第14話 父の会戦
王暦七四九年、初夏。
赤熊の使者が黒牙砦の北門を出てから、一晩が過ぎた。
雪は城壁の陰と谷筋にだけ残り、日向の土はようやく黒く湿っていた。北へ続く街道には、昨日イリナたちの馬が刻んだ蹄跡がまだ残っている。
朝鐘の前に、ヴァイは大広間へ呼ばれた。
長机の上には北境の地図が広げられている。
北に赤熊領。
南に黒狼領。
その境へ、炭で太い線が引かれていた。
ヴァルフラムは椅子へ座らず、地図の向こうに立ったまま言った。
「受ける」
誰も聞き返さなかった。
「鉄槌原で、赤熊と会戦する」
ヴァイは地図を見た。
鉄槌原。
中央山脈の東麓。赤熊領の南端と黒狼領の北端が噛み合うように接する、乾いた高地だった。
北から来る赤熊軍にとっては、横に長い盾列を組みやすい。
南から上がる黒狼軍にとっては、西に山裾が迫り、東には浅く裂けた谷が連なる。狼兵の速さを横へ逃がしづらい。
「父上。場所を変えてください」
ヴァルフラムの目が動いた。
「理由」
「赤熊は三千。こちらは二千百です」
ヴァイは地図の赤い石と黒い石を指した。
「数の差だけではありません。鉄槌原では赤熊の重装歩兵が横に並べます。こちらが側面へ回ろうとすれば、西は山裾に詰まり、東は谷で隊列が細くなる」
指を南へ滑らせる。
「正面から押し合うなら、相手の得意な土地です」
「知っている」
ヴァイは少し黙った。
それが一番厄介だった。
父は地形を知らないのではない。
赤熊族の戦い方を知らないのでもない。
第一夫人アストリッドを妻に迎え、赤熊族とは何度も狩りをし、魔物討伐でも肩を並べている。
グラウス・ロスグラードがどれほど強く、赤熊の盾列が何を得意とするか。
おそらくヴァイよりよく知っている。
それでも受けると言っている。
「なら、なぜです」
「黒狼は辺境伯家だ」
短い答えだった。
ハーヴェン長老が腕を組んだまま口を開く。
「赤熊は正式な使者を立て、古式に従って会戦を求めた。ここで黒狼が境を下げれば、北境の村を捨てたと見られる。九部族にも、王国にもな」
ヴァイは地図の炭線を指した。
「村を守るために、村の前で負ける必要はありません。住民を下げ、もう少し南の林縁まで引けば――」
「その間、赤熊は何を食う」
父が遮った。
ヴァイは止まった。
「倉を開けろと言ってきた連中だ。俺たちが下がれば、境の集落と家畜を取る」
ヴァルフラムの太い指が、地図の小さな村印をなぞる。
「止めなければ小隊に分かれて食い物を探す。三千が一つなら戦える。三百ずつ十に割れ、村へ散れば、守る方が難しい」
それも正しい。
飢えた軍は、統制されているうちは軍だ。
統制を失えば、武装した飢餓になる。
ヴァイは前世で、補給の切れた集団がどう崩れるかを知っていた。
軍人でなくても、食べるものがなくなれば、人は規則より家族を選ぶ。
父は誇りだけで戦うわけではなかった。
ただ、選んだ解決策がヴァイには危険すぎる。
「会戦そのものには反対しません」
「ほう」
「鉄槌原で、正面から受けることに反対しています」
ローヴェンが鼻を鳴らした。
「同じに聞こえるぞ」
「違います」
ヴァイは兄を見る。
「戦うことと、相手に戦い方まで選ばせることは別です」
ローヴェンの笑みが少し消えた。
そのとき、アストリッドが口を開いた。
「ヴァイの言ってることは合ってる」
広間が静まった。
彼女は地図の北側、赤熊領に置かれた赤い石を見ている。
赤熊族長グラウス・ロスグラードは、彼女の実兄だ。
「兄貴は、腹が減ったくらいで馬鹿にはならない」
いつもの大きな声ではなかった。
「あの男が鉄槌原を選んだなら、そこで勝てると思ってる」
ヴァルフラムが妻を見る。
アストリッドは目を逸らさなかった。
「だから、私なら行かない」
「おまえの兄だぞ」
「だから言ってる」
一瞬だけ、夫婦ではなく、二つの部族の戦士が向かい合ったように見えた。
それでもヴァルフラムは首を振る。
「受ける」
「ヴァルフラム」
「ここで退けば、次は黒牙砦まで場所を選ばれる」
「父上」
「決めた」
声が硬くなった。
心配しているときほど、父の声は硬くなる。
五歳のころから変わらない。
ヴァイは言葉を飲み込んだ。
決定した命令を、同じ理由で何度もひっくり返そうとするのは参謀ではない。
ただの反抗だ。
なら、次にやることがある。
「予備をください」
父の眉が動く。
「何人だ」
「前線から一隊。崩れた場所へ入れて、押し返せる数を」
「出せん」
返事は早かった。
「相手より少ないからですか」
「そうだ」
「少ないからこそ必要です」
父の視線が鋭くなる。
