↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/16

第4話 雪解け水の道

王暦七四四年の融雪春、霜谷村は水の底にあった。


空には雲ひとつなかった。


長冬を越えた太陽は、まだ弱い。それでも昼が伸びるにつれ、南向きの斜面から雪が薄くなり、谷を囲む森では枝に積もった白が絶え間なく落ちていた。


雪が消えた場所から春になるのではない。


最初に現れるのは、土ではなく水だった。


畑の表面には浅い池がいくつもできている。泥水の下には、まだ凍った地面が残っていた。上だけが緩み、下へ染み込めない水が、畝の間にも、家畜小屋の脇にも、去年の蕪を埋めた穴蔵の前にも溜まっている。


七歳になったヴァイは、長靴のまま畑へ入った。


一歩目で踵まで沈んだ。


二歩目では、泥の下から氷を踏む硬い感触が返ってきた。


表土は水を含み、その下は凍っている。


水の逃げ場がない。


「種を播けるのは、あと何日ですか」


畑の持ち主が答えた。


「陽が続けば十日ほどで乾きます。例年なら」


「去年は?」


「十五日でした」


「一昨年は?」


男は首を傾げた。


覚えていない。


ヴァイは板へ日付を書いた。


正確には、銀梟族から借りた書記へ書かせた。霜谷村で文字を扱える者は少なく、ヴァイ自身がすべてを記録していては、測る時間がなくなる。


前年、家畜の病を止めたあと、冬牙規則は周辺の村へ広がった。


赤、黄、白の札。


井戸と家畜小屋の位置。


病畜に触れた者の動線。


それだけで、今年の冬に出た羊の病は一つの小屋で止まった。


霜谷村では、ヴァイが何かを測り始めると、人々は理由を尋ねるより先に板と杭を持ってくるようになっていた。


冬王の仔が数えるものは、やがて自分たちの生死になる。


そう信じている。


その信頼は便利で、危険だった。


人々が疑わなければ、ヴァイが間違えたとき、村全体が同じ方向へ間違える。


だから今回は、まず自分の目で確かめることにした。


ヴァイは畑の四隅へ杭を打たせた。


杭と杭の間へ紐を張る。


紐の中央に、少量の水を入れた細い角筒を吊るす。


簡単な水準器だった。


前世なら測量器がある。


ここにはない。


だが、水が水平を示すことは世界が変わっても同じだった。


「北側が南側より低いと思っていました」


村長ハルクが言った。


「見た目はそうです」


ヴァイは角筒を見た。


「でも畑の中央に小さな盛り上がりがあります。雪の下では見えなかった。水は南へ流れず、ここで二つに分かれて溜まっています」


「山から来る水を止めればよいのですか」


「止めるのではなく、畑へ入る前に受けます」


枝で土へ線を描く。


斜面の裾に、横向きの溝。


そこから谷の外れへ向かう主水路。


畑の中には浅い枝溝。


畝は水路へ直角ではなく、わずかに斜めへ向ける。


根の周りへ水を溜めないため、土を高く盛る。


排水と高畝。


北海道の農場でも、雪解け直後の水は敵だった。


作物は寒さだけで死ぬのではない。


冷たい水に根を浸けたままでは、空気を吸えずに腐る。


北の短い春に、畑が乾くまで十日余計に待つことは、収穫前の十日を失うのと同じだった。


初霜が一週間早ければ、種を残せない。


ならば春の一日には、秋の一日より重い価値がある。


「どれほど掘りますか」


「主水路は大人の膝ほど。枝溝は足首ほどです。先に三か所へ穴を掘って、土の層を見ます」


ヴァイが答えると、村人たちはすぐに鋤を取りに走った。


「待ってください」


声を張ったつもりはなかった。


それでも全員が止まった。


ヴァイは苦いものを飲み込んだ。


「まだ作業命令ではありません。試し穴を掘ってから決めます」


男たちは顔を見合わせた。


去年までは、六歳の子供に命令されることへ戸惑っていた。


今は、命令される前に動こうとする。


知識への畏れは、考える手間を奪うこともある。


