第2話 黒冠狼ヴァナール
ヴァイは、目を閉じたまま狼の息を聞いていた。
一つは、寝台の脇。
もう一つは、石壁の向こう。
さらに遠く、砦の中庭、犬舎、外門の見張り台。
音の数が多すぎる。
目を開けると、天井の太い梁が見えた。夜明け前の青い光が、細い窓から寝室へ差し込んでいる。
寝台の横には、黒冠狼ヴァナールが伏せていた。
大人が横になったほどの長い胴。雪を吸い込んだような黒い毛。額から首へ流れる銀灰色の毛だけが、薄闇の中で冠の形を作っている。
金色の目は閉じている。
それなのにヴァイには、扉の外を巡回する兵の足音がわかった。中庭の軍用狼が一頭、鎖を噛んでいることも、その隣の若い狼が昨夜から落ち着かず尾を腹へ巻いていることも、像ではなく気配として胸へ流れ込んでくる。
群狼視界。
いや、今は視界と呼べるほど明瞭ではない。
匂いと音と警戒心が、いくつもの細い糸になって頭へ絡みついていた。
ヴァイは息を整えた。
前世で初めて暗視装置を使ったときも、見えるものが増えたからといって判断が速くなるわけではなかった。情報が増えれば、選別する訓練が必要になる。
一つだけを選ぶ。
寝台の脇にいるヴァナールの呼吸。
ゆっくり吸い、短く吐く。
その間隔へ自分の呼吸を合わせると、遠くの気配が少し薄くなった。
――遅い。
冷たい意思が胸へ落ちる。
「五歳には、これでも早起きです」
――おまえは五歳だけではない。
ヴァイは返事をしなかった。
狼がどこまで理解しているのか、まだわからない。
黒田正則としての記憶を見られたのか。契約した瞬間に流れ込んだ感情から、年齢の不釣り合いを嗅ぎ取っただけなのか。
問いただすには、互いの言葉が足りなかった。
ヴァイは毛布をめくり、床へ足を下ろした。
石の冷たさが靴下越しに刺さる。昨夜の契約儀式で切った左親指には、白い布が巻かれていた。ミウレイアが眠っている間に替えたらしい。
衣服を着ようとして、袖の表裏を間違えた。
七十八年分の記憶が戻っても、五歳の服を一人で着る技術まで急に上手くなるわけではない。
ヴァナールの片目が開く。
「見なかったことにしてください」
――群れに隠し事をするな。
「服の失敗まで共有する群れは、少し近すぎます」
何度かやり直していると、扉が軽く叩かれた。
「ヴァイ、起きていますか」
母の声だった。
「はい」
扉が開き、ミウレイア・ノルヴァルが入ってくる。白兎族の淡い髪を後ろで結び、腕には子供用の毛皮外套を抱えていた。
彼女はまず息子を見た。次に、寝台脇の黒冠狼を見た。
昨日から何度も繰り返した確認だった。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「頭は痛みませんか。吐き気は」
「ありません。遠くの狼の音が入ってきます」
ミウレイアの指が、ヴァイの額へ触れた。
「熱はありませんね」
白霜狼フリヴァが扉の外から顔を出した。ヴァナールを見ると、白い耳をわずかに伏せる。恐れているというより、相手の位を認めて距離を測っているようだった。
ミウレイアは息子の外套を着せながら、小声で言った。
「昨夜、長老たちはほとんど眠っていません」
「黒冠狼の話ですか」
「冬王の再来、北の冠、九部族の主。好きな言葉を古い歌から拾っているようです」
「父上は」
「怒っています」
それなら少し安心できる。
ヴァルフラムは、五歳の末子を予言の旗にして担ぎ上げるつもりはない。
だが、父が拒んでも、黒冠狼を見た者の口までは閉じられない。
噂は雪道より速く広がる。
「食料庫へ行く前に、広間へ来るようにとのことです」
「長老たちがいますね」
「ええ」
ミウレイアは外套の留め具を締めると、息子の頬へ両手を添えた。
