↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/16

第1話 七十八歳、五歳になる

人は死ぬ間際に、一生を順番に思い出すものだと、黒田正則はどこかで聞いたことがあった。

実際には、そんなに整ったものではなかった。


最初に浮かんだのは、白かった。

北海道東部の夜道。除雪車が通ったあとの路面を、横殴りの雪がわずか十分で埋め戻していく。風は車体を揺らし、ヘッドライトの光を壁のように押し返していた。


次に浮かんだのは、数字だった。

外気温、風速、道路脇までの距離、残った燃料、車内にいる人間の数。

吹雪の中で正則が数えるのは、いつも生き残るために必要なものだった。


道路を塞ぐように止まった軽自動車を見つけたのは、地域の防災倉庫を確認して農場へ戻る途中だった。運転席の女は意識を失い、後部座席では小さな男の子が泣く力もなく震えていた。


携帯電話はつながらない。

車内で救助を待つには、排気口が雪で塞がれ始めていた。


正則は迷わなかった。

七十八歳の身体は、三十年前のようには動かない。そんなことは自分が一番よく知っていた。だからこそ、無駄な動きをしなかった。


女の呼吸を確かめ、子供を毛布で包み、自分の防寒着を重ねる。車の位置を示す発光灯を雪面へ立てる。風上と風下を見誤らないよう、何度も足元を確かめた。


「目を閉じるな。おじいちゃんの声を聞け」


子供は答えなかった。それでも瞼がかすかに動いた。


遠くに、除雪車の灯りが見えた。

百メートルもないはずの距離が、ひどく長かった。


正則は子供を抱き上げた。

 一歩。

 二歩。

 三歩。


自衛官だったころ、負傷者を背負って雪中を歩いたことがある。災害派遣で、崩れた道路を越えて薬を運んだこともある。退官してからは、難産の仔牛を一晩中見守り、春先の洪水で孤立した隣家へロープを張った。


