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第13話 赤熊の要求

王暦七四九年、春。


春と呼ぶには、まだ雪が多かった。


黒牙砦の北門から見える道は、白と泥がまだらに混じっている。そこから北へ延びる街道の先に、赤熊領がある。


昼には轍が沈み、夜にはそのまま凍る。


軍を動かすには悪い季節だった。


だからこそ、ヴァイは三日という期限を重く見た。


赤熊族長グラウスの最後通牒は、会議机の中央に置かれている。


――黒狼の倉を開けよ。


――赤熊の子を飢えさせて、北の盟主を名乗るな。


――三日以内に返答せよ。


――拒むなら、我らは春を待たぬ。


ローヴェンは二度目に読んだところで舌打ちした。


「答えは簡単だろ。脅されて倉を開けたら、次から誰でも同じことをする」


「その通りです」


ヴァイが答えると、兄は怪訝そうに眉を上げた。


「なら終わりじゃねえか」


「いいえ」


ヴァイは机の上へ別の紙を置いた。


赤熊領の人口。


冬前に確認できた穀物の流入。


街道を通った荷車の数。


馬の屠畜報告。


配給を減らした集落。


数字は揃っていない。


赤熊族の倉を黒狼が直接見たわけでもない。


だが、何もわからないわけではなかった。


「答える前に、向こうが何を欲しがっているのかを決めます」


「手紙に書いてある。食い物だ」


「食料を何日分ですか」


ローヴェンが黙った。


ヴァルフラムが腕を組む。


「続けろ」


「赤熊族は三万人です。全員を普段どおり食べさせる量と、死なない最低量では違います。家畜をどこまで残すかでも違う。種子へ手をつけるかでも違う」


ヴァイは三つの欄を指した。


人が食べる分。


春に播く分。


家畜を残す分。


「赤熊が欲しいのは、黒狼の倉そのものではありません」


「同じだろう」


古参戦士の一人が言った。


「倉を開ければ、中身を持っていく」


「違います」


ヴァイは首を振った。


「倉を取ることが目的なら、戦争で倉が焼けても構わないはずです。でも腹が減っているなら、焼けた時点で赤熊も負けです」


会議室が静かになった。


「相手の目的は、食べられる状態の食料です。土地でも、旗でも、黒狼を辱めることでもない」


「グラウスがそう言ったのか」


「いいえ」


「なら、おまえの推測だ」


「はい。だから確かめます」


ヴァイは父へ向き直った。


「父上。返答まで一日、使わせてください。シグヴァル兄上に北路を見てもらいたいです。赤熊が軍を集めているなら、人数より先に荷車と屠畜の跡を見ます」


シグヴァルが壁際で目を細めた。


「兵より荷車か」


「食料を奪いに来る軍なら、帰りに運ぶ車が要ります。最初から焼き払う気なら別ですが」


「偵察兵の数は?」


「少なくていいです。見つからない方を優先してください」


シグヴァルは一度だけ頷いた。


「行ける」


ヴァルフラムは息子二人を見比べた。


「半日で戻れ」


「はい」


「ヴァイ」


「はい、父上」


「おまえはその間に、黒狼が渡せる量を出せ。渡したい量じゃない。渡しても黒狼が死なない量だ」


「わかりました」


父の声は硬かった。


だが、最初から拒絶はしなかった。


それだけで十分だった。


◇ ◇ ◇


会議が終わると、ヴァイは食料庫へ行かなかった。


十二歳の彼を知る者ほど、そのことに少し驚いた。


向かったのは北門だった。


門外では、黒狼兵が雪解けの泥を踏んで隊列を作っている。


春の警戒を増やすため、ローヴェンが近在の戦士を集めていた。


大人の男たちが四十人ほど。


剣、短槍、盾。


軍用狼もいる。


まだ戦争ではない。


だから鎧は軽い。


けれど、顔から笑いは消えていた。


「北門から赤熊領へ抜ける道は三つあります」


ヴァイは兵の前に広げた粗い地図を指した。


一つは広い街道。


一つは川沿いの古道。


もう一つは林の中を通る狩猟道。


「赤熊の重装兵がまとまって来るなら街道です。川沿いは今、雪解けで足場が悪い。狩猟道は人は通れても荷車が通りません」


古参兵が鼻を鳴らした。


「そんなことは北の戦士なら誰でも知ってる」


「はい」


ヴァイは普通に頷いた。


「だから、敵も知っています」


男の顔が少し変わった。


「街道を塞げば、相手が驚くとは思いません。むしろ、こちらが街道を守ると思って来るはずです」