「わからないことは、わからないと言いなさい。昨日のあなたは、何でも背負おうとする顔をしていました」
七十八年の記憶を持つ男へ向けた言葉ではない。
五歳の息子へ向けた母の言葉だ。
それでも、正しかった。
「はい、母上」
「それから、朝食を食べなさい。群れを飢えさせないと誓った子が、自分から倒れては困ります」
ヴァイは頷いた。
隣でヴァナールが立ち上がる。
その肩は、五歳のヴァイの胸より高い。
ミウレイアが一歩だけ退いた。
ヴァナールは彼女を見たあと、ヴァイの外套の裾を鼻先で押した。
――行くぞ。
「俺の方が連れられているように見えませんか」
「少なくとも今は、そう見えます」
ミウレイアの口元が、わずかに緩んだ。
◇
黒牙砦の大広間には、夜の宴とは別の熱がこもっていた。
中央の長卓を挟み、父ヴァルフラムと黒狼族の長老たちが向かい合っている。
最長老ハーヴェン・ハルセンは、雪のように白い髭を胸まで垂らし、節くれだった両手を杖へ重ねていた。昨夜の契約儀式で文言を促した男である。
その両隣には、戦士家と狼飼い家の長が座る。
父の傍らには鉄狼ガンヴァル。金属のような毛を逆立てず、低く伏せているが、その目は長老たちから離れない。
ヴァイが入ると、全員の視線が一斉に集まった。
視線より先に、室内にいた狼たちが反応する。
伏せていた耳が寝る。
尾が下がる。
爪が石床を掻く。
ヴァナールは何もしていない。
ただ歩いているだけだった。
「来たか」
ヴァルフラムが言った。
ヴァイは父へ礼をし、母とともに末席へ向かおうとした。
ハーヴェンの杖が床を打つ。
「そこではない」
長老は、父の向かい側に置かれた空席を示した。
族長と対面する席。
五歳の子が座る場所ではない。
「ヴァイは俺の子だ」
父の声が硬くなる。
「契約の翌朝から、族長会議へ座らせるつもりはない」
「ただの子ならばな」
ハーヴェンはヴァナールを見た。
「黒冠が現れた。古歌にある冬王の血だ。これを見て、昨日までと同じ席へ座れと言う方が無理だ」
「狼が現れただけだ」
「王種の狼だ」
「それでも狼だ」
ヴァナールの金色の目が父へ向く。
胸へ、わずかな不満が流れた。
ヴァイは心の中で言う。
父上はおまえを侮っているのではない。俺を守っている。
返ってきたのは、雪原に鼻を鳴らすような感覚だった。
理解したのか、興味がないのかはわからない。
ハーヴェンが続ける。
「せめて、王種がこの子へ従うところを確かめねばならん」
「従いません」
ヴァイが答えた。
広間の空気が止まる。
父がこちらを見た。
ハーヴェンは耳が遠くなったのかという顔をする。
「何と言った」
「ヴァナールは、俺の命令に何でも従うわけではありません。契約は主従ではなく、群れの盟約です」
「ならば、契約できておらぬのではないか」
「血と真名と誓いは結ばれました」
「命じてみせよ。頭を垂れさせろ」
ヴァイはヴァナールを見た。
黒冠狼もヴァイを見る。
頭を下げろと頼めば、おそらく拒む。
強制しようとすれば、契約の意味を自分から壊す。
「しません」
「できぬのか」
「必要がないからです」
ハーヴェンの眉が跳ねた。
「五歳の子が、必要を語るか」
「長老は、ヴァナールが俺の言うことを聞くか確かめたい。ですが、頭を下げさせても、戦うときに俺を守る証明にはなりません」
「では、何なら証明になる」
ヴァイは少し考えた。
「俺が群れを守る判断をして、ヴァナールがそれを認めることです」
「言葉遊びだ」
ハーヴェンが吐き捨てる。
その瞬間、長卓の上に置かれた銀杯が鳴った。
杯の縁から、黒い霜が伸びている。
昨夜の酒が底にわずかに残っていた。その水分だけを拾い、薄い黒氷が卓の木目を走った。
狼たちが一斉に伏せる。
ガンヴァルだけが前脚を踏ん張り、頭を下げずに耐えた。