そのどれよりも、今の百メートルは遠かった。


子供を除雪車の作業員へ渡したとき、正則の指先にはもう感覚がなかった。


「車に、母親がいる。呼吸はある。排気を……」


そこまで伝えた。

 伝えるべきことは伝えた。


膝が雪へ沈んだ。


助け起こそうとする声を聞きながら、正則は不思議なほど冷静だった。低体温症。判断力の低下。眠気。ここで目を閉じるなと、何十年も他人へ言ってきた。


だが、身体は命令を聞かなかった。


最後に考えたのは、救った子供のことではない。

翌朝の搾乳を誰が代わるのか。乾草庫の北側に積んだ三番草を、若い衆は覚えているだろうか。防災倉庫の発電機は満タンにした。避難所の鍵は役場にもある。


一つずつ確認して、ようやく息を吐いた。


自分一人が欠けても、仕組みが残っていれば回る。

そういうものを作るために、生きてきた。


白い世界が閉じた。



次に目を開けたときも、雪が降っていた。


ただし、正則の頬に当たる雪は、吹雪の夜道よりもずっと乾いていた。

空気には排気ガスもアスファルトの匂いもない。代わりに、獣脂の松明、濡れた毛皮、鉄、狼の息、石壁へ染み込んだ古い煙の匂いがした。


彼は黒い石の上に膝をついていた。


手が小さい。

視線が低い。

肩から掛けられた毛皮は重く、両手で支えなければずり落ちそうだった。


目の前には、雪をかぶった円形の石壇がある。中央の浅い鉢へ、赤い血が一滴落ちていた。

自分の左親指から流れた血だった。


「ヴァイセル」


低い声が名を呼んだ。


ヴァイセル・ウラ・ノルヴァル。

家族が呼ぶときは、ヴァイ。


名を聞いた瞬間、五年間の記憶が堰を切った。


母の乳の匂い。

黒牙砦の高い天井。

暖炉の前で眠る狼たち。

雪の中を兄に抱かれて走ったこと。

文字を教えるセレネの指。

熱を出した夜、ミウレイアが冷たい掌を額へ当ててくれたこと。

アストリッドの笑い声。父の大きな背中。


それらは、今までにも夢のようにあった。

同時に、別の土地の牧場、部隊宿舎、会議室、病院、海外の石造りの館も断片として見えていた。


幼い頭では二つの人生を結びつけられず、眠るたびに知らない老人の夢を見ているのだと思っていた。


だが今、雪の匂いと血の熱が鍵になった。


黒田正則として生きた七十八年が、ヴァイの五年間へ一息に流れ込んだ。


頭蓋の内側を鉄槌で打たれたような痛みが走る。

ヴァイは石壇へ手をついた。


「ヴァイ!」


女の声と同時に、白い毛皮が視界へ入った。

母ミウレイアが駆け寄ろうとする。だが、その肩を父ヴァルフラムが片手で制した。


「待て。儀式の途中だ」


「倒れたのですよ!」


「ふらついただけだ」


父の声は岩のように硬い。

冷たいのではない。五歳のヴァイはそれを知っている。ヴァルフラムは恐れているときほど、声を硬くする。


ヴァイはゆっくり息を吸った。


ここは北海道ではない。

自分は死んだ。

そして、五歳の少年として生きている。


受け入れるには大きすぎる事実だった。

それでも、今は儀式の途中らしい。


ならば、まず目の前を処理する。

感情は後でいい。


そう考えた途端、ひどく懐かしい感覚がした。

災害現場でも戦場でも、正則は同じようにしていた。


「大丈夫です、母上」


口から出た声は高く、息が震えていた。

七十八歳のつもりでも、喉は五歳だった。


ミウレイアは唇を結び、頷いた。淡い色の髪の下で、その目だけが息子を離さない。


石壇を囲むように、ノルヴァル家の者たちが立っている。


正面には父ヴァルフラム・ノルヴァル。背には幅広の剣。傍らには、灰黒い金属の毛を持つ鉄狼ガンヴァルが伏せている。


父の右には第一夫人アストリッド・ロスグラード。赤熊族の出らしく、冬の礼装でも肩幅の広さが隠れない。彼女の後ろでは赤牙狼ラグヴァが熱い息を吐き、降った雪を足元から溶かしていた。


