第8話 蒼狐の商姫
王暦七四六年、短い夏。
九牙会議から、ひと月あまりが過ぎた。
霜谷村では雪がようやく畑の北端から消え、黒い土の上に大麦の若芽が細く並んでいた。
高い山の尾根にはまだ白いものが残っている。
北方では、それでも夏だった。
ヴァイは畑の端で、去年と今年の畝を見比べていた。
去年より排水溝は浅い。
その代わり枝溝が増え、泥溜めは大きくなっている。
一度失敗した水路を、そのまま大きくしなかった結果だ。
トーマがしゃがみ込み、土を指で崩した。
「こっちは乾きすぎてない」
「去年より水を抜く量を減らしたからです」
「言い方が違う」
「何がですか」
「去年、おまえが抜きすぎたからだ」
「はい」
「そこは素直なんだな」
「失敗した場所なので」
トーマは鼻を鳴らした。
十三歳の灰鼠族の少年は、もうヴァイへ遠慮して訂正することがなくなっていた。
それがありがたかった。
畑の向こうから、子供が一人走ってきた。
「坊ちゃん! 蒼狐の馬車!」
ヴァイは立ち上がった。
「何台ですか」
「三台!」
「商隊ですか」
「違う! あの、会議で坊ちゃんに喧嘩売った子がいる!」
トーマが吹き出した。
「言われてるぞ」
「喧嘩ではありません。監査です」
「九歳同士の監査って何だよ」
「俺も知りません」
村の入口へ向かうと、ヴァナールが先に歩き出した。
そのさらに後ろを、灰色の野生狼たちが一定の距離を空けてついてくる。
村人はもう驚かなくなっていた。
最初は悲鳴を上げた者もいたが、狼たちは家畜へ近づかず、人にも牙を見せない。
ヴァナールが許さないのだろう。
ヴァイ自身も、まだ彼らへ命令したことはなかった。
命令できるとも思っていない。
ただ、必要なときには視線が重なる。
それだけだった。
村門の前に、蒼狐族の馬車が三台止まっていた。
先頭から降りた少女は、九牙会議のときと同じように小さな革帳簿を抱えていた。
ノエル・フェンリス。
ヴァイと同じ九歳。
その足元に、一頭の狐型魔法生物が静かに降りる。
氷玻璃狐ルーチェ。
契約獣だと、セレネから聞いていた。
ノエルはヴァナールを一度だけ見た。
次に野生狼を見た。
最後にヴァイを見た。
「増えてる」
「何がですか」
「狼」
「俺のではありません」
「あなたの後ろを歩いているのに?」
「ヴァナールのです」
黒冠狼が鼻を鳴らした。
ノエルは少し考えたあと、帳簿へ何かを書いた。
「何を書いたんですか」
「黒狼族の末子は、所有していないものまでついてくる」
「消してください」
「事実でしょう」
「誤解を招きます」
「商売では、誤解を招く事実が一番高く売れるの」
「売らないでください」
「値段次第ね」
トーマが後ろで、また笑った。
ノエルは馬車から大人を二人降ろした。
蒼狐族の商人だった。
だが紹介はしなかった。
彼女が主だった。
少なくとも、この調査では。
「案内してくれる?」
「どこから見ますか。墓地、倉、共同寝所、家畜小屋、種子庫、畑、配給板の保管所があります」
「あなたが最初に見せたいところ以外」
ヴァイは少しだけ目を細めた。
「では、どこへ」
「墓地」
即答だった。
◇ ◇ ◇
墓地の土は、まだ一部が湿っていた。
冬のあいだ凍りついていた地面が、深いところからようやく解け始めている。
ノエルは墓標を一本ずつ見た。
新しい土がないか。
冬の日付が刻まれた木札がないか。
古い墓を掘り返して埋め直した跡がないか。
九歳の少女が見る場所ではない、と村人の何人かは顔をしかめた。
ノエルは気にしなかった。
ハルクが腕を組んで待っている。
「気が済んだか、お嬢ちゃん」
「まだ」
「墓まで疑うか」
「死者零を疑いに来たので」
「感じ悪いな」
「そう言われる仕事です」
「九歳で何の仕事してんだ」