「俺の言葉を聞くのは構いません。ですが、聞いたあとで土を見てください。水を見てください。違うと思った者は言ってください」


返事はなかった。


異を唱えること自体が、冬王へ逆らうように思えるのだろう。


ヴァナールは畑の外れで伏せ、泥を嫌そうに見ていた。


――群れを従わせた。


魂へ低い声が響く。


――次は、群れの目を塞ぐのか。


ヴァイは言い返せなかった。


試し穴を一つ掘り終えたとき、村道の方から車輪の軋む音がした。


灰色の幌をかけた小さな荷車が、泥へ片輪を取られている。


引いているのは北方牛ではなく、小柄な山羊だった。


荷車の横では、背の低い男が二人、車輪の下へ枝を差し込んでいる。もう一人、ヴァイより頭一つ半ほど背の高い少年が、車軸の下へ潜り込んでいた。


灰鼠族だった。


黒や茶の短い外套。


泥に強い革靴。


腰へ下げた小さな金槌、木釘、折り畳み尺。


黒狼族の村人たちは、近づこうとしなかった。


灰鼠族は坑道を掘り、罠を作り、壊れた車輪を直す。


同時に、密輸路を知り、地下へ消え、他人の倉から物を抜く者だとも噂されていた。


役に立つ。


だが、家の中には入れたくない。


北方で灰鼠族を見る目は、その程度のものだった。


荷車の下から少年の声がした。


「右を持ち上げるな。左だ。右を上げたら軸が折れる」


大人の一人が右を持ち上げた。


鈍い音がした。


「だから言っただろ!」


少年が泥まみれの顔を出した。


年は十一ほど。


尖った顎と、よく動く黒い目を持っていた。


肩には細長い獣が乗っている。


鼬に似ているが、前脚の爪が異様に大きく、鼻先には細かな土がついていた。


穴潜り鼬。


少年の契約獣らしい。


「車輪を外します」


ヴァイが言った。


少年は初めてこちらを見た。


次にヴァナールを見た。


黒冠狼を認めた瞬間、肩の穴潜り鼬が毛を逆立て、少年の首へしがみついた。


灰鼠族の大人二人が帽子を取る。


少年だけは取らなかった。


「冬王の若様が、車輪も直すのか」


「直せる者がいるなら任せます」


ヴァイは車軸を覗き込んだ。


「あなたの言うとおり、左を上げるべきです。右側の軸受けが割れています」


少年の目が少し細くなった。


「見てわかるのか」


「荷台が右へ傾いているのに、右の車輪は沈んでいない。右を持ち上げれば、割れた軸受けへ重さが集中します」


「ふうん」


少年は短く言った。


感心したようにも、試しただけのようにも聞こえた。


ヴァイは村人へ丸太と縄を持ってこさせた。


冬脈式を覚えた兵二人が、持ち上げる瞬間だけ脚と腰へ気を通す。


荷台がわずかに浮く。


少年は素早く車輪を外し、割れた木片を削り、予備の硬木を当てた。


穴の位置を一度測っただけで、木釘を打ち込む。


無駄がない。


「名前は」


「トーマ・グレイ」


「肩の子は」


「ネクト」


穴潜り鼬ネクトは、ヴァイを警戒しながら鼻を動かした。


「霜谷村へ何を運んでいるのですか」


「鉄釘、木釘、石灰、鼠罠。頼まれたものだ。病気が出た村は道具を全部分けるって聞いた」


冬牙規則のための荷だった。


命令を出してから一年も経っていない。


それでも別部族の職人が、必要な物を作って運び始めている。


変化の速度は、ヴァイが想像した以上だった。


「代金は」


「干魚八束と、羊毛二巻。それに黒狼の鉄片十枚」


銀貨ではない。


灰鼠族にとっては、南方でしか価値を測れない銀より、加工できる鉄と冬を越せる食料の方が確かだった。


トーマは修理を終えると、畑へ並ぶ杭を見た。


角筒。


紐。


試し穴。


土へ描かれた水路。


それから、鼻で笑った。


黒狼の大人たちの空気が変わった。


「何かおかしいですか」


ヴァイが尋ねる。


「その溝、春のうちに潰れる」


村人の一人が前へ出た。


「口を慎め、穴鼠」


トーマの肩でネクトが低く鳴いた。


ヴァイは村人を手で制した。


「理由を聞いています」