ヴァイは地図の上で指を動かした。


「俺なら、先に狩猟道へ軽い兵を入れます」


「何のためだ」


「街道の黒狼兵を見ます。倉へ向かう荷車も数える。戦うためではありません」


「なら、そいつらを狩ればいい」


「追えば、林の奥へ誘われます」


古参兵が口を閉じた。


ローヴェンが横で腕を組んでいる。


何も助けない。


ヴァイは続けた。


「だから、狩猟道を守るのではなく、見られて困るものを置かない。北門寄りの大倉から食料を一部移します。荷車は昼にまとめて動かさず、夜明け前と夕方へ分ける」


「敵もまだ来てねえぞ」


別の兵が言った。


「来てから移すと、移している途中を取られます」


「赤熊が来なかったら?」


「運んだ分だけ手間です」


「損だな」


「はい」


ヴァイはそこで笑わなかった。


「来たときに一つの倉を取られて全部失うより安いです」


兵たちの視線が、地図からヴァイへ移った。


十二歳。


肩幅も、声も、まだ成人には届かない。


だが話している内容だけが、兵の前に立つ年齢ではなかった。


ローヴェンが口を開いた。


「口で言うだけじゃ、兵は動き方がわからねえ。やってみろ」


ヴァイが兄を見る。


「今ですか」


「今だ」


ローヴェンは兵を二つに分けた。


二十八人を自分の側へ。


十二人をヴァイへ。


木剣と丸盾だけを持たせる。


「俺たちが北門だ。おまえらが外から来る赤熊だと思え」


「人数が逆では?」


「戦ならもっと不公平だ」


「それはそうですね」


ローヴェンが笑った。


「俺の背中に触れたら、おまえらの勝ち。俺たちが全員止めたらこっちの勝ちだ」


ヴァイは十二人を見た。


若い兵が多い。


一人は槍。


二人は盾。


残りは木剣。


軍用狼は使わない。


「三分ください」


「長え」


「では一分」


ヴァイは兵を寄せた。


難しい説明はしなかった。


「六人は正面。大声を出してください。勝とうとしなくていい」


「何だそりゃ」


「負けないでください」


「同じじゃねえか」


「違います」


ヴェルドならもっと短く言うだろうと思いながら、ヴァイは残り六人へ向いた。


「三人は左の雪壁沿い。三人は俺と右へ」


「右は泥だぞ」


「だからです」


開始の声が飛んだ。


正面の六人が、本当にうるさく突っ込んだ。


ローヴェン側の兵が笑いながら受ける。


数で押される。


盾が鳴る。


木剣が跳ねる。


左の三人が雪壁沿いへ走る。


守る側が二人、そちらへ動いた。


ヴァイは右へ行かなかった。


最初の数歩だけ右へ見せ、その場で止まった。


一緒にいた三人も止める。


「今、左へ」


「は?」


「走って」


三人が泥を蹴って進路を変える。


守る側は右へ寄ったばかりだった。


その一瞬だけ、左の三人と合流できる隙間ができる。


「抜けろ!」


今度は命令が短かった。


六人が一つになって雪壁の陰を走る。


ローヴェンが動いた。


速い。


木剣を大剣のように振り、先頭を一人止める。


二人目も盾ごと押し戻す。


三人目が転ぶ。


ヴァイは最後尾にいた。


兄がこちらを見る。


正面から行けば終わる。


十二歳のヴァイが、今のローヴェンを力で越えることはできない。


だから、最初から兄を倒すつもりはなかった。


「左!」


ヴァイが叫んだ。


ローヴェンの目が一瞬だけそちらへ動く。


誰もいない。


嘘だった。


「てめ――」


その一瞬に、ヴァイは踏み込んだ。


足裏。


脚。


腰。


背。


気を通して、すぐ抜く。


兄の木剣が戻る前に、身体を低くする。


肩の横を風が抜けた。


二歩目。


去年より速く、去年より短く。


木剣ではなく、空いた左手を伸ばした。


指先がローヴェンの背の毛皮に触れる。


そこで止まった。


「……触りました」


数呼吸、誰も声を出さなかった。


次にローヴェンが振り返る。


顔が怖い。


ヴァイは一歩下がった。


「兄上。これは戦術上の――」


「嘘つきやがったな」


「欺瞞です」


「言い換えるな!」


兵たちが笑った。


最初に文句を言った古参兵も、笑っている。


ローヴェンはヴァイの頭を木剣で軽く叩いた。


「勝った顔すんな。実戦なら今ので頭を割ってる」


「俺も兄上を倒せていません」