ヴァナールは吠えもしない。
広間へ流れたのは、獣の声ではなかった。
雪の下で群れを失う恐怖。
飢えた夜に、最後の肉を誰へ渡すか決める重さ。
幼い狼を囲み、吹雪へ背を向ける成獣たちの意志。
人の言葉にすれば、一つだった。
――群れを軽く語るな。
ハーヴェンの手が杖を強く握った。
ヴァイのこめかみに痛みが走る。
契約を通して流れ込む圧が強すぎる。
「ヴァナール」
呼ぶと、黒氷の伸びが止まった。
命令ではない。
これ以上は必要ないと伝えただけだった。
ヴァナールは視線を長老から外し、ヴァイの隣へ伏せる。
父が深く息を吐いた。
「見ただろう」
ヴァルフラムは長老たちへ言う。
「この狼は誰の冠にもならん。ヴァイも、今日から王になるわけではない」
「だが、兆しは」
「兆しで冬は越せん」
父の言葉が、広間を切った。
「こいつが昨夜欲しがったのは冠ではない。食料庫の鍵だ。まず、そちらを見せる」
長老の一人が鼻を鳴らした。
「五歳に倉を見せて何が変わる」
ヴァイは答えなかった。
変わるかどうかは、見てから決める。
父は席を立った。
「ハーヴェン。おまえも来い。予言を数えたいなら、麦袋も数えろ」
◇
地下食料庫の扉は、朝の冷気より重かった。
鉄の鍵が錠の中で二度引っ掛かり、倉役のエイヴァル・ホルムが肩を入れて回す。
五十を越えた細身の男で、黒狼族には珍しく剣より筆を長く持ってきた人物だという。腰には鍵束と、小さな蝋板が下がっている。
「昨夜のうちに開けておけと言われましてな」
エイヴァルはヴァイへ笑いかけたが、その笑みは固い。
族長、最長老、三人の夫人、五歳の末子、黒冠狼。
倉役にとって、歓迎したい見学者ではない。
扉が内側へ開く。
冷たい空気が流れ出した。
ヴァイは敷居を越える前に立ち止まった。
匂いを分ける。
乾いた大麦とライ麦。
馬へ回す燕麦。
土のついた蕪と根菜。
干した魚。
塩。
燻した肉。
木樽。
鼠の糞。
そして、濡れた麻袋と、かすかな黴。
昨夜、扉の外で感じたものより強い。
「灯りを増やせ」
父が命じた。
兵が獣脂灯を三つ持ち込み、壁の金具へ掛ける。
地下庫は、長い石室が三つ連なっていた。
入口側には大麦とライ麦の袋。燕麦は馬の飼料分と人が食べる分を分けずに積んである。奥には乾燥豆、蕪、ほかの根菜の木箱。別室には干魚、塩漬け肉、燻製、硬いチーズ、酒樽、種子袋があった。
一見すれば、豊かに見える。
袋は人の背より高く積まれ、木箱は壁沿いに並んでいる。
だが、前世で倉庫を見てきた正則の目には、最初から問題が多すぎた。
それ以前に、食べ物の組み立て方そのものが危うい。
北方全体を「麦を食う土地」と一括りにはできない。谷底の畑なら早生の大麦と少量のライ麦が育つ。東の海沿いなら、冬から春先の冷たい風で魚を乾かせる。森と湖の民は狩りと漁に強く、草地を持つ村は乳、チーズ、羊、山羊を冬へ残せる。高地では、穀物を主食にしようとすること自体が無理になる。
前世のジャガイモがあれば、短い生育期間と収量の面で心強い。だが、この世界でヴァイは種芋を見たことがない。知識だけでは作物は生えない。絵に描いた芋を土へ埋めても、秋の食料にはならなかった。
今あるものを使うなら、早く実る大麦、寒さに耐える蕪、乾燥豆、牧草、乳製品、干魚を組み合わせる方が現実的だ。どれか一つを増やすのではなく、一つが失敗しても別の食料が残る形にする。
王国暦には春夏秋冬がある。北にも四季はある。ただし暮らしの上では、長い雪の季節と短い育てる季節、その間に数週間ずつ泥と洪水の春、初霜と収穫の秋が挟まるだけだった。夏の日は長い。問題は光ではなく、実る前に次の霜が来ることだ。
土地ごとに違う余りを作り、腐る前に交換する。北を生かすには、畑だけでなく、海、森、家畜、道、倉を一つの食料庫として数えなければならない。
