第6話 死なない村
王暦七四四年、夏末。
長兄ローヴェンが王都から鎖につながれて帰ってきたころ、ヴァイは七歳だった。
学院事件を木箱へ収めたあとも、時間は止まらなかった。
秋までの短いあいだ、ローヴェンは黒牙砦の訓練場へ立ち、兵へ冬脈式を教えた。
ヴァイが考えた気の流し方を、兄が大剣と狼騎兵の技へ変えていく。
その横でヴァイ自身も、毎日少しずつ幼い身体へ技を馴染ませた。
七歳の脚では、理屈どおりに動けても長くは続かない。
三度、四度と強く気を通せば腿が震えた。
それでも前日より一度多く正確にできれば、翌日はその一度を基準にした。
冬が来た。
その冬は、まだ北方人が「いつもの冬」と呼べる冬だった。
雪が砦を埋め、道が消え、春までに幾人かが墓地へ運ばれた。
ヴァイはその名前と理由を、できる限り書き残した。
凍死。肺の病。飢え。転倒。雪崩。
死を「冬だから」で一つにまとめれば、次の冬も同じ者が死ぬからだった。
◇ ◇ ◇
王暦七四五年、雪解け。
ヴァイは八歳になった。
黒牙砦の家族の食卓から、その春、二つの席が空いた。
シグヴァルとユルヴァが十五歳となり、王立貴族学院へ入ったためだ。
二人は王都にいる。
ローヴェンは退学処分のため北に残り、ベルヴァンとエルヴィアもまだ学院年齢ではなく黒牙砦にいた。
家族が同じ卓を囲むのが当たり前だったヴァイにとって、空いた二席は季節が進んだことを数字以上にはっきり教えた。
春から夏にかけて、霜谷村で始めたものが周囲へ広がった。
二年前、牛を分けるために使った赤、黄、白の札は、人と家畜の病だけでなく、井戸、道具、避難場所を分ける印へ変わった。
七歳の春に一度崩れた排水路は、灰鼠族のトーマ・グレイが地盤に合わせて作り直し、その後の大雨にも耐えた。
乾草は地面へ積まず、風を通す棚へ載せるようになった。
燻製は家ごとの小さな炉ではなく、煙を逃がしにくい共同小屋でまとめて作るようになった。
種は食べる穀物と同じ袋へ入れず、収穫した畑と成熟した日を刻んだ木札を付け、別の倉へ入れた。
家畜には、乳を取る牛、春に仔を産ませる雌、畑を引く牛、冬前に肉へ回す個体という印が付いた。
一つの村でうまくいけば、隣の村が真似をした。
隣の村で失敗すれば、失敗の理由が霜谷へ戻ってきた。
ヴァイが一人で教え歩かなくても、技術の方が先に歩くようになった。
短い夏。
黒牙砦の訓練場では、ローヴェンが兵へ冬脈式を教え続けていた。
ヴァイが七歳のころ、三度も強く気を通せば腿が震えた。
八歳になっても、気の総量で兄には遠く及ばない。
だが、流す場所を切り替える精度だけなら、教官になったローヴェンが黙って見直すほどになっていた。
足裏へ薄く。
踏み込む瞬間だけ腰へ。
木剣が触れる直前だけ肩と手首へ。
そして抜く。
必要のないところには残さない。
冬脈式は、もうヴァイだけの技ではなかった。
ローヴェンが大剣用に変えた。
木こりが斧用に変えた。
狩人が雪上歩行へ使った。
トーマは気を使えない者でも同じ作業をしやすいよう、道具の柄や足場の寸法を揃えた。
誰かが良くしたものを別の村へ持っていき、そこでまた変わり、戻ってくる。
前世では、新しい決まりを一つ変えるにも会議があり、書類があり、予算があり、責任者の印がいくつも必要だった。
この北には、それがない。
不便ではある。
だが、生きるために必要だとわかれば、翌朝には村じゅうが同じ形の乾草棚を作り始める。
冬王の仔が言ったから、一度は試す。
牛が死ななかったから、二度目は自分からやる。
畑が流れなかったから、三度目には隣村へ教える。
◇ ◇ ◇
王暦七四六年、冬。
ヴァイセル・ウラ・ノルヴァルは、九歳になっていた。
ローヴェンが帰還してから一年半あまり。
五歳の契約儀式から数えれば四度目の冬だった。
たった数年。
それでも、ヴァイが五歳のときに見た黒狼族の暮らしとは、もう同じではなかった。
そして、その変化が本当に人を救うのか試すように、北はこれまでより長い冬を寄越した。
最初に異変を持ってきたのは、白兎族の老婆だった。
婆様ウルナ。
背はヴァイより少し高い程度で、白い髪を三つ編みにし、古い革袋をいくつも腰へ下げている。
肩には、雪と見分けがつかないほど白い月兎が丸くなっていた。
彼女は黒牙砦へ来るなり、挨拶より先に机へ六本の枝を並べた。
「何ですか、これは」
ヴァイが尋ねる。
「今年と、昔の冬じゃ」
「枝に見えます」
「枝じゃよ」
ウルナは悪びれなかった。
一本目には、細い切り込みが十三本。
二本目には十一本。
三本目には二十本以上。
