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第12話 凶作の予言

王暦七四八年、秋。


ヴァイが黒牙砦へ戻ったのは、北の山肌が薄く白み始めたころだった。


南方市場から狐灯市へ戻り、そこからさらに北へ。荷車の轍が朝だけ凍る季節になって、ようやく見慣れた黒い石壁が谷の向こうに現れた。


黒牙砦を離れ続けていたわけではない。


この一年も、ヴァイは狐灯市と砦の間を何度も往復していた。冬には稽古と報告のために戻り、春には父へ許可を求め、必要な兵と職人を借りた。


それでも、家へ帰ることと、家で暮らすことは違う。


門をくぐった瞬間、ヴァイはそれを思い出した。


「遅え」


最初に聞こえたのはローヴェンの声だった。


長兄は門楼の下で腕を組み、その隣では雪狼イスヴァルが伏せている。以前の石灰傷はほとんど癒えていたが、強い光を見るときだけ片目を細める癖が残っていた。


「ただいま戻りました、兄上」


「南まで行って、箱を売って、穀物を止められて帰ってきたそうだな」


「だいたい合っています」


「何でおまえは旅に出るたび、面倒を一つ増やすんだ」


「今回は二つほど増えました」


「自慢するな」


そう言いながら、ローヴェンはヴァイの頭を乱暴に撫でた。


十一歳になり、背は伸びた。それでも二十歳を越えた兄の手から見れば、まだ十分に子供だった。


ヴァイが眉を寄せると、門の奥から笑い声がした。


「本当に大きくなったわね」


ユルヴァだった。


その隣にはシグヴァルもいる。


二人とも、この夏に王立貴族学院の三年間を終えて北へ戻っていた。王都から黒牙砦までは、馬車ならひと月近くかかる。学院には夏と冬の休みがあっても、往復だけで休みの大半が消えるため、二人とも在学中はほとんど帰省していなかった。


ヴァイが九歳だったころに送り出した兄姉が、十八歳になって帰っている。


その事実に、ヴァイは一瞬だけ言葉を失った。


「兄上。姉上。お帰りなさい」


「それはこっちの台詞でしょう?」


ユルヴァが笑う。


シグヴァルはヴァイの旅装と荷車を一度見てから、短く言った。


「まず風呂に入れ」


「同感です」


聞き慣れた声が背後から飛んだ。


リーネだった。


「若様。帰って五分で仕事の顔をするのは禁止です。湯と着替えを用意しています」


「ですが、穀物信用の件を父上へ――」


「食堂に全員います。逃げません」


「……わかりました」


ローヴェンが大声で笑った。


南方の商人にも、狐灯市の役人にも、ヴァイは簡単には押し切られない。


だが、黒牙砦へ戻ると侍女には勝てなかった。


そのことに、少しだけ安心した自分がいた。


◇ ◇ ◇


久しぶりに家族の席が多い食卓だった。


父ヴァルフラム。アストリッド、セレネ、ミウレイアの三人の母。ローヴェン。卒業して戻ったシグヴァルとユルヴァ。十四歳のエルヴィア。


ベルヴァンの席だけは空いていた。


彼は十六歳で、まだ学院にいる。


ヴァイが席へ着くなり、ミウレイアが皿を一枚増やした。


「話は食べながらでもできます。まず食べなさい」


「はい、母上」


「南ではちゃんと食べていたのですか?」


「食べていました」


「痩せていますよ」


「荷車で座っている時間が長かったので、むしろ――」


ミウレイアが微笑んだ。


ヴァイは黙ってパンを取った。


向かいのユルヴァが肩を震わせる。


アストリッドはそれを見て笑い、ヴァルフラムは木杯を置いた。


「で、南は穀を止めたのか」


短い問いだった。


食卓の空気が変わる。


ヴァイは頷いた。


「前貸しの信用枠です。現金で買うことはできます。ただ、北方の多くは春の鉱石や毛皮を担保に、先に穀物を受け取っていました。それが止まれば、現金を持たない集落ほど先に苦しくなります」