「前に出す兵を減らして、後ろで待たせろと?」
「全員を使って最初の一刻を強くするより、最後の一刻まで動かせる兵を残した方がいい」
「二千で三千を受ける。余らせる兵はいない」
「余らせるのではありません」
ヴァイは地図から顔を上げた。
「まだ起きていない失敗に使う兵です」
広間の隅で、誰かが息を吐いた。
父は長くヴァイを見た。
「主力は渡さん」
「はい」
「だが後ろはおまえに任せる。荷駄、負傷者、道。好きに整えろ」
「退路もですか」
「戦う前から退く話をするな」
「勝っても負傷者は出ます」
一拍。
父が鼻を鳴らした。
「……道は塞ぐな。それだけだ」
「十分です」
十分ではない。
だが、ゼロよりはいい。
負けると決まったわけでもない。
父は強い。
ローヴェンはさらに強い。
黒狼族の戦士は、北方でも一、二を争う。
だからこそ怖かった。
強い者は、自分の強さで悪い条件を押し切れると思いやすい。
前世でも、強い部隊ほど「できます」と言った。
そして、できることと、やるべきことは同じではなかった。
◇ ◇ ◇
出陣の日。
黒牙砦の北門には、黒い狼旗が並んだ。
二千を超える人間が一度に動くと、砦は戦士より先に音で変わる。
鉄具の触れ合う音。
馬の鼻息。
軍用狼の唸り。
乾燥肉と穀袋を荷車へ積む音。
夫や息子に最後の言葉をかける家族の声。
ヴァイには、そのすべてを見ている暇がなかった。
「その荷車は前へ出さないでください。中身を移して、空のまま後ろへ回します」
荷役の男が顔をしかめる。
「空車を連れて行くのか?」
「帰りに空とは限りません」
男の顔から不満が消えた。
「水樽は一か所に集めない。三つに分ける。布と止血材も同じです」
「若様、治療師は前へ?」
「治療師は前寄りで構いません。ただし負傷者を寝かせる場所は道から外す。道の真ん中で治療を始めたら、後ろが全部止まります」
「そんなに怪我人が出ると?」
「出なければ、空いた場所で昼飯を食べればいいです」
近くにいた戦士が笑った。
別の古参兵が言う。
「戦の前から縁起でもねえ」
ヴァイは振り返る。
「では、勝ったときは誰も怪我をしないのですか」
「……するな」
「なら必要です」
今度は何人かが笑った。
それでよかった。
恐怖を消す必要はない。
仕事へ変えればいい。
ヴェルドが木札を抱えて走ってくる。
「南へ戻る道、二つに分けるって話、説明した」
「通じましたか」
「『歩ける奴と、運ばれる奴を同じ道に入れるな』って言ったら通じた」
ヴァイは頷いた。
難しい理屈を、ヴェルドはいつも現場の言葉へ変える。
「最初の集合場所には黒布。その次は白布。もっと南の林縁は赤布にしてください」
「黒、白、赤」
「迷ったら南へ。ただし、止まる場所だけ間違えないように」
「わかった」
ヴェルドは走っていった。
十二歳になった同い年の背は、まだ大人には遠い。
自分も同じだ。
ヴァイは腰の剣へ手を置いた。
短めの北方剣。
身体が育ったぶん、以前より取り回しはよくなっている。
それでも大人の長剣と真正面から鍔迫り合いをすれば、腕ごと持っていかれる。
力で受けない。
止めない。
ずらす。
足へ。
脚へ。
腰へ。
肩へ。
手首へ。
刃先へ。
必要な場所へ、必要な瞬間だけ気を通す。
冬脈式を考えてから、何年も繰り返してきた。
全身を力で満たす父や兄とは違う。
だが十二歳の身体で戦うなら、その違いこそが武器になる。
隣ではヴァナールが歩いていた。
黒い巨体を見て、出陣する戦士たちが道を空ける。
以前なら、冬王だ、吉兆だと獣の方を見た。
今は違う。
何人かはヴァナールより先にヴァイを見る。
指示を待っている。
その視線が、少し重かった。
まだ自分は族長ではない。
軍の指揮官でもない。
今日、任されたのは後ろだけだ。
それでも任された場所では、一人も無駄に失うつもりはなかった。
北門の下では、アストリッドがローヴェンの胸当てを叩いていた。
「前へ出すぎるな」
「母上がそれ言うか?」
「私だから言う。赤熊の盾は、割れそうに見えたときが一番硬い」
ローヴェンの笑みが薄くなった。
「伯父上の癖か」
「そうだ」
母と伯父。
息子と甥。
部族の婚姻は、戦争を避けるために結ばれる。
それでも戦争は起きる。
アストリッドはローヴェンの肩を掴んだ。
「帰れ」
それだけだった。
次にヴァルフラムへ向き直る。
夫婦はしばらく何も言わなかった。
やがてアストリッドが言う。
「兄貴を侮るな」
「侮っていない」
「自分も侮るな」
父が眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「おまえは強い。だから、自分が前へ出れば何とかなると思うな」