「初雪までの日、沢が朝まで凍った日、灰羽鳥が南へ消えた日、山鼠が巣穴へ木の実を運び始めた日。昔から気になった年だけ、こうして刻んでおる」
ヴァイは枝を取り上げた。
「毎年ではない?」
「毎年やれば、もっと役に立ったろうな。若いころはそこまで暇ではなかった」
「今年は?」
「全部、早い」
ウルナは机の上へ指を置いた。
「十日。ものによっては二十日」
ヴァイはセレネから借りていた紙へ数字を書いた。
初雪。
沢の凍結。
渡り鳥。
山鼠。
「占いですか」
横で聞いていた村の使者が、半ば笑いながら言った。
ウルナが鼻を鳴らした。
「未来など見えんよ」
彼女はヴァイを見た。
「今まで誰も数えなかったものを見るだけじゃ」
ヴァイの手が止まった。
その言い方が、気に入った。
前世で気象観測所の職員と話したときも、似たようなことを聞いた。
天気を当てるのではない。
風、雲、気圧、海、積雪。
見えない未来ではなく、今ここにある兆候を増やす。
「平年より、どれくらい長い冬を見ますか」
「わしなら一月余分に食うものを置く」
ヴァイは少し考えた。
「二月分、増やします」
使者が目を剥いた。
「二月ですか。そんなに残せば、今のうちに売れる干魚まで倉へ入れることになる」
「売って銀貨にして、冬に穀物を買い戻せますか」
「……南の商人が来れば」
「雪で来なければ?」
使者は黙った。
ウルナは皺だらけの目を細めた。
「婆の言うことを、そのまま信じるのか」
「いいえ」
ヴァイは枝を並べ直した。
「外れたときに何を失うかと、当たったときに何人死ぬかを比べます」
ウルナが笑った。
「おまえ、やはり気味が悪い子じゃな」
「よく言われます」
その日から、霜谷村は冬を二か月余分に生きる準備を始めた。
北方で、冬はただ寒い季節ではない。
毎年、人を取る。
霜谷村ほどのまとまった村でも、平年の冬に老人や乳飲み子、病人を中心に数人から十数人を埋めるのは珍しくなかった。
凶冬になれば、三百人に満たない村で二十人を超えることもある。
備蓄不足と病、雪崩、薪切れが重なれば、一冬で一割近くを失う。
さらに小さな集落では、春になっても煙が一本も上がらず、村そのものが消えた例さえ北にはあった。
だから「冬が二か月長い」という言葉は、暦の上で六十日が増えるという意味ではない。
食料を六十日多く食べる。
薪を六十日多く燃やす。
病人を六十日多く抱える。
家畜へ六十日多く草を食わせる。
そして、そのどれかが尽きるたび、人が死ぬ。
ウルナの警告どおりなら、今年は「何人死ぬか」を数える冬になるはずだった。
ヴァイだけが、その問いを別の形にした。
――どうすれば、一人も死なせずに済むか。
常住人口、二百八十八人。
ヴァイはまず、その数字を板へ書かせた。
次に倉を開けた。
大麦。
蕪。
乾燥豆。
干魚。
硬質チーズ。
獣脂。
塩。
乾草。
袋が何個あるかでは足りない。
袋の大きさが違う。
中身の乾き方も違う。
鼠に齧られた袋もある。
大麦一袋を一袋として数えれば、二年前の黒牙砦と同じ失敗をする。
「人日に直します」
村長ハルクが眉を寄せた。
「また新しい言葉か」
「一人が一日食べられる量を一、と数えます」
「大人と子供で違うだろう」
「だから最初は標準です。あとで仕事と年齢で変えます」
「面倒だな」
「冬の途中で足りないと気づくよりは」
ハルクは呻いた。
二年前なら、その「面倒だな」のあとに議論が一刻は続いた。
今は違った。
「わかった。誰を集める」
それだけだった。
ヴァイは一瞬、返事が遅れた。
自分の言葉が通ることに、慣れてはいけないと思った。
「倉番を二人。料理をしている人を三人。家畜の乾草はガルムに。俺は量り方を決めます」
「坊ちゃんが全部やらんのか」
「全部やったら、俺が熱を出した日に村が止まります」
ハルクが口元を歪めた。
「九歳が言う台詞じゃねえ」
「九歳だからです。熱くらい出します」
種子庫だけは、別にした。
早生大麦。
豆。
蕪。
春に播く分へ、赤い牙を描いた札を下げる。
赤は病畜の印だった。
今度は、「触るな」の意味だった。
「飢えたら、これも食うんだろう」
ガルムが言った。
「最後まで食べません」
「最後ってのは、いつだ」
「春に播けば秋まで食べられる可能性がある時期と、今食べて数日延びるだけの時期を比べて決めます」
「難しい言い方をするな」
ガルムは赤い牙印を見た。
「要するに、来年の飯か」
「はい」
「なら最初からそう言え」
横で聞いていた九歳の少年が、そこで吹き出した。
ヴェルド・ハウゼンだった。
