第1話 七十八歳、五歳になる
人は死ぬ間際に、一生を順番に思い出すものだと、黒田正則はどこかで聞いたことがあった。
実際には、そんなに整ったものではなかった。
最初に浮かんだのは、白かった。
北海道東部の夜道。除雪車が通ったあとの路面を、横殴りの雪がわずか十分で埋め戻していく。風は車体を揺らし、ヘッドライトの光を壁のように押し返していた。
次に浮かんだのは、数字だった。
外気温、風速、道路脇までの距離、残った燃料、車内にいる人間の数。
吹雪の中で正則が数えるのは、いつも生き残るために必要なものだった。
道路を塞ぐように止まった軽自動車を見つけたのは、地域の防災倉庫を確認して農場へ戻る途中だった。運転席の女は意識を失い、後部座席では小さな男の子が泣く力もなく震えていた。
携帯電話はつながらない。
車内で救助を待つには、排気口が雪で塞がれ始めていた。
正則は迷わなかった。
七十八歳の身体は、三十年前のようには動かない。そんなことは自分が一番よく知っていた。だからこそ、無駄な動きをしなかった。
女の呼吸を確かめ、子供を毛布で包み、自分の防寒着を重ねる。車の位置を示す発光灯を雪面へ立てる。風上と風下を見誤らないよう、何度も足元を確かめた。
「目を閉じるな。おじいちゃんの声を聞け」
子供は答えなかった。それでも瞼がかすかに動いた。
遠くに、除雪車の灯りが見えた。
百メートルもないはずの距離が、ひどく長かった。
正則は子供を抱き上げた。
一歩。
二歩。
三歩。
自衛官だったころ、負傷者を背負って雪中を歩いたことがある。災害派遣で、崩れた道路を越えて薬を運んだこともある。退官してからは、難産の仔牛を一晩中見守り、春先の洪水で孤立した隣家へロープを張った。
そのどれよりも、今の百メートルは遠かった。
子供を除雪車の作業員へ渡したとき、正則の指先にはもう感覚がなかった。
「車に、母親がいる。呼吸はある。排気を……」
そこまで伝えた。
伝えるべきことは伝えた。
膝が雪へ沈んだ。
助け起こそうとする声を聞きながら、正則は不思議なほど冷静だった。低体温症。判断力の低下。眠気。ここで目を閉じるなと、何十年も他人へ言ってきた。
だが、身体は命令を聞かなかった。
最後に考えたのは、救った子供のことではない。
翌朝の搾乳を誰が代わるのか。乾草庫の北側に積んだ三番草を、若い衆は覚えているだろうか。防災倉庫の発電機は満タンにした。避難所の鍵は役場にもある。
一つずつ確認して、ようやく息を吐いた。
自分一人が欠けても、仕組みが残っていれば回る。
そういうものを作るために、生きてきた。
白い世界が閉じた。
◇
次に目を開けたときも、雪が降っていた。
ただし、正則の頬に当たる雪は、吹雪の夜道よりもずっと乾いていた。
空気には排気ガスもアスファルトの匂いもない。代わりに、獣脂の松明、濡れた毛皮、鉄、狼の息、石壁へ染み込んだ古い煙の匂いがした。
彼は黒い石の上に膝をついていた。
手が小さい。
視線が低い。
肩から掛けられた毛皮は重く、両手で支えなければずり落ちそうだった。
目の前には、雪をかぶった円形の石壇がある。中央の浅い鉢へ、赤い血が一滴落ちていた。
自分の左親指から流れた血だった。
「ヴァイセル」
低い声が名を呼んだ。
ヴァイセル・ウラ・ノルヴァル。
家族が呼ぶときは、ヴァイ。
名を聞いた瞬間、五年間の記憶が堰を切った。
母の乳の匂い。
黒牙砦の高い天井。
暖炉の前で眠る狼たち。
雪の中を兄に抱かれて走ったこと。
文字を教えるセレネの指。
熱を出した夜、ミウレイアが冷たい掌を額へ当ててくれたこと。
アストリッドの笑い声。父の大きな背中。
それらは、今までにも夢のようにあった。