左には第二夫人セレネ・シルアーン。銀梟族の濃紺の衣をまとい、細い指を胸の前で組んでいる。星詠狼セラヴェルはその影へ溶けるように座り、夜色の瞳で石壇を見ていた。


ミウレイア・ウラリーネはヴァイの実母で、第三夫人だ。白兎族の柔らかな衣と白霜狼フリヴァの淡い毛並みが、雪の中では境目を失いそうだった。


兄姉たちもいる。


十五歳の長兄ローヴェンは、誰より前へ出たがる身体を辛うじて押さえていた。背後の雪狼イスヴァルまで同じように前脚へ力を込めている。

十三歳のシグヴァルは風狼リュヴァンの首へ手を置き、周囲の長老たちの顔を静かに読んでいた。

十二歳のユルヴァは心配を隠さず、十歳のベルヴァンは石壇が壊れないかを見ているような顔をし、八歳のエルヴィアは礼装の裾を乱さずに立っていた。


全員が、ヴァイを見ていた。


黒狼族の族長家では、五歳になると契約儀式を行う。

魔法を使うのは人ではない。魔法生物だ。

人は血と真名と誓いを差し出し、魔法生物がそれを受け入れたときだけ、魂の一部が結ばれる。


選ぶのは、獣の側。


族長の子であろうと、獣が現れないことはある。

現れても、契約を拒まれることがある。


ヴァイはその知識を、五歳の記憶として知っていた。

同時に、七十八年の記憶は別のことを告げていた。


この場は宗教儀礼であると同時に、公開の人事評価だ。

父、母、兄姉、長老、戦士、家臣。皆が末子の価値を見定めている。


兄姉全員がすでに魔狼と契約している。

末子だけ何も得られなければ、家族は責めないだろう。

だが、部族は覚える。


「名を」


石壇の外に立つ長老が促した。

白い眉が風に揺れている。名は知っているはずなのに、正則の記憶と混ざってすぐには出てこない。


無理に探す必要はない。

今は儀式の文言を間違えないことが先だ。


ヴァイは血の滲む親指を、石鉢の上へかざした。


「我が名は、ヴァイセル・ウラ・ノルヴァル」


正式な名を口にすると、石壇の刻印が淡く光った。


「我が血を一滴。我が息を一つ。我が名を偽らず、汝の真名を奪わず、互いに守る誓いを求める」


風が石壁を越えて吹き込む。

松明が揺れた。


何も起きない。


円の外で、軍用狼たちが鼻を鳴らした。


ヴァイは待った。


五歳の身体には、沈黙が長すぎた。

足の指が冷え、膝が痛み、親指の傷が脈打つ。周囲の視線が重くなっていくのがわかる。


正則だったころ、会議で沈黙することには慣れていた。

答えを急いだ者から不利になる場も多かった。


しかし、ここには交渉相手の姿さえない。


一分。

二分。


雪だけが落ちる。


長老の一人が咳払いをした。


「血が薄いのではないか」


別の声が小さく返す。


「母方は白兎だ。狼が応じぬこともある」


アストリッドの赤牙狼ラグヴァが唸った。

人の囁きへ反応したのではない。主人の怒りを感じ取ったのだろう。


「もう一度、呼ばせろ」


ローヴェンが言った。


「兄上」


シグヴァルが低く制する。


「声が小さかっただけだ。ヴァイ、腹から呼べ。狼は臆病者の声を嫌う」


「儀式へ口を挟むな、ローヴェン」


父が言う。


「だが父上」


「獣に選ばせろ。弟の代わりに、おまえが吠えるつもりか」


長兄は歯を食いしばった。

叱られて黙ったのではない。ヴァイを助ける方法がなく、黙るしかなかったのだ。


その顔を見て、ヴァイは胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。

前世では、妹も弟もいなかった。子はいた。孫もいた。だが、この兄のまっすぐな庇い方は、彼の知る家族のどれとも違った。


同時に、妙な違和感があった。


静かすぎる。


狼が多い場所には、必ず音がある。

爪が石を擦る音。鼻を鳴らす音。毛を振る音。喉の奥で交わす短い唸り。


それらが、消えていた。


鉄狼ガンヴァルが頭を下げている。

赤牙狼ラグヴァも、星詠狼セラヴェルも、白霜狼フリヴァも。

兄姉の契約狼たちまで、耳を伏せ、石壇の外側へ身体を低くしていた。


ヴァルフラムが初めて表情を変えた。


「全員、動くな」


命令は静かだった。

だからこそ、戦士たちは一斉に剣の柄へ手を置いた。