袋が石壁へ直接触れている。
床にも敷板がない。
上段と天井の間が狭く、空気が動かない。
通気口の一つは、吹き込む雪を嫌って布と藁で塞がれていた。
温度が低ければ腐らない、という考えなのだろう。
だが、人が出入りし、灯りを使い、外気温が変われば結露する。
石壁に触れた袋から湿気を吸う。
「帳簿では、大麦が百四十二袋、ライ麦が六十二、燕麦が三十二。合わせて二百三十六袋です」
エイヴァルが蝋板を読み上げた。
「乾燥豆が三十二箱。蕪と根菜が大箱で六十一。干魚が五十八束、塩肉が四十樽、燻製肉が二十一束。硬いチーズが十四輪。種は大麦三十一袋、ライ麦十二袋です」
ヴァイは麦袋の前へしゃがんだ。
「この袋は、全部同じ量ですか」
エイヴァルは一瞬、質問の意味を測った。
「一袋は一袋です」
「大きさが違います」
入口近くの袋と、壁際の袋では幅が違う。
「納めた村ごとに袋が違いますので」
「重さは量りましたか」
「税は袋数で受けます。中身が極端に少なければ戻しますが」
「極端でなければ、そのままですか」
「昔からそうです」
ハーヴェンが不機嫌そうに言った。
「村で袋まで揃えさせれば、袋を作る麻が足りん」
「揃える必要はありません。中身の重さを量ればいい」
「その秤を全村へ配るのか」
「まず、ここへ一つあればいいです」
ヴァイは袋の口を触った。
麻が冷たく湿っている。
「これを下ろしてください」
兵二人が上段の袋を持ち上げた。
底が壁から離れた瞬間、黒い粉が落ちる。
麦ではない。
鼠の糞と、齧られた麻の繊維だった。
エイヴァルの顔色が変わる。
袋を床へ置くと、底の穴から麦粒がこぼれた。湿った粒が固まり、灰緑色の黴が薄く広がっている。
ミウレイアが膝をつき、指先で一粒を割った。
「これは食べさせない方がいいですね」
「煮ても駄目ですか」
父が聞く。
「酷い部分は。人にも家畜にも、腹を壊すものがあります」
エイヴァルが慌てて言う。
「上の袋は乾いております。壁際だけでしょう」
「確かめましょう」
ヴァイは立ち上がった。
「袋を全部、三つに分けます。乾いているもの。少し湿っているもの。黴や鼠害があるもの」
「全部だと?」
倉役が目を見開く。
「今日一日では終わりませんぞ」
「何日かかりますか」
「人を十人入れて、二日は」
「では十人で二日です」
「ヴァイ」
父の声が飛ぶ。
「命令するのは俺だ」
ヴァイは振り返った。
「申し訳ありません」
五歳の身体に戻ったことを、時々忘れる。
ここは自分の農場でも部隊でもない。
ヴァルフラムが族長であり、責任者だ。
父は息子をしばらく見たあと、エイヴァルへ向く。
「十人で二日だ。やれ」
「は」
「袋を運ぶ前に、どの位置にあったか記せ。捨てるな。食えるかどうかはミウレイアが決める」
ヴァイは父を見上げた。
命令を奪い返しながら、内容は採用した。
組織を崩さずに動かすやり方だった。
ヴァルフラムは政治や商売が苦手だと家族は言う。
だが、戦士を従える手順は知っている。
「次に何を見る」
父が聞いた。
「帳簿と、実際の袋の数です」
「エイヴァル。持ってこい」
倉役は胸元から鍵をもう一つ出し、壁の小箱を開けた。
中には蝋板と羊皮紙の束が入っている。
記録はあった。
収穫期に納められた袋。
冬の祭りへ出した量。
兵へ渡した分。
厨房へ回した分。
だが、書き方が揃っていない。
ある日は「麦三袋」。別の日は「兵五十人、十日分」。酒造りへ回した分は樽数しかなく、何袋の麦を使ったか書かれていない。
途中から筆跡も変わっている。
「これは誰が」
「秋までは私が。冬の初めに熱を出しまして、その間は甥が」
「甥御さんは、同じ数え方を教わりましたか」
エイヴァルは答えに詰まった。