同時に、別の土地の牧場、部隊宿舎、会議室、病院、海外の石造りの館も断片として見えていた。
幼い頭では二つの人生を結びつけられず、眠るたびに知らない老人の夢を見ているのだと思っていた。
だが今、雪の匂いと血の熱が鍵になった。
黒田正則として生きた七十八年が、ヴァイの五年間へ一息に流れ込んだ。
頭蓋の内側を鉄槌で打たれたような痛みが走る。
ヴァイは石壇へ手をついた。
「ヴァイ!」
女の声と同時に、白い毛皮が視界へ入った。
母ミウレイアが駆け寄ろうとする。だが、その肩を父ヴァルフラムが片手で制した。
「待て。儀式の途中だ」
「倒れたのですよ!」
「ふらついただけだ」
父の声は岩のように硬い。
冷たいのではない。五歳のヴァイはそれを知っている。ヴァルフラムは恐れているときほど、声を硬くする。
ヴァイはゆっくり息を吸った。
ここは北海道ではない。
自分は死んだ。
そして、五歳の少年として生きている。
受け入れるには大きすぎる事実だった。
それでも、今は儀式の途中らしい。
ならば、まず目の前を処理する。
感情は後でいい。
そう考えた途端、ひどく懐かしい感覚がした。
災害現場でも戦場でも、正則は同じようにしていた。
「大丈夫です、母上」
口から出た声は高く、息が震えていた。
七十八歳のつもりでも、喉は五歳だった。
ミウレイアは唇を結び、頷いた。淡い色の髪の下で、その目だけが息子を離さない。
石壇を囲むように、ノルヴァル家の者たちが立っている。
正面には父ヴァルフラム・ノルヴァル。背には幅広の剣。傍らには、灰黒い金属の毛を持つ鉄狼ガンヴァルが伏せている。
父の右には第一夫人アストリッド・ロスグラード。赤熊族の出らしく、冬の礼装でも肩幅の広さが隠れない。彼女の後ろでは赤牙狼ラグヴァが熱い息を吐き、降った雪を足元から溶かしていた。
左には第二夫人セレネ・シルアーン。銀梟族の濃紺の衣をまとい、細い指を胸の前で組んでいる。星詠狼セラヴェルはその影へ溶けるように座り、夜色の瞳で石壇を見ていた。
ミウレイア・ウラリーネはヴァイの実母で、第三夫人だ。白兎族の柔らかな衣と白霜狼フリヴァの淡い毛並みが、雪の中では境目を失いそうだった。
兄姉たちもいる。
十五歳の長兄ローヴェンは、誰より前へ出たがる身体を辛うじて押さえていた。背後の雪狼イスヴァルまで同じように前脚へ力を込めている。
十三歳のシグヴァルは風狼リュヴァンの首へ手を置き、周囲の長老たちの顔を静かに読んでいた。
十二歳のユルヴァは心配を隠さず、十歳のベルヴァンは石壇が壊れないかを見ているような顔をし、八歳のエルヴィアは礼装の裾を乱さずに立っていた。
全員が、ヴァイを見ていた。
黒狼族の族長家では、五歳になると契約儀式を行う。
魔法を使うのは人ではない。魔法生物だ。
人は血と真名と誓いを差し出し、魔法生物がそれを受け入れたときだけ、魂の一部が結ばれる。
選ぶのは、獣の側。
族長の子であろうと、獣が現れないことはある。
現れても、契約を拒まれることがある。
ヴァイはその知識を、五歳の記憶として知っていた。
同時に、七十八年の記憶は別のことを告げていた。
この場は宗教儀礼であると同時に、公開の人事評価だ。
父、母、兄姉、長老、戦士、家臣。皆が末子の価値を見定めている。
兄姉全員がすでに魔狼と契約している。
末子だけ何も得られなければ、家族は責めないだろう。
だが、部族は覚える。
「名を」
石壇の外に立つ長老が促した。
白い眉が風に揺れている。名は知っているはずなのに、正則の記憶と混ざってすぐには出てこない。
無理に探す必要はない。
今は儀式の文言を間違えないことが先だ。
ヴァイは血の滲む親指を、石鉢の上へかざした。
「我が名は、ヴァイセル・ウラ・ノルヴァル」