「バルテスだけか?」


シグヴァルが聞いた。


「いいえ。バルテスが最も大きいですが、同じ条件へ寄せる商人が出ています」


「横で見ていた方が得だからな」


ユルヴァの声から笑いが消えた。


ヴァイは南から持ち帰った書簡を父へ渡した。


ヴァルフラムは読み終えると、セレネへ回す。


「喧嘩を売られたな」


ローヴェンが言う。


「商売です」


「おまえはそれを喧嘩って言わねえのか」


「相手が剣を抜いていないなら、こちらも先に剣を抜く必要はありません」


ローヴェンは不満そうだったが、反論はしなかった。


セレネが書簡を机へ置く。


「信用を止めること自体は、契約違反ではありませんね」


「はい。新しい貸し付けを断る権利は商会にあります」


「ならば、こちらも借りなくても生きられる形を作るしかありません」


「そのつもりです」


ヴァルフラムが鼻を鳴らした。


「帰ってきて最初に言うのが、また倉の話か」


「すみません」


「謝るな。五歳のころから変わらん」


父の口元が、わずかに上がった。


「ただし今夜は倉へ降りるな。明日にしろ」


「父上まで」


「おまえが家に帰った日に地下倉へ消えると、母親が三人とも俺を睨む」


「当然です」


ミウレイアが穏やかに言った。


アストリッドが豪快に笑い、セレネまで目元を緩めた。


ヴァイは久しぶりに、帳簿を閉じたまま食事をした。


食後、シグヴァルとユルヴァは昔使っていた居間へヴァイを連れていった。


部屋の壁には、三年前と同じ傷が残っていた。


ローヴェンが木剣を投げてできた傷。ベルヴァンが椅子ごと倒れたときのへこみ。エルヴィアが幼いころ背を測った細い刻み。


王都から帰った二人には、砦そのものが少し小さく見えるらしい。


「休みには帰らなかったんですね」


ヴァイが聞くと、ユルヴァは窓際の椅子へ座った。


「帰りたかったわよ。でも、片道だけで二十五日か三十日でしょう。夏休みに帰ったら、着いて少し寝て、また王都へ向かわないといけないもの」


「冬は街道がもっと悪い」


シグヴァルが短く足した。


「狼伝令なら早い。でも学生が荷と契約獣を連れて同じ速度では走れない」


「だから三年、ほとんど手紙だけ」


ユルヴァは笑った。


笑ったが、その声の底に疲れがあった。


ヴァイは学院のことを聞こうとして、やめた。


ローヴェンが帰ってきた日の沈黙を覚えている。


話したくないことを、帰ったその日に掘り返す必要はない。


代わりに聞いた。


「王都で学んだものは、役に立ちましたか」


ユルヴァは少し考えた。


「役に立つものはたくさんあったわ。帳簿も、法も、席順も。嫌いだからって知らないままでいる方が損ね」


シグヴァルも頷いた。


「弓の射ち方まで南に教わる必要はない。だが、南の軍がどう命令を渡すかは見ておいた方がいい」


「では、行く価値はある?」


二人が同時に黙った。


その沈黙だけで十分だった。


やがてユルヴァが言う。


「十五になったら、自分で見なさい」


シグヴァルは窓の外のヴァナールへ目をやった。


「ただし、怒るな」


「俺はそんなに怒りっぽく見えますか」


「おまえじゃない」


兄はそこで言葉を切った。


「向こうが、怒らせる」


ヴァイはそれ以上聞かなかった。


三年ぶりに戻った兄姉が、家の壁を指でなぞりながら昔の傷を確かめている。


彼らにとって帰郷は休暇ではなく、ようやく終わった長い留守だった。


ヴァイは初めて、自分が最近、黒牙砦を寝床ではなく出発点のように扱っていたことに気づいた。


家は、戻る場所だ。


仕事が増えるほど、そのことを忘れない方がいい。


それが、この秋で最後の静かな夕食になるとは、そのときはまだ誰も知らなかった。


◇ ◇ ◇


三日後、婆様ウルナが黒牙砦へ来た。


白兎族の老薬師は、相変わらず人の都合を待たなかった。


族長への挨拶を終えると、薬草袋より先に汚れた革片と細い木札の束を机へ並べた。


「来年の夏は、短い」


開口一番だった。


ヴァルフラムが眉を上げる。


「夏はいつも短いぞ」


「もっと短い」


「どれくらいだ」


「それがわかれば、占い師としてもっと高く売っておる」


ローヴェンが吹き出した。


ウルナは気にも留めず、木札を指で叩いた。


「未来は見えん。前にも言ったな」


ヴァイは頷く。


霜谷村の異常寒波の前にも、ウルナは冬が長くなると警告した。


あのとき彼女が見ていたのは、初雪の早さ、沢の凍り方、渡り鳥、山鼠の備蓄だった。


「今回は何が違いますか」


「秋が早いだけなら、まだよい」


ウルナは一本目の札を置いた。


「高い谷の雪が、夏の終わりまで残った」


二本目。


「渡り鳥が南へ落ちるのが早い。数も多い」


三本目。


