↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/16

第6話 死なない村

王暦七四四年、夏末。


長兄ローヴェンが王都から鎖につながれて帰ってきたころ、ヴァイは七歳だった。


学院事件を木箱へ収めたあとも、時間は止まらなかった。


秋までの短いあいだ、ローヴェンは黒牙砦の訓練場へ立ち、兵へ冬脈式を教えた。


ヴァイが考えた気の流し方を、兄が大剣と狼騎兵の技へ変えていく。


その横でヴァイ自身も、毎日少しずつ幼い身体へ技を馴染ませた。


七歳の脚では、理屈どおりに動けても長くは続かない。


三度、四度と強く気を通せば腿が震えた。


それでも前日より一度多く正確にできれば、翌日はその一度を基準にした。


冬が来た。


その冬は、まだ北方人が「いつもの冬」と呼べる冬だった。


雪が砦を埋め、道が消え、春までに幾人かが墓地へ運ばれた。


ヴァイはその名前と理由を、できる限り書き残した。


凍死。肺の病。飢え。転倒。雪崩。


死を「冬だから」で一つにまとめれば、次の冬も同じ者が死ぬからだった。


◇ ◇ ◇


王暦七四五年、雪解け。


ヴァイは八歳になった。


黒牙砦の家族の食卓から、その春、二つの席が空いた。


シグヴァルとユルヴァが十五歳となり、王立貴族学院へ入ったためだ。


二人は王都にいる。


ローヴェンは退学処分のため北に残り、ベルヴァンとエルヴィアもまだ学院年齢ではなく黒牙砦にいた。


家族が同じ卓を囲むのが当たり前だったヴァイにとって、空いた二席は季節が進んだことを数字以上にはっきり教えた。


春から夏にかけて、霜谷村で始めたものが周囲へ広がった。


二年前、牛を分けるために使った赤、黄、白の札は、人と家畜の病だけでなく、井戸、道具、避難場所を分ける印へ変わった。


七歳の春に一度崩れた排水路は、灰鼠族のトーマ・グレイが地盤に合わせて作り直し、その後の大雨にも耐えた。


乾草は地面へ積まず、風を通す棚へ載せるようになった。


燻製は家ごとの小さな炉ではなく、煙を逃がしにくい共同小屋でまとめて作るようになった。


種は食べる穀物と同じ袋へ入れず、収穫した畑と成熟した日を刻んだ木札を付け、別の倉へ入れた。


家畜には、乳を取る牛、春に仔を産ませる雌、畑を引く牛、冬前に肉へ回す個体という印が付いた。


一つの村でうまくいけば、隣の村が真似をした。


隣の村で失敗すれば、失敗の理由が霜谷へ戻ってきた。


ヴァイが一人で教え歩かなくても、技術の方が先に歩くようになった。


短い夏。


黒牙砦の訓練場では、ローヴェンが兵へ冬脈式を教え続けていた。


ヴァイが七歳のころ、三度も強く気を通せば腿が震えた。


八歳になっても、気の総量で兄には遠く及ばない。


だが、流す場所を切り替える精度だけなら、教官になったローヴェンが黙って見直すほどになっていた。


足裏へ薄く。


踏み込む瞬間だけ腰へ。


木剣が触れる直前だけ肩と手首へ。


そして抜く。


必要のないところには残さない。


冬脈式は、もうヴァイだけの技ではなかった。


ローヴェンが大剣用に変えた。


木こりが斧用に変えた。


狩人が雪上歩行へ使った。


トーマは気を使えない者でも同じ作業をしやすいよう、道具の柄や足場の寸法を揃えた。


誰かが良くしたものを別の村へ持っていき、そこでまた変わり、戻ってくる。


前世では、新しい決まりを一つ変えるにも会議があり、書類があり、予算があり、責任者の印がいくつも必要だった。


この北には、それがない。


不便ではある。


だが、生きるために必要だとわかれば、翌朝には村じゅうが同じ形の乾草棚を作り始める。


冬王の仔が言ったから、一度は試す。


牛が死ななかったから、二度目は自分からやる。


畑が流れなかったから、三度目には隣村へ教える。


◇ ◇ ◇


王暦七四六年、冬。


ヴァイセル・ウラ・ノルヴァルは、九歳になっていた。


ローヴェンが帰還してから一年半あまり。


五歳の契約儀式から数えれば四度目の冬だった。


たった数年。


それでも、ヴァイが五歳のときに見た黒狼族の暮らしとは、もう同じではなかった。


そして、その変化が本当に人を救うのか試すように、北はこれまでより長い冬を寄越した。


最初に異変を持ってきたのは、白兎族の老婆だった。


婆様ウルナ。


背はヴァイより少し高い程度で、白い髪を三つ編みにし、古い革袋をいくつも腰へ下げている。


肩には、雪と見分けがつかないほど白い月兎が丸くなっていた。


彼女は黒牙砦へ来るなり、挨拶より先に机へ六本の枝を並べた。


「何ですか、これは」


ヴァイが尋ねる。


「今年と、昔の冬じゃ」


「枝に見えます」


「枝じゃよ」


ウルナは悪びれなかった。


一本目には、細い切り込みが十三本。


二本目には十一本。


三本目には二十本以上。


「初雪までの日、沢が朝まで凍った日、灰羽鳥が南へ消えた日、山鼠が巣穴へ木の実を運び始めた日。昔から気になった年だけ、こうして刻んでおる」


ヴァイは枝を取り上げた。


「毎年ではない?」


「毎年やれば、もっと役に立ったろうな。若いころはそこまで暇ではなかった」


「今年は?」


「全部、早い」


ウルナは机の上へ指を置いた。


「十日。ものによっては二十日」


ヴァイはセレネから借りていた紙へ数字を書いた。


初雪。


沢の凍結。


渡り鳥。


山鼠。


「占いですか」