正式な名を口にすると、石壇の刻印が淡く光った。
「我が血を一滴。我が息を一つ。我が名を偽らず、汝の真名を奪わず、互いに守る誓いを求める」
風が石壁を越えて吹き込む。
松明が揺れた。
何も起きない。
円の外で、軍用狼たちが鼻を鳴らした。
ヴァイは待った。
五歳の身体には、沈黙が長すぎた。
足の指が冷え、膝が痛み、親指の傷が脈打つ。周囲の視線が重くなっていくのがわかる。
正則だったころ、会議で沈黙することには慣れていた。
答えを急いだ者から不利になる場も多かった。
しかし、ここには交渉相手の姿さえない。
一分。
二分。
雪だけが落ちる。
長老の一人が咳払いをした。
「血が薄いのではないか」
別の声が小さく返す。
「母方は白兎だ。狼が応じぬこともある」
アストリッドの赤牙狼ラグヴァが唸った。
人の囁きへ反応したのではない。主人の怒りを感じ取ったのだろう。
「もう一度、呼ばせろ」
ローヴェンが言った。
「兄上」
シグヴァルが低く制する。
「声が小さかっただけだ。ヴァイ、腹から呼べ。狼は臆病者の声を嫌う」
「儀式へ口を挟むな、ローヴェン」
父が言う。
「だが父上」
「獣に選ばせろ。弟の代わりに、おまえが吠えるつもりか」
長兄は歯を食いしばった。
叱られて黙ったのではない。ヴァイを助ける方法がなく、黙るしかなかったのだ。
その顔を見て、ヴァイは胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
前世では、妹も弟もいなかった。子はいた。孫もいた。だが、この兄のまっすぐな庇い方は、彼の知る家族のどれとも違った。
同時に、妙な違和感があった。
静かすぎる。
狼が多い場所には、必ず音がある。
爪が石を擦る音。鼻を鳴らす音。毛を振る音。喉の奥で交わす短い唸り。
それらが、消えていた。
鉄狼ガンヴァルが頭を下げている。
赤牙狼ラグヴァも、星詠狼セラヴェルも、白霜狼フリヴァも。
兄姉の契約狼たちまで、耳を伏せ、石壇の外側へ身体を低くしていた。
ヴァルフラムが初めて表情を変えた。
「全員、動くな」
命令は静かだった。
だからこそ、戦士たちは一斉に剣の柄へ手を置いた。
風向きが変わった。
砦の中庭へ吹き込んでいた雪が、空中で止まったように見えた。
次の瞬間、雪片は石壇を中心にゆっくり回り始めた。
白い輪が一つ。
二つ。
三つ。
松明の炎が青く細くなる。
中庭の奥、閉じられていたはずの大扉の向こうから、爪音がした。
重い。
だが急いでいない。
一歩ごとに、石の上へ薄い霜が広がる。
門番が扉の閂へ触れる前に、黒い氷が木材の表面を走った。閂は砕けず、その形のまま凍りつき、左右へ静かに滑った。
扉が開く。
吹雪の向こうから、狼が歩いてきた。
黒かった。
夜より黒い、と言えば大げさになる。だが、松明の光を受けても、その毛並みは照り返さなかった。雪が背へ落ちても溶けず、白さだけが宙に浮いたように見える。
普通の軍用狼より一回りどころではない。
伏せても五歳のヴァイより肩が高い。頭を上げれば、大人の胸元へ届くだろう。
額から後頭部へ、黒曜石のような氷の突起が連なっていた。
角ではない。毛でもない。
それは王冠のように見えた。
誰かが息を呑んだ。
「黒冠……」
「馬鹿な」
「冬王の血が、まだ」
長老たちの声が重なる。
黒い狼は、誰も見なかった。
父ヴァルフラムも、鉄狼ガンヴァルも、抜きかけた剣も、騒ぐ長老も、存在しないかのように通り過ぎた。
石壇の縁で止まり、灰銀色の目をヴァイへ向けた。
その瞳を見た瞬間、ヴァイの頭へ言葉ではないものが押し寄せた。
雪原。
飢えた狼の群れ。
折れた角を持つ獣の死骸。
吹雪の中で、最後尾を歩く老いた狼。
先頭で振り返る黒い影。