「帳簿を見る仕事」
「坊ちゃんといい、おまえといい」
ハルクは天を仰いだ。
「子供ってもっと遊ぶもんじゃねえのか」
「遊んでいます」
ノエルが言った。
「数字で」
ハルクはヴァイを見た。
「友達か?」
「今日が二回目です」
「似た者同士だろ」
「否定します」
「私も」
二人の声が重なった。
ハルクが深くため息をついた。
墓地の次は、共同寝所だった。
ノエルは冬に使った札を全部出させた。
赤札。
黄札。
白札。
誰がどの寝所にいたか。
何日動けなかったか。
病人を移した日はいつか。
出生した三人が、どの日から配給人数へ入ったか。
ノエルは順番を変えて同じ質問を何度もした。
ヴァイには聞かない。
ハルクへ聞く。
ミウレイアに教わった村の女たちへ聞く。
避難民だった家族へ聞く。
老人へ聞く。
子供へまで聞いた。
「冬に何人いた?」
八歳くらいの少年が指を折った。
「いっぱい」
「そのいっぱいは?」
「大鍋が四つ」
「人数じゃない」
「でも、鍋四つだった」
ノエルは黙った。
横でヴァイが言う。
「共同炊事の鍋数と配給人数を合わせるつもりですか」
「黙っていて」
「はい」
「あなたの答えは最後」
「わかりました」
少年は続けた。
「最初は鍋三つだった。でも人が来て四つになった。赤ん坊が生まれた日は、母ちゃんが薄い粥を別に作った」
ノエルの筆が止まる。
「誰の赤ん坊?」
少年が家を指した。
「三人とも見たい」
「赤ん坊を?」
「生きているか確かめる」
母親たちの顔が険しくなった。
ヴァイが口を挟みそうになったが、やめた。
ここで自分が守れば、監査にならない。
三人の赤子は全員、生きていた。
一人は母親の腕の中で眠り、一人は泣き、一人は布を蹴っていた。
ノエルは名前も聞かなかった。
生年月日と配給開始日だけを確認した。
冷たい。
村人にはそう見えただろう。
だがヴァイには、むしろ誠実に見えた。
彼女は「死者零」という美しい話を信じるためではなく、壊すために来た。
壊れなかったときだけ、数字を認める。
その方が強い。
昼までに、ノエルの帳簿は半分近く埋まった。
開始時常住、二百八十八。
避難民、百四十一。
出生、三。
最終、四百三十二。
死亡、零。
凍傷による指欠損、二。
骨折、一。
咳で寝込んだ者、三十七。
家畜の追加屠殺あり。
種子庫は維持。
墓地への新規埋葬なし。
ノエルは数字を三度足した。
「合う」
ハルクが胸を張った。
「だから言っただろ」
「人数はね」
「まだ疑うのか」
「今度は、もっと厄介な方」
ノエルは帳簿を閉じた。
「この村、冬を越したせいで貧しくなってない?」
ハルクの顔が止まった。
ヴァイは、少し笑った。
九牙会議で彼女が約束した質問だった。
◇ ◇ ◇
ノエルは、死者零を奇跡とは思わなかった。
少なくとも、そう思わないようにしていた。
蒼狐族の商人は、綺麗な話を先に疑う。
「今年は豊作です」
そう言う農夫ほど借金があることがある。
「絶対に儲かります」
そう言う商人ほど、自分の荷だけ先に売って逃げることがある。
「皆が喜びます」
そう言う族長ほど、誰が代金を払うのか言わない。
だからノエルは霜谷村へ来た。
冬王の仔が起こした奇跡を見に来たのではない。
数字の化粧を剥がしに来た。
ところが、化粧がなかった。
死者は本当にいない。
出生も隠していない。
重症者も隠していない。
追加で殺した家畜も帳簿に残っている。
使いすぎた薪も、傷んだ干魚も、病人が増えた週も消していない。
それが、ノエルには気味が悪かった。
普通は、自分の成功を証明したい者ほど失敗を小さく書く。
この少年の記録は逆だった。
失敗した場所だけ字が細かい。
どこで予定より食料が減ったか。
誰の判断が遅れたか。
どの寝所で咳が増えたか。