風向きが変わった。


砦の中庭へ吹き込んでいた雪が、空中で止まったように見えた。

次の瞬間、雪片は石壇を中心にゆっくり回り始めた。


白い輪が一つ。

二つ。

三つ。


松明の炎が青く細くなる。


中庭の奥、閉じられていたはずの大扉の向こうから、爪音がした。


重い。

だが急いでいない。


一歩ごとに、石の上へ薄い霜が広がる。


門番が扉の閂へ触れる前に、黒い氷が木材の表面を走った。閂は砕けず、その形のまま凍りつき、左右へ静かに滑った。


扉が開く。


吹雪の向こうから、狼が歩いてきた。


黒かった。


夜より黒い、と言えば大げさになる。だが、松明の光を受けても、その毛並みは照り返さなかった。雪が背へ落ちても溶けず、白さだけが宙に浮いたように見える。


普通の軍用狼より一回りどころではない。

伏せても五歳のヴァイより肩が高い。頭を上げれば、大人の胸元へ届くだろう。


額から後頭部へ、黒曜石のような氷の突起が連なっていた。

角ではない。毛でもない。

それは王冠のように見えた。


誰かが息を呑んだ。


「黒冠……」


「馬鹿な」


「冬王の血が、まだ」


長老たちの声が重なる。


黒い狼は、誰も見なかった。

父ヴァルフラムも、鉄狼ガンヴァルも、抜きかけた剣も、騒ぐ長老も、存在しないかのように通り過ぎた。


石壇の縁で止まり、灰銀色の目をヴァイへ向けた。


その瞳を見た瞬間、ヴァイの頭へ言葉ではないものが押し寄せた。


雪原。

飢えた狼の群れ。

折れた角を持つ獣の死骸。

吹雪の中で、最後尾を歩く老いた狼。

先頭で振り返る黒い影。


意味が、音より先に伝わる。


――おまえか。


ヴァイは息を止めた。


周囲の者には聞こえていない。父たちは黒狼の動きだけを見ている。


これは会話ではない。

獣の記憶と意思が、直接こちらへ触れている。


ヴァイは儀式の文言を思い出した。


「我が呼びかけへ応じた者よ。名を示せ」


黒狼は動かない。


石壇の外で長老が囁く。


「命じよ。族長家の血を示せ」


ヴァイは黒狼を見上げた。


命じる。

儀式ではそう教わった。

現れた獣へ最初の命令を与え、従えば契約の意思ありとする。


五歳の記憶に従うなら、言うべき言葉は一つだった。


「伏せろ」


黒狼の瞳が細くなった。


次の瞬間、ヴァイの身体へ圧力が落ちた。


風ではない。

恐怖そのものに重さが生まれ、肩と背を石へ押しつけたようだった。


小さな膝が滑る。

片手をつく。


「ヴァイ!」


ローヴェンが石壇へ踏み込もうとした。

雪狼イスヴァルも立ち上がる。


黒狼が一度、視線を向けた。


それだけで、イスヴァルは足を止めた。

長兄の契約狼が、主人の命令より先に身を伏せた。


ローヴェンの顔から血の気が引く。


ヴァルフラムが剣を抜いた。


「その仔から離れろ」


父の声に、鉄狼ガンヴァルが立ち上がる。金属の毛が逆立ち、石を削るような音がした。


黒狼は父を見ない。


――牙が弱い。


意味がヴァイへ落ちる。


――声も弱い。


否定できなかった。

身体は五歳。剣も満足に振れない。気の扱いも、呼吸に合わせて足へ少し流せるだけだ。


黒狼の鼻先が、ヴァイの額へ近づく。


――それで、何を命じる。


ヴァイは歯を食いしばり、身体を起こした。


恐怖はある。

それは五歳の身体のものか、七十八年生きた男のものか、区別がつかなかった。


ただ、命令するだけでは駄目なのだとわかった。


この獣は、従者を探して来たのではない。

主人を探して来たのでもない。


ヴァイは儀式の文言を捨てた。


「俺は、おまえより弱い」


中庭が静まり返る。

長老の一人が「何を」と呟いた。


ヴァイは続けた。


「父上より弱い。兄上たちより弱い。五歳だから、今すぐ一人でできることも少ない」


黒狼の瞳は動かない。


「だが、弱いままでいるつもりはない」


それだけでは足りない。

強くなるという言葉は、誰でも言える。

前世で正則は、気合と根性だけを語る指揮官を何人も見た。彼らの下で失われるのは、いつも現場の人間だった。


黒狼が見ているのは、牙の大きさではない。


群れ。


先ほど触れた記憶の中で、この獣は何度も振り返っていた。