ヴァイは口を挟まなかった。
父も返さなかった。
ただ、妻の額へ自分の額を一度だけ触れさせた。
それから鉄狼ガンヴァルとともに北門を出る。
黒狼族の野戦軍が、その背を追った。
◇ ◇ ◇
鉄槌原の南縁へ着いた夜、北の地平に赤熊の火が並んだ。
ヴァイは眠る前に、もう一度だけ高地を見に出た。
ヴァナールがついてくる。
西は山。
東は裂け谷。
北は開けた原。
赤熊の焚き火は、黒狼より長く見えた。
単純に兵が多い。
背後から足音がした。
「まだ気に入らんか」
父だった。
ガンヴァルもいる。
「はい」
「正直だな」
「今さら気に入ったと言っても、地形は変わりません」
ヴァルフラムが鼻で笑った。
親子はしばらく原を見た。
「おまえなら、どうする」
突然、父が聞いた。
「この場所でですか」
「場所を変えろは禁止だ」
ヴァイは少し考えた。
「俺なら、最初から突撃しません」
「赤熊を待つか」
「はい。西を山裾へ寄せ、東は谷へ入りすぎない。戦線を短くします」
「向こうは千多い」
「だからです。広く戦えば、人数の多い方が余ります」
ヴァイは足元から石を拾い、地面へ置いた。
黒狼。
赤熊。
「赤熊は重い。動かすなら、向こうから動かします。こちらは小隊で端を触って離れる。追えば盾列が乱れる。追わなければ時間を使わせる」
「腹を空かせた熊と我慢比べか」
「今日中に決着させなければならない理由は、向こうの方が大きいです」
父がヴァイを見る。
ヴァイはもう一つ石を後ろへ置いた。
「それと、ここです」
「また予備か」
「はい」
「しつこいな」
「必要なので」
「二百後ろへ置けば、前はもっと薄くなる」
「前が負けているとき、百人増やしても一緒に負けることがあります。でも穴が開いた瞬間に二百人が入れば、止められるかもしれません」
ヴァルフラムは黙った。
「戦士はな」
やがて言った。
「おまえが考えるほど、きれいには動かん」
「知っています」
「いや。まだ知らん」
父は北の火を見る。
「最初から下がること、待つこと、逃げ道を作ること。理屈で正しくても、戦士が『族長は勝つ気がない』と思えば命令は弱くなる」
ヴァイは答えなかった。
「黒狼は長く、前へ出ることで部族を守ってきた。俺が赤熊の挑戦を受けず、村を後ろへ下げ、原の端を嗅ぎ回って逃げ続ければ、今日の兵は助かるかもしれん」
父の声は低かった。
「だが次に俺が『ここで死ね』と言ったとき、何人が信じる」
ヴァイは赤熊の火を見た。
誇り。
名誉。
今まで、数字にならないものとして少し軽く見てきたもの。
だが、それで人が動くなら。
「……それも兵站ですね」
父がこちらを見る。
「何?」
「信頼が切れれば、命令が届かない。食料が切れたのと同じです」
数秒。
ヴァルフラムが声を上げて笑った。
「おまえは誇りまで帳簿へ入れるのか」
「動くものなら、入れます」
「やっぱり気味の悪い子供だ」
ノエルと同じことを言われた。
ヴァイは少し口元を緩めた。
父の笑いが止まる。
「ただな。ヴァイ」
「はい」
「俺が間違っていないとは言っていない」
ヴァイは父を見る。
「明日、俺が退けと言ったら」
ヴァルフラムは北を見たまま言った。
「退ける道を残せ」
「残します」
「広くな」
「はい」
「それがおまえの戦だ」
ヴァルフラムはそれだけ言うと、ガンヴァルとともに陣へ戻っていった。
ヴァイはしばらく背中を見送った。
父は、自分が絶対に正しいと思っているわけではない。
それでも選ぶ。
指揮官は、正解を知ってから命令できるわけではない。
そのことを、ヴァイは知識としては知っていた。
家族の背中で見るのは、初めてだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
鉄槌原は、名前のとおり硬かった。
冷たい風が吹いている。
だが雪はほとんど残っていない。
地面は乾き、冬に持ち上げられた石があちこちから顔を出す。
西には中央山脈の黒い裾。
東には浅い裂け目。
北側はさらに開けていた。
そこに赤い旗が並んでいる。
赤熊族三千。
盾。
槍。
厚い革と鉄。
その間に、熊型の契約獣が低い唸りを響かせる。
黒狼族は南から原へ入った。
二千百。
数の差は、地図の上より実際の方が大きく見えた。
「嫌な土地だな」
シグヴァルが小さく言った。
風狼リュヴァンの首を撫でながら、北側を見ている。
「見えすぎる」
ヴァイは頷いた。
隠れる場所がない。
敵が見える。
味方も見える。
だから安心する者もいる。
