊の鉄と緑鹿の木を同じ板へ書いている。


それが老人には、ひどく不吉に見えた。


同時に。


ひどく待ち望んだものにも見えた。



◇ ◇ ◇



会議が終わる直前だった。


父が次の議題へ移ろうとしたとき、蒼狐族の席から小さな手が上がった。


「一つ、よろしいですか」


族長たちの視線が集まる。


ノエルだった。


蒼狐族長が眉を寄せた。


「ノエル」


「数字の話です、叔父上」


「だからこそ、おまえを連れてきた。だが、順番は守れ」


「では、順番をいただけますか」


九歳の少女とは思えない返しだった。


ヴァルフラムが蒼狐族長を見た。


相手が小さく頷く。


「聞こう」


ノエルは立ち上がった。


ヴァイとほとんど同じ高さだった。


「私は、霜谷村の数字は誇張だと思っています」


会議場がざわついた。


黒狼族の護衛が顔をしかめる。


ヴァイだけは、少し前へ身を乗り出した。


「理由を聞いても?」


「死者零は、綺麗すぎるから」


ノエルは即答した。


「綺麗な数字ほど、最初に疑います」


「どう疑いますか」


「誰を数えたのか」


少女は指を一本立てた。


「村へ着く前に死んだ避難民は除いていると、さっき言いました」


二本目。


「途中で村を出た者は?」


三本目。


「病人を家族が隠していたら?」


四本目。


「配給を受けた人数と、寝所にいた人数は同じ?」


五本目。


「生まれた子、動けない老人、短期の訪問者は、いつの数字に入れた?」


ヴァイは答えなかった。


ノエルの目が細くなる。


「答えられない?」


「ここで答えない方がいいと思いました」


今度はノエルが黙った。


「なぜ?」


「俺が制度を作りました。俺が『正しいです』と言っても、証拠になりません」


会議場の空気が変わった。


ヴァイは続けた。


「配給板があります。倉の減り方があります。寝所の札があります。墓地があります。村長がいます。薬師がいます。避難民自身もいます」


「それを見ろと?」


「はい」


「あなたが先に口で説明した方が早い」


「口なら、今からでも綺麗な数字を作れます」


ノエルの口元が、わずかに上がった。


「自分で言うのね」


「数字を作るのは簡単です。現物を合わせる方が難しい」


蒼狐族の大人たちが、互いに視線を交わした。


彼らは商人だ。


帳簿の数字が、現物と同じではないことを誰より知っている。


ノエルは腕を組んだ。


「では、私が見に行きます」


「どうぞ」


「簡単に言うのね」


「疑う人が見た方がいいです」


「私が、死者零は嘘だったと九牙会議で言うかもしれない」


「嘘なら言ってください」


ヴァイは即答した。


「直します」


その一言で、ノエルの表情から子供っぽい挑発が消えた。


彼女は初めて、目の前の少年そのものを見た。


冬王の仔。


黒冠狼を従える異端児。


九歳で四百人を救ったと噂される子供。


そんな飾りは、蒼狐族の少女にはどうでもよかった。


誇張を暴かれる可能性を、自分から差し出す。


普通の族長家の子なら、家の面子を守る。


普通の商人なら、数字の穴を先に塞いでから他人へ見せる。


この少年は逆だ。


穴があるなら、早く見つけた方が得だと思っている。


ノエルはそれを、少し気味悪く感じた。


そして、ひどく面白いとも思った。


「わかりました」


少女は席へ戻る前に言った。


「嘘なら、ここで言います」


「はい」


「本当なら」


そこで初めて、蒼狐らしい笑みを見せた。


「もっと厄介な質問をします」


ヴァイは首を傾げた。


「例えば?」


「それで、誰がどれだけ得をするのか」


ヴァイは少しだけ目を見開いた。


冬を越したあと、初めてだった。


奇跡だと言わない者がいた。


冬王だとも、予言だとも言わない。


同じ九歳の子供が、死者零の向こうに費用と利益を見ている。


ヴァイは、ゆっくり笑った。


「では、霜谷村で」


「ええ。帳簿は隠さないで」


「最初からそのつもりです」


九牙会議は終わった。


九部族は、まだ九つのままだった。


互いを嫌い、見下し、必要としながら、それを認めない。


ヴァイは板を閉じた。


余るもの。


足りないもの。


嫌うもの。


三つの列は、文字で埋まっていた。


その一番下へ、最後にもう一つだけ書いた。


――確かめる者。


自分のやり方を信じる者だけを集めれば、いつか間違いは制度になる。


疑う者が必要だ。


会議場の外では、ヴァナールが待っていた。


そのさらに遠く、春の森の木々の間に灰色の影がいくつも見えた。


野生の狼たちは、まだ人の群れへ入ろうとはしない。


だが、冬王から離れようともしなかった。


ヴァイは九つの部族の旗を振り返った。


九つの民。


九つの強み。


九つの欠けたところ。


まだ一つにするつもりはない。


少なくとも、今は。


まず知る。


測る。


疑わせる。


それからだ。


春の風が、会議場の旗を九つ別々の方向へ揺らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。