父の眉間に皺が寄る。
「盗んだのか」
「お待ちください」
ヴァイはすぐに言った。
「まだ、そうとは決まりません」
「帳簿が合わんのだろう」
「合わない理由は、盗み以外にもあります。袋の大きさが違う。酒にした量がない。湿気で重さも変わる。鼠に食われた。数え方が途中で変わった」
「だから、誰も悪くないと言うのか」
「誰が悪いか決める前に、どれだけ残っているかを知りたいです」
父の顔は険しい。
ヴァイは言葉を選んだ。
「春まで足りるなら、後からゆっくり調べられます。足りないなら、今は犯人探しより先に食べ物を集めるべきです」
ハーヴェンが低く唸った。
「子供のくせに、盗人を庇うか」
「盗人がいるなら、後で必ず調べます」
ヴァイは長老を見る。
「ですが、盗人を吊るしても麦は増えません」
石室が静かになった。
正しい順番を言ったつもりだった。
それでも、五歳の口から出ると冷たく聞こえる。
ミウレイアがわずかに目を伏せた。
ヴァナールから、興味に似た感覚が流れてくる。
――数える者は、牙を後にするのか。
今はそうだ。
必要なら、後で使う。
――後で、忘れるな。
忘れない。
父が蝋板を卓代わりの木箱へ置いた。
「まず残りを数える。エイヴァルの甥は逃がすな。だが、縛るな」
倉役が深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
数える仕事は、思ったより遅かった。
袋を一つ下ろす。
口を確かめる。
簡易秤へ載せる。
乾燥、湿り、廃棄候補の印を木札へ刻む。
元の位置を蝋板へ書く。
同じ作業を繰り返す。
ヴァイは自分で袋を運べない。
五歳の腕では、木札を並べ、数字を読み上げることしかできない。
その事実に苛立ちそうになるたび、前世の自分を思い出す。
指揮官が自分で荷物を全部運べば、作業は遅くなる。
役割を分ける。
手順を決める。
誰が代わっても同じ結果になる形へする。
ヴァイは床へ炭で三つの枠を描いた。
乾。
湿。
捨。
文字を読めない兵にもわかるよう、それぞれ太陽、水滴、骨の印を添える。
「骨は家畜の餌という意味か?」
ローヴェンが聞いた。
いつの間にか、学院出発の準備を抜け出して手伝いに来ていた。大きな袋を一人で肩へ担ぎ、兵二人分の仕事をしている。
「食べさせてはいけないもの、という意味です」
「麦を捨てるのか」
「病気になる麦を食べれば、もっと食べ物が減ります」
「焼けば平気だろう」
「わからないものもあります」
「わからないなら、捨てるな」
ヴァイは兄を見る。
ローヴェンは責めているのではない。
食べ物を捨てることへの、本能的な抵抗だ。
北方では、一粒の穀物にも、蕪一つにも、冬を越える重さがある。
「すぐには捨てません。母上と白兎族の薬師に見てもらいます。使えるものだけ、別にします」
「ならいい」
ローヴェンは次の袋を担いだ。
兄は細かい数字を好まない。
だが、意味がわかれば動く。
それは兵士の多くも同じだった。
ヴァイは数字を命令へ翻訳する必要がある。
昼前、壁際の一角から鼠が三匹飛び出した。
兵が足で追うより早く、ヴァナールの頭が動く。
黒い影が一度跳ねた。
次の瞬間、三匹の鼠は床へ並んでいた。
噛み潰されてはいない。
首だけが折れている。
「黒冠狼が鼠捕りをするとは」
ローヴェンが腹を抱えて笑った。
ヴァナールの尾が一度、石床を打つ。
――巣を荒らすものは、小さくても敵だ。
「兄上。聞こえたら笑えないと思います」
「何と言った」
「次は兄上を並べるそうです」
「嘘をつけ」
――言っていない。
「少し意訳しました」
ヴァイが答えると、倉の空気が初めて軽くなった。
だが、作業が進むほど、数字は重くなった。
帳簿にある穀物二百三十六袋のうち、実際に見つかったのは二百十九。