意味が、音より先に伝わる。
――おまえか。
ヴァイは息を止めた。
周囲の者には聞こえていない。父たちは黒狼の動きだけを見ている。
これは会話ではない。
獣の記憶と意思が、直接こちらへ触れている。
ヴァイは儀式の文言を思い出した。
「我が呼びかけへ応じた者よ。名を示せ」
黒狼は動かない。
石壇の外で長老が囁く。
「命じよ。族長家の血を示せ」
ヴァイは黒狼を見上げた。
命じる。
儀式ではそう教わった。
現れた獣へ最初の命令を与え、従えば契約の意思ありとする。
五歳の記憶に従うなら、言うべき言葉は一つだった。
「伏せろ」
黒狼の瞳が細くなった。
次の瞬間、ヴァイの身体へ圧力が落ちた。
風ではない。
恐怖そのものに重さが生まれ、肩と背を石へ押しつけたようだった。
小さな膝が滑る。
片手をつく。
「ヴァイ!」
ローヴェンが石壇へ踏み込もうとした。
雪狼イスヴァルも立ち上がる。
黒狼が一度、視線を向けた。
それだけで、イスヴァルは足を止めた。
長兄の契約狼が、主人の命令より先に身を伏せた。
ローヴェンの顔から血の気が引く。
ヴァルフラムが剣を抜いた。
「その仔から離れろ」
父の声に、鉄狼ガンヴァルが立ち上がる。金属の毛が逆立ち、石を削るような音がした。
黒狼は父を見ない。
――牙が弱い。
意味がヴァイへ落ちる。
――声も弱い。
否定できなかった。
身体は五歳。剣も満足に振れない。気の扱いも、呼吸に合わせて足へ少し流せるだけだ。
黒狼の鼻先が、ヴァイの額へ近づく。
――それで、何を命じる。
ヴァイは歯を食いしばり、身体を起こした。
恐怖はある。
それは五歳の身体のものか、七十八年生きた男のものか、区別がつかなかった。
ただ、命令するだけでは駄目なのだとわかった。
この獣は、従者を探して来たのではない。
主人を探して来たのでもない。
ヴァイは儀式の文言を捨てた。
「俺は、おまえより弱い」
中庭が静まり返る。
長老の一人が「何を」と呟いた。
ヴァイは続けた。
「父上より弱い。兄上たちより弱い。五歳だから、今すぐ一人でできることも少ない」
黒狼の瞳は動かない。
「だが、弱いままでいるつもりはない」
それだけでは足りない。
強くなるという言葉は、誰でも言える。
前世で正則は、気合と根性だけを語る指揮官を何人も見た。彼らの下で失われるのは、いつも現場の人間だった。
黒狼が見ているのは、牙の大きさではない。
群れ。
先ほど触れた記憶の中で、この獣は何度も振り返っていた。
先頭に立ちながら、最後尾を見ていた。
ヴァイは石壇の外へ目を向けた。
父。
三人の母。
兄姉。
長老。
戦士。
そのさらに後ろには、松明を持つ家臣、雪を払う下働き、狼の世話をする少年たちがいる。
礼装をまとった家族の毛皮は厚い。
外側に立つ者ほど、服は薄かった。
中庭へ運ばれた祝いの肉は大きい。
だが、砦の犬たちの肋骨は毛皮越しにもわかる。
五歳のヴァイは、それを見慣れていた。
七十八歳の正則は、それを見過ごせなかった。
冬を越すには、祈りより先に数がいる。
人の数。
家畜の数。
乾草の束。
穀物の袋。
薪の山。
病人へ回せる寝床。
足りなければ、強い者から奪うのではない。
足りないとわかった日から、春までの使い方を変える。
それができなければ、どれほど大きな牙があっても、群れは内側から死ぬ。
ヴァイは黒狼へ向き直った。
「群れを飢えさせない」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「全員を必ず救うとは言わない。そんな約束は嘘になる。病んだ獣を殺すこともある。戦えば、帰らない者も出る」
ミウレイアがわずかに息を呑んだ。
五歳の子供が口にする言葉ではない。
