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第3話 家畜を殺して家畜を救う

王暦七四三年、雪解けにはまだ早い朝だった。


黒牙砦の訓練場には、夜のあいだに降った雪が脛ほどまで積もっていた。


六歳になったヴァイは、その中央で木剣を構えていた。


向かいに立つ父ヴァルフラムは片手に木剣を持ち、もう一方の手で自分の胸を叩いた。


「気は腹に溜めるものではない。血と一緒に全身へ回す。北の戦士は、それを牙気と呼ぶ」


白い息の向こうで、父の肩が膨らんだ。


次の瞬間、雪が爆ぜた。


ヴァルフラムは三歩の距離を一歩で詰め、木剣を振り下ろした。止められた刃が、ヴァイの頭上で風を鳴らす。


見ていた兵たちから低い歓声が上がった。


北方には、剣だけを扱う一つの流派はなかった。


斧を振るう赤熊、山道で短槍を使う鉄山羊、狼の背から長槍を突き出す黒狼。武器も体格も異なる九部族が、戦場で共通して使う技術をまとめて「群牙戦技」と呼ぶ。


その根にあるのが、生命力を肉体へ巡らせる牙気法だった。


足を強くする狼歩。


腰と肩を固める鉄斧式。


狼騎兵が突撃の衝撃に耐える雪槍式。


刃へ気を通し、魔法生物の皮や魔力の障壁を裂く群牙剣式。


ヴァイは父の動きを、契約した黒冠狼ヴァナールの目で見るように観察した。


胸が膨らむ。


首の筋が硬くなる。


肩、腕、腹、腰、腿、ふくらはぎまで、ほとんど同時に気が満ちる。


強い。


だが、無駄が多い。


前世で、重い装具を背負った隊員が全身へ力を入れたまま走り、百メートルで息を切らす姿を何度も見た。剣道でも、握りを固め続ける者ほど打突が遅くなる。必要な瞬間、必要な場所だけを締めなければ、筋肉は互いの動きを邪魔する。


「どうした。怖くなったか」


父が笑った。


「いいえ。父上のやり方では、気の半分ほどが使われないまま熱になっています」


訓練場が静かになった。


ヴァルフラムの笑みも止まった。


「もう一度言ってみろ」


「全身を同時に強くすると、動かさない筋肉まで気を食べます。足で地面を押すときは足。腰を回すときは腰。最後に肩と手首と刃へ渡す。その順番にした方が、同じ量で速く動けます」


「六歳の口で、俺の牙気へケチをつけるか」


声は低かったが、怒ってはいない。


父はヴァイへ木剣を放った。


「ならば見せろ」


ヴァイは受け取った。


牙気法を正式に習ったのは、その朝が初めてだった。けれど、気そのものは以前から感じている。契約儀式の夜、ヴァナールと魂が結ばれたとき、胸の奥から手足へ温かな流れが走った。


まず呼吸を落とす。


腹へ溜めるのではない。足裏で雪の硬さを捉える。


右足の指。


足首。


膝。


腿。


腰。


順に気を渡す。


一か所を満たしたままにせず、次の場所へ押し出す。


前へ出る瞬間だけ、足裏を強くした。


雪を踏み抜かず、表面を蹴る。


腰を回す瞬間に腿の気を抜き、その分を背と肩へ移す。


最後に手首。


木剣の先。


ヴァルフラムが受けるため木剣を横にした。


乾いた音が一度だけ響いた。


父の木剣が、手から半歩ほど浮いた。


兵たちの息が止まる。


ヴァイ自身も驚いていた。


力ではない。


六歳の腕で、父の腕力に勝てるはずがない。だが、父が受け止める一点へ、足から剣先までの運動を遅れなく重ねた。前世で何十年も繰り返した打突の理屈へ、気という新しい力を載せただけだった。