「山鼠が穴へ運ぶ餌が早い。白兎の猟師が三つの谷で同じものを見た」


四本目。


「鹿が高地を捨てるのが早い」


そこでウルナは手を止めた。


「それと、魔力の流れが重い」


ヴァナールが、部屋の隅で頭を上げた。


ヴァイは契約を通じて、薄い違和感を受け取った。


冷たい、というより、遠くに大きな雪原を嗅いだような感覚だった。


二年前の厳冬。


ヴァナールは言った。


――北から冬が来ている。


正体は、今もわからない。


「魔力が重い、とは?」


セレネが尋ねた。


「北から流れてくる冷たいものが、いつもの秋より濃い。白兎の契約獣が落ち着かん。月兎も巣を深くしたがる」


「魔法で夏が消えると?」


「そこまでは言わん」


ウルナは首を振った。


「わしが言えるのは、来年の育てる季節が悪くなる印が、今年は多すぎるということだけだ」


ヴァイは木札を一本ずつ見た。


どれも、それだけなら偶然で片づけられる。


高地の残雪は地形で変わる。


渡り鳥は風でも動く。


鼠の餌は木の実の出来でも変わる。


鹿は狼に追われても谷を変える。


魔力の流れに至っては、前世には比較対象すらない。


だが、互いに別の理由で動くはずのものが、同じ方向を示している。


「去年と一昨年の記録はありますか」


ウルナが笑った。


「そう言うと思った」


薬草袋の底から、さらに札が出てきた。


ローヴェンが呆れた顔をした。


「婆様、それ全部持ってきたのか」


「この子が数字を欲しがるからの」


「俺のせいですか」


「半分はな」


ヴァイは札を受け取った。


「では、白兎族だけでは足りません。黒狼の狩猟記録、緑鹿の馬と鹿の移動、銀梟の積雪記録も集めます」


「集めてどうする」


ヴァルフラムが聞く。


「当たるかどうかを決めるのではありません」


「なら何を決める」


「外れたときに困る備えと、当たったときに困る備えを比べます」


ヴァルフラムはしばらく黙った。


「また、おまえの得意なやつか」


「たぶん」


「たぶんと言うな」


ユルヴァが横から笑う。


「父上、ヴァイが『たぶん』って言うときは、だいたい誰かの仕事が増えるときよ」


「それはトーマにも言われました」


「でしょうね」


家に人が戻った分だけ、笑う声も増えていた。


だが机の上に並ぶ木札は、一つも笑っていなかった。


◇ ◇ ◇


その夜、ウルナは客間へ戻らず、小会議室の扉の外で足を止めた。


中ではまだ紙の擦れる音がする。


十一歳の子供が、老女の持ってきた札を年代順に並べ直していた。


薬師として長く生きれば、賢い子には何人も会う。


覚えが早い子。


獣に好かれる子。


大人の話を盗み聞いて、そのまま真似できる子。


ヴァイは、そのどれとも少し違った。


答えを知っているように見えるのに、答えを疑う。


自分の考えへ都合の悪い札ほど、机の中央へ置く。


「冷夏が来る」と言ってほしい者の顔も、「そんなものは来ない」と言ってほしい者の顔も見ている。


それから、誰が困るかを数える。


昔、ウルナが若かったころ、白兎族にも名高い天候見がいた。


その老人は自分の予言が外れることを恥じた。


だから外れた印を人へ言わなくなった。


最後には、当たった話だけが伝説になった。


ヴァイは逆だった。


外れた理由を欲しがる。


だから、気味が悪い。


そして信用できる。


「入らないんですか」


背後からミウレイアの声がした。


ウルナは振り返る。


「母親は耳がいいの」


「母親ですから」


ミウレイアは扉の隙間から息子を見た。


「また寝ないつもりですね」


「放っておけばな」


「放っておきません」


柔らかい声だった。


ウルナは少し笑った。


「それでよい。あの子は群れの食い物は数えるが、自分の眠りは数えん」


「昔からです」


「昔、か」


ウルナはその言葉だけを舌の上で転がした。


十一歳の昔など、普通ならせいぜい数年だ。


だが、あの子の目にはもっと遠い冬がある。


今は、それでよい。


どこから持ってきた記憶であれ、北の人間を生かすために使っているうちは。


ウルナは杖で扉を二度叩いた。


「ヴァイ。寝ろ」


中で紙の音が止まった。


少し間があってから、諦めた声が返った。


「はい」


ミウレイアが満足そうに頷いた。


十一歳の異端児も、母親と婆様が二人いれば寝かせられるらしい。


◇ ◇ ◇


十日で、北方から記録が集まり始めた。


揃ってはいない。


そもそも同じものを測っていない。


銀梟族は初雪の日を文字で残していたが、緑鹿族は「馬を谷へ下ろした日」で季節を覚えている。白兎族は薬草の花期を記録し、黒狼の猟師は大型鹿の角と脂の付き方を覚えていた。