「じゃあ何が勝ちなんだ」


「兄上の背に触ることです」


「……腹立つな、おまえ」


今度は大きな笑いが起きた。


ヴァイも少し笑った。


遊びではない。


兵に必要なのは、十二歳の少年が大人より強いという見世物でもない。


勝つ条件を決める。


必要のない敵とは戦わない。


数で負けても、全員を倒す必要はない。


それを身体で理解してもらう方が大切だった。


笑いが収まったあと、さっきの古参兵が地図を見た。


「若様」


「はい」


「赤熊が来たら、俺たちは何に触れば勝ちなんだ」


今度は、問い方が違った。


ヴァイは少し考えた。


「今はまだ、戦わずに春の種を残すことです」


男はしばらく黙り、やがて頷いた。


その返事を、ローヴェンが横目で見ていた。


◇ ◇ ◇


昼過ぎにシグヴァルが戻った。


泥の付いた外套を脱ぐ前に、地図の前へ立つ。


「赤熊は集めてる」


一言目だった。


ヴァルフラムの顔が硬くなる。


「何人だ」


「まだ軍じゃない。赤鉄砦の周りへ戦士が入り始めてる。鍛冶場は武具の修理を増やした。馬車も集めてる」


「荷車は?」


ヴァイが聞く。


シグヴァルは弟を見る。


「多い」


「空ですか」


「見た分はな。荷を積まず赤鉄砦へ向かってる」


ローヴェンの笑みが消えた。


空の荷車。


戦争へ行く軍が持っていくには、妙な荷だった。


帰りに何かを積むためなら、別だ。


「倉を取りに来る」


古参戦士が低く言う。


ヴァイは頷いた。


「可能性が上がりました」


「可能性じゃねえ。決まりだろ」


「グラウスが本当に黒狼を滅ぼすつもりなら、空荷で来る理由はありません。食料を持ち帰るつもりです」


「だから何だ」


「止められます」


ヴァルフラムが目を細めた。


「どうやってだ」


ヴァイは机に四つの袋を置かせた。


一つは黒狼領の余剰。


一つは種子。


一つは家畜用。


一つは病人や子供へ優先する分を示す。


実物ではない。


一袋を一日分に見立てた印だった。


「黒狼の種子と最低越冬分には触れません」


「それは当然だ」


「そのうえで出せる分を、赤熊へただ渡すのではなく共同配給へ入れます」


ローヴェンが眉を寄せた。


「共同?」


「赤熊の倉も出してもらいます」


部屋の空気が変わった。


アストリッドが腕を組む。


「兄が飲むと思うか」


「難しいと思います」


「なら何で言う」


「黒狼だけが倉を開ければ、赤熊は次も黒狼へ来ます。赤熊だけが倉を出せば、先に尽きる。両方の残りを見て、子供、病人、種子、戦士の順ではなく、用途ごとに必要量を決めるべきです」


「赤熊の倉を黒狼が数えるのか」


ハーヴェン最長老が低く言った。


「それはもう、赤熊が黒狼へ腹を見せるのと同じだ」


「黒狼の倉も赤熊に見せます」


「同じではない」


「なぜですか」


「向こうが脅してきたからだ」


ハーヴェンの声には怒りより重みがあった。


「ここで対等を装えば、脅した方が得をする。古い部族ほど、そこを見ている」


ヴァイは反論しようとしてやめた。


正しい。


数字だけなら相互公開が公平でも、誇りと前例は別の価値を持つ。


母ミウレイアに何度も言われたことだった。


人は、損得だけで生きていない。


「では、条件を付けます」


ヴァイは言った。


「脅迫への譲歩ではなく、九部族の飢饉対策として扱う。黒狼と赤熊だけの取引にしない。白兎と銀梟に立会いを頼む」


「九牙会議を開く時間はないぞ」


「正式会議でなくても、証人にはなります」


ヴァルフラムは黙って聞いている。


ヴァイはもう一枚、ノエルから届いた紙を出した。


南方商会の倉庫。


狐灯市と南路沿いにある、穀物保管量の推定。


正確ではない。


だが空でもなかった。


「もう一つあります」


「何だ」


「商会倉庫です」


今度は、セレネが先に顔を上げた。


「接収ですか」


「はい」


ローヴェンが笑った。


「やっと剣の話になったな」


「兄上が思っている剣ではありません」


「何だよ」


「帳簿を残します」


「つまらねえ」


ヴァイは無視した。


「南方商会は信用停止そのものでは法を破っていません。ですが、北方領内の倉に現物があり、飢饉と部族戦争が迫っているなら、父上の辺境守備と治安権を理由に一時接収できないか、銀梟へ確認します」