けれど遮蔽物のない場所では、見えることと動けることは別だ。
シグヴァルが指を上げた。
「赤熊の左は薄い」
「薄く見せています」
「俺もそう思う」
「右は?」
「山寄りに弓が多い。中央の後ろに、まだ盾がある」
ヴァイは息を吐いた。
赤熊の中央は、一枚ではない。
「父上へ伝えてください。中央の後ろが厚い。最初の列だけを見ないように」
シグヴァルが頷いた。
「おまえは?」
「後ろを作ります」
「戦が始まるぞ」
「だからです」
兄は一瞬だけ笑った。
「学院で三年我慢して帰ったら、十二歳の弟に戦を教えられるとは思わなかった」
「教えていません」
「そういうことにしておく」
リュヴァンとともに駆けていく。
ヴァイは南を向いた。
主戦場から離れるほど、兵は少なくなる。
荷車。
水。
治療師。
伝令。
馬を替える者。
矢束を運ぶ者。
戦場では、背景に見える人間たちだ。
だが前世では知っていた。
軍は槍先だけでできていない。
槍先だけを見ている指揮官は、槍が折れたときに軍ごと失う。
「黒布をあそこへ」
ヴァイは小さな鞍部を指した。
「荷車は道へ直角に置かない。斜めです。南へ抜ける隙間を必ず残してください」
「敵が来たら?」
「閉じます。味方が来たら開ける。そのために斜めです」
「柵は?」
「大きいものはいりません。杭だけ。馬と人が迷わなければいい」
ヴァナールも黙ってついてくる。
原は乾いている。
黒氷を大量に使う場所ではない。
空には晴れ間もある。
吹雪を作る空でもない。
最強の契約獣がいるから、どこでも同じように戦えるわけではない。
むしろ逆だ。
使えないものを数えられる者だけが、使えるものを正しく使える。
ヴァナールから短い感覚が流れた。
乾いた土。
風。
遠い狼たちの緊張。
――牙が多い。
「はい」
――群れが浅い。
ヴァイは北を見る。
赤熊の陣は深い。
黒狼の陣は広く、薄い。
「そこが嫌なんです」
ヴァナールは何も返さなかった。
◇ ◇ ◇
会戦の合図は、角笛だった。
ヴァルフラムは黒狼旗の下で剣を抜いた。
北から赤熊の鬨の声が来る。
低い。
腹に響く。
飢えている軍の声には聞こえなかった。
いや。
飢えているからこそだ。
今日負ければ、赤熊の家族が食えない。
そう思っている三千人の声だった。
ヴァルフラムはガンヴァルの肩へ手を置く。
鉄狼の毛の下で、金属を擦るような低い音がした。
「行くぞ」
ガンヴァルが前へ出る。
黒狼族の戦士たちが応じた。
黒狼の戦いは、止まらないことから始まる。
盾を並べて待つより、走り、間を変え、狼と人が互いの死角を埋める。
真正面から見れば乱れて見える。
だが、一人が踏み込めば隣がずれ、一頭が噛みつけばその背から槍が出る。
群牙戦技。
黒狼が何代も磨いた戦い方だ。
最初の衝突で、赤熊の盾が鳴った。
鉄と木が同時に軋む。
ヴァルフラムの剣が盾の縁へ当たる。
ガンヴァルの魔力が走り、剣身が一瞬だけ硬くなる。
盾を真っ二つにする必要はない。
持つ腕ごと弾けばいい。
開いた隙間へ黒狼兵が二人滑り込む。
右ではローヴェンが大剣を振るっている。
あれは隙間を使う戦いではない。
作っていた。
赤熊の大盾が一枚、横へ飛ぶ。
二枚目が傾く。
雪狼イスヴァルが低く潜り、足を止めた戦士の膝裏へ食らいつく。
「押せ!」
ローヴェンの声が響く。
黒狼の前列が食い込んだ。
ヴァルフラムは笑った。
強い。
やはり強い。
自分の息子は、北方でも指折りの戦士になった。
そして黒狼は、赤熊より弱くない。
正面からでも。
そう思った瞬間だった。
赤熊の第一列が下がった。
崩れたのではない。
下がった。
二歩。
そこへ後ろの盾が入る。
三列目から槍が出る。
「止まるな!」
ヴァルフラムは叫んだ。
黒狼はさらに食い込む。
赤熊の中央が、ゆっくりと凹む。
押している。
そう見える。
だが北の赤い旗は乱れていなかった。
遠く中央に、ひときわ大きな熊がいる。
鋼炎熊ヴォルカ。
その脇に、大斧を持つ男が立っていた。
グラウス・ロスグラード。
遠すぎて顔は見えない。
それでもヴァルフラムには、義兄が笑っている気がした。
左から短い笛が鳴る。
黒狼の合図ではない。
赤熊だ。
続いて右。
ヴァルフラムの背へ冷たいものが走った。
赤熊の両翼が、前へ出ていない。
内へ向いている。
中央を凹ませ、黒狼を飲ませ、その横腹へ蓋をしようとしている。
「左、広がれ!」
伝令が走る。
だが左は西の山裾へ近い。
広がる場所が足りない。
「右は谷を越えろ!」
東側の小隊が動く。
列が細くなる。
そこへ赤熊の猟兵が矢を入れた。
馬が立ち上がる。
狼が避ける。