そのうち、二十一袋は壁側が湿っていた。
八袋は鼠に大きく破られ、黴も深い。
袋ごとの量を簡易秤で揃えて換算すると、すぐに食用へ回せる大麦とライ麦、食用へ転用できる燕麦は、標準袋で百八十四袋分しかなかった。
乾燥豆は記録より三箱少ない。
蕪と根菜は数こそあったが、底の箱で凍結と腐敗が始まっている。
干魚は軽く長く保つが、量の記録が「一束」だけで、一本の太さも束ねる数も違った。塩肉、チーズ、豆は穀物を減らす助けになる。しかし、病人、子供、軍用狼、犬へ回す分まで食べれば、別の場所が先に崩れる。
燕麦も同じだった。人が粥にすれば今日を延ばせるが、馬が痩せれば、春の耕作と南への輸送が止まる。食べ物は、袋の数だけではなく、誰の働きを支えるかまで含めて数えなければならない。
「城内と冬営の人数は」
ヴァイが聞く。
エイヴァルが別の蝋板を出した。
「兵、家臣、職人、家族を合わせ、三百と十二です」
「毎日ここから食べる人だけですか」
「村から働きに来る者もおります。帰る日に食料を渡す者も」
「その人数は」
「日によりますな」
「軍用狼は」
「四十三。犬が二十六。馬は百十八ですが、馬の飼料は別倉です」
「狩りに出る狼も、毎日肉を食べますか」
狼飼いの長が答える。
「獲れれば自分で食う。吹雪で出せぬ日は倉からだ」
日によって変わる。
それ自体は当然だ。
問題は、変わった量が記録されていないことだった。
ヴァイは、成人一人が一日に必要とする食事を一とすることにした。
子供は年齢で半分から七分。
老人と病人は量を単純に減らさず、穀物を粥にし、豆や魚を柔らかくして配る。
重労働の兵と伐採夫は増やす。
大麦、ライ麦、燕麦、豆、蕪、魚、肉、乳製品では、腹を満たす量も役割も違う。だから最初は、現在の厨房が実際に使っている一日分を基準にし、それぞれ何日持つかを別々に出す。
完全ではない。
体格も仕事も違う。魚だけで腹を満たしても穀物の代わりにはならず、蕪だけを増やせば人は動けない。
それでも、「三百十二人だから三百十二人分」よりは実態に近づく。
エイヴァルと厨房頭へ聞き取りを重ね、現在の配給を標準袋へ直す。
人へ出す穀物は、一日におよそ二袋と三分の二。
すぐ食べられる穀物は百八十四袋分。
「穀物だけなら、六十九日です」
ヴァイが言った。
父、母、長老、兄、倉役が木箱を囲んでいる。
炭で書いた数字は、幼い字で歪んでいた。
百八十四を、二と三分の二で割る。
「何がだ」
父が聞く。
「今までと同じように配れば、穀物がなくなるまでです」
「雪解けは」
「河が動き、狩りと採集が安定して戻るまで、早くても百八日ほど」
ウルナ婆様の記録と、砦の年寄りたちの話から見積もった数字だった。
まだ会ったことのない白兎族の天候見が、毎年、雪、氷、最初の芽、渡り鳥を記した木札を残している。ミウレイアが、その写しを持ってきてくれた。
北の春は、雪が消えた日から畑が実る季節ではない。泥と雪解け水の中で種を播き、百日ほどの育つ時間を秋霜と争う始まりにすぎなかった。
「豆、蕪、干魚、肉、チーズを組み替えれば」
「穀物を減らして二十日ほど延ばせます。ですが、全部を食べ尽くせば、病人と狼へ回す魚と肉がなくなります。馬へ回す燕麦まで食べれば、春の畑を起こせません」
「種がある」
ハーヴェンが奥の別室を見た。
大麦三十一袋、ライ麦十二袋。
「種を食えば、さらに十六日」
ヴァイは答えた。
「それでも足りません。それに、種を食べて越した春は、秋の飢えを予約するだけです」
沈黙が落ちた。
十九日。
数字にすれば、それだけだ。
だが、三百人を十九日食わせるには、穀物だけで五十袋近く必要になる。
その五十袋は、倉のどこにもない。
父が腕を組む。
「去年の冬も越した」