それでも、ヴァイは止めなかった。
「だが、誰が足りず、何が足りず、誰を置いていくのかを、知らないまま決めない」
黒狼の灰銀の瞳に、自分の姿が映っている。
小さい。
弱い。
それでも、目を逸らさない。
「俺は群れの数を知る。食わせる方法を探す。守ると決めた者を、俺の都合で忘れない」
雪の輪が止まった。
黒狼の鼻先が、ヴァイの血の滲む親指へ触れる。
冷たい。
血の一滴が凍り、黒い結晶になる。
それが砕け、細い光となって黒狼の額とヴァイの胸へ同時に沈んだ。
世界が裂けた。
狼の目が開く。
一つではない。
石壇の上の自分を、正面から見る目。
父の足元から見る目。
門の脇に伏せた軍用狼の低い目。
屋根の雪庇の下で、風を避ける若い狼の目。
視界が重なり、匂いが色になり、音が距離を持った。
父の心臓は速い。
母ミウレイアは泣くのをこらえている。
ローヴェンは剣の柄を握りすぎて指が白い。
長老たちは恐怖と歓喜を同じ匂いで放っている。
多すぎる。
ヴァイはこめかみを押さえ、膝をついた。
同時に、黒狼の真名が胸の奥へ落ちてきた。
クルヴァナール。
人の口で形にできるのは、それでも真名の一部にすぎない。だが音の奥には、古い北方語の意味がはっきりあった。
クル――黒い冬。ヴァ――狼。ナール――獣たちに冠を認められた王。
冬の夜、群れを囲う風、凍った湖の底を走る亀裂。そうした意味が束になって、本当の名を形作っている。
「ヴァナール」
ヴァイが日々の呼び名を口にすると、黒冠狼は初めて頭を下げた。
服従ではなかった。
差し出された額へ、ヴァイも自分の額を触れさせる。
――おまえは牙が弱い。
先ほどと同じ意味が届く。
だが今度は、その奥にわずかな承認があった。
――だが、群れの数を知っている。
黒冠の氷が淡く光る。
――ならば見せてみろ。
契約が結ばれた。
その瞬間、黒牙砦の内外から狼の遠吠えが上がった。
一頭。
二頭。
数えられないほどの声が、山と森と凍った川へ広がっていく。
長老たちが一斉に膝をついた。
「冬王の末裔」
「黒冠が戻った」
「北の王が――」
「黙れ」
ヴァルフラムの声が、遠吠えを断ち切った。
抜いていた剣を鞘へ戻し、父は石壇へ上がった。
黒冠狼ヴァナールが道を譲るか、誰もが息を詰めた。
ヴァナールは譲らなかった。
父も止まらなかった。
両者は肩が触れるほど近くですれ違った。
鉄狼ガンヴァルが低く唸ったが、ヴァルフラムは振り返らない。
父はヴァイの前へ膝をついた。
大きな手が、小さな肩を掴む。
「立てるか」
「はい、父上」
「なら立て」
乱暴に見えるほど真っ直ぐ引き上げられる。
ヴァイの足はまだ震えていたが、父の腕へぶら下がらずに立った。
ヴァルフラムは長老たちを見下ろした。
「こいつは俺の末子だ。黒狼族の王でも、冬の神でもない」
「しかし辺境伯、黒冠狼が選んだのですぞ」
「だから何だ」
父の目が細くなる。
「五歳の仔へ冠を載せ、都合のいい旗にする者がいるなら、先に俺が噛み殺す」
アストリッドが口の端を上げた。
セレネは目を伏せたまま、ほんの少し安堵した。
ミウレイアはもう止められず、石壇へ上がってヴァイを抱きしめた。
柔らかな白い毛皮へ顔が埋まる。
七十八歳の記憶があっても、母に抱かれると身体は勝手に力を抜いた。
「無事でよかった」
「母上、苦しいです」
「少しくらい我慢なさい」
声は優しい。
だが、ヴァイを旗にしようとした長老たちを見る目は、白霜より冷たかった。
ローヴェンが駆け寄り、ヴァイの頭を大きな手で乱暴に撫でた。
「やったな、ヴァイ! 黒冠だぞ。俺のイスヴァルでも勝てるかわからん」
雪狼イスヴァルが不満そうに鼻を鳴らす。
「兄上。本人の前で比べない方がいいと思います」