「理由は土の下にある」


トーマは試し穴へ近づき、底へ手を入れた。


泥を掴み、指で擦る。


「上は黒土。その下は青い粘土。さらに下に古い泥炭がある。雪解けの最初は凍った粘土が水を止める。陽が続けば、粘土の上だけが滑る」


「試し穴はまだ粘土までです」


「だから足りない」


「どれほど掘ればよいですか」


「場所で違う」


トーマは畑を見渡した。


「川に近い方には、昔の流れ道が埋まっている。山側には地下から水が出る筋がある。真っ直ぐ深く掘れば、水を逃がすんじゃない。柔らかい土へ水を集めて、畑ごと滑らせる」


村人が笑った。


「十一の子が、冬王の仔へ土を教えるのか」


「土は冬王に頭を下げない」


トーマは即座に返した。


空気が凍りつく。


ヴァナールが金の目を開いた。


けれど、怒った気配はなかった。


むしろ楽しんでいる。


ヴァイも、口元が緩むのを感じた。


ようやく、違うと言う者が現れた。


「あなたなら、どう掘りますか」


トーマは答えず、ネクトを地面へ下ろした。


穴潜り鼬は泥の上を走り、畑の中央で止まった。耳を土へ当てる。次に山側へ進み、同じことを繰り返す。


契約を通じて、振動か水音を探っているらしい。


トーマは腰の棒を抜いた。


折り畳まれていた棒を伸ばすと、先に細い鉄がついていた。


土へ刺す。


抜く。


先についた土の色と匂いを見る。


「ここは浅い」


杭を一本立てる。


十歩離れて、また刺す。


「ここは深い」


別の杭。


その動きには、学校で教わった形ではない、何年も坑道と泥の中で覚えた確かさがあった。


ヴァイはあとを追った。


「畑へ入る水は、斜面上で受ける。そこは同じ。でも一本へ集めない。浅い横溝を三本。溢れた分だけ次へ落とす」


「段階排水」


「名前は知らない」


「出口は」


「石を敷く。水を真っ直ぐ落とすと土を食う。曲げて、落差を小さくする」


「暗渠は使えますか」


「アンキョ?」


「地面の下へ石と枝を入れ、その上を土で戻す水路です」


トーマは初めて明確に興味を見せた。


「灰鼠は『盲溝』と呼ぶ。坑道の壁から出る水に使う。畑でやるなら、石が足りない」


「森の細枝を束ね、下に置く。石は入口と出口へ集中させる」


「枝は腐る」


「何年で?」


「柳なら三年。針葉樹なら、乾いた場所で五年。水に浸かり続けるなら、もっと持つ」


「三年持てば、その間に石を集められます」


トーマはヴァイの顔をじっと見た。


「冬王が教えたのか」


「遠い土地のやり方です」


「便利な遠い土地だな」


「失敗も多い土地でした」


トーマは鼻を鳴らした。


「なら、まず失敗する」


「そのつもりで小さく試します」


ヴァイは父へ使者を出した。


灰鼠族の工作師を、霜谷村の排水試験へ雇う。


報酬は干魚十二束、羊毛三巻、鉄棒二本。


さらに試験が成功した場合、同じ規格の工事を周辺五村へ発注する。


村人の何人かが反対した。


「灰鼠へ鉄を二本も渡すのですか」


「逃げたらどうする」


「穴道を作って、倉へ入るかもしれない」


トーマは聞こえないふりをしていた。


ヴァイは反対した男たちへ尋ねた。


「黒角を埋める穴を、誰が一番早く崩さず掘りましたか」


誰も答えない。


灰鼠族の旅人だった。


冬牙規則の埋却穴を周辺へ広げるとき、土の崩れ方を教えたのも灰鼠族だった。


「役に立つときだけ呼び、報酬を渡すときに疑うなら、次は来ません」


「しかし、信用が」


「信用は、相手が先に差し出すものではありません。仕事と支払いを一度ずつ積むものです」


ヴァイはトーマへ向き直った。


「契約を書きます。文字が嫌なら、品物と作業を絵にします。あなたが途中で逃げれば報酬は半分。こちらが約束を破れば、鉄棒を一本追加します」


「黒狼が約束を破ったと、誰に訴える」


「俺に」


「おまえが破ったら?」


問いは鋭かった。


ヴァイは少し考えた。