ヴァイと同じ年に生まれ、同じ乳母の乳を飲んで育った少年である。
髪は灰がかった黒。
体つきはヴァイより一回り厚く、笑うと犬歯が目立った。
「ヴァイの話、長いんだよ」
「必要な説明です」
「ガルム爺には『来年の飯だから食うな』でいい」
ガルムが大きく頷く。
ヴァイは少し考えた。
「……では、それで」
「ほらな」
ヴェルドは得意そうに胸を張った。
その日から、彼は赤い牙札を村じゅうへ運ぶ役になった。
子供たちを五人ずつ並ばせる。
赤札は種子庫。
黄札は共同炊事。
白札は病人の寝所。
複雑な説明を聞いた子供が首を傾げると、ヴェルドが短く言い換えた。
「赤は勝手に開けるな。黄は飯。白は咳してる奴のとこ。間違えるな」
それで通じた。
ヴァイは、自分にない才能だと思った。
◇ ◇ ◇
王暦七四六年、冬。一か月目。
冬は、予想より十二日早く本格化した。
最初のひと月は、まだ余裕があった。
乾草棚の草は、前年より腐敗が少なかった。
共同燻製小屋の肉は、煙の回り方を変えたことで黴が減った。
蕪は凍らない深さの穴蔵へ分けてあり、一つが傷んでも全部は失わない。
◇ ◇ ◇
二か月目。
一か月が過ぎた。
雪は止まなかった。
二か月目に入ると、村の音が変わった。
夜、家の梁が鳴る。
乾いた木が寒さで縮み、ぱきん、と骨の折れるような音を立てる。
井戸の縁へ厚い氷が育ち、朝ごとに斧で割らなければ桶が下りない。
馬の鼻毛が息のたびに白く固まる。
狼さえ、長く外に立たせれば肉球を傷める寒さだった。
イスヴァルは日常ではもう片目を覆っていなかった。
けれど、雪面へ強い日が反射すると、傷めた方の目を細める。
燻製小屋で石灰を使った掃除をするときも、刺激臭を嫌って顔を背けた。
ローヴェンはそれを見つけるたび、何も言わずにイスヴァルを風上へ連れていった。
頬の傷は薄くなった。
王都で何があったかを忘れたわけではない。
ただ、黒牙砦ではもう「退学して戻った長子」ではなくなっていた。
冬脈式を習う兵が、彼を教官と呼ぶ。
若い兵ほど、ローヴェンの大剣を真似したがった。
兄が居場所を取り戻すまでに、一年半かかった。
ヴァイは、それを長いとは思わなかった。
人は畑より時間がかかる。
だから急がせない。
そのローヴェンが、霜谷村へ食料橇を護送してきた日のことだった。
北の道から、人が歩いてきた。
最初は七人。
次の日に十二人。
その三日後には、子供を背負った女たちを含めて二十六人。
周辺の小さな集落が、順番に冬へ負け始めていた。
屋根が落ちた。
薪が尽きた。
家畜が死んだ。
凍った沢から水を汲めなくなった。
村の門前で、ハルクがヴァイへ言った。
「これ以上は入れられん」
門の外には、三十一人がいた。
そのうち九人が子供だった。
老人が五人。
一人は橇の上で咳をしている。
霜谷村の中では、先に来た避難民まで含めて三百四十を超えていた。
「今の備蓄で、何日ですか」
ヴァイが倉番へ聞く。
「標準配給なら百二十八日。薪は、この寒さが続けば九十四日」
ハルクが顔をしかめる。
「だからだ。食い物より先に凍える」
門の外で、子供が母親の毛皮へ顔を埋めていた。
ヴァイは数を見た。
三十一人。
口が三十一増える。
違う。
手も増える。
知識も増える。
歩ける者は何人か。
斧を使える者は。
魚を捕れる者は。
針仕事は。
家畜を扱える者は。
「一人ずつ聞きます」
「ヴァイ」
ハルクの声が低くなる。
「情で決めるな」
「情だけなら、全員入れます」
ヴァイは門の外を見た。
「数字だけなら、全員追い返します」
「なら、どっちだ」
「使える数字を増やします」
避難民を一列に並べた。
歩けるか。
熱はあるか。
咳は。
斧を使えるか。
狩りは。
魚は。
料理は。
子供を見られるか。
革を縫えるか。
荷車を直せるか。
最初の男は木こりだった。
二人目は片脚が悪いが、網を編めた。
三人目の老婆は産婆だった。
四人目の女は山羊の乳を扱える。
五人目は何もできないと言った。
「子供は何人いますか」
「三人」
「他人の子も見られますか」
女は少し驚いた。
「……見られる」
「では、それが仕事です」
ハルクが横で息を吐いた。
「食う口を、仕事へ変えるつもりか」
「人は口だけではありません」
門は閉じなかった。
それから避難民は、さらに来た。
五十人を超えた。
八十人を超えた。
百人を超えた。
ヴァイは、そのたびに同じことをした。
病人は白札へ。
働ける者は仕事へ。
子供は年齢で無理をさせない。
老人でも手が動けば網を繕う。
妊婦には薪運びをさせない。
重い斧を振る者には粥を増やす。
軽作業の大人には少し減らす。