セレネが慎重に言った。


「王国法上、まったく根拠がないとは言いません。ただし強引に使えば、商会は王都へ訴えます」


「訴えさせます」


何人かがヴァイを見た。


「取った量、倉の持ち主、時価、配った先を全部残します。後で補償する。飢えた民へ売らず、戦争を起こさせるために在庫を抱えたのかどうかも記録する」


「証明できなければ?」


「こちらが補償します」


「銀はどこから出す」


「冷却器の利益、守備金、来年以降の氷魔晶石取引から分けます」


ハーヴェンが険しい顔をした。


「未来の稼ぎを、赤熊へ食わせるのか」


「黒狼の兵を死なせるより安ければ」


空気が凍った。


ヴァイは言ってから、自分の言葉が冷たすぎたことに気づいた。


「……兵の命を銀貨へ替えるという意味ではありません」


「わかっておる」


ハーヴェンは低く返した。


「だからこそ気に入らんのだ。おまえは本当に比べる」


「比べないと、選べません」


「戦士には、比べてはいけんものもある」


「飢えた子供と戦士の面子なら、俺は比べます」


今度は言い直さなかった。


ローヴェンが弟を見る。


アストリッドも見る。


ヴァルフラムだけは、表情を変えなかった。


「案としてはわかった」


父が言った。


「だが、黒狼の長老会は飲まん」


「はい」


「赤熊も飲まんだろう」


「はい」


「それでも出すか」


「出します」


「なぜだ」


ヴァイは少しだけ考えた。


「戦争になったあとで、『ほかに方法がなかった』と言わないためです」


ヴァルフラムの目がわずかに細くなった。


「そうか」


その一言で、案は正式な返答案の一つとして残された。


採用されたわけではない。


むしろ反対の方が多かった。


それでも消されなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝、北の物見から角笛が鳴った。


一度。


間を置いて二度。


敵襲ではない。


使者だった。


赤熊の旗が見える。


黒地ではない。


深い赤の布に、熊の爪を模した印。


その先頭を、巨大な熊型の魔法生物が歩いていた。


体毛は濃い褐色。


肩と前脚の周りに、火の粉のような赤い魔力が浮いている。


焔甲熊ブレイズ。


そして、その横を歩く少女がいた。


イリグナ・ロスグラード。


通称イリナ。


赤熊族長グラウスの長女。


十四歳。


◇ ◇ ◇


イリナは、黒牙砦へ入る前から腹が立っていた。


寒いからではない。


北方育ちが春の雪程度で機嫌を悪くするものか。


門が整いすぎていたからだ。


黒狼の砦は、もっと武張っていて、雑であるはずだった。


少なくとも父から聞いていた黒牙砦はそうだった。


だが北門前の雪は一部だけ早く除けられ、荷車が沈まない道が二本作られている。


倉の前に積まれていたはずの袋は見えない。


兵は門へ固まらず、少し離れた二か所にも散っている。


そして高台に、見張りが増えていた。


戦争はまだ始まっていない。


それなのに、もう始まった後のように準備している。


「小賢しい」


イリナが言うと、ブレイズが低く鼻を鳴らした。


そのとき、門の内側から黒い狼が現れた。


ブレイズが止まる。


焔甲の赤い光が少し強くなる。


黒冠狼ヴァナール。


話には聞いていた。


実物は、気に入らなかった。


大きいからではない。


見ていないような顔で、こちらの全部を見ている目をしている。


ブレイズが一歩前へ出た。


ヴァナールは動かない。


雪だけが、黒い前脚の周りで薄く固まった。


イリナはブレイズの肩へ手を置いた。


「今日は使者だ」


熊の熱が少し下がる。


門の奥から人が歩いてきた。


最初に見えたのはローヴェンだった。


知っている。


父の妹が産んだ黒狼の長子。自分の従兄だ。


赤熊の血を持つ大剣使い。


その横にいる男がヴァルフラム。


そして、少し後ろに少年がいた。


小さい。


思ったより小さい。


「……あれか」


イリナは思わず呟いた。


父が何度も名前を出した黒狼の末子。


冬王の仔。


死者を出さない村を作った子供。


狐の町を洪水から救った子供。


南へ冷たい箱を運び、商人を怒らせた子供。


十二歳。


イリナには、評判の半分は周りの大人が作ったものだと思えていた。