「去年は、今より人が少なく、秋の収穫が多かったと帳簿にあります」
「狩りで補える」
ローヴェンが言う。
狼飼いの長が首を振った。
「獣が山へ上がっている。今年は足跡が少ない。四十三頭を毎日出せば、先に狼が痩せます」
「南の市場から買う」
アストリッドが提案した。
エイヴァルが難しい顔をする。
「冬道です。荷車は黒樹峡を越えられません。橇なら運べますが、五十袋を買えば銀が」
「王都からの守備金があるだろう」
父が言った。
エイヴァルは頷いた。
王家は毎年、辺境守備の名目で銀貨を送ってくる。だが、北方の村では税も賃金も、穀物、毛皮、鉄、労働で払うことが多い。銀貨は地元で何かを買う道具ではなく、南方商人へ渡すために箱の中で眠っていた。
「銀貨一枚で、穀物はどれだけ買えますか」
ヴァイが聞く。
「南袋一つです」
「去年も」
「同じです」
「一昨年は」
「同じですな。バルテス商会とは、昔からその取り決めで」
ヴァイは食料庫の袋を見た。
北の一袋ですら大きさが揃っていない。南袋が何kg相当か、誰も量っていない。豊作でも凶作でも銀貨一枚。運賃が上がっても下がっても一枚。そんなものは価格ではなかった。相手が決めた交換の呪文だ。
しかも商会は、北から毛皮や氷魔晶石を受け取るときにも、自分たちの秤と交換率を使う。北の品を安く取り、南の食料を高く渡す。銀貨を挟んでいても、実態は一方だけが値を知る物々交換だった。
貨幣が流通していないこと自体が悪いのではない。暮らしの近い村同士なら、干魚と蕪、薪と毛織物を直接交換した方が早いこともある。問題は、遠方との取引で重さ、品質、相場、運賃を分けず、ただ一人の商人が示す比率を値段だと思っていることだった。
「銀の問題は後だ」
父が切った。
「道と日数は」
「最も近い市場で往復二十日。吹雪なら一月」
十九日分を買うために、最短でも二十日。
しかも、必要量が知られれば値を上げられる。今から南だけを頼るのは、遅すぎるうえに高くつく。
ヴァイは炭を置いた。
「今すぐ、食べる量を半分にする必要はありません」
全員の目が向く。
「まず、損を止めます。湿った袋を乾かす。壁と床から離す。通気口を開ける。鼠穴を塞ぐ。大麦、ライ麦、燕麦、豆、蕪、魚、肉を分け、毎日の出入りを同じ単位で書く」
「それで食料が増えるのか」
ハーヴェンが問う。
「減る速さが遅くなります」
「足りぬ分は」
「砦だけで決められません。外の村に何が余り、何が足りないかを数えます。谷の村へ海のやり方を押しつけず、海の村へ麦作を命じない。畑では早く実る大麦と蕪、草地では冬飼料と乳、川と海では干魚、森では狩りと採集を見ます」
ヴァイは一度息をついた。
「同じものを全村で作れば、同じ寒波で全部失います。違う食料を余らせ、冬道が通るうちに交換する方が強い。そのために、まず重さと保存日数を揃えます」
「銀貨を村へ配るのか」
エイヴァルが問う。
「今は無理に使わせません。村同士は物で交換してもいい。ただ、交換した品を共通の重さと食べられる日数で記録します。南と取引するときだけ、銀貨一枚で何が何kg買えたか、運賃はいくらか、三つ以上の相手から聞きます」
「北方中を数えるつもりか」
「最初は、黒狼族の領内だけです」
ヴァイは父を見る。
「霜谷村から始めさせてください」
実母ミウレイアが管理する小領地。
砦より小さく、畑と家畜が近い。
試すには適している。
「なぜ霜谷だ」
「母上の村なら、失敗したときに隠さず教えてもらえます」
ミウレイアがわずかに目を見開いた。
「それに、ここの倉だけ直しても、村が飢えれば人は砦へ来ます。昨日、俺が誓った群れは、この壁の内側だけではありません」
ヴァナールが立ち上がった。
胸へ、冷たい風のような感覚が流れる。