「同じ量を配れ!」
最初に怒鳴ったのは、霜谷村の男だった。
「俺たちはここで夏から働いた。後から来た奴と同じでも腹が立つのに、木を切る奴は俺より多いってのか」
共同炊事場の前だった。
木椀を持つ人々の視線が、一斉にヴァイへ集まる。
九歳。
まだ大人の胸にも届かない。
それでも、誰も「子供は黙れ」と言わなくなっていた。
それが逆に、男を苛立たせているように見えた。
「同じ量が公平ではありません」
ヴァイは言った。
「春に全員が立っていることが公平です」
「重い仕事をする人、子供、妊婦、乳を与えている母親、病人は必要量が違います」
「俺だって腹は減る!」
「はい」
「だったら同じだけ寄越せ!」
「同じだけ配れば、働く人から先に倒れます」
男の手が震えた。
寒さだけではなかった。
「おまえは腹いっぱい食ってるんだろう」
ざわめきが止まった。
ヴァイは自分の椀を見せた。
中身は薄い大麦粥だった。
量は軽作業の成人より少ない。
九歳の身体には、それで基準量だった。
「俺の分も記録されています」
「辺境伯の子だぞ!」
「腹は身分を知りません」
男は言葉を失った。
後ろで誰かが笑いかけたが、すぐ止めた。
ヴァイは板を持ち上げた。
「今日、四百七人。重労働八十三。軽作業百四十二。子供八十九。高齢者、病人、妊婦、授乳者を合わせて九十三。今の配分なら食料は百七日。全員へ同量に戻すと、重労働者が減るので薪の確保が落ち、食料より先に燃料が尽きます」
誰も板の数字をすべて理解してはいなかった。
だが、一つだけ理解した。
この子供は、ここにいる四百人あまりを「大勢」として見ていない。
役割と日数に分けて見ている。
そして、その中に自分自身も入れている。
男は木椀を握ったまま、俯いた。
「……春まで、本当に持つのか」
「毎週、計算をやり直します」
「持つかって聞いてる」
ヴァイは答えを急がなかった。
「今のままなら、危ないです」
ざわめきが戻った。
「だから、明日までに薪を一割減らし、食べる前に捨てている量を半分にします」
「飯を減らすのか」
「焦がす量を減らします」
その夜から、共同炊事はさらに大きくなった。
家ごとに鍋を火へかけるのをやめる。
大麦と豆を先に浸す。
蕪は皮を厚く落とさない。
干魚の戻し汁を捨てず、粥へ入れる。
硬質チーズは一人ずつ切り分けず、削って鍋へ溶かす。
獣脂も同じだった。
一軒ずつなら鍋底に残っていた分が、四百人分では食事になる。
ヴァイは食料を増やせなかった。
だが、食べる前に消えていた食料を減らした。
それでも寒さは深くなった。
◇ ◇ ◇
三か月目。
薪の減りが、食料より早くなった。
ヴァイは全戸を暖めるのをやめた。
反対は、食料より大きかった。
「家を凍らせろってのか」
「寝る場所を集めます」
「他人と寝ろと?」
「寝具を共有しろとは言いません。暖める空間を共有します」
子供、老人、病人を大きな家へ集める。
健康な成人は家族ごとに一部屋へ寄る。
使わない部屋は戸を閉める。
入口には二重の風除けを作る。
外壁へ雪を寄せ、風が直接当たらないようにする。
最初の七日で、薪の使用量は目に見えて減った。
八日目に、別の問題が出た。
咳だった。
共同寝所で寝る者が、次々に喉を痛めた。
「暖かくしたのに、なぜ増える」
ハルクが困惑する。
ヴァイは寝所へ入り、すぐに顔をしかめた。
暖かい。
湿っている。
臭い。
人の息、濡れた毛皮、乾ききらない靴。
空気が動いていなかった。
「塞ぎすぎました」
自分の失敗だった。
ヴァイはその場で認めた。
「天井近くへ小さい換気口を開けます。昼は寝具を干す。咳のある人は白札側へ。水を飲む器も分ける」
「せっかくの熱が逃げるぞ」
「少し逃がします」
「もったいない」
「人が寝込む方が高くつきます」
二年前の牛疫で作った冬牙規則が、今度は人間の寝所へ使われた。
病人だけを遠ざけるためではない。
病人が増えないように、空気と器と寝具の流れを分ける。
それでも、その冬に咳で寝込んだ者は三十七人に達した。
死者は、まだいなかった。
だが、冬は終わらなかった。
◇ ◇ ◇
四か月目。
平年なら、そろそろ「あとひと月ほどで融雪」と数え始める頃だった。
さらにひと月が過ぎた。
霜谷村の人口は、四百二十九人になっていた。
避難民、百四十一人。
最初の二百八十八人から、ほぼ一・五倍。
その数字を板へ書いた夜、倉番が言った。
「食料、七十二日」
「薪は」
「五十九日」
「平年の融雪まで」
「四十五日ほどだ」
ハルクが安堵しかけた。
ウルナが首を振った。