横で聞いていた村の使者が、半ば笑いながら言った。


ウルナが鼻を鳴らした。


「未来など見えんよ」


彼女はヴァイを見た。


「今まで誰も数えなかったものを見るだけじゃ」


ヴァイの手が止まった。


その言い方が、気に入った。


前世で気象観測所の職員と話したときも、似たようなことを聞いた。


天気を当てるのではない。


風、雲、気圧、海、積雪。


見えない未来ではなく、今ここにある兆候を増やす。


「平年より、どれくらい長い冬を見ますか」


「わしなら一月余分に食うものを置く」


ヴァイは少し考えた。


「二月分、増やします」


使者が目を剥いた。


「二月ですか。そんなに残せば、今のうちに売れる干魚まで倉へ入れることになる」


「売って銀貨にして、冬に穀物を買い戻せますか」


「……南の商人が来れば」


「雪で来なければ?」


使者は黙った。


ウルナは皺だらけの目を細めた。


「婆の言うことを、そのまま信じるのか」


「いいえ」


ヴァイは枝を並べ直した。


「外れたときに何を失うかと、当たったときに何人死ぬかを比べます」


ウルナが笑った。


「おまえ、やはり気味が悪い子じゃな」


「よく言われます」


その日から、霜谷村は冬を二か月余分に生きる準備を始めた。


北方で、冬はただ寒い季節ではない。


毎年、人を取る。


霜谷村ほどのまとまった村でも、平年の冬に老人や乳飲み子、病人を中心に数人から十数人を埋めるのは珍しくなかった。


凶冬になれば、三百人に満たない村で二十人を超えることもある。


備蓄不足と病、雪崩、薪切れが重なれば、一冬で一割近くを失う。


さらに小さな集落では、春になっても煙が一本も上がらず、村そのものが消えた例さえ北にはあった。


だから「冬が二か月長い」という言葉は、暦の上で六十日が増えるという意味ではない。


食料を六十日多く食べる。


薪を六十日多く燃やす。


病人を六十日多く抱える。


家畜へ六十日多く草を食わせる。


そして、そのどれかが尽きるたび、人が死ぬ。


ウルナの警告どおりなら、今年は「何人死ぬか」を数える冬になるはずだった。


ヴァイだけが、その問いを別の形にした。


――どうすれば、一人も死なせずに済むか。


常住人口、二百八十八人。


ヴァイはまず、その数字を板へ書かせた。


次に倉を開けた。


大麦。


蕪。


乾燥豆。


干魚。


硬質チーズ。


獣脂。


塩。


乾草。


袋が何個あるかでは足りない。


袋の大きさが違う。


中身の乾き方も違う。


鼠に齧られた袋もある。


大麦一袋を一袋として数えれば、二年前の黒牙砦と同じ失敗をする。


「人日に直します」


村長ハルクが眉を寄せた。


「また新しい言葉か」


「一人が一日食べられる量を一、と数えます」


「大人と子供で違うだろう」


「だから最初は標準です。あとで仕事と年齢で変えます」


「面倒だな」


「冬の途中で足りないと気づくよりは」


ハルクは呻いた。


二年前なら、その「面倒だな」のあとに議論が一刻は続いた。


今は違った。


「わかった。誰を集める」


それだけだった。


ヴァイは一瞬、返事が遅れた。


自分の言葉が通ることに、慣れてはいけないと思った。


「倉番を二人。料理をしている人を三人。家畜の乾草はガルムに。俺は量り方を決めます」


「坊ちゃんが全部やらんのか」


「全部やったら、俺が熱を出した日に村が止まります」


ハルクが口元を歪めた。


「九歳が言う台詞じゃねえ」


「九歳だからです。熱くらい出します」


種子庫だけは、別にした。


早生大麦。


豆。


蕪。


春に播く分へ、赤い牙を描いた札を下げる。


赤は病畜の印だった。


今度は、「触るな」の意味だった。


「飢えたら、これも食うんだろう」


ガルムが言った。


「最後まで食べません」


「最後ってのは、いつだ」


「春に播けば秋まで食べられる可能性がある時期と、今食べて数日延びるだけの時期を比べて決めます」


「難しい言い方をするな」


ガルムは赤い牙印を見た。


「要するに、来年の飯か」


「はい」


「なら最初からそう言え」


横で聞いていた九歳の少年が、そこで吹き出した。


ヴェルド・ハウゼンだった。


ヴァイと同じ年に生まれ、同じ乳母の乳を飲んで育った少年である。


髪は灰がかった黒。


体つきはヴァイより一回り厚く、笑うと犬歯が目立った。


「ヴァイの話、長いんだよ」


「必要な説明です」


「ガルム爺には『来年の飯だから食うな』でいい」


ガルムが大きく頷く。


ヴァイは少し考えた。


「……では、それで」


「ほらな」


ヴェルドは得意そうに胸を張った。


その日から、彼は赤い牙札を村じゅうへ運ぶ役になった。


子供たちを五人ずつ並ばせる。


赤札は種子庫。


黄札は共同炊事。


白札は病人の寝所。


複雑な説明を聞いた子供が首を傾げると、ヴェルドが短く言い換えた。


「赤は勝手に開けるな。黄は飯。白は咳してる奴のとこ。間違えるな」


それで通じた。


ヴァイは、自分にない才能だと思った。


◇ ◇ ◇


王暦七四六年、冬。一か月目。


冬は、予想より十二日早く本格化した。


最初のひと月は、まだ余裕があった。


乾草棚の草は、前年より腐敗が少なかった。


共同燻製小屋の肉は、煙の回り方を変えたことで黴が減った。