――ようやく、外を見たか。
ヴァイは黒冠狼へ視線を向けた。
「でも、今は目の前の麦です」
――小さい群れを守れぬ者に、大きい群れは守れぬ。
それは、前世で何度も学んだことでもあった。
父は長卓ではなく、黴の出た穀物袋を見た。
「エイヴァル」
「は」
「今日から、出したものはすべて重さで記せ。秤が足りなければ作れ」
「ですが、標準の重りが」
ヴァルフラムは腰の短剣を抜き、卓へ置いた。
「まず、これを一としろ。正しい重さは後で決める。全員が同じ物を基準にすれば、昨日との差はわかる」
ヴァイは父を見た。
完璧な標準ではない。
だが、今すぐ始められる。
正則なら、同じ判断をしただろう。
「それでいいと思います」
「おまえの許しは要らん」
「はい」
「ハーヴェン」
父は最長老へ向く。
「各戦士家へ知らせろ。黒冠が王を選んだという話ではない。倉の食料が足りんという話だ」
ハーヴェンの顔が渋くなる。
「どちらが人を動かすと思う」
「腹が減れば、予言より先に動く」
父は断言した。
「それでも王の話をしたいなら、五十袋分の食料を持ってこい」
ローヴェンが吹き出した。
アストリッドも笑いを隠さない。
最長老は杖で床を一度打った。
「わかった。まず食料だ」
それは完全な敗北ではない。
長老は予言を捨てていない。
ただ、順番を変えた。
ヴァイには、それで十分だった。
◇
夕方、地下庫の入口には、乾いた袋と湿った袋が別々に積まれていた。
壁から手の幅二つ分を空け、壊した木箱を敷板へ作り替えている。
塞がれていた通気口から細い風が入り、獣脂灯の炎を揺らした。
作業はまだ半分も終わっていない。
それでも、朝より匂いが違った。
ヴァイは木箱へ座り、蝋板の数字を見ていた。
百八十四。
六十九日。
百八日。
不足十九日。
数字にしたことで、危険は見えた。
同時に、自分が何も解決していないことも見えた。
「顔が暗いな」
父が言った。
いつの間にか、入口に立っている。
「足りないとわかっただけです」
「わからぬまま食い尽くすよりいい」
「でも、食料は増えていません」
「五歳が一日で大麦を生やしたら、俺はそちらの方を恐れる」
ヴァイは父を見上げた。
ヴァルフラムは冗談を言う顔ではない。
だが、口元がほんの少し動いている。
「春になったら、ミウレイアと霜谷へ行け」
「よろしいのですか」
「砦で数字を書くより、畑と牛を見ろ。おまえの言うことが本当に役立つか、村で試せ」
「失敗したら」
「失敗したと書け」
父は短く答えた。
「隠した失敗は、二度目に人を殺す」
ヴァイは、その言葉を覚えておくことにした。
ヴァナールが地下庫へ入ってくる。
口には、一匹の鼠をくわえていた。
湿った袋の陰へ置き、ヴァイを見る。
――一つ減った。
「不足は十九日です」
――ならば、一つずつ減らせ。
狼の計算は乱暴だった。
だが、間違ってはいない。
鼠を一匹減らす。
湿った袋を一つ救う。
出入りを一回記録する。
村を一つ調べる。
そうして初めて、十九日という穴を埋められる。
ヴァイは蝋板へ新しい行を刻んだ。
明日すること。
倉の残りを数える。
厨房の配給を量る。
大麦、ライ麦、燕麦を分ける。
干魚、蕪、豆、チーズを食料日数へ直す。
馬の飼料を調べる。
過去の南袋を量り、銀貨との交換記録を探す。
霜谷村の戸数、畑、家畜、干草、蕪の種を母へ聞く。
五歳の字は、まだ歪んでいる。
だが、数字は読めた。
黒冠狼を得た翌日、ヴァイは王の予言を受け取らなかった。
代わりに受け取ったのは、湿った穀物袋と、春まで十九日足りないという現実だった。
そしてそれは、どんな予言よりも確かな未来だった。
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