「平年ならな」
沈黙した。
外では吹雪が戸板を叩いている。
ヴァナールが、突然立ち上がった。
黒い巨狼は炉の熱を嫌うように戸口へ向かい、そのまま外へ出た。
ヴァイも外套を掴んだ。
「どこへ行く」
ミウレイアが呼び止める。
「ヴァナールが何か見ています」
「一人では行かせない」
ローヴェンが立った。
「兄上はここにいてください。外の見回りが戻ります」
「九歳が十九の兄へ命令するな」
「命令ではありません」
「なら断る」
結局、兄も来た。
三人と二頭で村外れの高みへ上がった。
イスヴァルは雪面の照り返しを避けるように時々顔を伏せる。
ヴァナールは北を見ていた。
風は北からではない。
雲も、北へ流れている。
それなのに黒冠狼は北を見た。
金の瞳が細くなる。
ヴァイの胸の奥へ、言葉ではない感覚が触れた。
冷たい。
遠い。
大きい。
そして、意味だけが落ちてきた。
――北から、冬が来ている。
ヴァイは空を見た。
「天気の話ですか」
ヴァナールは答えなかった。
「何だって?」
ローヴェンが尋ねる。
「北から冬が来ている、と」
兄は鼻で息を吐いた。
「北はいつでも冬だ」
「そういう意味ではない気がします」
「わかるのか」
「わかりません」
ヴァイは即答した。
知らないものを、知っているふりはできない。
極北で何が起きているか。
なぜ今年だけ寒いのか。
答えはない。
なら、わからないまま生き残るしかない。
村へ戻ると、種子庫の前で怒鳴り声がしていた。
十人以上が集まっている。
赤い牙印の戸を、男が叩いていた。
「開けろ!」
「駄目だ!」
ガルムが戸の前へ立っている。
「中に麦があるんだろう!」
「種だ!」
「麦は麦だ!」
ヴァイは人垣を割った。
男は避難民ではなかった。
霜谷村の住民だった。
妻が共同寝所で熱を出し、幼い娘が配給の粥を残さず食べても泣いている家の男だ。
怒って当然だった。
「どいてくれ、坊ちゃん」
「開けません」
「子供が腹減ってんだ」
「知っています」
「知ってて、ここに麦を隠すのか!」
「隠していません。記録にもあります」
「記録が食えるか!」
男が一歩出た。
周囲が後ずさった。
ローヴェンが動こうとした。
ヴァイは手だけで止めた。
男の拳が上がる。
ヴァイは重心を落とした。
九歳でも、見えていないわけではない。
足裏へ気を流せば、避けられる。
必要なら手首を取れる。
その前に、小さな影が飛び込んだ。
ヴェルドだった。
「やめろ!」
男とヴァイの間に両腕を広げて立つ。
声は裏返っていた。
膝も震えている。
男は大人だった。
本気で殴られれば、九歳のヴェルドなど一発で倒れる。
それでも退かなかった。
「どけ、ヴェルド!」
「どかねえ!」
「おまえの妹だって腹減ってるだろうが!」
「減ってるよ!」
ヴェルドが怒鳴り返した。
「だからだ!」
男が怯んだ。
ヴェルドは振り返らずに言った。
「ヴァイがいなくなったら、誰が残りの日を数えるんだよ」
その言葉で、人垣の空気が変わった。
ヴァイは何も言えなかった。
自分が守られたことより、その理由が怖かった。
失ってはならない者。
そう思われ始めている。
それは信頼だ。
同時に、危険だった。
一人へ寄せすぎた仕組みは、その一人が倒れた瞬間に壊れる。
ヴァイはヴェルドの肩へ手を置いた。
「ありがとう。もう大丈夫です」
「本当か」
「兄上もいます」
後ろでローヴェンが腕を組んでいた。
男はようやく拳を下ろした。
ヴァイは種子庫の戸へ手を置いた。
「開けません」
「……なぜだ」
「これを全部食べれば、今の配給で二十四日ほど延ばせます」
人々が息を呑む。
二十四日。
短くない。
「なら食えばいい!」
「その代わり、春に播く大麦と豆と蕪がなくなります」
「春まで生きなきゃ意味がない!」
「春だけ生きても意味がありません」
ヴァイは男を見る。
「種を食べるのは、命を救うことではない。死ぬ日を後ろへずらすだけになる可能性があります」
「じゃあ、娘に腹を空かせろってのか」
「いいえ」
ヴァイは人垣を見回した。
「別の食べ物を増やします」
「どこにある!」
答えたのは、避難民の老人だった。
「氷の下だ」
皆がそちらを向いた。
老人は片脚を引きずっていた。
村へ来たとき、網を編めると答えた男だった。
「湖に魚がいる。冬でもな」
「穴を開けて釣るのか」
ハルクが言う。
「一本ずつじゃ足りん。穴を二つ、三つと開けて、下へ網を通す」
「氷の下へどうやって網を通す」
老人は枝を一本拾い、雪へ図を描いた。
細長い竿。
縄。
穴と穴。
ヴァイはしゃがみ込んだ。