蕪は凍らない深さの穴蔵へ分けてあり、一つが傷んでも全部は失わない。


◇ ◇ ◇


二か月目。


一か月が過ぎた。


雪は止まなかった。


二か月目に入ると、村の音が変わった。


夜、家の梁が鳴る。


乾いた木が寒さで縮み、ぱきん、と骨の折れるような音を立てる。


井戸の縁へ厚い氷が育ち、朝ごとに斧で割らなければ桶が下りない。


馬の鼻毛が息のたびに白く固まる。


狼さえ、長く外に立たせれば肉球を傷める寒さだった。


イスヴァルは日常ではもう片目を覆っていなかった。


けれど、雪面へ強い日が反射すると、傷めた方の目を細める。


燻製小屋で石灰を使った掃除をするときも、刺激臭を嫌って顔を背けた。


ローヴェンはそれを見つけるたび、何も言わずにイスヴァルを風上へ連れていった。


頬の傷は薄くなった。


王都で何があったかを忘れたわけではない。


ただ、黒牙砦ではもう「退学して戻った長子」ではなくなっていた。


冬脈式を習う兵が、彼を教官と呼ぶ。


若い兵ほど、ローヴェンの大剣を真似したがった。


兄が居場所を取り戻すまでに、一年半かかった。


ヴァイは、それを長いとは思わなかった。


人は畑より時間がかかる。


だから急がせない。


そのローヴェンが、霜谷村へ食料橇を護送してきた日のことだった。


北の道から、人が歩いてきた。


最初は七人。


次の日に十二人。


その三日後には、子供を背負った女たちを含めて二十六人。


周辺の小さな集落が、順番に冬へ負け始めていた。


屋根が落ちた。


薪が尽きた。


家畜が死んだ。


凍った沢から水を汲めなくなった。


村の門前で、ハルクがヴァイへ言った。


「これ以上は入れられん」


門の外には、三十一人がいた。


そのうち九人が子供だった。


老人が五人。


一人は橇の上で咳をしている。


霜谷村の中では、先に来た避難民まで含めて三百四十を超えていた。


「今の備蓄で、何日ですか」


ヴァイが倉番へ聞く。


「標準配給なら百二十八日。薪は、この寒さが続けば九十四日」


ハルクが顔をしかめる。


「だからだ。食い物より先に凍える」


門の外で、子供が母親の毛皮へ顔を埋めていた。


ヴァイは数を見た。


三十一人。


口が三十一増える。


違う。


手も増える。


知識も増える。


歩ける者は何人か。


斧を使える者は。


魚を捕れる者は。


針仕事は。


家畜を扱える者は。


「一人ずつ聞きます」


「ヴァイ」


ハルクの声が低くなる。


「情で決めるな」


「情だけなら、全員入れます」


ヴァイは門の外を見た。


「数字だけなら、全員追い返します」


「なら、どっちだ」


「使える数字を増やします」


避難民を一列に並べた。


歩けるか。


熱はあるか。


咳は。


斧を使えるか。


狩りは。


魚は。


料理は。


子供を見られるか。


革を縫えるか。


荷車を直せるか。


最初の男は木こりだった。


二人目は片脚が悪いが、網を編めた。


三人目の老婆は産婆だった。


四人目の女は山羊の乳を扱える。


五人目は何もできないと言った。


「子供は何人いますか」


「三人」


「他人の子も見られますか」


女は少し驚いた。


「……見られる」


「では、それが仕事です」


ハルクが横で息を吐いた。


「食う口を、仕事へ変えるつもりか」


「人は口だけではありません」


門は閉じなかった。


それから避難民は、さらに来た。


五十人を超えた。


八十人を超えた。


百人を超えた。


ヴァイは、そのたびに同じことをした。


病人は白札へ。


働ける者は仕事へ。


子供は年齢で無理をさせない。


老人でも手が動けば網を繕う。


妊婦には薪運びをさせない。


重い斧を振る者には粥を増やす。


軽作業の大人には少し減らす。


「同じ量を配れ!」


最初に怒鳴ったのは、霜谷村の男だった。


「俺たちはここで夏から働いた。後から来た奴と同じでも腹が立つのに、木を切る奴は俺より多いってのか」


共同炊事場の前だった。


木椀を持つ人々の視線が、一斉にヴァイへ集まる。


九歳。


まだ大人の胸にも届かない。


それでも、誰も「子供は黙れ」と言わなくなっていた。


それが逆に、男を苛立たせているように見えた。


「同じ量が公平ではありません」


ヴァイは言った。


「春に全員が立っていることが公平です」


「重い仕事をする人、子供、妊婦、乳を与えている母親、病人は必要量が違います」


「俺だって腹は減る!」


「はい」


「だったら同じだけ寄越せ!」


「同じだけ配れば、働く人から先に倒れます」


男の手が震えた。


寒さだけではなかった。


「おまえは腹いっぱい食ってるんだろう」


ざわめきが止まった。


ヴァイは自分の椀を見せた。


中身は薄い大麦粥だった。


量は軽作業の成人より少ない。


九歳の身体には、それで基準量だった。


「俺の分も記録されています」


「辺境伯の子だぞ!」


「腹は身分を知りません」


男は言葉を失った。


後ろで誰かが笑いかけたが、すぐ止めた。


ヴァイは板を持ち上げた。


「今日、四百七人。重労働八十三。軽作業百四十二。子供八十九。高齢者、病人、妊婦、授乳者を合わせて九十三。今の配分なら食料は百七日。全員へ同量に戻すと、重労働者が減るので薪の確保が落ち、食料より先に燃料が尽きます」