先頭に立ちながら、最後尾を見ていた。


ヴァイは石壇の外へ目を向けた。


父。

三人の母。

兄姉。

長老。

戦士。

そのさらに後ろには、松明を持つ家臣、雪を払う下働き、狼の世話をする少年たちがいる。


礼装をまとった家族の毛皮は厚い。

外側に立つ者ほど、服は薄かった。


中庭へ運ばれた祝いの肉は大きい。

だが、砦の犬たちの肋骨は毛皮越しにもわかる。


五歳のヴァイは、それを見慣れていた。

七十八歳の正則は、それを見過ごせなかった。


冬を越すには、祈りより先に数がいる。

人の数。

家畜の数。

乾草の束。

穀物の袋。

薪の山。

病人へ回せる寝床。


足りなければ、強い者から奪うのではない。

足りないとわかった日から、春までの使い方を変える。


それができなければ、どれほど大きな牙があっても、群れは内側から死ぬ。


ヴァイは黒狼へ向き直った。


「群れを飢えさせない」


自分でも驚くほど、声は静かだった。


「全員を必ず救うとは言わない。そんな約束は嘘になる。病んだ獣を殺すこともある。戦えば、帰らない者も出る」


ミウレイアがわずかに息を呑んだ。

五歳の子供が口にする言葉ではない。


それでも、ヴァイは止めなかった。


「だが、誰が足りず、何が足りず、誰を置いていくのかを、知らないまま決めない」


黒狼の灰銀の瞳に、自分の姿が映っている。

小さい。

弱い。

それでも、目を逸らさない。


「俺は群れの数を知る。食わせる方法を探す。守ると決めた者を、俺の都合で忘れない」


雪の輪が止まった。


黒狼の鼻先が、ヴァイの血の滲む親指へ触れる。


冷たい。


血の一滴が凍り、黒い結晶になる。

それが砕け、細い光となって黒狼の額とヴァイの胸へ同時に沈んだ。


世界が裂けた。


狼の目が開く。


一つではない。


石壇の上の自分を、正面から見る目。

父の足元から見る目。

門の脇に伏せた軍用狼の低い目。

屋根の雪庇の下で、風を避ける若い狼の目。


視界が重なり、匂いが色になり、音が距離を持った。


父の心臓は速い。

母ミウレイアは泣くのをこらえている。

ローヴェンは剣の柄を握りすぎて指が白い。

長老たちは恐怖と歓喜を同じ匂いで放っている。


多すぎる。


ヴァイはこめかみを押さえ、膝をついた。


同時に、黒狼の真名が胸の奥へ落ちてきた。


クルヴァナール。


人の口で形にできるのは、それでも真名の一部にすぎない。だが音の奥には、古い北方語の意味がはっきりあった。

クル――黒い冬。ヴァ――狼。ナール――獣たちに冠を認められた王。

冬の夜、群れを囲う風、凍った湖の底を走る亀裂。そうした意味が束になって、本当の名を形作っている。


「ヴァナール」


ヴァイが日々の呼び名を口にすると、黒冠狼は初めて頭を下げた。


服従ではなかった。

差し出された額へ、ヴァイも自分の額を触れさせる。


――おまえは牙が弱い。


先ほどと同じ意味が届く。

だが今度は、その奥にわずかな承認があった。


――だが、群れの数を知っている。


黒冠の氷が淡く光る。


――ならば見せてみろ。


契約が結ばれた。


その瞬間、黒牙砦の内外から狼の遠吠えが上がった。


一頭。

二頭。

数えられないほどの声が、山と森と凍った川へ広がっていく。


長老たちが一斉に膝をついた。


「冬王の末裔」


「黒冠が戻った」


「北の王が――」


「黙れ」


ヴァルフラムの声が、遠吠えを断ち切った。


抜いていた剣を鞘へ戻し、父は石壇へ上がった。

黒冠狼ヴァナールが道を譲るか、誰もが息を詰めた。


ヴァナールは譲らなかった。

父も止まらなかった。


両者は肩が触れるほど近くですれ違った。

鉄狼ガンヴァルが低く唸ったが、ヴァルフラムは振り返らない。


父はヴァイの前へ膝をついた。

大きな手が、小さな肩を掴む。


「立てるか」


「はい、父上」


「なら立て」


乱暴に見えるほど真っ直ぐ引き上げられる。

ヴァイの足はまだ震えていたが、父の腕へぶら下がらずに立った。


ヴァルフラムは長老たちを見下ろした。


「こいつは俺の末子だ。黒狼族の王でも、冬の神でもない」