ヴァルフラムは落ちかけた木剣を握り直した。


「もう一度だ」


二度目は止められた。


三度目は、父が一歩退いた。


四度目、ヴァイの右腿が痙攣した。


ヴァルフラムは即座に木剣を落とさせた。


「そこまでだ。流れは良い。だが身体ができていない。気が通っても、肉が耐えなければ裂ける」


父は膝をつき、ヴァイの腿を太い指で確かめた。


「今の技に名はあるか」


「ありません」


「なら、冬脈と呼べ」


「冬脈?」


「凍った川の下を、水が一筋ずつ走る。おまえの気も同じだ。北の戦士が全身を獣にするなら、おまえは必要な場所だけを獣にする」


近くで伏せていたヴァナールが、金の目を開いた。


――遅いが、悪くない。


ヴァイは心の中で言い返した。


六歳にしては十分だろう。


その日のうちに、ヴァルフラムは訓練場へいた全員へ命じた。


牙気を一度に全身へ満たす従来法と、足から武器へ順に渡す冬脈式を、それぞれ十回ずつ試せ。


屈強な兵たちは半信半疑だった。


だが十回後、違いは明白になった。


従来法では肩で息をしていた男が、冬脈式ではまだ話せた。斧兵の一撃は軽くなったように見えて、丸太へ食い込む深さが増えた。狼騎兵は槍を突き出す瞬間だけ腰と腕を固めることで、乗騎の動きを邪魔しなくなった。