誰も板の数字をすべて理解してはいなかった。


だが、一つだけ理解した。


この子供は、ここにいる四百人あまりを「大勢」として見ていない。


役割と日数に分けて見ている。


そして、その中に自分自身も入れている。


男は木椀を握ったまま、俯いた。


「……春まで、本当に持つのか」


「毎週、計算をやり直します」


「持つかって聞いてる」


ヴァイは答えを急がなかった。


「今のままなら、危ないです」


ざわめきが戻った。


「だから、明日までに薪を一割減らし、食べる前に捨てている量を半分にします」


「飯を減らすのか」


「焦がす量を減らします」


その夜から、共同炊事はさらに大きくなった。


家ごとに鍋を火へかけるのをやめる。


大麦と豆を先に浸す。


蕪は皮を厚く落とさない。


干魚の戻し汁を捨てず、粥へ入れる。


硬質チーズは一人ずつ切り分けず、削って鍋へ溶かす。


獣脂も同じだった。


一軒ずつなら鍋底に残っていた分が、四百人分では食事になる。


ヴァイは食料を増やせなかった。


だが、食べる前に消えていた食料を減らした。


それでも寒さは深くなった。


◇ ◇ ◇


三か月目。


薪の減りが、食料より早くなった。


ヴァイは全戸を暖めるのをやめた。


反対は、食料より大きかった。


「家を凍らせろってのか」


「寝る場所を集めます」


「他人と寝ろと?」


「寝具を共有しろとは言いません。暖める空間を共有します」


子供、老人、病人を大きな家へ集める。


健康な成人は家族ごとに一部屋へ寄る。


使わない部屋は戸を閉める。


入口には二重の風除けを作る。


外壁へ雪を寄せ、風が直接当たらないようにする。


最初の七日で、薪の使用量は目に見えて減った。


八日目に、別の問題が出た。


咳だった。


共同寝所で寝る者が、次々に喉を痛めた。


「暖かくしたのに、なぜ増える」


ハルクが困惑する。


ヴァイは寝所へ入り、すぐに顔をしかめた。


暖かい。


湿っている。


臭い。


人の息、濡れた毛皮、乾ききらない靴。


空気が動いていなかった。


「塞ぎすぎました」


自分の失敗だった。


ヴァイはその場で認めた。


「天井近くへ小さい換気口を開けます。昼は寝具を干す。咳のある人は白札側へ。水を飲む器も分ける」


「せっかくの熱が逃げるぞ」


「少し逃がします」


「もったいない」


「人が寝込む方が高くつきます」


二年前の牛疫で作った冬牙規則が、今度は人間の寝所へ使われた。


病人だけを遠ざけるためではない。


病人が増えないように、空気と器と寝具の流れを分ける。


それでも、その冬に咳で寝込んだ者は三十七人に達した。


死者は、まだいなかった。


だが、冬は終わらなかった。


◇ ◇ ◇


四か月目。


平年なら、そろそろ「あとひと月ほどで融雪」と数え始める頃だった。


さらにひと月が過ぎた。


霜谷村の人口は、四百二十九人になっていた。


避難民、百四十一人。


最初の二百八十八人から、ほぼ一・五倍。


その数字を板へ書いた夜、倉番が言った。


「食料、七十二日」


「薪は」


「五十九日」


「平年の融雪まで」


「四十五日ほどだ」


ハルクが安堵しかけた。


ウルナが首を振った。


「平年ならな」


沈黙した。


外では吹雪が戸板を叩いている。


ヴァナールが、突然立ち上がった。


黒い巨狼は炉の熱を嫌うように戸口へ向かい、そのまま外へ出た。


ヴァイも外套を掴んだ。


「どこへ行く」


ミウレイアが呼び止める。


「ヴァナールが何か見ています」


「一人では行かせない」


ローヴェンが立った。


「兄上はここにいてください。外の見回りが戻ります」


「九歳が十九の兄へ命令するな」


「命令ではありません」


「なら断る」


結局、兄も来た。


三人と二頭で村外れの高みへ上がった。


イスヴァルは雪面の照り返しを避けるように時々顔を伏せる。


ヴァナールは北を見ていた。


風は北からではない。


雲も、北へ流れている。


それなのに黒冠狼は北を見た。


金の瞳が細くなる。


ヴァイの胸の奥へ、言葉ではない感覚が触れた。


冷たい。


遠い。


大きい。


そして、意味だけが落ちてきた。


――北から、冬が来ている。


ヴァイは空を見た。


「天気の話ですか」


ヴァナールは答えなかった。


「何だって?」


ローヴェンが尋ねる。


「北から冬が来ている、と」


兄は鼻で息を吐いた。


「北はいつでも冬だ」


「そういう意味ではない気がします」


「わかるのか」


「わかりません」


ヴァイは即答した。