知らない方法だった。
前世で氷上の釣りは見たことがある。
だが、この湖、この網、この氷の厚さで最適なやり方を知っているのは老人だ。
「場所は選べますか」
「流れのあるところは危ない。入り江も魚がいない場所がある」
「何か所試せば、当たりを見つけられますか」
老人はヴァイを見た。
「坊ちゃんは、魚まで数にするのか」
「取れるなら」
老人の口元が曲がった。
「三か所やらせろ」
「六か所やりましょう」
「欲張るな」
「外れを三つ作るためです」
翌朝、湖へ十二人が出た。
ヴァイは方法を教えなかった。
老人に任せた。
代わりに、安全を作った。
氷の厚さを刻み棒で測る。
危険な場所へ赤杭を立てる。
全員へ腰縄を付ける。
二人一組にする。
作業時間を短く区切り、手の感覚が鈍る前に暖房小屋へ戻す。
穴には蓋を置き、夜間に誰かが落ちないよう高い棒を立てる。
ヴェルドは子供たちを連れ、棒へ布を結んで回った。
「赤いのは近づくな! 白いのは網を運べ! 走るな、落ちるぞ!」
声だけは大人より通った。
一か所目は、ほとんど取れなかった。
二か所目も少ない。
三か所目で網が裂けた。
村人の顔が暗くなる。
老人は平然としていた。
「だから六つやるんだろ」
四か所目。
網を引いた瞬間、氷穴の下で銀色が暴れた。
一尾。
二尾。
十尾。
二十尾。
子供たちが歓声を上げた。
ヴァイは笑わなかった。
「重さを量ってください。場所と時刻も」
「そこは喜べよ!」
ヴェルドが怒った。
老人が腹を抱えて笑った。
ヴァイも、少しだけ笑った。
魚は、その日の共同鍋へ入った。
久しぶりの新しい肉だった。
次の日から、湖の当たり場所を変えながら網を入れた。
取れ過ぎる場所は続けて使わない。
網の破れ方を記録する。
凍傷を出さない時間で交代する。
避難民の老人が教えた技が、霜谷村の冬の食料になった。
誰か一人の発明ではなかった。
ヴァイは、それでよいと思った。
冬はまだ続いた。
家畜も減らした。
ガルムが台帳を持って、一頭ずつ見て回った。
春に仔を産ませる雌。
乳を残す雌。
荷役に必要な牛。
それ以外で、乾草を食わせて春まで残す意味の薄い個体。
殺す数を増やすたび、ヴァイは三年前の黒角を思い出した。
あのときは病気から群れを守るために殺した。
今度は飢えから人と繁殖群を守るためだった。
理由が違っても、刃を入れる手の重さは変わらない。
「坊ちゃん」
ガルムが言った。
「おまえ、前より顔に出るようになったな」
「悪いことですか」
「いや」
老人は牛の鼻面を撫でた。
「前は、出なさすぎた」
ヴァイは返事をしなかった。
ミウレイアにも、同じようなことを言われたことがある。
合理的であることと、平気であることは違う。
その区別を、九歳の身体になってから覚え直していた。
◇ ◇ ◇
五か月目。
平年の冬なら、もう終わりが見えている。
だが、その年の北にはまだ終わりが見えなかった。
霜谷村では、誰もヴァイを子供扱いしなくなっていた。
ヴェルドは、それが嫌だった。
ヴァイが怖いからではない。
いや、少しは怖かった。
同じ乳母の乳を飲み、同じ泥で転び、五歳のころには雪玉をぶつけ合った相手だ。
昔のヴァイは、転べば泣きはしないまでも顔をしかめた。
高い棚の干し肉へ手が届かなければ、普通に椅子を持ってきた。
それが今は、四百三十二人の食べる量を板一枚で動かしている。
大人が怒鳴っても、声を荒らげない。
冬王が隣に立っても、必要なら「待て」と言う。
兄のローヴェンが大剣を振るうときでさえ、どこへ気が流れているかを見て直す。
九歳のヴェルドには、その頭の中がわからなかった。
わからないから、時々ひどく遠く見える。
けれど、種子庫の前で男の拳が上がったとき、身体が勝手に動いた。
怖かった。
本当は逃げたかった。
ヴァナールがいる。
ローヴェンもいる。
ヴェルドが割って入る必要などなかった。
それでも、「ヴァイがいなくなったら」と思った瞬間、足が前へ出た。
その夜、ヴェルドは共同寝所の入口で札を数えていた。
赤、黄、白。
子供たちは彼の指示ならすぐ動く。
大人も最近は「ヴェルドに聞け」と言うことが増えた。
ヴァイの長い説明を、自分が短くする。
最初は面白かっただけだ。
今は違う。
一つ間違えれば、誰かが薬を飲めない。
一つ間違えれば、咳をする者と乳飲み子が同じ場所で寝る。
札一枚が、人の命へつながっている。
ヴェルドは赤札を持ったまま、ヴァイを探した。
倉の前にいた。
小さな椅子へ座り、板を膝に置いたまま眠っている。
ヴァナールが横に伏せ、風除けになっていた。