夕刻には、古参兵が若い兵へ教えていた。


翌朝には、砦の兵百二十人が同じ呼吸を試していた。


三日後には、黒狼族の狼騎兵隊が訓練規則を書き直した。


前世なら、新しい訓練法を部隊全体へ定着させるまで、試験、評価、教範化、指導者教育に何か月もかかっただろう。


ここでは三日だった。


理由は単純ではない。


族長の息子だからでもない。


五歳で冬王クルヴァナールと契約した者の言葉を、北方人はただの子供の思いつきとして扱えなかった。


古い歌では、黒冠狼は大飢饉と大戦の前に現れ、群れを生かす者だけを選ぶとされている。冬王に認められた者の警告を笑うことは、吹雪の前で外套を脱ぐのと同じ愚行だった。


加えてヴァイは、契約の翌日に砦の食料が十九日分足りないと見抜いた。


湿った穀袋を分け、鼠穴を塞ぎ、配給量を変えた結果、倉番が隠していた損耗まで明らかになった。


信仰が人々の耳を開き、結果がその耳を閉じられなくした。


ヴァイの言葉を聞けば、昨日まで見えなかった危険が形になる。


従えば、生き残る数が増える。


それは恩義より強く、命令より深い感情だった。


畏れだった。


この子供だけは、死なせてはならない。


まだ誰も口にはしなかったが、黒牙砦の多くが同じことを考え始めていた。


その春、霜谷村から使いが来たのは、冬脈式が兵たちへ広がり始めた七日後だった。


使いの男は、砦の門をくぐったところで馬から転げ落ちた。


「牛が……立てません」


ヴァイは母ミウレイアとともに、同日の午後には霜谷村へ向かった。


村は黒牙砦から狼橇で半日ほど南にある。雪解け水が谷底へ溜まり、春には泥と冷気が長く残る土地だった。


村の入口まで来ると、匂いが変わった。


濡れた藁。


糞。


腐りかけた乳。


その奥に、熱を持った獣の甘い息が混じっている。


牛小屋の前には村人が三十人ほど集まっていた。


ヴァイが橇から降りると、人々は一斉に道を開けた。


六歳の子へ向ける態度ではなかった。


老女は胸へ指を当て、古い冬王の印を切った。男たちは帽子を脱いだ。子供を抱いた母親は、ヴァナールの姿を見て膝をつきかけた。


「立ってください」


ヴァイは言った。


「祈るより先に、牛を見ます」


村長のハルクが青ざめた顔で近づいた。


「若君、三日前から乳が減り、昨日は二頭が倒れました。今朝には八頭です。呪いではないかと」


「倒れた牛へ触れた人は」


「皆です。立たせようと縄をかけ、口へ水を」


「その縄と桶は、ほかの牛にも使いましたか」


ハルクは答えなかった。


答えそのものだった。


牛小屋の中は暗かった。


ヴァイは入口で立ち止まった。


「誰も入らないでください」


村人たちが従った。


ミウレイアだけが隣へ立つ。彼女の契約狼フリヴァは、白い毛を逆立てて牛小屋の匂いを嗅いだ。


倒れた牛は、荒い息をしていた。


鼻から泡を吹き、口の端が赤く爛れている。蹄の間にも傷があった。立っている牛も、餌へ口をつけず、時折脚を震わせる。


ヴァイは病名を知らない。


前世で見た口蹄疫に似ている部分はあった。だが、別の世界の牛であり、魔力の影響もある。似ているから同じだと決めるのは危険だった。


わかるのは、接触で広がっている可能性が高いこと。


発症した牛と同じ小屋にいた牛ほど具合が悪いこと。


共通の縄、桶、人の靴が、病を次の小屋へ運んでいる可能性があること。


治す知識はない。


ならば、広げない。


「村長」


「はい」


「村の牛は何頭ですか」


「百九十六頭です。子牛を入れれば二百二十三」


「この小屋は」


「成牛四十八。倒れたのが八、熱があるのが二十一です」


ヴァイは外へ出た。


雪の上へ枝で村の形を描く。


牛小屋が六棟。


井戸が二つ。


人家。


糞捨て場。


雪解け水の流れる向き。


「今から村を三つに分けます」


村人たちは黙って聞いていた。


「この小屋へ入った人、使った道具、触れた牛は赤組。まだ症状はないが、隣の小屋にいる牛と世話人は黄組。離れた小屋と、病牛に触れていない者は白組です」


枝で線を引く。


「赤組は白組へ近づかない。桶、縄、鋤、外套、長靴を共有しない。赤組の世話人は村の東側に泊まる。食事は境で受け取る。井戸は南を赤組、北を白組で分ける」


「家へ帰れないのですか」


若い男が声を上げた。


「妻が臨月です」