知らないものを、知っているふりはできない。


極北で何が起きているか。


なぜ今年だけ寒いのか。


答えはない。


なら、わからないまま生き残るしかない。


村へ戻ると、種子庫の前で怒鳴り声がしていた。


十人以上が集まっている。


赤い牙印の戸を、男が叩いていた。


「開けろ!」


「駄目だ!」


ガルムが戸の前へ立っている。


「中に麦があるんだろう!」


「種だ!」


「麦は麦だ!」


ヴァイは人垣を割った。


男は避難民ではなかった。


霜谷村の住民だった。


妻が共同寝所で熱を出し、幼い娘が配給の粥を残さず食べても泣いている家の男だ。


怒って当然だった。


「どいてくれ、坊ちゃん」


「開けません」


「子供が腹減ってんだ」


「知っています」


「知ってて、ここに麦を隠すのか!」


「隠していません。記録にもあります」


「記録が食えるか!」


男が一歩出た。


周囲が後ずさった。


ローヴェンが動こうとした。


ヴァイは手だけで止めた。


男の拳が上がる。


ヴァイは重心を落とした。


九歳でも、見えていないわけではない。


足裏へ気を流せば、避けられる。


必要なら手首を取れる。


その前に、小さな影が飛び込んだ。


ヴェルドだった。


「やめろ!」


男とヴァイの間に両腕を広げて立つ。


声は裏返っていた。


膝も震えている。


男は大人だった。


本気で殴られれば、九歳のヴェルドなど一発で倒れる。


それでも退かなかった。


「どけ、ヴェルド!」


「どかねえ!」


「おまえの妹だって腹減ってるだろうが!」


「減ってるよ!」


ヴェルドが怒鳴り返した。


「だからだ!」


男が怯んだ。


ヴェルドは振り返らずに言った。


「ヴァイがいなくなったら、誰が残りの日を数えるんだよ」


その言葉で、人垣の空気が変わった。


ヴァイは何も言えなかった。


自分が守られたことより、その理由が怖かった。


失ってはならない者。


そう思われ始めている。


それは信頼だ。


同時に、危険だった。


一人へ寄せすぎた仕組みは、その一人が倒れた瞬間に壊れる。


ヴァイはヴェルドの肩へ手を置いた。


「ありがとう。もう大丈夫です」


「本当か」


「兄上もいます」


後ろでローヴェンが腕を組んでいた。


男はようやく拳を下ろした。


ヴァイは種子庫の戸へ手を置いた。


「開けません」


「……なぜだ」


「これを全部食べれば、今の配給で二十四日ほど延ばせます」


人々が息を呑む。


二十四日。


短くない。


「なら食えばいい!」


「その代わり、春に播く大麦と豆と蕪がなくなります」


「春まで生きなきゃ意味がない!」


「春だけ生きても意味がありません」


ヴァイは男を見る。


「種を食べるのは、命を救うことではない。死ぬ日を後ろへずらすだけになる可能性があります」


「じゃあ、娘に腹を空かせろってのか」


「いいえ」


ヴァイは人垣を見回した。


「別の食べ物を増やします」


「どこにある!」


答えたのは、避難民の老人だった。


「氷の下だ」


皆がそちらを向いた。


老人は片脚を引きずっていた。


村へ来たとき、網を編めると答えた男だった。


「湖に魚がいる。冬でもな」


「穴を開けて釣るのか」


ハルクが言う。


「一本ずつじゃ足りん。穴を二つ、三つと開けて、下へ網を通す」


「氷の下へどうやって網を通す」


老人は枝を一本拾い、雪へ図を描いた。


細長い竿。


縄。


穴と穴。


ヴァイはしゃがみ込んだ。


知らない方法だった。


前世で氷上の釣りは見たことがある。


だが、この湖、この網、この氷の厚さで最適なやり方を知っているのは老人だ。


「場所は選べますか」


「流れのあるところは危ない。入り江も魚がいない場所がある」


「何か所試せば、当たりを見つけられますか」


老人はヴァイを見た。


「坊ちゃんは、魚まで数にするのか」


「取れるなら」


老人の口元が曲がった。


「三か所やらせろ」


「六か所やりましょう」


「欲張るな」


「外れを三つ作るためです」


翌朝、湖へ十二人が出た。


ヴァイは方法を教えなかった。


老人に任せた。


代わりに、安全を作った。


氷の厚さを刻み棒で測る。


危険な場所へ赤杭を立てる。


全員へ腰縄を付ける。


二人一組にする。


作業時間を短く区切り、手の感覚が鈍る前に暖房小屋へ戻す。


穴には蓋を置き、夜間に誰かが落ちないよう高い棒を立てる。


ヴェルドは子供たちを連れ、棒へ布を結んで回った。


「赤いのは近づくな! 白いのは網を運べ! 走るな、落ちるぞ!」


声だけは大人より通った。