人が止まる。
ほんの数呼吸。
それだけで、後ろから来た黒狼兵が前の背へ詰まった。
速さを武器にする軍が、自分たちの速さで詰まる。
「くそっ」
ヴァルフラムは理解した。
グラウスは、黒狼の突撃を止めようとしていなかった。
走らせたのだ。
走らせて、狭い場所へ集めた。
「ローヴェン! 深追いするな!」
声が届いたかはわからない。
大剣がまた赤熊の盾を割る。
局地では勝っている。
一人一人は勝っている。
なのに戦線は悪くなる。
その矛盾が、ヴァルフラムの胸へ重く落ちた。
ヴァイが言った。
戦うことと、相手に戦い方まで選ばせることは別だ。
「……小僧め」
悪態のように呟く。
正しかった。
だからといって、今ここで終わるつもりはない。
「中央、止まれ! 一度列を作れ!」
黒狼旗が振られる。
前進の勢いを殺す命令。
これが難しい。
突撃より難しい。
戦士は前へ出ることを教えられている。
血が上がった後に下がることは、弱さだと思う。
だから指揮官が止めなければならない。
ヴァルフラムは自ら前へ出た。
「止まれと言った!」
剣で一人の肩を叩き、押し戻す。
ガンヴァルが咆哮した。
黒狼兵が振り返る。
族長の姿を見て、ようやく足を止める者が出た。
そこへ赤熊の槍が来た。
ガンヴァルが身体を入れる。
鉄狼の肩へ刃が当たり、甲高い音を立てて滑った。
ヴァルフラムが槍の柄を斬り落とす。
「列を作れ! 走るな! 隣を見ろ!」
後ろへ伝わる。
少しずつ、黒狼の中央が形を取り戻す。
まだ終わらない。
まだ立て直せる。
そう思ったとき、右から黒狼の伝令が転がるように来た。
「東側、谷で詰まっています! 赤熊の軽兵が回り込みを!」
「何人だ」
「見えません!」
偵察が足りない。
ヴァルフラムは歯を食いしばる。
兵数は見た。
主陣も見た。
盾の厚さも知っていた。
だが「赤熊は正面で来る」という知識が、見るべきものを減らしていた。
相手が何を得意か知っていることと、
相手が今日、何をするか知ることは違う。
「伝令! 後ろへ走れ!」
「はっ!」
「ヴァイに東の道を見ろと伝えろ。荷駄を守れ。退く道を――」
言葉が止まった。
退く。
戦う前には口へ出したくなかった言葉が、今は必要だった。
「退く道を空けておけ!」
伝令が走った。
◇ ◇ ◇
その伝令がヴァイへ着くより先に、ヴァイは東を見ていた。
主戦場の音は、後ろでも地面から伝わる。
剣の音を一つずつ聞き分けることはできない。
だが、声の大きさは変わる。
最初は一つだった鬨の声が、途中からいくつにも割れた。
良くない。
軍が、同じものを見ていない音だった。
東の裂け地に置いた見張りが駆けてくる。
「若様! 赤熊が出た!」
「数は」
「多くない! でもこっちへ来る!」
「何を狙っています」
「荷車だ!」
ヴァイは即座に振り返る。
「馬を外すな! 荷車を斜めに!」
待機していた男たちが動く。
「槍は前へ出すぎない。車輪の間から。狼は後ろ!」
一人が叫ぶ。
「狼を前に出さないのか!」
「追わせたら道が空く!」
赤熊の軽兵が狙うのは、荷車そのものだけではない。
後方を騒がせることだ。
荷駄の馬が逃げる。
治療師が散る。
前線へ行く矢が止まる。
そして退く道が塞がる。
少数で十分にできる。
グラウスは戦場の前だけを見ていない。
ヴァイはそこに、敵将としての怖さを感じた。
同時に、妙な納得もあった。
強い。
ならば、こちらも考え甲斐がある。
「ヴェルド!」
「いる!」
「黒布の場所へ。前から戻る者を止めない。道の端へ寄せる」
「わかった!」
「『逃げるな』ではなく、『そこで組み直せ』と伝えてください」
ヴェルドが一瞬だけヴァイを見た。
「まだ退けって命令は来てないぞ」
「だから逃がさないんです」
「……わかった!」
十二歳の少年が、十二歳の少年へ命じる。
周りには、その三倍も四倍も生きた男たちがいる。
誰も笑わなかった。
東の裂け地から、赤熊兵が現れた。
主力ほど大きな盾は持っていない。
革鎧が多い。
山裾や狩り場で動く兵だ。
先頭が荷車を見る。
迷わず速度を上げる。
「来るぞ!」
黒狼の荷駄護衛が槍を構えた。
ヴァイは剣を抜いた。
「前へ出るな。ここで受ける」
「若様は下がれ!」
年嵩の兵が叫ぶ。
ヴァイは首を振った。
「俺が下がると、ヴァナールも下がります」
男が黒い巨狼を見る。
黙った。
ヴァナールは牙を見せていない。
ただ立っている。
それだけで、走ってきた赤熊兵の何人かがわずかに速度を落とした。
魔法生物の王種。
人間を支配する力ではない。
だが獣と近く生きる北方の戦士ほど、その異質さを本能で理解する。