何を次の冬までに直すか。
成功を自慢する帳簿ではない。
次に同じ失敗をしないための帳簿だった。
九歳の子供が作るものではない。
ノエルは共同倉の床へ座り、木板を並べた。
向かいにヴァイが座る。
トーマとハルクもいる。
蒼狐族の大人二人は後ろに立った。
誰もノエルへ口を挟まない。
彼女が家の代表として来たわけではない。
それでも数字の話だけは、彼女に任せている。
それだけの信用があるのだ。
「じゃあ、費用を出しましょう」
ノエルは言った。
「銀貨では出せないと言っていましたね」
「今の北方の交換率では、比較が歪むからです」
「歪んでいても、払うときはその値段よ」
「正しい値段ではありません」
「正しくない値段でしか買えないなら、それが今の値段」
ヴァイが黙った。
ノエルは内心で少し笑った。
言い返せないのではない。
言葉を選んでいる。
「続けてください」
「素直ね」
「市場へ文句を言っても、塩は安くなりません」
今度はノエルが少しだけ目を見開いた。
「わかってるじゃない」
「だから、二つ必要です」
「二つ?」
「村の中で何を使ったかを見る数字と、外から買うといくらになるかを見る数字」
ノエルは筆を止めた。
「……それ、誰に習ったの?」
「誰にも」
「嘘」
「では、遠い土地で似たものを見た気がします」
またその言い方。
九牙会議でも聞いた。
ノエルは追及したかった。
だが、今は帳簿の方が面白かった。
板を二枚に分けた。
一枚には、冬に実際に減ったものを書く。
干魚。
大麦。
豆。
蕪。
薪。
乾草。
家畜。
薬草。
布。
油。
人の労働日数。
もう一枚には、それを南方商人との交換で補うなら何が必要かを書く。
毛皮。
鉄。
氷魔晶石。
銀貨。
来秋の穀物。
ハルクが眉を寄せた。
「働いた日まで金にするのか」
「しないと、無料で人が動いたことになる」
ノエルが答えた。
「村の中で助け合っただけだ」
「その人が薪を割っている間、自分の畑は耕せない」
ハルクが黙った。
ヴァイが言う。
「時間も資源です」
「おまえまで」
「でも、銀貨へ直す必要はないと思います」
「じゃあ何で数える」
「人日で残します。一人が一日働いた量」
ノエルがすぐに食いついた。
「子供と大人で同じ一日?」
「同じにはできません」
「病人は?」
「作業別に分ける必要があります」
「男と女は?」
「仕事によります」
「じゃあ、その表を作るだけで冬が終わるわね」
「だから最初から細かくしません」
「何段階?」
「まだ決めません」
ノエルはにやりとした。
「賢い」
「決めていないだけです」
「決めていないと言えるのが賢いの」
そこから二人は、昼食を忘れた。
乾草棚を作るのに何人かかったか。
共同燻製小屋の薪は、各家で別々に燻すより増えたのか減ったのか。
大鍋で炊くと燃料はどう変わったか。
病人を一か所へ集めたことで、看病する人数は減ったか。
井戸を分けたことで運搬距離は増えたか。
氷下漁で得た魚は、網の修理と穴を維持する労働に見合ったか。
追加屠殺した家畜は損失か、それとも飼料不足で全滅する前に肉へ変えた回収か。
ノエルが尋ねる。
ヴァイが答える。
わからなければ、ハルクやトーマへ聞く。
誰もわからなければ、「不明」と書く。
不明。
不明。
不明。
ノエルは、その文字が増えるほど苛立つと思っていた。
逆だった。
安心した。
わからないものを、わかったふりで埋めない。
それだけで帳簿は信用できる。
やがて、ハルクが耐えきれなくなった。
「飯を食え」
二人とも顔を上げた。
「もう昼を過ぎてる」
ヴァイが窓を見る。
「本当ですね」
ノエルも見る。
「気づかなかった」
「おまえら、やっぱり似てるぞ」
「違います」
「違う」
また声が重なった。