族長家の者が、自分自身を裁く仕組みは弱い。


「母ミウレイアと、村長ハルクを立会人にします。さらに契約板を一枚、あなたの一族へ渡す」


トーマはまだ納得していない。


「それでも黒狼ばかりだ」


「では、白兎族の薬師へも一枚預けます」


「銀梟じゃなく?」


「銀梟族は文字を持っていますが、今回はあなたの一族が読める必要があります。絵と刻み目にします」


長い沈黙のあと、トーマは手を出した。


「鉄棒は、曲がっていないやつだ」


「検品してから渡します」


二人は手を握った。


七歳と十一歳。


黒狼族の族長家と、灰鼠族の小さな工作師。


後に北方の道路と鉱山を変える関係は、泥へ沈んだ荷車の横で始まった。


工事は翌朝から始まった。


ヴァイは畑を四つに分けた。


一つは何もしない。


一つは浅い枝溝だけ。


一つはヴァイが考えた主水路と高畝。


最後の一つは、トーマの段階排水と盲溝を組み合わせる。


比較しなければ、何が効いたかわからない。


作業する者も四組へ分け、掘った長さだけでなく、人数、時間、使った木材、石、食事量まで記録した。


村人たちは最初、畑の一部を何もしないことへ反対した。


「水に沈むとわかっている畑を残すのですか」


「全部へ同じ工事をして失敗すれば、比べる畑がなくなります」


「冬王の知恵でも?」


「だからこそです」


自分の考えを疑うための区画。


その説明は、村人にとって奇妙だった。


神の知恵なら、試す必要はない。


だがヴァイは、神ではないことを示すように、測り、分け、失敗する場所まで先に作った。


工事の速度は速かった。


冬脈式を覚えた兵は、鋤を土へ入れる瞬間だけ脚と背を強化した。


全身を固め続けないため、午前を過ぎても腕が動く。


トーマは兵の動きを一度見ただけで、掘削へ合わせて変えた。


「土を持ち上げるところで力を入れるな」


兵が眉をひそめる。


「鋤を刺すときに脚。柄を倒すときに腹。土を放るときは抜け。ずっと固めるから疲れる」


冬脈式を、ヴァイより乱暴な言葉で説明している。


兵たちは、七歳の若君に教えられるより、十一歳の灰鼠に教えられる方を嫌がった。


しかし、半日後には従った。


同じ距離を掘った別組より、休む回数が少なかったからだ。


トーマは強い者ではなかった。


牙気の量も多くない。


それでも、どの角度で鋤を入れれば根を切らず、どの幅なら壁が落ちず、どの順で土を投げれば足場を塞がないかを知っていた。


ヴァイは、その知識を板へ描かせた。


鋤を入れる角度。


溝の上幅と底幅。


崩れやすい土の印。


二人一組で掘る位置。


一日に進んだ長さ。


トーマは嫌がった。


「見ればわかる」


「あなたは見ればわかります。ほかの者はわからない」


「何度か掘れば覚える」


「覚えるまでに、何本崩しますか」


「三本くらい」


「一本で済ませます」


「つまらないやり方だ」


「死なないやり方です」


トーマは文句を言いながら、最後には自分で図を直した。


ヴァイが描いた溝は、壁が垂直すぎる。


灰鼠族なら、土ごとに傾きを変える。


黒土は狭く。


砂は広く。


粘土は段をつける。


ヴァイは教わったとおりに書き直した。


作業四日目。


斜面上の受け溝と、最初の主水路がつながった。


ヴァイの設計区画だった。


トーマは最後まで反対した。


「出口が急すぎる」


「石を入れました」


「石の下が粘土だ」


「流量は枝溝で分けます」


「融けた最初の水だけならな」


空は晴れていた。


山の雪も、急には融けないように見えた。


工事を急ぐ理由があった。


早生大麦を播く期限まで、残り十二日。


畑を乾かすには、水を一日でも早く抜かなければならない。


ヴァイは主水路を先に開くと決めた。


トーマの警告は記録した。


出口へ追加の枝束を置かせた。


それで十分だと判断した。


翌日の昼、山から音がした。


雨ではない。


暖かな南風だった。