「来る」
ヴァイが言った。
赤熊の投槍が飛ぶ。
「伏せろ!」
黒狼兵が荷車の陰へ沈む。
槍が板へ刺さる。
次の瞬間、赤熊兵が車列へぶつかった。
狙いは突破だ。
止まって殴り合う気はない。
一人が車輪へ斧を振り下ろす。
ヴァナールが跳んだ。
黒い影が体当たりし、男を斜めへ飛ばす。
その横から別の赤熊兵がヴァイへ来た。
大人。
片手斧。
盾なし。
子供を見て、一瞬だけ目が動いた。
それが隙だった。
振り下ろされるより先に、ヴァイが踏み込む。
足裏。
気が走る。
右脚。
腰。
相手の斧を剣で受けない。
身体を半歩ずらし、刃の腹を斧の柄へ添えるだけ。
肩。
手首。
相手の力が落ちる方向へ剣を滑らせる。
斧が地面を叩いた。
ヴァイの刃は、もう返っている。
刃先。
革鎧の脇。
腕を上げたことで開いた場所へ滑り込む。
必要な深さだけ斬る。
赤熊兵が息を詰め、膝をついた。
止まらない。
背後から別の気配。
振り向くより先に、ヴァナールが低く唸った。
男が怯む。
ヴァイは低く潜り、膝裏へ刃を通した。
倒れる。
「若様!」
「前を見ろ!」
自分を見た護衛へ怒鳴った。
「俺を見るな! 道を守れ!」
声が出た。
十二歳の喉の声だ。
父のような太さはない。
ローヴェンのような圧もない。
それでも、人が動く。
槍が揃う。
荷車の隙間が閉じる。
赤熊兵が一人、二人と弾かれる。
敵は無理をしなかった。
主力ではない。
荷駄を壊せればよかった部隊が、予想より守られていた。
なら退く。
その判断も速い。
「逃げるぞ!」
黒狼兵の一人が前へ出ようとした。
「追うな!」
ヴァイの声で止まる。
「でも今なら!」
「敵の目的は俺たちを道から外すことです」
「……」
「道が残れば、俺たちの勝ちです」
男は槍を引いた。
赤熊兵は裂け地へ戻っていく。
ヴァイは追わない。
殺せたかもしれない。
十人。
二十人。
それで前線の三千は止まらない。
ここを空ければ、後で戻ってくる何百人もの味方が詰まる。
剣についた血を振った。
手が震えていないことを確認する。
息は速い。
身体は十二歳だ。
二度続けて冬脈を通した脚が熱い。
続ければ精度が落ちる。
強くなった。
だが無限ではない。
「負傷者を縛ってください。敵でもです」
「敵も?」
「今は殺す理由がありません」
「また来るぞ」
「歩けないようにはしました」
冷たい言い方だと、自分でも思った。
だが事実だった。
倒れた赤熊兵の一人が、ヴァイを睨む。
「……ガキが」
「そうですね」
「冬王の仔か」
「今は荷駄番です」
男が、一瞬意味を理解できない顔をした。
近くの黒狼兵が吹き出す。
張り詰めた空気がわずかに緩んだ。
そのとき、北から馬が来た。
「ヴァイ様!」
父の伝令だった。
「東を見ろ! 荷駄を守れ! 退路を空けろと族長から!」
周囲が静まる。
ヴァイは倒れた赤熊兵と、すでに整った車列を見た。
「承知しました、と伝えてください」
伝令が目を見開く。
「もう?」
「東なら、もう終わりました」
伝令は裂け地を見る。
それからヴァイの血のついた剣を見る。
最後に、十二歳の顔を見た。
何も言わず、馬首を返した。
◇ ◇ ◇
ヴァルフラムは、伝令が戻ってくるより先に右側が崩れるのを見た。
崩壊は、一度には来ない。
最初に旗が一本下がった。
次に三人が後ろを向いた。
それを見た十人が足を止めた。
止まった十人へ、後ろから来た二十人がぶつかった。
そこへ赤熊の盾が押す。
人は、壁のようには崩れない。
小さな判断が連鎖して軍になる。
小さな恐怖が連鎖して敗走になる。
「右を下げろ! 中央と合わせろ!」
ヴァルフラムは命じた。
だが今度は、下がる命令が速すぎた。
「下がれ」という声だけが先へ走り、
「中央と合わせろ」が消える。
一部の兵が南へ向いた。
赤熊の猟兵がそこへ矢を射る。
走る者が増える。
「旗を上げろ!」
黒狼旗が上がる。
まだ族長はいる。
まだ軍はある。
ヴァルフラムは自分を旗の下へ戻した。
指揮官が前で戦いすぎた。
それもわかった。
兵は自分を見て勇む。
だから前へ出た。
だが前で一人斬れば、その間、全体を見る目が一つ減る。
ヴァイなら何と言う。
剣で一人倒す間に、百人の向きを見ろ。
あの小僧なら、そんなことを言いそうだった。
「ローヴェンを呼べ!」
「長兄様は左で交戦中!」
「引かせろ!」
「聞きません!」
「聞かせろ!」
怒鳴った。
自分の若いころを見ているようで腹が立つ。
強いから下がらない。
勝てる場所が目の前にあるから、そこだけを見る。
ローヴェンは赤熊の盾列を本当に押している。