ヴァイは、それを無理に一つの数字へ直さなかった。


同じ意味になるものだけを並べた。


今年は、高地から動物が下りるのが早い。


今年は、夏の残雪が多い。


今年は、秋の霜が早い。


今年は、冷たい魔力に反応する契約獣の落ち着きが悪い。


四つの地域で、別々に似た傾向が出ていた。


「証明にはなりません」


黒牙砦の小会議室で、ヴァイは言った。


父と母たち、兄姉、ウルナの前に、簡単な板を置く。


「でも、無視するには重なりすぎています」


シグヴァルが板を見た。


「外れたら?」


「買った穀物が余ります」


「余った穀物は?」


「古いものから食べる。干魚や豆は地域間交易へ回す。種子は翌年へ繰り越せる分だけ残す。保存損失は出ます」


「金も寝る」


「はい」


「当たったら?」


ヴァイは一度、息を吐いた。


「備蓄しなければ、人が死にます」


それだけだった。


二年前、霜谷村で同じことをした。


あのときは四百人余りだった。


今回は、北方全体が相手になる。


三十五万人を一つの倉で食わせることはできない。


だから最初から、全員を救う巨大な計画にはしなかった。


各部族へ最低限の種子を分けて残す。


穀物だけを追わず、干魚、豆、硬質チーズ、蕪、家畜飼料を別々に確保する。


一か所へ積まず、火事や略奪で全部を失わないよう分散する。


南から買うなら一つの商会へ頼らず、小口でも別の商人を使う。


価格が上がっても、春にさらに上がると見込む分だけ早く買う。


ただし市場の穀物を北方が一度に買い占め、自分たちで値を跳ね上げない。


やることは多い。


だが新しい発明は一つもない。


五歳の冬に食料庫を数え、九歳の冬に霜谷村で配給した、その延長だった。


違うのは、地図が大きくなったことだけだ。


「十一歳が言う話じゃねえな」


ローヴェンが呟いた。


ヴァイは顔を上げる。


「前からそうでしょう」


「自分で言うな」


ローヴェンは笑わなかった。


弟が子供らしくないことを、家族はもう知っている。


知っているからこそ、ときどき怖くなる。


ローヴェンの目には、それが出ていた。


◇ ◇ ◇


九牙会議では、話はもっと難しかった。


「婆様の占いで、今年の売り物を倉へ寝かせろというのか」


最初にそう言ったのは、鉄山羊族の代表だった。


声に嘲りはない。


ただ、現実的な苛立ちがあった。


「冬道の補修にも金がいる。石工へ払う銀もいる。穀物を余分に買えば、何を削る」


「全部の部族へ同じ量を買えとは言いません」


ヴァイが答える。


「なら、誰が多く買う」


「不足しやすいところです」


「誰が決める」


「各部族自身です。俺は判断材料を出します」


今度は別の族長が口を挟んだ。


「冷夏が来なければ、値の高い穀物を抱えて損をする」


「はい」


「来ると断言できるのか」


「できません」


ざわめきが広がった。


以前なら、ヴァイの実績だけで黙る者もいた。


死者ゼロの村。


狐灯市の洪水。


氷魔晶石の規格。


南へ届いた冷却箱。


だが、成功したからといって未来までわかるわけではない。


そこを混同しない者たちだから、九部族は生き残ってきた。


赤熊族長グラウスも席にいた。


大柄な男は腕を組み、低く言った。


「黒狼の末子。おまえの話は、戦の前に矢を二倍作れというのと同じだ」


「近いと思います」


「敵が来なければ矢は倉で腐る」


「穀物の方が腐りやすいです」


「なら、なお悪い」


周囲から低い笑いが起きた。


グラウス自身も口の端を上げた。


「だが、敵が来たとき矢がなければ死ぬ。そこまで言いたいのだろう」


「はい」


「赤熊は赤熊で決める。黒狼の倉へ命令はさせん」


「そのつもりもありません」


グラウスは頷いた。


話はそこで終わった。


反対された。


だが、敵意ではない。


九部族には九つの事情がある。


ヴァイに、すべての倉へ命令する権利はまだない。


それでいい。


今は、同じ危険を見てもらえばよかった。


会議の後、アストリッドが廊下でヴァイを待っていた。


赤熊族長グラウスの妹。


黒狼族長ヴァルフラムの第一夫人。