夜のあいだに気温が上がり、斜面の雪が一気に緩んだ。


森の奥で、小さな雪の塊が次々に崩れる。


水は受け溝へ集まった。


設計どおりだった。


受け溝から主水路へ流れ込む。


そこまでも、設計どおりだった。


問題は、その先だった。


水はヴァイが想定した量の三倍あった。


凍った地面の上を走ってきた融雪水に、山側の地下水が加わった。


主水路の出口で流れが跳ねる。


敷いた石の一つが動いた。


石の下へ水が潜る。


青い粘土の表面が削られ、その上の黒土が板のように滑った。


最初は、拳ほどの穴だった。


次の瞬間には、人が入れるほど広がった。


「離れろ!」


トーマの声が飛んだ。


水路の壁が崩れた。


泥水が横へ向きを変え、作業中の畑へ流れ込む。


鋤を持っていた男が足を取られた。


そのそばに、木札を運んでいた子供がいる。


ヴァイは走った。


冬脈。


右足。


左足。


腰。


水を含んだ土は、踏み込めば沈む。


足裏へ気を集中し、沈む前に次の足を出す。


狼歩の応用だった。


子供へ手を伸ばす。


届かない。


ヴァナールの咆哮が響いた。


泥水の表面へ、黒い氷が一本だけ走る。


川を凍らせたのではない。


ヴァイが踏む場所だけ、一瞬の足場を作った。


ヴァイは氷を蹴り、子供の外套を掴んだ。


そのまま横へ投げる。


兵が受け止めた。


次に作業員。


泥へ沈んだ脚を、トーマとネクトが見つけていた。


「引くな! 折れる!」


トーマは男の腰へ縄を回し、上ではなく水路と平行に引かせる。


ヴァイも加わった。


脚が泥から抜けた。


直後、さっきまで男がいた場所へ水路の壁が落ちた。


流れは畑を横切り、種子小屋の手前まで達した。


村人たちは土嚢の代わりに、蕪を保存していた古い麻袋へ土を詰めた。


トーマの指示で、流れを空き地へ向ける。


ヴァイは命令を出そうとした。


だが、どこを塞げば次にどこへ溢れるか、見切れていない。


「トーマ!」


少年が振り向く。


「現場を任せます」


黒狼族の兵たちが動きを止めた。


「若君?」


「水を止める命令はトーマから受けてください。俺の設計で崩れました。今は彼が一番わかっています」


トーマ自身が一瞬、固まった。


すぐに叫ぶ。


「上の受け溝を二か所切れ! 全部をここへ流すな! 三人は石を動かせ。子供は近づけるな。ネクト、下を見ろ!」


穴潜り鼬が泥へ飛び込んだ。


兵たちは、灰鼠族の少年へ従った。


冬王の仔が命じたからではない。


ヴァイが、自分より知る者だと公に認めたからだ。


日が沈むまでに、流れは畑の外へ向け直された。


一人が足首を捻挫した。


作業牛が一頭、脇腹を打った。


種麦二袋が泥水を被った。


開いた穴は、家一軒が入るほどになった。


最初の主水路は、半分が消えていた。


ヴァイは泥の中に立ち、壊れた場所を見た。


村人たちは黙っている。


誰も責めなかった。


それが、余計に重かった。


「俺の失敗です」


ヴァイは言った。


「若君、あれほどの雪解けは」


村長ハルクが庇おうとする。


「トーマは出口が崩れると言いました。俺は記録しましたが、設計を変えなかった」


「石も置きました」


「足りませんでした」


「冬王でも、天気までは」


「ヴァナールは天気を作れますが、俺は水の量を測らずに決めました」


言い訳を一つずつ切る。


「明日、この区画の工事を止めます。残りの畑はトーマの設計へ変更します。失った種麦と牛の治療分は、ノルヴァル家の倉から補います」


男の一人が慌てた。


「そこまでなさらずとも」


「失敗の費用を村へ払わせれば、次から誰も試験へ畑を貸しません」


トーマが、泥のついた顔でヴァイを見ていた。


「俺の言うとおりにしても、次は別のところが崩れるかもしれない」


「そのときは一緒に直します」


「冬王の若様が、灰鼠の言うことを聞くのか」


「土は冬王に頭を下げないのでしょう」