「狼は強さを比べるものだ」
ヴァナールが長兄へ視線を向けた。
ローヴェンは一歩だけ下がった。
「……今日は比べないでおく」
ユルヴァが吹き出し、ベルヴァンまで肩を揺らす。
張り詰めていた中庭へ、ようやく人の息が戻った。
◇
契約儀式のあとは、黒牙砦の大広間で祝いの食卓が設けられた。
ヴァイの契約祝い。
そして、雪解けを待って王都の王立貴族学院へ向かうローヴェンの送別を兼ねた席だった。
長い卓には、鹿肉の炙り、腸詰め、黒パン、蕪の煮込み、山羊乳の硬いチーズが並んでいる。
北方の冬としては、十分に豪華だった。
だからこそ、ヴァイは皿ではなく、給仕の手を見た。
指が荒れている。
袖口が擦り切れている。
一人は咳を隠した。
七十八年分の記憶を得たばかりの頭は、見るものすべてを以前と違う形で拾い上げた。
鹿肉一頭分。
卓につく家族と長老は二十数人。
厨房と警備と狼の世話に、少なくともその三倍。
今日の祝いで使う薪。
残りの冬の日数。
数字はまだない。
だから判断もできない。
判断できないことが、ヴァイにはひどく落ち着かなかった。
「食べないの?」
隣のエルヴィアが、小声で聞いた。
八歳とは思えないほど姿勢がよく、肉を切る手つきまで丁寧だ。
「食べます」
「さっきから給仕の人ばかり見ているわ」
「何人いるのかと思って」
「どうして?」
「食事が何日もつか、知りたいからです」
エルヴィアは瞬きをした。
「契約した日に?」
「契約した日だから、です」
答えながら、自分でも説明が足りないと思った。
ヴァナールは大広間へ入ることを許されたが、卓の下には伏せなかった。ヴァイの椅子の後ろ、暖炉の熱が届かない石床へ座っている。
用意された生肉にも口をつけていない。
ただ、見ている。
――見せてみろ。
契約の最後に届いた意思が、まだ胸の奥に残っている。
「ヴァイ」
向かいのセレネが呼んだ。
「はい、母上」
「今日は考え込む日ではありません。祝いを受け取りなさい。贈る側にも、受け取ってもらう権利があります」
静かな口調だった。
叱責ではない。理屈だけで人の気持ちを踏みにじらないよう、幼いころから何度も教えてくれた声だ。
ヴァイは手元の皿を見た。
「わかりました」
鹿肉を一切れ口へ入れる。
塩は薄いが、脂は甘かった。
美味しいと感じた瞬間、五歳の身体が急に空腹を思い出した。そこからは、考えるより先に手が動いた。
ローヴェンが笑う。
「ようやく仔狼らしくなったな。黒冠を連れていても、腹は五歳か」
「兄上は十五歳なのに、俺の三倍食べています」
「俺は身体が三倍ある」
「重さは四倍くらいでは?」
卓のあちこちで笑いが起きた。
「ヴァイ、兄を荷物みたいに量るな」
ユルヴァが言う。
「荷車へ載せるなら必要です」
「載せるつもりなのか?」
ローヴェンは笑いながら、隣に置かれた新しい外套を叩いた。
学院へ着ていくために仕立てられたものだ。黒狼族の黒い毛皮へ、王国貴族の礼装に合わせた銀糸の縁取りがある。
「王都までは荷車にも乗る。街道で一月だ。だが着いたら、南の連中に北の戦士を見せてやる」
その声には迷いがない。
十五歳のローヴェンは、家族の中で最も強い。大剣を持てば大人の戦士にも勝ち、雪狼イスヴァルと組めば雪山で彼を止められる者は少ない。
学院が何をする場所か、ヴァイの五歳の知識は断片的に知っている。
王国の爵位を持つ家の子を集め、学問、礼法、戦技、契約獣の扱いを教える場所。
七十八歳の記憶は、その説明の裏を読む。
中央が地方の後継者を集める。
教育だけが目的ではない。
中央集権化だ。
辺境に力を集めないため、人質の役割も兼ねているのだろう。
そして中央の価値観に揃えさせ、辺境の監視もかねる。