二つの家に足を置く人だった。


「兄は備えると思うか」


「一部は」


「全部ではなく?」


「赤熊領は人口が多いです。三万人分を余計に抱えるには、金も倉も足りません。それに南の信用停止が一番痛い地域の一つです」


アストリッドは窓の外を見た。


「鉄は食えん」


「はい」


「熊は、腹が減ると気が荒くなる」


「人もです」


「そういう返しだけは十一歳らしくないな」


アストリッドはヴァイの肩を一度叩いた。


「兄へもう一度、私からも言っておく」


「お願いします」


この時点では、それで足りると思っていた。


会議から戻ると、狐灯市からノエルの長い書簡が届いていた。


紙三枚。


最初の一枚は、南方の穀物価格。


二枚目は、荷車と倉庫。


三枚目は、エドガー・バルテスがここ一か月で結んだ契約だった。


ヴァイは三枚目を二度読んだ。


「穀物だけを買っているわけではない?」


シグヴァルが横から見る。


「はい」


エドガーは、北へ向かう荷車の冬前予約を押さえていた。


街道沿いの大きな倉を借り、穀物商へ前金を渡し、春先まで一定量を他へ売らない契約を結んでいる。


全てを買い占める必要はない。


北方へ売れる余地だけを狭くすればいい。


しかも商人側にも得がある。


現金を先に受け取れる。


冬の価格下落を心配しなくていい。


荷車屋も空荷の危険が減る。


契約相手から見れば、バルテスは悪人ではない。


確実に金を払う大口客だ。


「上手いですね」


ヴァイが呟くと、ローヴェンが嫌そうな顔をした。


「敵を褒めるな」


「上手いものを下手だと思う方が危険です」


「それも腹が立つ」


ノエルの書簡の最後には、大きく一行だけ書いてあった。


――全部を買い返そうとするな。向こうの思う壺。


ヴァイも同じ考えだった。


北方が焦って南の穀物へ一斉に高値を付ければ、価格はさらに上がる。


バルテスは既に押さえた在庫を高く売れる。


こちらの銀だけが減る。


「買う場所を散らします」


ヴァイは地図を広げた。


「南の一つの市場に集まらない。沿岸から干魚を増やす。緑鹿の馬車は穀物だけでなく乾草も運ぶ。近い商人が売らないなら、遠くても現金で売る者を探す」


「時間がかかるぞ」


シグヴァルが言う。


「はい。だから今始めます」


エドガーが喉を締めるなら、ヴァイは別の呼吸を探す。


一つの道を奪い返すのではなく、細い道を何本も作る。


派手ではない。


だが、商会の指一本で北方全体が止まる状態よりは強い。


◇ ◇ ◇


秋が終わる前に、黒狼領では備蓄の組み替えが始まった。


ヴァイは新しい大倉庫を建てなかった。


間に合わないからだ。


既存の倉を乾燥させ、鼠穴を塞ぎ、棚を床から上げる。


村ごとに種子分を先に封じ、残りを人が食べる分と家畜へ回す分へ分ける。


干魚の多い東寄りの集落から内陸へ送る代わりに、内陸の乾草と乳製品を交換する。


狐灯市ではノエルが南方商人を一軒ずつ当たり、現金取引なら売る者を拾った。


大口の前貸しは止まっても、南方全体が一枚岩ではない。


バルテス商会が嫌う利益を、別の商人まで嫌う理由はなかった。


ただし値段は高い。


運賃も上がった。


冬道が閉じる前に運ばなければならない。


ヴァイは冷却箱の利益を、そのまま次の冷却箱へ投じる案を一部止めた。


「せっかく売れたのに?」


ノエルから来た返書には、不満がはっきり書かれていた。


ヴァイはその下へ返事を書いた。


――箱は来年でも増やせる。食べた種子は来年の畑にならない。


数日後、ノエルから短い返事が届いた。


――正しいから腹が立つ。三割だけ残す。全部止めたら職人が逃げる。


ヴァイは笑った。


それが正しい。


危機に備えるからといって、未来の仕事まで全部殺せば、別の飢えを作る。


冷却器工房は小さく続ける。


特許手続も止めない。


ただし投資速度を落とし、今冬は食料と種子へ銀を回す。


一つを守るために全部を捨てない。


それもまた、危険を分けることだった。


◇ ◇ ◇


最初の雪は、早かった。


早いだけなら、驚くほどではない。


だが一度積もった雪が、融けなかった。