ハルクは何も言わず、外へ出た。
◇ ◇ ◇
昼食は大麦の平焼きパンと山羊乳、去年の硬いチーズだった。
ノエルはパンを一口食べて、眉を上げた。
「思ったより悪くない」
「褒めていますか」
「蒼狐族の市場なら売れない」
「褒めていませんね」
「でも冬明けの村でこれが食べられるなら、十分」
ヴァイはチーズを切った。
ノエルは硬いチーズを指で押した。
「これ、売るなら誰に売る?」
「今は村で食べるものです」
「だから、売るとしたら」
ヴァイは少し考えた。
「長距離を運ぶ兵。鉱山。冬道の商隊」
ノエルの目が止まる。
「王都の貴族じゃなく?」
「味より、腐らず腹に入ることを買う人です」
「どうしてそう思うの」
「商品は、必要な人が違えば価値も違うからです」
「……そう」
ノエルはまた一口食べた。
「それなら、値段の付け方も変わるわね」
食後、二人は畑へ出た。
夏の草は短い。
だが去年より刈り取り区画が分けられ、乾草棚の数も増えていた。
ノエルは一つずつ見て回る。
「これ、全部あなたが考えたの?」
「最初の形は」
「今の形は?」
「トーマや村の人です」
「じゃあ、あなたがいなくても作れる?」
「それが目的です」
「どうして?」
「俺しか作れないなら、増やせません」
「独占すれば高く売れる」
「何をですか」
「方法を」
ヴァイは足を止めた。
ノエルは試すように続けた。
「乾草棚の作り方を黒狼族だけの秘密にする。病畜を分ける方法も、配給の数え方も。困った村へ教える代わりに、毛皮か鉄か銀貨を取る」
「嫌です」
「即答」
「冬に死ぬ人間を増やして、方法の値段を上げることになる」
「そんな言い方はしてない」
「結果は同じです」
「商売を悪く言うのね」
「いいえ」
ヴァイは首を振った。
「ノエルが南方の値段を知っているから、俺は今まで見えなかったものを見られる。商売は必要です」
「なら、なぜ方法は売らないの」
「広がった方が、あとで俺が得をするからです」
ノエルの眉が動いた。
「得?」
「死にかけた村へ毎冬食料を運ばなくて済む。病気が広がりにくくなる。家畜が残る。道を直す人が残る。税を払える人も増える」
「あなた、税を取る側のつもりなの?」
「今は違います」
「今は?」
ヴァイは自分の言葉に気づいた。
「……言い方を間違えました」
ノエルは笑った。
「今のは覚えておく」
「忘れてください」
「高く売れそう」
「やめてください」
冗談めかしていたが、ノエルの胸の中には別の感覚があった。
この少年は、自分の家の利益だけを見ていない。
一つの村の利益でもない。
人が死ななければ、次の年に何を生むか。
家畜が残れば、三年後に何頭になるか。
道が残れば、どの村まで物が届くか。
商人も先を見る。
だが普通は、自分の荷が売れる先を見る。
ヴァイは、まだ自分のものでもない北方全体を、巨大な一つの取引先のように見ている。
九牙会議で、赤熊族長グラウスが「三万人を一つの鍋にするつもりか」と問うた。
ヴァイは、小さな仕組みを何十個も動かすと言った。
その意味が、ノエルには少しわかった。
彼は一つの大きな命令を出したいのではない。
同じやり方が、別々の場所で勝手に増えていく状態を作りたいのだ。
それは商人から見ると、恐ろしい。
一度仕組みができれば、作った本人がいなくても利益が残る。
人間より長生きする商売だった。
「ヴァイ」
「はい」
「あなた、本当に族長になりたくないの?」
足が止まった。
父との会話が、一瞬で蘇った。
――お前は、族長になりたいか。
――特に兄上と争いたいとは思っていません。
「どうしてそれを」
「九牙会議で見ていれば、誰でも考える」
「誰でも、は困ります」
「長兄が退学した。あなたは冬王と契約して、死者を零にした。民がどちらを見るかくらい、商人なら数えるわ」