一か所目は、ほとんど取れなかった。


二か所目も少ない。


三か所目で網が裂けた。


村人の顔が暗くなる。


老人は平然としていた。


「だから六つやるんだろ」


四か所目。


網を引いた瞬間、氷穴の下で銀色が暴れた。


一尾。


二尾。


十尾。


二十尾。


子供たちが歓声を上げた。


ヴァイは笑わなかった。


「重さを量ってください。場所と時刻も」


「そこは喜べよ!」


ヴェルドが怒った。


老人が腹を抱えて笑った。


ヴァイも、少しだけ笑った。


魚は、その日の共同鍋へ入った。


久しぶりの新しい肉だった。


次の日から、湖の当たり場所を変えながら網を入れた。


取れ過ぎる場所は続けて使わない。


網の破れ方を記録する。


凍傷を出さない時間で交代する。


避難民の老人が教えた技が、霜谷村の冬の食料になった。


誰か一人の発明ではなかった。


ヴァイは、それでよいと思った。


冬はまだ続いた。


家畜も減らした。


ガルムが台帳を持って、一頭ずつ見て回った。


春に仔を産ませる雌。


乳を残す雌。


荷役に必要な牛。


それ以外で、乾草を食わせて春まで残す意味の薄い個体。


殺す数を増やすたび、ヴァイは三年前の黒角を思い出した。


あのときは病気から群れを守るために殺した。


今度は飢えから人と繁殖群を守るためだった。


理由が違っても、刃を入れる手の重さは変わらない。


「坊ちゃん」


ガルムが言った。


「おまえ、前より顔に出るようになったな」


「悪いことですか」


「いや」


老人は牛の鼻面を撫でた。


「前は、出なさすぎた」


ヴァイは返事をしなかった。


ミウレイアにも、同じようなことを言われたことがある。


合理的であることと、平気であることは違う。


その区別を、九歳の身体になってから覚え直していた。


◇ ◇ ◇


五か月目。


平年の冬なら、もう終わりが見えている。


だが、その年の北にはまだ終わりが見えなかった。


霜谷村では、誰もヴァイを子供扱いしなくなっていた。


ヴェルドは、それが嫌だった。


ヴァイが怖いからではない。


いや、少しは怖かった。


同じ乳母の乳を飲み、同じ泥で転び、五歳のころには雪玉をぶつけ合った相手だ。


昔のヴァイは、転べば泣きはしないまでも顔をしかめた。


高い棚の干し肉へ手が届かなければ、普通に椅子を持ってきた。


それが今は、四百三十二人の食べる量を板一枚で動かしている。


大人が怒鳴っても、声を荒らげない。


冬王が隣に立っても、必要なら「待て」と言う。


兄のローヴェンが大剣を振るうときでさえ、どこへ気が流れているかを見て直す。


九歳のヴェルドには、その頭の中がわからなかった。


わからないから、時々ひどく遠く見える。


けれど、種子庫の前で男の拳が上がったとき、身体が勝手に動いた。


怖かった。


本当は逃げたかった。


ヴァナールがいる。


ローヴェンもいる。


ヴェルドが割って入る必要などなかった。


それでも、「ヴァイがいなくなったら」と思った瞬間、足が前へ出た。


その夜、ヴェルドは共同寝所の入口で札を数えていた。


赤、黄、白。


子供たちは彼の指示ならすぐ動く。


大人も最近は「ヴェルドに聞け」と言うことが増えた。


ヴァイの長い説明を、自分が短くする。


最初は面白かっただけだ。


今は違う。


一つ間違えれば、誰かが薬を飲めない。


一つ間違えれば、咳をする者と乳飲み子が同じ場所で寝る。


札一枚が、人の命へつながっている。


ヴェルドは赤札を持ったまま、ヴァイを探した。


倉の前にいた。


小さな椅子へ座り、板を膝に置いたまま眠っている。


ヴァナールが横に伏せ、風除けになっていた。


ヴェルドは立ち止まった。


眠っていれば、ただの九歳だった。


目の下に隈がある。


指には墨がついている。


靴の先には穴が開きかけていた。


「こいつ、自分が倒れたら村が止まるって言ってたくせに」


小声で悪態をついた。


肩を揺すろうとすると、ヴァナールが片目を開けた。


金色だった。


ヴェルドの手が止まる。


「……起こすだけだよ」


黒冠狼は目を閉じた。


許されたらしい。


「ヴァイ」


揺すると、灰銀の目がすぐ開いた。


「何かありましたか」


「寝ろ」


「今、寝ていました」


「椅子で寝るな」


「計算が途中で」


「だから俺に教えろよ」


ヴァイが瞬いた。


「何を?」


「その計算」


「難しいですよ」


「おまえの話を短くする方が難しい」


ヴァイは少し黙ったあと、板を半分ずらした。


「では、まず人数から」


「最初から全部言うな」


「まだ人数だけです」