黒牙砦の外庭に立てた簡単な積雪棒は、秋の終わりには前年同時期を越えた。


ウルナは喜ばなかった。


「当たり始めたな」


「まだです」


ヴァイは答えた。


「冬が早いことと、来年の夏が冷たいことは同じではありません」


「そうやって疑うから、おまえは使える」


「褒めていますか」


「半分な」


どこかで聞いた言い方だった。


二人は砦の外へ出た。


ヴァナールが先を歩く。


雪は膝まではない。だが、風が早い。


ウルナは木の枝に付いた霜を指で払い、空を見た。


「おまえは空を見ても、空だけでは決めんの」


「婆様もでしょう」


「わしは空を見て、獣を見る。おまえは空を見て、昔の帳簿を見る」


ヴァイは返事をしなかった。


「遠い土地でも、こうだったか」


足が一瞬止まる。


ウルナは前を向いたままだった。


「何のことですか」


「そう返すと思った」


老女は笑わない。


「おまえは知らんことを、知らんと言う。だが、ときどき、この土地にないものを懐かしむ目をする」


雪の音だけが続いた。


ヴァイは、嘘を一つ考えた。


契約の影響。


母から読んだ古書。


南方の旅人の話。


どれも、口に出さなかった。


「昔、似た寒い土地を知っていた気がします」


結局、それだけ言った。


ウルナは頷いた。


「なら、覚えておけ」


「何をです?」


「土地が違えば、同じ冬は来ん」


ヴァイは目を瞬いた。


「おまえの遠い記憶が正しくても、ここの土と獣と魔力は別物だ。だから、おまえは測る。それでよい」


問い詰めない。


見抜いたとも言わない。


ただ、使い方だけを確かめる。


ヴァイは少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


「礼を言うなら、来年の種を食うな」


「はい」


「あと寝ろ」


「それは母上にも言われます」


「母親の言うことを聞け」


「努力します」


「できん顔をしとる」


ヴァナールから、呆れに似た感覚が流れてきた。


――同意。


ヴァイは黒狼を見た。


「ヴァナールまで同意するんですか」


ウルナが初めて声を上げて笑った。


初雪から二十日ほどして、ヴァイは霜谷村へ足を運んだ。


黒牙砦に戻ったばかりなのに、とリーネには嫌な顔をされた。


それでも今回は数日で戻ると約束し、ヴェルドと少数の兵だけを連れた。


二年前、四百三十二人で冬を越した村は、少しだけ姿を変えていた。


共同寝所の壁は補修され、乾草棚は増え、燻製小屋の煙突は以前より高い。


あの冬に避難してきた者のうち、元の村へ戻らず霜谷へ残った家もある。


子供たちはヴァイを見つけると走ってきた。


二年前は抱かれていた幼児が、自分の足で雪を踏んでいる。


ヴァイには、その方がどんな帳簿より成果に見えた。


「若様だ!」


「冬王もいる!」


ヴァナールが面倒そうに耳を伏せた。


ヴェルドが笑う。


「囲むな。狼の前へ出るな。転ぶぞ」


難しい説明は一つもない。


子供たちはそれで動いた。


ヴァイは村の倉を見た。


二年前と同じように棚卸しをするためではない。


今回は、仕組みが自分なしで動いているかを見るためだった。


種子には赤い印。


人の食料と家畜飼料は別。


病人用の乾燥豆と脂は少量だが確保されている。


薪の残りも、人日ならぬ「炉日」で大まかに数えていた。


「誰がこれを?」


「去年から皆で」


村の古老が答える。


ヴァイの名前は出なかった。


それが嬉しかった。


「俺が来なくても、冬は越せますね」


「来なくていいとは言っとらん」


古老はむっとした。


「顔くらい見せろ」


ヴァイは言葉に詰まった。


ヴェルドが横で笑いを堪えている。


「すみません」


「狐の町ばかり行きおって」


「仕事です」


「仕事なら家へ帰らんでいいのか」


十一歳の少年に向かって言う内容としては、あまりに普通だった。


ヴァイは少しだけ笑った。


「帰るようにします」


その日の夕方、ウルナと一緒に村外れの斜面へ登った。


積雪は確かに深い。


だが村の備えは、二年前より強い。