だが、ローヴェンへ今それを語る材料はない。
世界固有の学院について、ヴァイは何も知らないのだ。
「兄上」
「何だ」
「規則を、先に全部覚えた方がいいです」
ローヴェンの眉が上がる。
「剣より先にか?」
「剣を抜いていい場面を知らなければ、勝っても負けることがあります」
卓が少し静かになった。
シグヴァルがヴァイを見る。
セレネも、何かを測るように目を細めた。
ローヴェンは一拍置いてから、大きく笑った。
「五歳の弟に心配されたか。安心しろ。学院にも決闘場はある。決まりの中で勝てばいいんだろう」
「その決まりを作ったのは、南の人です」
今度は笑いが起きなかった。
父ヴァルフラムが酒杯を置く。
「ヴァイ。王都を知りもしないで、兄を怯えさせるな」
「怯えさせたいのではありません」
「なら何だ」
「知らない土地では、強い方が決まりを作るとは限らない、と言いたいだけです」
ヴァルフラムは息子を見た。
朝までとは違う目だった。
黒冠狼と契約したからではない。
五歳の子供が、五歳の言葉を使わなくなったことに気づいている。
「今日のおまえは、妙に年寄りじみているな」
心臓が一度、大きく鳴った。
正則の記憶を話すべきか。
遠い世界で七十八年を生きたと言って、誰が信じる。
信じられたとして、それが家族に何をもたらす。
答えはまだない。
嘘は避ける。
だが、すべてを話す必要もない。
「ヴァナールとつながったせいかもしれません」
完全な嘘ではなかった。
契約によって、頭の中が開かれたのは事実だ。
父はヴァナールを見る。
黒冠狼は興味がないように目を閉じている。
「狼が礼法を語るとは思えん」
「この狼は、群れのことしか考えていません」
――おまえよりは考えている。
胸の奥へ冷たい意味が落ちた。
ヴァイは思わず振り返った。
ヴァナールは目を閉じたままだった。
「どうした?」
ローヴェンが聞く。
「いえ。少し訂正されました」
「狼にか?」
「はい」
「何と?」
「俺よりは考えている、と」
今度こそ、卓全体が笑った。
ヴァルフラムまで鼻を鳴らす。
ヴァイも笑った。
七十八歳の正則なら、もう少し控えめに口元を緩めただろう。
五歳の身体は、兄姉と同じように声を上げた。
そのことに、少し救われた。
◇
宴が終わるころには、夜の雪が強くなっていた。
長老たちは黒冠狼の意味を語りたがったが、父がすべて翌日以降へ回した。酔った者が王や予言を口にする前に、広間から追い出したとも言える。
兄姉たちも部屋へ戻り、ローヴェンだけが最後まで残った。
彼は学院用の外套を肩へ掛け、窓の外を見ている。
「兄上」
「眠くないのか」
「眠いです」
「なら寝ろ。五歳は寝るのが仕事だ」
「兄上は?」
「十五歳は、王都へ行く前に格好をつけるのが仕事だ」
ローヴェンは窓へ映る自分を見て、外套の襟を直した。
冗談めかしているが、指先が落ち着かない。
怖くないはずがない。
生まれて初めて北方を離れ、ひと月かけて知らない都へ行く。
ヴァイは長兄の隣へ立った。
窓枠が高く、外はほとんど見えない。
ローヴェンが無言で抱き上げ、窓台へ座らせた。
黒牙砦の外壁、その向こうの集落、さらに遠い森までが雪に沈んでいる。
灯りは少ない。
前世の町なら、吹雪の夜でも電灯が道路を照らしていた。
ここでは、家一軒分の獣脂にも限りがある。
「ヴァイ」
「はい」
「俺がいない間、父上の言うことを聞け」
「兄上は、いつ戻りますか」
「三年だ。夏と冬の長い休みには戻れるかもしれんが、王都は遠い」
三年。
五歳の子供にとっては、人生の半分以上だ。
胸の奥が縮む。
これは正則ではなく、ヴァイの感情だった。
「長いですね」