彼の周囲だけなら、黒狼が勝っていた。
だが軍は負け始めている。
遠く、赤熊中央で大斧が上がった。
グラウスだ。
合図。
それまで中央の後ろにいた重装兵が動く。
温存していた兵。
赤熊の第二線。
「予備……」
ヴァルフラムは呟いた。
朝、ヴァイが欲しがったものだ。
赤熊にはある。
黒狼にはない。
こちらが最初からすべてを出したことを見て、グラウスは最後の力を残していた。
正面の強さだけではない。
あの男も、軍を見ている。
「義兄め」
今度は笑えなかった。
鋼炎熊ヴォルカが吠える。
赤熊の盾列が押し返してくる。
黒狼の中央が一歩下がる。
二歩。
ガンヴァルが吠え返す。
ヴァルフラムは剣を上げた。
「ここで止める!」
自分が止める。
そう思った。
それが長年の癖だった。
政治が苦手なら、戦場で守る。
商人に足元を見られても、兵が必要なら剣で稼ぐ。
北が侮られれば、強さを見せる。
自分が強ければ、家族と部族を守れる。
その考えで、ここまで来た。
間違いだったとは思わない。
だが今、三千人を動かす敵に対して、二千百人を自分の強さだけで支えようとしている。
足りない。
強いだけでは足りない。
その事実を、赤い盾が押しつけてくる。
「族長!」
伝令が戻った。
「後方、無事です! 東から回った赤熊兵は撃退! ヴァイ様が退路と集合場所を確保しています!」
ヴァルフラムは一瞬だけ目を閉じた。
負ける準備。
朝はそう聞こえた。
違う。
軍を失わない準備だ。
「……そうか」
「命令を!」
ヴァルフラムは北を見る。
グラウスはまだ中央にいる。
ここで意地を張れば、二千百が消える。
黒狼族は、一度の会戦で終わる。
それこそ辺境伯の威信どころではない。
「全軍へ!」
喉が焼けるほど叫んだ。
「一斉に逃げるな! 組ごとに下がれ! 旗を見失うな!」
伝令が散る。
「南の道へ! ヴァイの印へ集まれ!」
自分の十二歳の息子の名を、退却命令の中へ入れた。
妙な気分だった。
だが恥ではない。
今必要な場所を作った者の名だ。
「ローヴェンを引き戻せ! 俺は中央を――」
言い終わる前に、赤熊の槍が迫った。
ガンヴァルが跳ねる。
鉄の音。
馬が暴れる。
土煙。
視界が赤と黒で埋まった。
◇ ◇ ◇
最初に戻ってきたのは、負傷兵ではなかった。
武器を持ったまま、顔だけが敗走兵になった男だった。
「どけ! どけ!」
黒布の印を通り過ぎようとする。
ヴェルドが前へ出た。
「止まれ!」
「負けた! 右が破られた! 後ろも来る!」
「だから止まれ!」
男がヴェルドを突き飛ばしかける。
その腕を、横からヴァイが掴んだ。
十二歳の力では止められない。
だから引かない。
男の進む方向へ一歩ついていき、身体を回す。
勢いを殺さず、向きだけ変える。
男が道の端へよろめく。
「何しやがる!」
「走るなら、こっちです」
ヴァイは南の次の印を指した。
「ただし一人で黒牙砦まで走らない。白布で止まってください」
「聞いてなかったのか! 負け――」
「父上はまだ戦場にいます」
男が黙る。
「兄上もです。あなたの組の者も、まだ戻ってきていない」
「……」
「一人で逃げれば、次に戻る者があなたを探します。白布で止まって、五人集めてください」
「俺は……」
「五人になったら武器を確認する。十人なら、その中から一人を先頭に決める」
男が息を荒くする。
「負けたんだぞ」
「負けたかどうかは、あとで決めます」
ヴァイは男の目を見る。
「今は散らないでください」
男の呼吸が少しずつ落ちた。
「……白布だな」
「はい」
男は走った。
ただし今度は、決められた方向へ。
ヴェルドが口を開けていた。
「何です」
「いや」
「言ってください」
「おまえ、怖くないのか?」
ヴァイは北を見る。
怖い。
父がいる。
ローヴェンがいる。
シグヴァルもいる。
鉄槌原の向こうは土煙で見えない。
黒狼旗が時々見える。
そのたびに、まだ立っていると思う。
次に見えなくなる。
胸が冷える。
「怖いですよ」
「そう見えねえ」
「見せても仕事が減りません」
ヴェルドは顔をしかめた。
「そういうとこ、やっぱ気味悪い」
ノエルと同じことを言う。
ヴァイは少しだけ笑った。
そのとき二人目が来た。
今度は腕から血を流している。
続いて三人。
一人は肩を貸されていた。
「黒布、開けろ!」
ヴァイの声が変わる。
「歩ける者は左! 運ばれる者は右! 道の中央に座らせるな!」
治療師が駆け寄る。
「この人は――」
「ここでは止血だけ。寝かせるなら脇へ。次が来ます!」
まだ傷の重さを細かく分ける段階ではない。
今は道を生かす。