「あなたが病を家へ持ち帰れば、妻は牛を失います。冬の乳も、来年の畑を引く力も失う。七日だけです。代わりの者を妻の家へ送ります」


「七日で済むと?」


「済むとは言っていません。七日ごとに判断します」


言葉を濁さなかった。


それがかえって人を黙らせた。


ヴァイは役割を次々に割り振った。


木工が得意な者には、赤、黄、白の札を作らせる。


白兎族の血を引く女たちには、牛の体温、食欲、乳量、排泄を朝夕に記録させる。


子供たちには、赤組の境へ近づく者を鐘で知らせる仕事を与える。


鍛冶屋には大鍋を用意させ、縄と金属器具を煮沸する。


灰と石灰を持つ家から集め、靴底を洗う浅い箱を各境へ置く。


汚れた藁と糞は川へ流さず、村の下手に深い穴を掘って埋める。


牛小屋から井戸へ続く溝は、雪で塞ぐ。


前世であれば、自治体、獣医、検査機関、補償制度を揃えなければ動かせない規模だった。


霜谷村では、夕暮れまでに動いた。


ヴァナールが牛小屋の前へ座っているだけで、反対する者は声を小さくした。


それでも信仰だけでは仕事は続かない。


ヴァイは理由を一つずつ説明した。


なぜ桶を分けるのか。


なぜ井戸を分けるのか。


なぜ病牛を触った手で子牛を撫でてはいけないのか。


説明を聞いた村人は、命令を暗記するのではなく、次に何を避けるべきか自分で考え始めた。


日が落ちるころ、村長ハルクが呆然と村を見回した。


朝まで一つだった村が、札と縄と見張りによって三つの区域へ変わっていた。


「若君」


「何ですか」


「これは、王都の学者が使う術ですか」


「いいえ」


「では、冬王が教えたのですか」


ヴァイは答えに迷った。


嘘をつけば、ヴァナールに笑われる。


「遠い土地で、多くの家畜を失った者たちが、失った数だけ覚えた知恵です」


ハルクは、その意味を理解しなかった。


だが、目を伏せて言った。


「ならば我らは、同じ数を失わずに済むのですね」


「そのためにやっています」


翌朝、赤組の牛がさらに六頭倒れた。


黄組は一頭。


白組には出なかった。


村人たちは記録板の数字を見て、初めて境界線の意味を理解した。


二日目、赤組で四頭。


黄組はゼロ。


白組もゼロ。


三日目、赤組で二頭。


広がりは止まりつつあった。


歓声は上がらなかった。


倒れた牛が治ったわけではないからだ。


そして、最も価値のある牛に熱が出た。


黒角と呼ばれる大きな種雄牛だった。


霜谷村だけでなく、周辺三村の牛へ種をつけてきた雄である。体が大きく、寒さに強く、その子は乳の出もよかった。


村人にとって、牛一頭ではない。


十年先の群れそのものだった。


黒角はまだ立っていた。


だが口から糸を引く唾液を垂らし、右前脚を庇っている。


ヴァイが近づくと、濁った目でこちらを見た。


「隔離します」


牛飼いの老人ガルムが、ヴァイの前へ立った。


「なりません」


村で初めて、明確に命令へ逆らう声だった。


「黒角はこの村の父です。あれを別の小屋へ入れれば、寒さで弱る」


「同じ小屋に置けば、まだ生きている牛へ移す可能性があります」


「黒角は病ではない。脚を傷めただけだ」


「口にも傷があります」


「硬い藁で切った」


「熱があります」


「種付けの後はいつも熱を持つ」


老人は一つずつ理由を作った。


ヴァイには、その気持ちがわかった。


前世の農場でも、優良な種雄を処分する決断は、帳簿の損失だけでは済まなかった。何年も世話をした者には、家族を殺せと言われるのと同じだった。


だからこそ、感情を無視して命令してはいけない。


「ガルム。黒角の子は何頭いますか」


「生きているものだけで七十四」


「そのうち、種雄にできる若い牛は」


老人は黙った。


「三頭です」


「黒角ほどではない」


「今は」


ヴァイは記録板を指した。


「三頭を別々の村へ移します。血が偏らないように交配を記録する。黒角の良いところは残せます」


「おまえに何がわかる」


老人の顔が歪んだ。


「昨日今日、牛を見ただけの子供に」


母ミウレイアが一歩出た。


しかしヴァイは手で止めた。


老人の言葉は正しい。


六歳の身体で、黒角の誕生も、最初の種付けも見ていない。


「全部はわかりません」


ヴァイは答えた。


「あなたが黒角を育てた年月は、俺にはありません。だから、黒角を殺すことが正しいとも、簡単には言いません」


「なら」