子供が大きなことをすれば、大人は物語を足す。


だが、門の前に立つ兵たちが妙だった。


少年が通ると、道を空ける。


冬王への畏れだけではない。


命令を待つ目だった。


「ようこそ、イリグナ殿」


ヴァルフラムが言った。


「使者としての安全は保証する」


「感謝します、辺境伯」


イリナは正式な礼を返した。


叔母アストリッドがいる家でも、今日は親族訪問ではない。


赤熊族長の使者だ。


「父グラウスの返答を受け取りに来ました」


そのとき、少年が一歩出た。


「その前に、確認したいことがあります」


声は落ち着いている。


「ヴァイセル・ウラ・ノルヴァルです」


名乗りだけは正式だった。


イリナは少年を見下ろした。


「知っている」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「はい」


腹が立つ。


何を言っても、熱が返ってこない。


「赤熊領で、現在の配給を何割落としていますか」


門前で聞く質問ではなかった。


イリナは目を細めた。


「それを答える義務があるか」


「ありません」


「なら聞くな」


「では、黒狼の倉を開けろという要求にも、根拠となる不足量を書いてください」


イリナの後ろで赤熊の護衛が動いた。


ローヴェンの目が鋭くなる。


ヴァルフラムは止めない。


イリナは少年から目を外さなかった。


「父は三万人を飢えさせないために求めている」


「俺も、その三万人を飢えさせたくありません」


「赤熊でも?」


「食べる口に部族名はありません」


きれいごとに聞こえるはずだった。


だが少年の目は、きれいではなかった。


三万人という数字を、本当に数として見ている。


だから逆に気味が悪い。


「広間で話しましょう」


ヴァルフラムが言った。


イリナは頷いた。


黒冠狼と焔甲熊が互いを見たまま、使者団は砦へ入った。


◇ ◇ ◇


会談には、必要な者だけが残った。


ヴァルフラム。


アストリッド。


ローヴェン。


シグヴァル。


セレネ。


ハーヴェン最長老。


そしてヴァイ。


赤熊側はイリナと、護衛の古参二人。


ブレイズとヴァナールは扉の外だった。


「父の要求は変わりません」


イリナは最初に言った。


「黒狼の公倉と族長倉を開き、赤熊へ食料を回すこと。赤熊は秋の鉄と家畜で返す」


ヴァイが聞く。


「秋の収穫ではなく?」


「今年の麦がどうなるかわからないからだ」


ウルナの警告を、赤熊も無視できなくなっている。


それだけで状況の悪さがわかった。


「量は?」


「出せるだけだ」


「それでは契約になりません」


「これは商売ではない」


「だからこそです」


イリナの眉が動く。


ヴァイは紙を一枚、机へ置いた。


「黒狼が今、種子と最低配給を残して出せる分は有限です。全部渡しても、赤熊三万人を通常量で長く養えません」


「なら黒狼も減らせ」


「減らしています」


「もっとだ」


ローヴェンが立ちかけた。


アストリッドが先に声を出した。


「イリナ」


叔母の声だった。


それだけで、少女の顔から一瞬だけ使者の硬さが落ちる。


「黒狼にも子がいる」


「わかっています、叔母上」


「なら、言葉を選べ」


「でも赤熊の子も腹を空かせています」


「それもわかっている」


アストリッドの声は低い。


赤熊族長の妹。


黒狼族長の妻。


この場で最も残酷な位置にいるのは、彼女かもしれなかった。


ヴァイは紙をもう一枚出した。


「提案があります」


イリナが睨む。


「また帳簿か」


「はい」


「嫌いになってきた」


「便利ですよ」


「そういうところだ!」


ローヴェンが咳払いをして笑いを隠した。


イリナはさらに腹が立った。


ヴァイは構わず続ける。


「黒狼と赤熊が、互いの食料を一定範囲だけ公開します。全部でなくていい。種子、病人用、子供用、戦士用、家畜用を分ける」


「赤熊の倉を、おまえに数えさせると?」


「俺だけではありません。白兎と銀梟を立会人にします」


「同じだ。黒狼が九部族の倉へ口を出す前例になる」


「では赤熊側からも検査人を出してください」


「問題はそこではない」


イリナは机へ手をついた。