ヴェルドは立ち止まった。
眠っていれば、ただの九歳だった。
目の下に隈がある。
指には墨がついている。
靴の先には穴が開きかけていた。
「こいつ、自分が倒れたら村が止まるって言ってたくせに」
小声で悪態をついた。
肩を揺すろうとすると、ヴァナールが片目を開けた。
金色だった。
ヴェルドの手が止まる。
「……起こすだけだよ」
黒冠狼は目を閉じた。
許されたらしい。
「ヴァイ」
揺すると、灰銀の目がすぐ開いた。
「何かありましたか」
「寝ろ」
「今、寝ていました」
「椅子で寝るな」
「計算が途中で」
「だから俺に教えろよ」
ヴァイが瞬いた。
「何を?」
「その計算」
「難しいですよ」
「おまえの話を短くする方が難しい」
ヴァイは少し黙ったあと、板を半分ずらした。
「では、まず人数から」
「最初から全部言うな」
「まだ人数だけです」
その夜から、ヴェルドは配給板の読み方を覚え始めた。
九歳には難しかった。
何度も間違えた。
それでもヴァイは、答えを代わりに書かなかった。
「違います。もう一度」
「どこが!」
「今日は薪割りが十一人減っています」
「あ、咳で白札に行った奴らか」
「そうです。その分、重労働の配給も変わります」
「面倒くせえ!」
「だから教えています」
ヴェルドは腹が立った。
同時に、少し嬉しかった。
遠くに行きかけた友達が、板の半分をこちらへ渡してきた気がした。
◇ ◇ ◇
平年の融雪期を越えて、さらに二十日が過ぎた。
空の色が、ほんの少し変わった。
まだ寒い。
雪も深い。
だが昼が伸びた。
屋根から、一滴だけ水が落ちた。
その一滴を見た女が、泣いた。
春はすぐには来なかった。
そこからまた吹雪が二度来た。
薪の橇が一台横転し、男が脚を折った。
凍傷で二人が指を失った。
咳で寝込んだ者は最終的に三十七人。
三人の赤子が生まれた。
一人目の産声が共同寝所へ響いた夜、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが鍋を叩いて叱られた。
それでも、死者は出なかった。
最後の融雪水が霜谷式排水の溝へ流れ始めた朝、ハルクは墓地へ行った。
その冬は、平年よりほぼ二か月長かった。
冬の終わりには、いつも新しい土の盛り上がりがある。
老人。
乳飲み子。
凍えた旅人。
肺を病んだ者。
村長になってから、ハルクは毎年それを数えてきた。
少ない年でも数人。
寒さの厳しい年には二十人を超えた。
一割近くを冬に持っていかれた村の話も、春になって誰一人帰ってこなかった山間の小集落の話も、北では昔話ではなかった。
今年は違った。
冬の途中に生まれた三人を含む常住二百九十一人に、避難民百四十一人。
四百三十二人。
しかも、例年より二か月近く長い冬だった。
普通なら、墓地が増えないはずがない。
だが、今年はなかった。
墓地の雪は、秋から積もった形のままだった。
ハルクはしばらく立ち尽くした。
後ろからヴァイが来た。
「何人ですか」
ハルクが振り返る。
「何がだ」
「最終確認です」
「墓なら、増えてねえよ」
「出生は三。指の欠損二。骨折一。咳で寝込んだ者三十七」
「おまえは、こんなときまで数えるのか」
「数えます」
ヴァイは墓地を見た。
「死者、零」
口にすると、数字が現実になった。
ハルクの喉が動いた。
四百三十二人を抱え、二か月も長い冬を越し、一人も埋めなかった。
冬王が吹雪を消したわけではない。
食料が無限に湧いたわけでもない。
九歳の子供が、夏から草を干し、種を分け、人を数え、火を集め、病人を離し、来た者へ仕事を与え続けただけだ。
それで冬の死者が零になった。
奇跡と呼ばずに、何と呼べばよいのか。
「俺が村長になってから、初めてだ」
「何がですか」
「冬に一人も埋めなかった」
ヴァイは黙った。
勝った、とは思えなかった。
指を失った者がいる。
脚を折った者がいる。
家畜は予定より多く殺した。
種子庫は守ったが、食料は底に近い。
四百三十二人全員が元気なわけでもない。
それでも、生きている。
春の仕事を始められる。
昨年選んだ種を播ける。
畑を直せる。
家畜を殖やせる。
死ななかったという数字は、次の一年を作る権利だった。
「坊ちゃん」
ハルクが呼んだ。
ヴァイが振り向く。
村長は、少し困った顔をしていた。
「みんな、おまえが冬を止めたみたいに言ってる」
「止めていません」
「知ってる」
「ヴァナールも止めていません」
「それも知ってる」
「なら訂正してください」
「言って聞くと思うか」
遠くで子供たちが走っていた。
赤、黄、白の札を遊びに使っている。