危険そのものを消せなくても、耐えられる場所は増やせる。


北方全体を一晩で霜谷村にはできない。


それでも、こういう村を一つずつ増やすしかない。


帰路、ヴァイは黒牙砦の灯が見えたとき、以前より少し早く馬を進めた。


今度は、仕事場へ戻るのではない。


家へ帰るのだと思った。


◇ ◇ ◇


冬の半ば、ヴァイは十二歳になった。


盛大な祝いはしなかった。


黒牙砦では雪が厚く、南方商会との交渉と倉の報告が毎日届いていた。


それでもミウレイアは、小さな蜂蜜菓子を焼かせた。


「誕生日くらい、帳簿から目を離しなさい」


「去年も似たことを言われました」


「来年も言いますよ」


ローヴェンは木剣を一本持ってきた。


祝いにしては物騒だった。


「外へ出ろ」


「今ですか」


「十二になったんだろ」


意味はよくわからなかったが、ヴァイは外へ出た。


雪を踏み固めた訓練場で、兄は大剣型の木剣を肩へ担ぐ。


「一本だけだ」


「一本?」


「俺の胸へ当てたら、おまえの勝ち。俺が頭を叩いたら俺の勝ち」


「勝てる条件ですか、それ」


「去年よりはな」


ローヴェンが笑った。


始まった瞬間、笑みは消えた。


速い。


総量も、力も、間合いも、今のヴァイより上だ。


正面から受ければ終わる。


ヴァイは足裏へ気を流し、最初の一歩だけ速めた。


兄の剣が来る前に斜めへ入る。


肩。


腰。


手首。


必要な場所へ短く通して、すぐ抜く。


木剣がローヴェンの脇へ走った。


届かない。


兄の柄が返ってくる。


ヴァイは二歩目で逃げた。


去年なら、そこで脚が重くなった。


今はもう一度、流せる。


三歩目。


ローヴェンの目が少し開いた。


次の瞬間、木剣がヴァイの額へ軽く触れた。


「負けです」


「当たり前だ」


ローヴェンは大剣を下ろした。


「だが、去年なら二歩目で捕まえてた」


「俺もそう思います」


「十二歳でそれを言うな。腹が立つ」


ヴァイは息を整えた。


全力を何度も続けられるわけではない。


だが、身体は確実に追いついている。


気を流せる量も、抜く速さも、回復も、一年前とは違う。


「兄上」


「何だ」


「来年は一本取ります」


ローヴェンが一瞬黙った。


それから、大声で笑った。


「言ったな!」


その声を聞きながら、ヴァイは思った。


来年まで、こうして稽古ができればいい。


なぜか、その願いだけが妙に胸へ残った。


誕生日から数日後、最初の種子放出願いが来た。


黒狼領の小さな谷村だった。


秋のうちに買えた穀物が少なく、羊を早めに屠って冬をつないでいたが、雪が長引いて残りが心細いという。


願いには、こう書かれていた。


――種麦を十袋だけ貸してほしい。春になれば返す。


ヴァイは紙をしばらく見ていた。


返せない。


今年の春に食べた種を、同じ春に返すことはできない。


秋に収穫できれば返せる。


だが、ウルナの警告どおり冷夏になれば、その秋の収穫こそ危うい。


「断るのか」


ヴァルフラムが聞いた。


「種麦は出しません」


「腹を減らした村にか」


「はい」


言葉にすると、冷たく聞こえた。


ミウレイアがヴァイを見る。


五歳のころなら、息子が数字だけで人を切ることを恐れただろう。


今のヴァイは、その視線の意味を知っていた。


「代わりに、干魚と豆を送ります。黒牙砦の肉も一部回す。村の羊は繁殖用を残させてください。種を食べてしまえば、今年を越しても来年また飢えます」


ヴァルフラムが頷いた。


「それなら俺の名で出せ」


「よいのですか」


「黒狼族長は俺だ」


父は短く言った。


「おまえ一人が全部背負うな」


ヴァイは一瞬、返事が遅れた。


「……はい、父上」


この冬、同じような願いは増えた。


ヴァイは全てに同じ答えを返したわけではない。


漁のできる村には網糸と塩を優先した。


乳牛が残る村には、人の穀物を少し減らして家畜飼料を守った。


狩猟地が近い集落には、若い猟師を無理に徴発せず冬の食料確保へ残した。


一つの配給表を北方全体へ押しつければ、必ずどこかで壊れる。


霜谷村で覚えたのは「同じ量を配ること」ではない。