「おまえは、何でも分けて並べれば対等になると思っている」


ヴァイは黙った。


正面から当てられた。


ハーヴェンが朝に言ったことと同じだった。


「そうかもしれません」


イリナの目が少し変わった。


「認めるのか」


「数字で対等にできるものと、できないものがあるのはわかっています」


「なら――」


「でも、腹が減る速さは部族の誇りを待ちません」


イリナの手に力が入った。


机が鳴る。


「だから、もう一つやります」


ヴァイは南方街道沿いの商会倉庫位置を示す紙を出した。


「南方商会の穀物です」


イリナが目を落とす。


「父上が認めるなら、黒狼領内にある商会倉庫を一時接収します」


赤熊側の護衛が息を呑んだ。


「盗むのか」


「記録を残して、後で補償します」


「南方へ喧嘩を売るつもりか」


「向こうはもう売っています」


「だから倉を奪う?」


「戦争になる前に、戦争の原因を食べます」


一瞬、意味が通らなかった。


ヴァイは続けた。


「赤熊が黒狼へ来る理由が食料なら、食料を作ればいい。黒狼と赤熊が殺し合うより、南方商会の倉から必要分を取り、後で銀で返す方が安い」


「安い?」


イリナの声が低くなる。


「人の誇りまで値段にするのか」


「しません」


「今した!」


「俺が比べているのは、死ぬ人数です」


ヴァイの声が、初めて少し硬くなった。


広間が静まる。


「赤熊の戦士が黒狼の戦士を百人殺して、倉を一つ取る。その倉に三千人を十日食わせる分しかなければ、その百人は何のために死んだんですか」


イリナが睨み返す。


「黒狼が百人殺す場合も同じです」


ヴァイは父を見た。


「旗が残っても、種子がなくなれば負けです。敵を倒しても、冬に子供が死ねば負けです」


ヴァルフラムは何も言わない。


ローヴェンも笑わない。


十二歳の少年が戦争を怖がっているようには見えなかった。


むしろ逆だった。


戦うことを、あまりにも具体的に知っている者の言葉だった。


イリナは、それが気に入らなかった。


自分は戦える。


父も戦える。


赤熊の戦士は、腹が減っていても斧を持てる。


目の前の少年は、その強さを否定しない。


否定せずに、その強さが何日持つかを数えようとしている。


「おまえは」


イリナが言った。


「戦をしたことがあるのか」


「ありません」


返事は早かった。


「人を殺したことは?」


ヴァイは一瞬だけ黙った。


病畜を殺した。


盗賊を斬ったことはあるが、殺してはいない。


前世の記憶を、ここで話すことはできない。


「この身体では、ありません」


その言い方に、イリナの眉が寄った。


だが追及する前にヴァイが続けた。


「だから、戦えば何が起きるかを軽く言うつもりもありません」


「なのに父たちより戦を知っている顔をする」


「父上より強いとは思っていません」


「ローヴェンより?」


「今は勝てません」


ローヴェンが「今はって何だ」と小さく言った。


誰も笑わなかった。


「でも」


ヴァイはイリナを見る。


「戦う場所と、戦う理由と、終わる条件は決めるべきだと思っています」


「戦士が決める」


「戦士だけで決めたら、戦士以外が死にます」


イリナが立ち上がった。


護衛も動く。


ヴァルフラムが低く言った。


「座れ、イリグナ」


族長の声だった。


イリナは一瞬だけ迷い、座り直した。


「おまえの案は、赤熊を黒狼の帳簿に入れる案だ」


「違います」


「同じだ」


「なら、赤熊側から別案を」


「ある」


イリナは真っ直ぐヴァルフラムを見た。


「父グラウスは、古式の会戦を求めています」


アストリッドが息を止めた。


ハーヴェンの目が細くなる。


ローヴェンは、逆に静かになった。


「場所は双方の境に近い平地。互いに軍を出す。勝った側が、負けた側へ食料条件を示す」


ヴァイが言う。


「それでは食料は増えません」


「勝った側が決める」


「負けた側の倉が焼けたら?」


「守れない方が悪い」


「戦士が死んだら、春の畑と鉱山を誰が――」


「もういい!」


イリナの声が広間へ響いた。


扉の外で、ブレイズが低く唸る。


ヴァナールの気配が冷える。


イリナはヴァイを睨んだ。


「おまえの話は全部、赤熊が負ける前提だ」