赤へ入ったら鬼役。
黄は飯屋。
白は休む場所。
冬を越すための決まりが、もう子供の遊びになっていた。
ハルクが言う。
「『狼憑きの末子がいる村は、人が死なない』だとよ」
ヴァイは眉を寄せた。
「よくない噂です」
「冬王の仔よりは親しみがある」
「そういう問題ではありません」
「じゃあどうする」
ヴァイはしばらく考えた。
「配給計算をハルクに渡します」
「は?」
「ヴェルドも読めるようになりました。倉番にももう一人教えます。ウルナの観測は、今年から毎年同じ日に記録する。氷下漁は老人一人しか知らないので、若い者を三人つける。寝所の札も、俺以外が配置できるようにします」
「待て待て」
ハルクが両手を上げた。
「なんでそうなる」
「俺が冬を止めたと思われるからです」
「おまえがいなきゃ、ここまでやらなかった」
「でも、次の冬に俺がここにいるとは限りません」
ハルクが黙る。
ヴァイは九歳だった。
だから来年も子供のはずだった。
普通なら、どこにも行かない。
だが、この村の誰も、もうそうは思っていなかった。
この子供は、いつか黒牙砦の中だけでは収まらなくなる。
ハルクには、それがわかった。
恐ろしくもあった。
嬉しくもあった。
自分たちが生き延びた方法を、別の村へ持っていくなら。
それは、この冬に死ななかった四百三十二人の意味が増えることでもある。
「わかったよ」
ハルクは頭を掻いた。
「だが、全部一度に教えるな。おまえの話は長い」
「ヴェルドにも言われました」
「なら直せ」
「努力します」
◇ ◇ ◇
王暦七四六年、春。
春が進むにつれ、霜谷村へ人が来るようになった。
最初は黒狼族の隣村だった。
次に白兎族の薬師。
灰鼠族の工作師。
緑鹿族の猟師。
蒼狐族の商人まで来た。
彼らは墓地を見た。
種子庫を見た。
乾草棚を見た。
共同炊事の大鍋を見た。
色札を見た。
配給板を見た。
氷下漁の網を見た。
そして同じことを尋ねた。
「本当に、誰も死ななかったのか」
ハルクはそのたびに答えた。
「指を失った奴は二人いる。脚を折った奴も一人。咳で寝たのは三十七。家畜も減った。楽な冬じゃねえ」
そこで一度、相手を睨む。
「だが、人は一人も埋めなかった」
話は村を出た。
黒狼族の谷を越えた。
白兎の薬草道へ入り、灰鼠の坑道へ入り、緑鹿の山道へ入り、蒼狐の商隊へ乗った。
冬王の仔。
黒い狼を連れた末子。
牛を殺して牛を救った子供。
水を地面の下へ流した子供。
退学した長兄へ戦い方を教えた子供。
そして今度は、冬に人を死なせなかった子供。
噂は事実より速く走る。
ある者は、ヴァイが雪へ命じて村を避けさせたと言った。
ある者は、黒冠狼が夜ごと死神を食ったと言った。
ある者は、九歳の子供が四百人の食事を一粒まで数えていると言った。
最後のものだけは、だいたい本当だった。
黒牙砦へ戻ったヴァイを、父ヴァルフラムが執務室へ呼んだのは、融雪から十二日後だった。
机の上に、九本の牙を円に並べた木札が置かれていた。
ヴァイはそれを知っていた。
九牙会議の招集札。
黒狼、赤熊、灰鼠、白兎、蒼狐、銀梟、緑鹿、鉄山羊、氷鴉。
北方九部族の族長たちが集まる会議である。
「おまえも来い」
父が言った。
「俺がですか」
「霜谷村のことを聞きたい連中が多い」
「父上が説明すれば」
「俺はやっていない」
ヴァルフラムは簡単に答えた。
「それに、説明を聞きたいだけではないだろう」
「何を見たいのですか」
父は息子を見た。
五歳の冬、黒冠狼の前で群れを飢えさせないと誓った末子。
あのころは、いくら異様でも小さかった。
抱き上げれば腕の中に収まった。
今も九歳にすぎない。
だが、この二年で、兵の身体の使い方が変わった。
村の水の流れが変わった。
家畜の生き残る数が変わった。
冬に埋める人間の数まで変わった。
ヴァルフラムは、息子を見るたびに一つの恐れが大きくなるのを感じていた。
この子は、強い。
剣の話ではない。
冬王の話でもない。
人が「昨日まで仕方なかったこと」を、仕方なくないものへ変えてしまう。
一度それを知った者は、もう昔の暮らしへ戻れない。
王都が恐れるとすれば、いつかこの力だろう。
「おまえを見たいんだ」
父は言った。
ヴァイは少し考えた。
「九歳の子供を?」
「四百三十二人を死なせなかった九歳の子供をだ」
窓の外で、ヴァナールが雪解け水を踏んだ。
黒い足跡が、白い庭へ続いている。
ヴァイは九本の牙札を手に取った。
長かった冬が終わった。
北方の春は、まだ寒い。
それでも雪の下では、水が動き始めていた。