トーマはしばらく黙った。


やがて、小さく笑った。


「覚えてたか」


その夜、ヴァイは眠らなかった。


壊れた水路の横で、流れの量を測った。


木の桶が満ちる時間。


溝の幅。


水の深さ。


山側の気温。


日暮れ後の水量変化。


前世の知識がなかったわけではない。


凍土地帯の排水。


融雪洪水。


洗掘。


法面崩壊。


すべて知っていた。


知っている言葉を、目の前の土へ当てはめたつもりになっていた。


だが、霜谷村の地層も、山の雪量も、魔力を含む地下水も知らない。


知識は答えではない。


何を測るべきかを教える道具だ。


トーマは焚き火の向こうで、木片へ新しい水路を刻んでいた。


「寝ないのですか」


「おまえが寝てない」


「俺は失敗した責任があります」


「俺は仕事を受けた責任がある」


トーマは木片を差し出した。


一本の主水路ではない。


山側に三段の受け溝。


各段の間に、溢れた水だけを落とす細い道。


出口は直線ではなく、石を置いた小さな池を二つ通る。


畑の下には、枝束を入れた盲溝。


「水を急いで追い出そうとするから、土まで連れていく」


トーマは言った。


「水には、休む場所を作る。泥を落とさせてから、次へ送る」


「沈砂池」


「また遠い土地の名前か」


「今つけました」


「灰鼠は『泥溜め』と呼ぶ」


「そちらの方がわかりやすい」


ヴァイは図を見た。


排水は、ただ低い場所へ穴を掘ることではない。


水の速さを管理すること。


集める量を分けること。


出口を守ること。


そして、排水しすぎれば夏に乾く。


春の敵を全部捨てれば、短い夏の途中で水が足りなくなる。


「最後の泥溜めを、完全には空にしないでください」


「なぜ」


「夏の水に使います。家畜へ飲ませる水と、乾いた畑へ戻す水を分ける」


トーマは目を細めた。


「水を捨てる工事じゃないのか」


「道を決める工事です」


「それなら、最初からそう言え」


「今わかりました」


ヴァイが答えると、トーマは声を出して笑った。


翌朝、工事の指揮板には二人の名が並んだ。


設計責任、トーマ・グレイ。


記録・資材責任、ヴァイセル・ウラ・ノルヴァル。


黒狼族の大人たちは、その並びを見てざわめいた。


ヴァイは全員の前で言った。


「昨日、俺はトーマの警告を聞きながら、十分には採用しませんでした。その結果、水路が崩れました」


トーマが居心地悪そうに顔を背ける。


「今日から土と水の判断はトーマがします。俺を含め、現場では彼の指示へ従ってください」


「若君より上に置くのですか」


古参兵が尋ねた。


「工事中は」


「灰鼠を?」


「灰鼠族だからではありません。俺たちより知っているからです」


「もし間違えれば」


「記録し、直します。俺が間違えたときと同じです」


それ以上、反対する者はいなかった。


ヴァイが失敗を認めたことで、冬王の権威が弱まったわけではなかった。


逆だった。


神のように振る舞わず、正しい者へ権限を渡す。


村人たちは、その姿に別の畏れを覚えた。


自分の名誉より、畑が残ることを優先できる者。


失敗を隠すために、さらに人を死なせない者。


その知識だけでなく、知識の使い方まで、自分たちとは違う。


工事は十二日続いた。


色のついた杭が畑を走った。


赤は掘る場所。


白は土を置く場所。


青は水を一度休ませる場所。


文字を読めない者でも、間違えない。


溝の幅は、トーマが作った木枠で揃えた。


細すぎれば木枠が入らない。


広すぎれば両側に隙間が出る。


深さは、柄へ刻んだ線で測った。


一人の名人がいなくても、同じ形を作れる。


ヴァイは作業を二交代にした。


夜まで働かせたのではない。


朝の凍った地面でしか運べない石を運ぶ組と、昼の緩んだ土を掘る組に分けた。


牛は泥へ入れず、凍っている時間だけ橇を引かせる。