「兄上は強いです」
「強さの話をしてない」
ノエルは平然と言った。
「だから厄介なんでしょう」
ヴァイは答えなかった。
遠くで、ヴァナールが草の上へ伏せている。
その周囲に灰色の狼たちがいた。
誰もヴァイへ膝をつかせていない。
それでも群れができている。
ノエルはその光景を見た。
「狼も、そうやって増やすの?」
「違います」
「即答ね」
「本当に違います」
「じゃあ、人だけ?」
「何の話ですか」
「あなたの周りに、勝手に集まるもの」
ヴァイは返事をしなかった。
その日の夕方、ノエルは村人がヴァイへ向ける視線を初めて意識した。
畑から帰る老人が頭を下げる。
子供を抱いた女が、道の端へ寄って深く礼をする。
凍傷で指を失った男まで、笑って手を振る。
族長家の子だからではない。
ノエルにはわかった。
もっと重い。
もっと危うい。
あの冬、自分の夫が死ななかった。
母が死ななかった。
子が死ななかった。
その理由を全部理解できない者にとって、ヴァイは制度を作った子供ではない。
冬から家族を返した何かだ。
一人の女が、ヴァイの背中が見えなくなったあとも頭を下げていた。
ノエルは笑わなかった。
商人は信仰を軽んじない。
人が金より高いものを差し出すとき、そこにはたいてい信じている何かがある。
怖い。
そう思った。
本人が一番、その価値を欲しがっていないことが。
◇ ◇ ◇
翌日。
監査の最後に、ノエルは村の外れへヴァイを呼んだ。
木陰に敷物を広げ、革帳簿を三冊置く。
一冊は霜谷村の監査記録。
一冊は蒼狐族の交易記録。
最後の一冊だけ、表紙に細い紐が二重に巻かれていた。
「結論から言います」
ノエルは一冊目を開いた。
「死者零は、本当」
ヴァイは頷いた。
「はい」
「喜ばないの?」
「知っていたので」
「私が認めたことを」
「それは少し」
「少し?」
「監査した人が認めた方が、他の部族へ説明しやすいです」
ノエルはじっとヴァイを見た。
「あなた、私を最初から使うつもりだった?」
「疑う人が来たら、確認してもらおうとは思っていました」
「私じゃなくても?」
「はい」
「腹が立つ」
「なぜですか」
「私が特別じゃないから」
「特別である必要がありますか」
ノエルは一瞬黙り、それから笑った。
「やっぱり商人には向かないわね」
二冊目を開く。
「次。冬を越すために使ったもの」
そこにはノエルが換算した数字が並んでいた。
銀貨だけではない。
干魚何束。
乾草何荷。
薪何台。
鉄何本。
労働何日。
「正確じゃないです」
ヴァイが言った。
「知ってる。だから幅をつけた」
「この薪の値段、高くありませんか」
「蒼狐の市場へ運ぶならこのくらい」
「霜谷村では森から切れます」
「切る人の時間を入れて」
「それでも」
「じゃあ、あなたの数字を書いて」
ノエルは筆を差し出した。
ヴァイは受け取った。
二人はまた争った。
塩の値段。
鉄棒の質。
家畜一頭を冬前に殺す場合と春まで生かす場合の価値。
種子を食べなかったことで失った冬の食料と、得た春の作付面積。
病人を隔離したことで増えた薪と、感染が広がらなかったことで減った看病日数。
どちらも譲らない。
だが、昨日までと違っていた。
相手の数字を消そうとはしない。
二つ並べる。
「村の中ならこう」
「市場へ出すならこう」
「最悪なら」
「良ければ」
幅を残す。
ヴァイは前世で、予算に一つの数字だけを書く危険を何度も見た。
燃料価格が上がる。
道路が切れる。
予定した人数が来ない。
病人が増える。
計画は、正しい数字ではなく、数字が外れたときにどこまで耐えられるかで強さが決まる。
ノエルは別の意味で同じことを知っていた。
商隊が必ず予定日に着くなら、商人はいらない。