「それでも、群れを守るためには隔離します」


老人の期待が消えた。


「冬王に選ばれた者は、情がないのか」


胸へ刺さる言葉だった。


ヴァイは黒角を見た。


苦しそうな息。


濡れた鼻。


前脚を小刻みに震わせながら、それでも倒れまいと踏ん張っている。


前世で何頭も見送った。


助からないと知りながら、決断を一日延ばし、その一日でほかの家畜へ病気を広げた経験もある。


情があるから待つ。


待った結果、より多くを殺す。


その間違いを、もう一度するわけにはいかなかった。


「隔離では足りません」


ヴァイは言った。


「黒角を処分します」


村が凍った。


「若君」


村長の声が掠れた。


「まだ立っています」


「だから今です。倒れて苦しみ、病を撒き散らしてからでは遅い」


「黒角を失えば、来年の子牛が」


「三頭の若牛を残します。周辺村と種雄を交換する。交配を記録して近い血を避ける。黒角一頭へ頼る仕組みそのものを変えます」


老人ガルムはヴァイの胸を突いた。


六歳の身体が一歩下がる。


兵が動きかけた。


ヴァナールが立ち上がった。


黒い毛の間を冷気が走り、雪の表面へ細い霜が広がる。


ヴァイは狼へ命じなかった。


「ガルムを押さえないでください」


老人は泣いていた。


怒りではなく、すでに別れを知った者の顔だった。


「誰がやる」


「俺がやります」


ミウレイアが振り向いた。


「ヴァイ」


「命令した者がやるべきです」


「あなたは六歳よ」


「だから父上に手伝ってもらいます」


ヴァルフラムは報せを受け、昼過ぎに霜谷村へ到着した。


事情を聞いても、息子の判断を褒めなかった。


「本当にほかの道はないか」


「治す方法がわかりません。症状が出た牛を残せば、隔離係と道具を通じて広がる可能性があります」


「可能性だ」


「はい」


「間違っているかもしれん」


「はい」


「なら、命を奪った責任はどうする」


「忘れません。記録して、次に同じ症状が出たとき、この判断が正しかったか比べます」


ヴァルフラムは長く息を吐いた。


「冬脈を使え。だが、刃を振るうのは俺だ」


「自分でやると言いました」


「命令した者が、必ず自分の手で殺す必要はない。適切な者へ任せ、最後まで見届けるのも責任だ」


その言葉は、前世の自分が何度も部下へ言ったものと似ていた。


ヴァイは頷いた。


黒角は村外れの雪原へ連れ出された。


ガルムが最後まで手綱を持った。


老人は牛の額を撫で、耳の後ろを掻いた。黒角は苦しい息の合間に、慣れた手へ頭を傾けた。


ヴァルフラムは長い狩猟剣を抜いた。


「ヴァイ。気はどこへ通す」


「右足から腰。肩を固める前に肘を運び、最後に刃へ」


「見るだけではなく、支えろ」


ヴァイは父の背へ手を当てた。


自分の小さな気を、父の呼吸へ合わせる。


足。


腰。


背。


肩。


刃。


冬脈。


ヴァルフラムの剣が一度だけ動いた。


黒角は大きく震え、その場へ崩れた。


二度目は必要なかった。


ガルムが雪へ膝をついた。


誰も声を出さなかった。


ヴァイは黒角の前で頭を下げた。


「おまえの子を残す」


約束だった。


夕方、黒角の死骸は深い穴へ埋められた。解体も皮の利用もしなかった。惜しむ声はあったが、ヴァイは認めなかった。


七日目。


赤組で新たに症状を出す牛は一頭まで減った。


黄組と白組には、最後まで広がらなかった。


最初に倒れた牛の多くは助からなかった。二十三頭を失った。


しかし、二百頭は残った。


周辺村へ病気は広がらなかった。


霜谷村の人々は、数字の意味を知っていた。


二十三頭を殺した子供ではない。


二百頭を残した子供。


翌朝、ヴァイが牛小屋へ向かうと、赤組の世話人たちが道の両側へ並んでいた。


誰かが命じたわけではなかった。


村長が膝をついた。


続いて、若い男たちが。


最後にガルムが、ゆっくりと片膝を雪へついた。


「黒角を許したわけではありません」


老人は言った。


「許される必要はありません」


「だが、あの牛の子を守る方法を、俺は知りませんでした」


ガルムは顔を上げた。


「若君には見えている。俺たちが十年後に失うものまで」


ヴァイは否定しようとした。


未来が見えているわけではない。


危険を分け、数え、少し先の結果を比べているだけだ。