食事は共同炊事にし、作業場へ温かい大麦粥と干魚の汁を運んだ。


道具が壊れれば、トーマの荷車に積んだ部品でその場で直した。


一日ごとの工事量は、最初の三倍になった。


疲労は減った。


事故も減った。


周辺の村から見物人が来た。


見物だけなら帰す、とヴァイは言った。


学びたいなら、一人につき石十個か枝束二つを持ってこさせた。


三日後には、見物人が作業員になっていた。


五日後には、隣村が同じ木枠を借りて溝を掘り始めた。


八日後には、灰鼠族から新しい工作師が四人来た。


トーマの叔父たちだった。


彼らは甥が黒狼族の現場を任されていると知り、最初は疑った。


契約板を見た。


報酬の鉄棒を曲げ、欠けがないか確かめた。


次に、工事板へ自分たちの修正を刻んだ。


ヴァイは全部採用したわけではない。


一つずつ小区画で試した。


それでも一夏のうちに、霜谷村の方法は九つの型へ増えた。


粘土用。


砂地用。


泥炭用。


斜面用。


家畜小屋用。


道用。


同じ排水路を、どこへでも掘るのではない。


土地ごとに型を選ぶ。


現代なら、調査と設計と予算だけで一年を使う規模だった。


霜谷村では、最初の崩落から二十日で形になった。


理由は、魔法ではない。


全員が、次の冬までに結果を出さなければ飢えるからだ。


そして、冬王の仔が必ず現場にいたからだ。


ヴァイは命令を出すだけではなく、泥へ入り、板へ数字を書き、壊れた場所で最初に謝った。


それを見た者は、彼のためというより、彼が示す未来を失わないために働いた。


明夏に入って四十日ほど経った夜、空が割れた。


短い夏には珍しい、温かな大雨だった。


山から濁流が下る。


去年までなら、畑の表土を削り、蕪の根を露出させ、大麦を泥へ倒した雨だった。


村人たちは外套を掴み、畑へ走った。


ヴァイも起こされた。


ヴァナールとともに丘へ上る。


暗闇の中、水の音が幾重にも聞こえた。


一本の轟音ではない。


浅い受け溝から次の溝へ。


泥溜めから石敷きの出口へ。


盲溝から低い水路へ。


水が分かれ、休み、また流れる音だった。


雷の光が畑を照らした。


何もしなかった比較区画は、水に浸かっていた。


浅い枝溝だけの区画では、畝の一部が崩れている。


最初にヴァイが設計した区画は、修理した場所こそ残ったが、出口近くの土が削られていた。


トーマの段階排水区画だけが、畝の形を保っていた。


大麦は雨に伏せながら、根を泥へ沈めていない。


泥溜めには濁った水が満ちている。


畑から流れた土を、そこで止めていた。


村長ハルクが、雨の中で笑い出した。


一人が笑う。


次に、ほかの者も。


誰かがヴァイへ膝をつこうとした。


ヴァイはその肩を掴んだ。


「俺ではありません」


雨音に負けないように声を上げる。


「トーマの水路です」


人々の目が、灰鼠族の少年へ向いた。


トーマは泥溜めの縁で、水位を測っていた。


歓声を向けられ、露骨に困った顔をする。


「まだ終わってない!」


彼は叫んだ。


「二番の出口が詰まりかけてる! 笑うなら枝をどけてからにしろ!」


黒狼族の男たちが、一斉に走った。


誰も穴鼠とは呼ばなかった。


夜明けまでに雨は弱まった。


雲の切れ目から、長い夏の光が差す。


水路には、ゆっくりと透明になっていく水が流れていた。


ヴァイは泥溜めの前へしゃがんだ。


底には、畑から流れた細かな土が積もっている。


これを掬い上げて畑へ戻せる。


溜めた水は、乾いた日に使える。


水を追い出しただけではない。


土を守り、水を残した。


「負けました」


ヴァイが言うと、トーマが顔をしかめた。


「何に」


「最初、俺は一番短い道で水を捨てようとしました。あなたは水を分け、休ませ、使う道を作った」


「おまえが、夏に残せって言った」


「それは崩れたあとです」


「なら半分ずつだ」


「何がですか」


「勝ったのも、失敗したのも」