「俺が戻ったころには、おまえも剣を持てる。黒冠狼の契約者が泣き虫だったら、南まで噂になるぞ」
「泣いていません」
「今はな」
ローヴェンの手が、また頭へ乗る。
乱暴だが、温かい。
「兄上」
「今度は何だ」
「帰ってきてください」
長兄の手が止まった。
ヴァイは続けた。
「勝つことより先に」
ローヴェンはしばらく何も言わなかった。
やがて、窓の外へ向いたまま答える。
「俺を誰だと思っている」
「兄上です」
「そうだ。おまえの兄だ。帰るに決まっている」
約束の言葉としては、雑だった。
だが、ローヴェンは約束を軽く口にする人間ではない。
ヴァイは頷いた。
広間の扉近くで、ヴァナールが立ち上がる。
帰る時刻だと告げているらしい。
ヴァイは窓台から降ろしてもらい、長兄へ礼をした。
「おやすみなさい、兄上」
「おう。黒冠に食われるなよ」
「たぶん、兄上の方が肉が多いです」
「学院へ行く前に弟を雪へ埋めても、家族の喧嘩で済むと思うか?」
「母上が済ませないと思います」
「正解だ」
兄弟は小さく笑って別れた。
◇
寝室へ戻る途中、ヴァイは足を止めた。
廊下の先に、地下食料庫へ下りる扉がある。
厚い木板へ鉄帯を打ち、錠が掛けられている。
五歳のころから何度も前を通った。
中には冬越しの穀物、塩漬け肉、根菜、乾燥豆、酒、種子がある。
子供は勝手に入ってはいけない場所だった。
今夜は、扉の隙間から冷たい空気とともに、かすかな匂いがした。
穀物。
土。
湿った木。
正則としてなら、乾草庫や穀物倉の匂いだけで、ある程度の状態を読めた。
だが、この世界の穀物も、石造りの地下庫も、同じとは限らない。
決めつけてはいけない。
見る。
測る。
聞く。
二度目から失敗しない形にする。
「何を見ている」
後ろから父の声がした。
ヴァルフラムは酒を飲んでいたはずだが、足取りに乱れはない。
ヴァイの傍らにヴァナールがいるのを見て、少しだけ眉を寄せる。
「食料庫です」
「腹が減ったなら厨房へ行け」
「中を見せてください」
「明日でもいいだろう」
「はい。明日、見せてください」
父は扉と息子を交互に見る。
「黒冠狼と契約した夜に、欲しがるものが倉の鍵か」
「ヴァナールは強いです」
「見ればわかる」
「でも、強い狼でも氷は食べられません」
父の顔から、宴の名残が消えた。
ヴァイはまっすぐ見上げる。
「人も狼も家畜も、春まで食べるものが必要です。俺は今日、群れを飢えさせないと誓いました」
「五歳のおまえに、何がわかる」
問いは厳しい。
だが、拒絶ではなかった。
ヴァイはすぐに答えなかった。
何がわかる。
前世で知っていた方法が、この土地でそのまま使えるとは限らない。
家族の人数すら、今夜初めて正確に数え直したほどだ。
倉の中身も、村の戸数も、家畜の頭数も知らない。
「まだ、何も」
父の眉が動く。
「だから、数えます」
廊下の松明が鳴った。
ヴァナールがヴァイの横へ並ぶ。
胸の奥へ、短い意思が届く。
――見せてみろ。
ヴァイは地下食料庫の扉を見た。
七十八年の人生で、国も組織も農場も、最初に必要だったのは同じだった。
勇気ではない。
奇跡でもない。
現状を知ること。
「明朝、鍵を開ける」
父が言った。
「ありがとうございます、父上」
「礼は、春を越してから言え」
ヴァルフラムはそう言い残し、廊下の奥へ歩いていった。
ヴァイは小さな手を握る。
黒田正則は七十八歳で死んだ。
ヴァイセル・ウラ・ノルヴァルは五歳になった。
そして五歳の冬、彼は最強の狼を得た夜に、剣ではなく倉の鍵を求めた。
北方を変える最初の一歩は、明日の朝、穀物袋を数えることから始まる。
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