その夜から、ヴェルドは配給板の読み方を覚え始めた。


九歳には難しかった。


何度も間違えた。


それでもヴァイは、答えを代わりに書かなかった。


「違います。もう一度」


「どこが!」


「今日は薪割りが十一人減っています」


「あ、咳で白札に行った奴らか」


「そうです。その分、重労働の配給も変わります」


「面倒くせえ!」


「だから教えています」


ヴェルドは腹が立った。


同時に、少し嬉しかった。


遠くに行きかけた友達が、板の半分をこちらへ渡してきた気がした。


◇ ◇ ◇


平年の融雪期を越えて、さらに二十日が過ぎた。


空の色が、ほんの少し変わった。


まだ寒い。


雪も深い。


だが昼が伸びた。


屋根から、一滴だけ水が落ちた。


その一滴を見た女が、泣いた。


春はすぐには来なかった。


そこからまた吹雪が二度来た。


薪の橇が一台横転し、男が脚を折った。


凍傷で二人が指を失った。


咳で寝込んだ者は最終的に三十七人。


三人の赤子が生まれた。


一人目の産声が共同寝所へ響いた夜、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが鍋を叩いて叱られた。


それでも、死者は出なかった。


最後の融雪水が霜谷式排水の溝へ流れ始めた朝、ハルクは墓地へ行った。


その冬は、平年よりほぼ二か月長かった。


冬の終わりには、いつも新しい土の盛り上がりがある。


老人。


乳飲み子。


凍えた旅人。


肺を病んだ者。


村長になってから、ハルクは毎年それを数えてきた。


少ない年でも数人。


寒さの厳しい年には二十人を超えた。


一割近くを冬に持っていかれた村の話も、春になって誰一人帰ってこなかった山間の小集落の話も、北では昔話ではなかった。


今年は違った。


冬の途中に生まれた三人を含む常住二百九十一人に、避難民百四十一人。


四百三十二人。


しかも、例年より二か月近く長い冬だった。


普通なら、墓地が増えないはずがない。


だが、今年はなかった。


墓地の雪は、秋から積もった形のままだった。


ハルクはしばらく立ち尽くした。


後ろからヴァイが来た。


「何人ですか」


ハルクが振り返る。


「何がだ」


「最終確認です」


「墓なら、増えてねえよ」


「出生は三。指の欠損二。骨折一。咳で寝込んだ者三十七」


「おまえは、こんなときまで数えるのか」


「数えます」


ヴァイは墓地を見た。


「死者、零」


口にすると、数字が現実になった。


ハルクの喉が動いた。


四百三十二人を抱え、二か月も長い冬を越し、一人も埋めなかった。


冬王が吹雪を消したわけではない。


食料が無限に湧いたわけでもない。


九歳の子供が、夏から草を干し、種を分け、人を数え、火を集め、病人を離し、来た者へ仕事を与え続けただけだ。


それで冬の死者が零になった。


奇跡と呼ばずに、何と呼べばよいのか。


「俺が村長になってから、初めてだ」


「何がですか」


「冬に一人も埋めなかった」


ヴァイは黙った。


勝った、とは思えなかった。


指を失った者がいる。


脚を折った者がいる。


家畜は予定より多く殺した。


種子庫は守ったが、食料は底に近い。


四百三十二人全員が元気なわけでもない。


それでも、生きている。


春の仕事を始められる。


昨年選んだ種を播ける。


畑を直せる。


家畜を殖やせる。


死ななかったという数字は、次の一年を作る権利だった。


「坊ちゃん」


ハルクが呼んだ。


ヴァイが振り向く。


村長は、少し困った顔をしていた。


「みんな、おまえが冬を止めたみたいに言ってる」


「止めていません」


「知ってる」


「ヴァナールも止めていません」


「それも知ってる」


「なら訂正してください」


「言って聞くと思うか」


遠くで子供たちが走っていた。


赤、黄、白の札を遊びに使っている。


赤へ入ったら鬼役。


黄は飯屋。


白は休む場所。


冬を越すための決まりが、もう子供の遊びになっていた。


ハルクが言う。


「『狼憑きの末子がいる村は、人が死なない』だとよ」


ヴァイは眉を寄せた。


「よくない噂です」


「冬王の仔よりは親しみがある」


「そういう問題ではありません」


「じゃあどうする」


ヴァイはしばらく考えた。


「配給計算をハルクに渡します」


「は?」


「ヴェルドも読めるようになりました。倉番にももう一人教えます。ウルナの観測は、今年から毎年同じ日に記録する。氷下漁は老人一人しか知らないので、若い者を三人つける。寝所の札も、俺以外が配置できるようにします」