だが村人たちにとって、その差は小さかった。


彼らが一生かけても言葉にできなかった仕組みを、この子供は一日で作った。


二百人が相談しても決められなかったことを、迷いながらも一刻で決めた。


冬王の契約者。


十九日先の飢えを見抜いた者。


三日で兵の戦い方を変え、七日で村の病を止めた者。


畏れは、信仰だけではなくなっていた。


知識そのものへの畏れへ変わっていた。


この者がいれば、北は生き残れる。


この者を失えば、自分たちはまた、見えないものに殺される。


村長ハルクは胸へ拳を当てた。


「霜谷村は、冬王の仔を守ります」


「俺は守られるために来たのではありません」


「存じています」


「なら立ってください」


ハルクは立った。


けれど、その目の奥に生まれたものは消えなかった。


それは忠誠より早く、恩義より重い。


必要とされる者へ、群れが自ら牙を並べる瞬間だった。


帰りの狼橇で、ミウレイアは長いあいだ何も言わなかった。


ヴァナールが先を走り、黒い背が白い谷道を切り開いている。


「母上」


「何?」


「怒っていますか」


「いいえ」


返事が早すぎた。


ヴァイは待った。


母はやがて、膝の上で手を組んだ。


「あなたが黒角を殺したことではないの」


「では」


「あなたが、殺すべきだと決めたあと、泣かなかったことが怖かった」


ヴァイは自分の手を見た。


六歳の小さな手。


前世では、もっと大きく、皺と傷のある手だった。


多くの命を数えた。


失う数を減らすため、切り捨てる数を選んだ。


それができることを、強さだと思った時期もある。


「泣けば、決めなくて済みましたか」


「済まないわ」


ミウレイアは静かに答えた。


「でも、決めた者も傷つくのだと、皆に見せる必要はある。そうでなければ、人はあなたを神として恐れるか、怪物として恐れるようになる」


「どちらも、命令は聞きます」


母の目が鋭くなった。


「ヴァイセル」


正式名で呼ばれ、ヴァイは背筋を伸ばした。


「人は、恐れている間は従う。けれど、恐れしかなければ、あなたが弱った日に逃げるわ」


狼橇が雪の轍を越えて揺れた。


「群れを残したいなら、あなた自身も群れの中にいなさい」


ヴァイは前方を見た。


ヴァナールが振り返っている。


金の瞳が、同じ問いを投げていた。


群れの数を知るだけでなく、その痛みまで知っているか。


ヴァイは目を閉じた。


黒角が倒れた音を思い出した。


老人の手。


雪へ染みた血。


失った二十三頭。


残した二百頭。


どちらも記録する。


どちらも忘れない。


それが、今の自分にできる答えだった。


黒牙砦へ戻った翌日、ヴァイは霜谷村で使った赤、黄、白の札を父の執務室へ並べた。


「これを全村へ配ります」


ヴァルフラムが眉を上げた。


「病が出てもいない村へか」


「出てから作れば遅いです。牛、羊、人の病気で使える隔離規則にします。井戸、家畜小屋、糞捨て場の位置も書かせます」


「誰が書く」


「文字を使える者が少ないので、最初は絵と色です。銀梟族へ記録役を頼みます。白兎族には症状の見方を教えてもらう。灰鼠族には排水と埋却穴の作り方を」


父は札を一枚つまんだ。


「七日で一村を救い、その翌日に九部族へ広げるつもりか」


「遅いですか」


ヴァルフラムは声を上げて笑った。


「いや。おまえには、北の方が遅く見えているのだろう」


ヴァイには、むしろ逆だった。


現代では制度を一つ変えるために、会議が重なり、責任の線引きに月日を使う。


北方には何もない。


だから一度、必要だと理解されれば、古いものを残したまま上へ継ぎ足す必要もない。


昨日まで存在しなかった規則が、明日には村の掟になる。


冬王の権威が扉を開き、結果が人を走らせる。


この速度なら、できる。


飢えを減らす。


家畜を残す。


道を作る。


部族ごとに散らばった知識を、一つの群れへ集める。


一人ではない。


適切な者へ渡し、同じ失敗を二度しない仕組みにする。


ヴァイは赤い札の横へ、新しい木札を置いた。


そこには、狼の牙を一本だけ描いた。


霜谷村で決まった最初の規則を示す印だった。


後に北方全域で使われる「冬牙規則」の、最初の一枚である。



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