荷が遅れ、傷み、盗まれ、値段が変わるから、差を読める者が利益を取る。
九歳の二人は、理由の違う同じ場所へたどり着いていた。
「これなら」
ノエルが言った。
「霜谷のやり方は、毎年同じだけ金を使う仕組みじゃない」
「最初に棚や溝を作る費用はかかります」
「でも次の年は補修で済むものが多い。共同炊事も、燃料を増やすどころか家ごとに火を焚くより減る可能性がある」
「今年は測ります」
「種を残した分は?」
「収穫まで見ないと利益とは言えません」
ノエルが笑った。
「昨日のあなたなら、未来の利益まで言いそうなのに」
「起きていないことを利益に入れると、失敗したときに飢えます」
「それは商人も同じ」
ノエルは一冊目の最後に書いた。
――死者零。数字上の虚偽を確認できず。
その下へ、少し考えてからもう一行。
――継続費用は要再計測。ただし一部施策は翌年以降の費用低下が見込まれる。
ヴァイが覗き込む。
「厳しいですね」
「甘く書いてほしい?」
「いいえ」
「ならこれでいい」
そしてノエルは、三冊目の紐を解いた。
「ここからが、私の質問」
中には、細かい数字が縦に並んでいた。
地名。
品名。
重さ。
受取価格。
運賃。
倉賃。
手数料。
販売価格。
ヴァイの目が止まった。
「これは」
「南方の価格」
「何の」
ノエルは指で一行を叩いた。
「氷魔晶石」
北方で採れる、冷気の魔力を蓄えた石。
黒狼族の倉にも少量ある。
冬に肉を冷やすため使うこともあるが、北方では寒さそのものが余っている。
だから高価な道具という感覚が薄い。
多くは南方商人へ原石のまま渡していた。
ヴァイは表を追った。
北方の受取価格。
南の中継地。
さらに南の工房町。
選別後。
切断後。
研磨後。
魔道具の核として組み込まれた後。
桁が変わっている。
「同じ石ですか」
「同じ鉱山から出たもの」
「品質差は」
「ある。だから単純比較はできない」
「選別損失は」
「ある」
「輸送中の破損」
「ある」
「加工に失敗した分は」
「もちろんある」
「職人の賃金と工房の燃料は」
「入ってる」
「それでも?」
ノエルは頷いた。
「それでも、北で原石を渡した値段とは比べものにならない」
ヴァイは黙って数字を見た。
完成した冷蔵箱。
薬品保管箱。
貴族の食卓用の冷却器。
北方で安く引き取られた石が、南では何十倍もの値段の品へ変わっている。
「北では、この箱を買えますか」
ノエルは答えなかった。
それが答えだった。
ヴァイは顔を上げる。
「氷魔晶石を売った村が、その銀貨で冬の穀物を買う」
「ええ」
「足りなければ」
「商会から先に穀物を受け取る」
「返すのは?」
「次の毛皮。次の鉱石。次の収穫」
「値段は」
「契約したときの交換率」
「相場が変わっても?」
「契約次第」
「北方側は相場を知っている?」
ノエルの顔から笑みが消えた。
「ほとんど知らない」
五歳の冬、黒牙砦の食料庫で見た光景が、ヴァイの頭に蘇った。
湿った穀物。
鼠に齧られた袋。
銀貨の価値を知らない倉番。
南方商会の固定交換。
春まで十九日足りない備蓄。
あのとき見たものは、黒牙砦だけの問題ではなかった。
北方全体が、同じ形をしている。
原石を安く渡す。
加工された価値は南へ残る。
冬に食料が足りなくなる。
南から高く買う。
足りなければ、来年の産物を先に差し出す。
その来年も、値段を知らないまま売る。
寒いから貧しい。
そう思っていた。
違う。
寒さそのものを、北方は持っている。
持っているのに、それを一番安い形で手放している。
「おかしい」
ヴァイが呟いた。
「何が?」
「北方は、寒さを売っています」
ノエルは黙って聞いた。
「氷を生む石を売っている。南では、それで肉を腐らせず、薬を守り、食べ物を長く持たせる」