「待て待て」


ハルクが両手を上げた。


「なんでそうなる」


「俺が冬を止めたと思われるからです」


「おまえがいなきゃ、ここまでやらなかった」


「でも、次の冬に俺がここにいるとは限りません」


ハルクが黙る。


ヴァイは九歳だった。


だから来年も子供のはずだった。


普通なら、どこにも行かない。


だが、この村の誰も、もうそうは思っていなかった。


この子供は、いつか黒牙砦の中だけでは収まらなくなる。


ハルクには、それがわかった。


恐ろしくもあった。


嬉しくもあった。


自分たちが生き延びた方法を、別の村へ持っていくなら。


それは、この冬に死ななかった四百三十二人の意味が増えることでもある。


「わかったよ」


ハルクは頭を掻いた。


「だが、全部一度に教えるな。おまえの話は長い」


「ヴェルドにも言われました」


「なら直せ」


「努力します」


◇ ◇ ◇


王暦七四六年、春。


春が進むにつれ、霜谷村へ人が来るようになった。


最初は黒狼族の隣村だった。


次に白兎族の薬師。


灰鼠族の工作師。


緑鹿族の猟師。


蒼狐族の商人まで来た。


彼らは墓地を見た。


種子庫を見た。


乾草棚を見た。


共同炊事の大鍋を見た。


色札を見た。


配給板を見た。


氷下漁の網を見た。


そして同じことを尋ねた。


「本当に、誰も死ななかったのか」


ハルクはそのたびに答えた。


「指を失った奴は二人いる。脚を折った奴も一人。咳で寝たのは三十七。家畜も減った。楽な冬じゃねえ」


そこで一度、相手を睨む。


「だが、人は一人も埋めなかった」


話は村を出た。


黒狼族の谷を越えた。


白兎の薬草道へ入り、灰鼠の坑道へ入り、緑鹿の山道へ入り、蒼狐の商隊へ乗った。


冬王の仔。


黒い狼を連れた末子。


牛を殺して牛を救った子供。


水を地面の下へ流した子供。


退学した長兄へ戦い方を教えた子供。


そして今度は、冬に人を死なせなかった子供。


噂は事実より速く走る。


ある者は、ヴァイが雪へ命じて村を避けさせたと言った。


ある者は、黒冠狼が夜ごと死神を食ったと言った。


ある者は、九歳の子供が四百人の食事を一粒まで数えていると言った。


最後のものだけは、だいたい本当だった。


黒牙砦へ戻ったヴァイを、父ヴァルフラムが執務室へ呼んだのは、融雪から十二日後だった。


机の上に、九本の牙を円に並べた木札が置かれていた。


ヴァイはそれを知っていた。


九牙会議の招集札。


黒狼、赤熊、灰鼠、白兎、蒼狐、銀梟、緑鹿、鉄山羊、氷鴉。


北方九部族の族長たちが集まる会議である。


「おまえも来い」


父が言った。


「俺がですか」


「霜谷村のことを聞きたい連中が多い」


「父上が説明すれば」


「俺はやっていない」


ヴァルフラムは簡単に答えた。


「それに、説明を聞きたいだけではないだろう」


「何を見たいのですか」


父は息子を見た。


五歳の冬、黒冠狼の前で群れを飢えさせないと誓った末子。


あのころは、いくら異様でも小さかった。


抱き上げれば腕の中に収まった。


今も九歳にすぎない。


だが、この二年で、兵の身体の使い方が変わった。


村の水の流れが変わった。


家畜の生き残る数が変わった。


冬に埋める人間の数まで変わった。


ヴァルフラムは、息子を見るたびに一つの恐れが大きくなるのを感じていた。


この子は、強い。


剣の話ではない。


冬王の話でもない。


人が「昨日まで仕方なかったこと」を、仕方なくないものへ変えてしまう。


一度それを知った者は、もう昔の暮らしへ戻れない。


王都が恐れるとすれば、いつかこの力だろう。


「おまえを見たいんだ」


父は言った。


ヴァイは少し考えた。


「九歳の子供を?」


「四百三十二人を死なせなかった九歳の子供をだ」


窓の外で、ヴァナールが雪解け水を踏んだ。


黒い足跡が、白い庭へ続いている。


ヴァイは九本の牙札を手に取った。


長かった冬が終わった。


北方の春は、まだ寒い。


それでも雪の下では、水が動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。