「しかし辺境伯、黒冠狼が選んだのですぞ」


「だから何だ」


父の目が細くなる。


「五歳の仔へ冠を載せ、都合のいい旗にする者がいるなら、先に俺が噛み殺す」


アストリッドが口の端を上げた。

セレネは目を伏せたまま、ほんの少し安堵した。

ミウレイアはもう止められず、石壇へ上がってヴァイを抱きしめた。


柔らかな白い毛皮へ顔が埋まる。

七十八歳の記憶があっても、母に抱かれると身体は勝手に力を抜いた。


「無事でよかった」


「母上、苦しいです」


「少しくらい我慢なさい」


声は優しい。

だが、ヴァイを旗にしようとした長老たちを見る目は、白霜より冷たかった。


ローヴェンが駆け寄り、ヴァイの頭を大きな手で乱暴に撫でた。


「やったな、ヴァイ! 黒冠だぞ。俺のイスヴァルでも勝てるかわからん」


雪狼イスヴァルが不満そうに鼻を鳴らす。


「兄上。本人の前で比べない方がいいと思います」


「狼は強さを比べるものだ」


ヴァナールが長兄へ視線を向けた。


ローヴェンは一歩だけ下がった。


「……今日は比べないでおく」


ユルヴァが吹き出し、ベルヴァンまで肩を揺らす。

張り詰めていた中庭へ、ようやく人の息が戻った。



契約儀式のあとは、黒牙砦の大広間で祝いの食卓が設けられた。


ヴァイの契約祝い。

そして、雪解けを待って王都の王立貴族学院へ向かうローヴェンの送別を兼ねた席だった。


長い卓には、鹿肉の炙り、腸詰め、黒パン、蕪の煮込み、山羊乳の硬いチーズが並んでいる。

北方の冬としては、十分に豪華だった。


だからこそ、ヴァイは皿ではなく、給仕の手を見た。


指が荒れている。

袖口が擦り切れている。

一人は咳を隠した。


七十八年分の記憶を得たばかりの頭は、見るものすべてを以前と違う形で拾い上げた。


鹿肉一頭分。

卓につく家族と長老は二十数人。

厨房と警備と狼の世話に、少なくともその三倍。

今日の祝いで使う薪。

残りの冬の日数。


数字はまだない。

だから判断もできない。


判断できないことが、ヴァイにはひどく落ち着かなかった。


「食べないの?」


隣のエルヴィアが、小声で聞いた。

八歳とは思えないほど姿勢がよく、肉を切る手つきまで丁寧だ。


「食べます」


「さっきから給仕の人ばかり見ているわ」


「何人いるのかと思って」


「どうして?」


「食事が何日もつか、知りたいからです」


エルヴィアは瞬きをした。


「契約した日に?」


「契約した日だから、です」


答えながら、自分でも説明が足りないと思った。

ヴァナールは大広間へ入ることを許されたが、卓の下には伏せなかった。ヴァイの椅子の後ろ、暖炉の熱が届かない石床へ座っている。


用意された生肉にも口をつけていない。


ただ、見ている。


――見せてみろ。


契約の最後に届いた意思が、まだ胸の奥に残っている。


「ヴァイ」


向かいのセレネが呼んだ。


「はい、母上」


「今日は考え込む日ではありません。祝いを受け取りなさい。贈る側にも、受け取ってもらう権利があります」


静かな口調だった。

叱責ではない。理屈だけで人の気持ちを踏みにじらないよう、幼いころから何度も教えてくれた声だ。


ヴァイは手元の皿を見た。


「わかりました」


鹿肉を一切れ口へ入れる。

塩は薄いが、脂は甘かった。


美味しいと感じた瞬間、五歳の身体が急に空腹を思い出した。そこからは、考えるより先に手が動いた。


ローヴェンが笑う。


「ようやく仔狼らしくなったな。黒冠を連れていても、腹は五歳か」


「兄上は十五歳なのに、俺の三倍食べています」


「俺は身体が三倍ある」


「重さは四倍くらいでは?」


卓のあちこちで笑いが起きた。


「ヴァイ、兄を荷物みたいに量るな」


ユルヴァが言う。


「荷車へ載せるなら必要です」


「載せるつもりなのか?」


ローヴェンは笑いながら、隣に置かれた新しい外套を叩いた。

学院へ着ていくために仕立てられたものだ。黒狼族の黒い毛皮へ、王国貴族の礼装に合わせた銀糸の縁取りがある。


「王都までは荷車にも乗る。街道で一月だ。だが着いたら、南の連中に北の戦士を見せてやる」


その声には迷いがない。