「いいえ」


「なら何だ」


「黒狼が勝っても困る話をしています」


その返事だけは、イリナを止めた。


ヴァイは静かに言った。


「赤熊三万人が飢えたまま残れば、黒狼が会戦に勝っても戦争は終わりません。俺たちは三万人を占領して食べさせるか、追い払うか、殺すかを選ぶことになる」


誰も口を挟まない。


「逆に赤熊が勝って黒狼の倉を取っても、黒狼の村が飢えれば次の戦いが起きます」


「だから帳簿に従えと?」


「だから、戦争の終わりを決めてから始めてください」


イリナは少年を見た。


腹が立つ。


それでも、怖いと思った。


この子供は勝つことより先に、勝った後を見ている。


赤熊の戦士が斧を振り下ろすとき、相手の盾を見る。


父は敵の陣を見る。


目の前の十二歳は、その向こうの冬まで見ている。


「策だ」


イリナは言った。


「何がですか」


「共同配給も、商会倉庫の接収も。全部、黒狼が北の食料を握るための策だ」


「そう見えるのは理解します」


「否定しないのか」


「仕組みを作れば、作った側が力を持つことはあります」


「ほら見ろ」


「だから立会人と記録を入れると言っています」


「その言い方が嫌いだ」


ヴァイは少しだけ困った顔をした。


十二歳らしい顔だった。


ほんの一瞬だけ。


「では、どう言えば」


「戦士なら剣で言え」


ヴァイの目から、困惑が消えた。


「必要なら」


短い返事だった。


それまでの丁寧な少年の声ではない。


イリナの背中を、冷たいものが走った。


ヴァイは続けなかった。


脅しもしない。


自分が強いとも言わない。


ただ、必要なら剣を使うという事実だけを置いた。


その方が、よほど戦士らしかった。


イリナは立ち上がった。


今度は誰も止めない。


「父グラウスの正式な要求を伝えます」


ヴァルフラムへ向き直る。


「ヴァルフラム・ノルヴァル辺境伯。赤熊族長グラウス・ロスグラードは、古い北方の掟に従い、正面会戦を求める」


声が澄む。


十四歳の少女ではなく、族長の使者の声だった。


「黒狼が勝てば、赤熊は黒狼の食料条件を受ける」


「赤熊が勝てば?」


ヴァルフラムが聞く。


「黒狼の倉を開く。種子を含め、必要量を赤熊が取る」


ヴァイの指がわずかに動いた。


種子。


そこまで取れば、次の秋に黒狼が飢える。


それは譲れない。


ヴァルフラムも同じことを理解したはずだった。


父の顔から、最後の迷いが消えていくのが見えた。


「返答は明朝出す」


「承知しました」


イリナは礼をした。


会談は終わった。


◇ ◇ ◇


門へ向かう途中、イリナは訓練場の前で足を止めた。


雪解けの泥に、いくつもの足跡が残っている。


さっきまで兵が動いていたらしい。


一人の赤熊護衛が地面を見た。


「妙ですな」


「何がだ」


「数が少ない側が、二度も横へ回っています」


黒狼の兵に聞けば、朝の模擬戦の話をした。


十二人で二十八人を抜いた。


冬王の仔がローヴェンの背に触れた。


もちろん遊びに近い訓練だ。


実戦なら同じにはならない。


それでもイリナは、さっきの会談を思い出した。


勝つ条件を先に決める。


全員を倒さない。


必要な場所だけ抜く。


同じ考え方だ。


「あいつがやったのか」


「そう聞きました」


イリナは振り返った。


ヴァイは門楼の下で父や兄たちと話している。


背は低い。


剣も、成人用より短い北方剣だ。


隣のローヴェンと比べれば、戦士としての厚みはまるで違う。


だが兵たちは、話す少年の口を見ていた。


父グラウスなら、あれをどう見るだろう。


叔母アストリッドはどう見ているのだろう。


イリナは認めたくなかった。


黒狼で最も強いのは、今はヴァルフラムでもローヴェンでも構わない。


だが、最も長く戦場を見る目を持っているのは、あの十二歳かもしれない。


「帰るぞ」


イリナはブレイズへ手を置いた。


焔甲熊が歩き出す。


門を出る前に、ヴァナールがこちらを見た。


黒い狼の目は静かだった。


イリナは負けじと睨み返した。


「次は使者じゃないかもしれない」


ヴァナールが理解したかはわからない。


ただ、雪の上に薄い霜が広がった。


◇ ◇ ◇


使者が去ったあと、黒牙砦の北門は閉じられなかった。