「ええ」
「なのに北方は、春になると食べ物がなくなる」
言葉にした瞬間、ひどく滑稽に聞こえた。
そして、腹が立った。
北方は寒さに苦しんでいる。
その寒さから生まれた価値まで南へ渡し、その金で冬を越す食料を買っている。
しかも、値段を決めるのは自分たちではない。
ノエルが静かに言った。
「だから聞いたの」
「何をですか」
「あなたの村を救う方法で、誰がどれだけ得をするのか」
ヴァイは価格表へ目を落とした。
霜谷村を死なせなかった。
だが、北方全体を死なせないためには、食料の作り方だけでは足りない。
作ったものを、正しい形で価値へ変えなければならない。
前世で農場を継いだときも同じだった。
良い牛乳を作れば終わりではない。
飼料代が上がる。
輸送費が上がる。
買い手が一つしかなければ、価格交渉力はない。
農家が品質を上げても、その価値を測る仕組みがなければ、値段にはならない。
北方は、それより何百年も前の場所にいる。
部族ごとに重さが違う。
同じ石を違う名前で呼ぶ。
品質を揃えない。
値段を比べない。
帳簿を持たない村すらある。
なら、進められる。
一歩ではない。
何十歩も。
ただし、まず知らなければならない。
「この価格表を、写してもいいですか」
ノエルが目を細めた。
「無料で?」
ヴァイは初めて、少し困った顔をした。
「いくらですか」
「銀貨なら高い」
「何が欲しいですか」
ノエルは待っていたように笑った。
「霜谷村の今年一年の記録」
「全部?」
「収穫、家畜の増減、干魚の損耗、乾草、労働、冬の配給。あなたがどこで数字を変えるかも」
「それは、こちらの方が得では」
「私が欲しいものを、あなたが安いと決めないで」
ヴァイは一瞬黙った。
そして頷いた。
「わかりました」
「契約成立?」
「口約束でいいんですか」
ノエルの笑みが深くなった。
「やっぱり面白い」
「何がですか」
「九歳で、そこを気にするところ」
「契約は書いた方がいいです」
「じゃあ書きましょう」
ノエルは白紙を一枚取り出した。
ヴァイは自分の板を引き寄せる。
二人の間に、価格表が置かれた。
氷魔晶石。
今までヴァイにとって、それは北方にある少し便利な石の一つだった。
その日から違った。
食料。
交易。
保存。
銀貨。
南方商会。
そして、北方が自分の寒さから何を取り戻せるか。
すべてをつなぐ石になった。
日が傾くころ、ノエルは馬車へ戻った。
ルーチェがその横を歩く。
ヴァナールは少し離れた丘から見ていた。
灰色の野生狼たちもいる。
ノエルは馬車へ乗る前に振り返った。
「次は、石そのものを見なさい」
「はい」
「値段だけ見ても、また騙されるから」
「品質を見ろ、と?」
「重さも。呼び名も。誰が測っているかも」
「わかりました」
「あと」
「まだありますか」
「南方商人に、最初から喧嘩を売らないこと」
「売るつもりはありません」
「あなたは、売るつもりがなくても相手の商売を壊しそうなの」
ヴァイは否定しようとして、やめた。
まだ何もしていない。
だが、価格表を見た以上、何もしないつもりもなかった。
「気をつけます」
「その返事が一番信用できない」
ノエルは笑った。
馬車が動き出す。
村人が道を空ける。
ヴァイは見送ったあと、価格表の写しを開いた。
一番上へ、今日わかったことを書いた。
――北方は、寒さを売りながら春に飢えている。
その下に、次に確かめるものを書く。
氷魔晶石。
重さ。
品質。
呼び名。
売値。
買値。
最後にもう一つ。
――値段を決めているのは、誰か。
短い夏の風が、畑を渡った。
大麦の若い穂が揺れる。
まだ収穫には遠い。
けれどヴァイには、冬とは別の敵が、初めて形を持って見え始めていた。