十五歳のローヴェンは、家族の中で最も強い。大剣を持てば大人の戦士にも勝ち、雪狼イスヴァルと組めば雪山で彼を止められる者は少ない。


学院が何をする場所か、ヴァイの五歳の知識は断片的に知っている。

王国の爵位を持つ家の子を集め、学問、礼法、戦技、契約獣の扱いを教える場所。


七十八歳の記憶は、その説明の裏を読む。


中央が地方の後継者を集める。

教育だけが目的ではない。

中央集権化だ。

辺境に力を集めないため、人質の役割も兼ねているのだろう。

そして中央の価値観に揃えさせ、辺境の監視もかねる。


だが、ローヴェンへ今それを語る材料はない。

世界固有の学院について、ヴァイは何も知らないのだ。


「兄上」


「何だ」


「規則を、先に全部覚えた方がいいです」


ローヴェンの眉が上がる。


「剣より先にか?」


「剣を抜いていい場面を知らなければ、勝っても負けることがあります」


卓が少し静かになった。


シグヴァルがヴァイを見る。

セレネも、何かを測るように目を細めた。


ローヴェンは一拍置いてから、大きく笑った。


「五歳の弟に心配されたか。安心しろ。学院にも決闘場はある。決まりの中で勝てばいいんだろう」


「その決まりを作ったのは、南の人です」


今度は笑いが起きなかった。


父ヴァルフラムが酒杯を置く。


「ヴァイ。王都を知りもしないで、兄を怯えさせるな」


「怯えさせたいのではありません」


「なら何だ」


「知らない土地では、強い方が決まりを作るとは限らない、と言いたいだけです」


ヴァルフラムは息子を見た。

朝までとは違う目だった。


黒冠狼と契約したからではない。

五歳の子供が、五歳の言葉を使わなくなったことに気づいている。


「今日のおまえは、妙に年寄りじみているな」


心臓が一度、大きく鳴った。


正則の記憶を話すべきか。

遠い世界で七十八年を生きたと言って、誰が信じる。

信じられたとして、それが家族に何をもたらす。


答えはまだない。


嘘は避ける。

だが、すべてを話す必要もない。


「ヴァナールとつながったせいかもしれません」


完全な嘘ではなかった。

契約によって、頭の中が開かれたのは事実だ。


父はヴァナールを見る。

黒冠狼は興味がないように目を閉じている。


「狼が礼法を語るとは思えん」


「この狼は、群れのことしか考えていません」


――おまえよりは考えている。


胸の奥へ冷たい意味が落ちた。


ヴァイは思わず振り返った。

ヴァナールは目を閉じたままだった。


「どうした?」


ローヴェンが聞く。


「いえ。少し訂正されました」


「狼にか?」


「はい」


「何と?」


「俺よりは考えている、と」


今度こそ、卓全体が笑った。

ヴァルフラムまで鼻を鳴らす。


ヴァイも笑った。


七十八歳の正則なら、もう少し控えめに口元を緩めただろう。

五歳の身体は、兄姉と同じように声を上げた。


そのことに、少し救われた。



宴が終わるころには、夜の雪が強くなっていた。


長老たちは黒冠狼の意味を語りたがったが、父がすべて翌日以降へ回した。酔った者が王や予言を口にする前に、広間から追い出したとも言える。


兄姉たちも部屋へ戻り、ローヴェンだけが最後まで残った。


彼は学院用の外套を肩へ掛け、窓の外を見ている。


「兄上」


「眠くないのか」


「眠いです」


「なら寝ろ。五歳は寝るのが仕事だ」


「兄上は?」


「十五歳は、王都へ行く前に格好をつけるのが仕事だ」


ローヴェンは窓へ映る自分を見て、外套の襟を直した。

冗談めかしているが、指先が落ち着かない。


怖くないはずがない。

生まれて初めて北方を離れ、ひと月かけて知らない都へ行く。


ヴァイは長兄の隣へ立った。

窓枠が高く、外はほとんど見えない。


ローヴェンが無言で抱き上げ、窓台へ座らせた。


黒牙砦の外壁、その向こうの集落、さらに遠い森までが雪に沈んでいる。

灯りは少ない。


前世の町なら、吹雪の夜でも電灯が道路を照らしていた。

ここでは、家一軒分の獣脂にも限りがある。


「ヴァイ」


「はい」


「俺がいない間、父上の言うことを聞け」


「兄上は、いつ戻りますか」