閉じれば、それだけで戦争の答えになる。


ヴァルフラムは門を平時の幅まで開けたまま、見張りだけを倍にした。


「父上」


ヴァイが呼ぶ。


「何だ」


「会戦を受けますか」


ヴァルフラムはすぐには答えなかった。


北の道には、赤熊の一行が小さく見えている。


「おまえは受けるなと言うな」


「はい」


「理由は聞いた」


「まだ半分です」


父が横目で見る。


「半分?」


ヴァイは北境の地形図を開いた。


「赤熊は重装です。雪解けの平地は、乾いて見えても下が緩い。こちらから会戦日と場所を選べないなら、相手が有利な場所を求めます」


「グラウスがそんな小細工をする男に見えるか」


「名将ならします」


ローヴェンが隣で鼻を鳴らした。


「また敵を褒めやがる」


「強い敵を弱いと思って出る方が危険です」


ヴァルフラムは地図を見た。


ヴァイは続ける。


「兵数だけではありません。赤熊は食料がない。だから長期戦はできない。短い会戦で勝ち、倉を取る必要がある」


「なら、受けなければ向こうが焦る」


シグヴァルが言った。


「はい」


ヴァイは兄を見る。


「こちらが待てば、赤熊は自分から条件を悪くします。ただし待ちすぎれば、飢えた村から略奪が始まる。だから時間を使うなら、食料を少しずつ赤熊の民へ届かせる必要があります」


ローヴェンが顔をしかめた。


「敵になる奴に食わせるのか」


「敵の兵ではなく、敵になる理由を減らします」


ヴァルフラムが低く息を吐いた。


「おまえは、本当に戦を始める前から終わらせたがるな」


「戦うなら、終わるために戦うべきです」


「戦士は、そんな綺麗には動かん」


「だから準備します」


父は息子を見た。


十二年前、この子が生まれたとき、まさか自分が戦の相談をするとは思わなかっただろう。


ヴァイも、自分が十二歳で同じ場所に立つとは思っていなかった。


前世では、命令する側にも、命令される側にもいた。


地図の線が人間の足であることも知っている。


補給表の数字が、誰かの空腹であることも知っている。


だが、この世界で本当の軍を率いたことはない。


そこは忘れてはいけない。


自分はまだ、戦争を知っているつもりになっているだけかもしれない。


だからこそ、父の経験を軽んじない。


グラウスの強さも軽んじない。


「父上」


「何だ」


「もし会戦を受けるなら、俺に後方の準備をさせてください」


「勝つ前から負ける準備か」


ローヴェンが言う。


ヴァイは首を振った。


「勝つための退路です」


「同じだろ」


「違います。退ける軍は、前へ出られます」


シグヴァルが僅かに頷いた。


ヴァルフラムは北の道を見たまま、しばらく何も言わなかった。


やがて短く答えた。


「明朝、返事を出す」


それ以上は言わなかった。


北の空は明るい。


雪解けの水が、砦の石壁を細く流れている。


春は来ている。


畑にはまだ種が入っていない。


それなのに黒狼と赤熊は、もう戦場の位置を考え始めていた。


ヴァイは地図を畳んだ。


戦争を避けたい。


だが、避けることと、恐れることは違う。


剣を抜かずに済む道を全部探す。


それでも相手が剣を抜くなら、次は勝つために数える。


兵の数。


食料の日数。


道の幅。


雪解けの深さ。


敵が欲しいもの。


敵が帰る場所。


そして、こちらが絶対に失ってはいけないもの。


十二歳の黒狼は、まだ族長ではない。


だがその夜、北門を守る古参兵たちは、父や長兄だけでなく、地図を抱えて歩く末子の背中にも目を向けていた。


戦の前に見るべき場所を、あの子は自分たちより多く見ている。


剣の腕だけなら、まだローヴェンに届かない。


兵を率いた実戦もない。


それでも、兵が迷ったときに「どこへ行け」と言える者の声をしていた。


命令するために大声を出すのではない。


勝つために何を捨て、何を残すかを先に決めている。


古参兵には、それが妙に頼もしく、同時に少し恐ろしく見えた。


そう思い始めた者が、確かにいた。


翌朝、赤熊へ返す答えが決まる。


そして北方は、長い内戦の最初の一歩を踏み出すことになる。



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