トーマは泥のついた手を差し出した。


ヴァイは握った。


「報酬の鉄棒は、成功分を加えて三本にします」


「二本の約束だ」


「追加工事と教範作成分です」


「曲がってないやつを三本だ」


「検品してください」


トーマの口元が少し上がった。


「次はどこを掘る」


ヴァイは丘の下を見た。


霜谷村の畑。


家畜小屋。


水路。


その先の、まだ水に沈む別の村。


「全部です」


「全部って」


「黒狼族の全村。その後、必要とする部族へ同じ木枠と契約板を渡します。ただし、土地ごとに試し穴を掘る。あなた方の誰かが必ず見る」


トーマは呆れたように空を見た。


「一生かかるぞ」


「人を増やします」


「教えるのに時間がかかる」


「一つの作業へ一つの絵を作ります。木枠と刻み棒を複製する。九つの型を、土の色で選べるようにする」


「それでも十年だ」


「三年でやります」


「馬鹿だ」


「無理ですか」


トーマは霜谷村を見た。


二十日前には、一本の水路さえなかった。


今は、雨が降っても畑が残っている。


灰鼠族の名を聞くだけで顔をしかめた男たちが、トーマの指示で夜通し出口を直した。


無理だと言い切るには、目の前の変化が速すぎた。


「三年で終わらなかったら」


「続けます」


「死ぬまで?」


「俺が死んでも続くようにします」


トーマは、ヴァイを見た。


冬王と契約した七歳の子供。


泥だらけで、失敗した水路の前に立ち、北方全体の土を変えると言う。


笑うべきだった。


だが笑えなかった。


この子なら、本当にやるかもしれない。


一人で掘るのではない。


知る者を見つけ、名を与え、権限を渡し、その技を誰でも使える形へ変える。


トーマが初めて感じたのは、黒冠狼への畏れではなかった。


ヴァイの頭の中にある、まだ存在しない北方への畏れだった。


「俺は灰鼠の族長じゃない」


「知っています」


「叔父たちは、黒狼の命令では動かない」


「命令しません。仕事を頼み、対価を決めます」


「灰鼠を馬鹿にしたやつの村でも?」


「必要なら」


「嫌だと言ったら」


「別の条件を探します」


トーマはしばらく考えた。


「まず、試し穴を掘らせろ。掘る前に道を決めるな」


「規則の第一条にします」


「あと、土を見ないやつに鋤を持たせるな」


「第二条」


「俺の名前を勝手に教範へ書くな」


「理由は」


「字が読めないのに、間違っててもわからない」


ヴァイは頷いた。


「絵の原版を確認してください。読める者が、同じ内容を声に出す。あなたが納得してから印を刻みます」


「ならいい」


その日の午後、黒牙砦から狼騎兵が来た。


雨で泥にまみれた道を、馬ではなく軍用狼が駆けてきた。


騎手の顔は青ざめている。


ヴァイは水路の報告だと思った。


違った。


騎手は濡れた外套の内側から、王立貴族学院の赤い封蝋がついた書状を出した。


封はすでに父ヴァルフラムによって切られている。


紙の下には、短い追書きがあった。


――すぐ戻れ。


ヴァイは本文を読んだ。


長兄ローヴェン・グラ・ノルヴァル。


王立貴族学院において、上級生三名へ重傷を負わせる。


退学処分。


監視付きで北方へ送還。


ヴァイは書状を折った。


畑を守った雨の匂いが、急に遠くなる。


トーマが横から紙を覗こうとした。


「何だ」


「兄上が帰ってきます」


「良いことじゃないのか」


ヴァイは、赤い封蝋を見た。


父も、母たちも、学院の話を詳しくはしない。


南方へ行った兄姉は、帰るたびに何かを置いてきたような目をしていた。


「予定より、ずっと早く」


遠くで、ヴァナールが北ではなく南へ顔を向けた。


王都へ続く道の方角だった。


霜谷村に、水の道ができた日。


ノルヴァル家には、別の傷が帰ろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。