「三年だ。夏と冬の長い休みには戻れるかもしれんが、王都は遠い」


三年。

五歳の子供にとっては、人生の半分以上だ。


胸の奥が縮む。

これは正則ではなく、ヴァイの感情だった。


「長いですね」


「俺が戻ったころには、おまえも剣を持てる。黒冠狼の契約者が泣き虫だったら、南まで噂になるぞ」


「泣いていません」


「今はな」


ローヴェンの手が、また頭へ乗る。

乱暴だが、温かい。


「兄上」


「今度は何だ」


「帰ってきてください」


長兄の手が止まった。


ヴァイは続けた。


「勝つことより先に」


ローヴェンはしばらく何も言わなかった。

やがて、窓の外へ向いたまま答える。


「俺を誰だと思っている」


「兄上です」


「そうだ。おまえの兄だ。帰るに決まっている」


約束の言葉としては、雑だった。

だが、ローヴェンは約束を軽く口にする人間ではない。


ヴァイは頷いた。


広間の扉近くで、ヴァナールが立ち上がる。

帰る時刻だと告げているらしい。


ヴァイは窓台から降ろしてもらい、長兄へ礼をした。


「おやすみなさい、兄上」


「おう。黒冠に食われるなよ」


「たぶん、兄上の方が肉が多いです」


「学院へ行く前に弟を雪へ埋めても、家族の喧嘩で済むと思うか?」


「母上が済ませないと思います」


「正解だ」


兄弟は小さく笑って別れた。



寝室へ戻る途中、ヴァイは足を止めた。


廊下の先に、地下食料庫へ下りる扉がある。

厚い木板へ鉄帯を打ち、錠が掛けられている。


五歳のころから何度も前を通った。

中には冬越しの穀物、塩漬け肉、根菜、乾燥豆、酒、種子がある。

子供は勝手に入ってはいけない場所だった。


今夜は、扉の隙間から冷たい空気とともに、かすかな匂いがした。


穀物。

土。

湿った木。


正則としてなら、乾草庫や穀物倉の匂いだけで、ある程度の状態を読めた。

だが、この世界の穀物も、石造りの地下庫も、同じとは限らない。


決めつけてはいけない。

見る。

測る。

聞く。


二度目から失敗しない形にする。


「何を見ている」


後ろから父の声がした。


ヴァルフラムは酒を飲んでいたはずだが、足取りに乱れはない。

ヴァイの傍らにヴァナールがいるのを見て、少しだけ眉を寄せる。


「食料庫です」


「腹が減ったなら厨房へ行け」


「中を見せてください」


「明日でもいいだろう」


「はい。明日、見せてください」


父は扉と息子を交互に見る。


「黒冠狼と契約した夜に、欲しがるものが倉の鍵か」


「ヴァナールは強いです」


「見ればわかる」


「でも、強い狼でも氷は食べられません」


父の顔から、宴の名残が消えた。


ヴァイはまっすぐ見上げる。


「人も狼も家畜も、春まで食べるものが必要です。俺は今日、群れを飢えさせないと誓いました」


「五歳のおまえに、何がわかる」


問いは厳しい。

だが、拒絶ではなかった。


ヴァイはすぐに答えなかった。


何がわかる。


前世で知っていた方法が、この土地でそのまま使えるとは限らない。

家族の人数すら、今夜初めて正確に数え直したほどだ。

倉の中身も、村の戸数も、家畜の頭数も知らない。


「まだ、何も」


父の眉が動く。


「だから、数えます」


廊下の松明が鳴った。

ヴァナールがヴァイの横へ並ぶ。


胸の奥へ、短い意思が届く。


――見せてみろ。


ヴァイは地下食料庫の扉を見た。


七十八年の人生で、国も組織も農場も、最初に必要だったのは同じだった。

勇気ではない。

奇跡でもない。


現状を知ること。


「明朝、鍵を開ける」


父が言った。


「ありがとうございます、父上」


「礼は、春を越してから言え」


ヴァルフラムはそう言い残し、廊下の奥へ歩いていった。


ヴァイは小さな手を握る。


黒田正則は七十八歳で死んだ。

ヴァイセル・ウラ・ノルヴァルは五歳になった。


そして五歳の冬、彼は最強の狼を得た夜に、剣ではなく倉の鍵を求めた。


北方を変える最初の一歩は、明日の朝、穀物袋を数えることから始まる。


— —

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。