一人を助けようとして、百人を詰まらせない。
「水!」
「ここに!」
「全部飲ませない。口を湿らせる分を残して!」
馬の音。
今度は十人以上。
顔に土。
盾を捨てた者。
槍を折った者。
泣いている若い兵。
「旗は?」
ヴァイが問う。
誰もすぐには答えなかった。
「黒狼旗は見えましたか!」
一人が振り返る。
「見えた……まだ、見えた」
「なら終わっていません」
「でも右は――」
「右が崩れたなら、ここで右を作り直します」
兵たちがヴァイを見る。
「五人ずつ。武器がある者は前。ない者は後ろ。怪我のない者は水を運べ。ここを抜けたら白布まで行ってください」
「若様、俺たちは戻るのか?」
ヴァイはすぐには答えなかった。
戻す命令はない。
今ここで勝手に反撃させれば、また散る。
「今は戻りません」
「じゃあ逃げるのか」
「違います」
短く言った。
「軍に戻ります」
男は意味を考えた。
それから槍を持ち直した。
「……わかった」
また人が来る。
数が増える。
ヴァイは一人一人の顔を覚えられない。
前世でもそうだった。
災害の現場で、全員の名前を聞いてから動くことはできない。
だから数える。
歩ける。
運ぶ。
出血。
武器あり。
武器なし。
馬。
水。
空いた荷車。
数字にするのは、人を人でなくするためではない。
誰かを見落とさないためだ。
ヴァナールが北を向いた。
黒い耳が立つ。
意味が流れ込む。
土煙。
血の匂い。
狼たちの混乱。
――群れが散る。
ヴァイは拳を握った。
「散らしません」
――牙が折れる。
「折れても、数えます」
ヴァナールがこちらを見る。
五歳のときと同じ、試す目だった。
群れを飢えさせない。
その誓いは、食料だけの話ではなかった。
誰が足りないのか。
何が足りないのか。
誰を置いていくのか。
知らないまま決めない。
北から、さらに大きな波が来た。
今度は数十人。
「来るぞ!」
ヴェルドが叫ぶ。
ヴァイは剣を鞘へ戻した。
戦うためではない。
両手を空けるためだ。
「黒布を広げろ! 馬を道から外せ! 走ってきた者を止めろ! ただし南へ追い払うな!」
「止まらなかったら!」
「聞こえるまで言え!」
周囲に笑う余裕はなかった。
それでも命令は通った。
黒い布が高く掲げられる。
敗走兵たちの目に入る。
旗とは違う。
威厳もない。
家紋もない。
ただの布だ。
けれど、
ここで止まれ。
という意味がある。
意味が同じなら、人は集まれる。
最初の男が白布から戻ってきた。
「若様!」
「なぜ戻ったんです」
「十人できた!」
その後ろに九人いる。
「武器は?」
「槍六、剣三、弓一!」
「怪我は」
「軽いのが二!」
「では水を持って黒布の右へ。次に来る者を受けてください」
「戦わなくていいのか」
「まだです」
男が頷いた。
もう逃げる顔ではなかった。
ヴァイは北を見る。
鉄槌原の中央で、黒狼旗が大きく揺れる。
一度、低くなった。
また上がる。
その脇に、鉄狼らしい灰色の影が見えた気がした。
父上。
行きたい。
今すぐヴァナールと北へ走りたい。
十二歳の身体が、前世で七十八年を生きた理性より強くそう叫んだ。
父がいる。
兄がいる。
助けに行け。
けれど足は動かなかった。
自分が今行って、何人斬れる。
一人。
二人。
ヴァナールがいれば、もっと。
だがここを離れたら、戻ってくる百人を誰が止める。
剣で百人を倒すより。
昔、自分で考えたことが、こんな形で返ってくるとは思わなかった。
百人が散らない仕組みを作る。
その方が強い。
なら、証明する場所はここだ。
「ヴェルド」
「何だ!」
「次が来ます」
北の土煙が膨らむ。
黒狼の戦士たちが、今度は隊列ではなく、人の波になってこちらへ下ってくる。
さらに向こうで、赤熊の赤い盾がゆっくり南へ進んでいた。
黒狼旗が見えなくなった。
誰かが息を呑む。
「旗が――」
「見るな!」
ヴァイが叫んだ。
全員の目がこちらへ向く。
「ここを見ろ!」
十二歳の声が、鉄槌原の南端へ響いた。
「戻ってくる者を止める! 武器を拾え! 水を出せ! 南の道を空けろ!」
人が動く。
「父上たちが戻る道を、絶対に塞ぐな!」
今度は誰も、子供の命令だとは思わなかった。
ヴァナールがヴァイの隣へ立つ。
北から風が吹く。
血と土の匂いを運んでくる。
会戦は、まだ終わっていない。
だが勝敗は、もう傾いていた。
ヴァイは北を見たまま、次の兵を受け止めるために腕を伸ばした。
鉄槌原で父が失おうとしているものを、一つでも多く軍として持ち帰る。
それがこの日、十二歳のヴァイに与えられた戦場だった。