何が違うのかを見て、春に残すものを決めることだった。


その仕事をしている間にも、南の価格は上がった。


ノエルの書簡に書かれる銀貨の数字が、十日ごとに少しずつ悪くなる。


エドガーは北方へ一袋も売らせないような乱暴な封鎖はしなかった。


そんなことをすれば、王国の役人や他商会から目立つ。


代わりに、信用を削り、運賃を押さえ、大口在庫を先に契約し、北方へ残る選択肢だけを細くしていく。


敵として厄介なのは、違法だからではない。


合法な商売の範囲で、こちらを苦しくしているからだった。


「剣なら斬れば終わるのにな」


ローヴェンがぼやいた。


「兄上が商会を斬ると、穀物は増えますか」


「増えねえ」


「では、斬らないでください」


「わかってる!」


怒鳴ったあと、ローヴェンは自分で笑った。


その笑い声の向こうで、冬はさらに長くなっていった。


◇ ◇ ◇


王暦七四九年、初春。


春という名だけが先に来た。


雪は深い。


南向きの斜面でさえ、土が見え始めるのが遅れている。


黒牙砦には、各地から同じ種類の報告が届いた。


種子の残り。


冬飼料の残り。


人が食べる穀物。


家畜を減らした数。


南から買えた量。


買えなかった量。


その紙を重ねるほど、ヴァイの予想は悪い方へ寄った。


冷夏が来るかどうかは、まだわからない。


だが、冷夏が来る前に弱っている土地がある。


赤熊領だった。


人口が多い。


鉄と鍛冶の生産力は高い。


だが穀物の自給は十分ではない。


南からの信用が止まり、冬の買い足しができなかった。


秋に余分な備蓄を勧めても、三万人分を一度に増やせるはずもなかった。


そこへ長い冬が重なった。


「赤鉄砦周辺、配給を一段落としたそうです」


シグヴァルが報告書を置いた。


学院から帰ってから、彼は父の斥候仕事を手伝っている。


余計な言葉を足さない兄だった。


だから、その次の一言が重かった。


「街道沿いで、死んだ馬を解体している村がある」


ヴァルフラムが顔を上げる。


「飢えているのか」


「まだ全域ではない。ただ、始まってる」


アストリッドの手が止まった。


彼女は何も言わなかった。


ヴァイは赤熊領の数字を見た。


食料を送るべきだ。


それは簡単だ。


問題は、どれだけ送るかだった。


黒狼にも余裕はない。


来年の種を削れば、今年を越えて次に死ぬ。


全て渡せば、黒狼の村も飢える。


渡さなければ、赤熊が先に倒れる。


「黒狼側から融通できる量を出します」


ヴァイが言った。


「種子には触れません。越冬必要量も残す。そのうえで余剰を――」


扉が強く叩かれた。


伝令だった。


雪と泥にまみれ、息を切らしている。


「赤鉄砦より、族長名の使者です」


部屋の空気が固まった。


伝令が差し出した革筒には、赤熊族長家の印があった。


アストリッドが、それを見ただけで兄のものだとわかったらしい。


ヴァルフラムが封を切る。


文は短かった。


読み終えた父の顔から、わずかな柔らかさが消えた。


「何と?」


ローヴェンが聞く。


ヴァルフラムは紙を机へ置いた。


ヴァイにも読めた。


――黒狼の倉を開けよ。


――赤熊の子を飢えさせて、北の盟主を名乗るな。


――三日以内に返答せよ。


最後の一行だけは、さらに強かった。


――拒むなら、我らは春を待たぬ。


誰もすぐには口を開かなかった。


ウルナが秋に置いた木札を、ヴァイは思い出した。


高地の残雪。


早く南へ落ちた鳥。


餌を抱え込んだ鼠。


下りてきた鹿。


重くなった冬の魔力。


凶作は、まだ起きていない。


畑には、まだ種さえ播かれていない。


それなのに、戦争の方が先に芽を出しかけていた。


ヴァイは最後通牒を手に取った。


紙は軽い。


だが、その向こうには三万人の腹があった。


そして黒狼の倉にも、守らなければならない人間がいる。


「父上」


ヴァルフラムが見る。


「まず、赤熊が何日持つかを出させてください」


ローヴェンが眉を寄せる。


「喧嘩を売られて、最初に数を聞くのか」


ヴァイは紙から目を離さなかった。


「腹が減っている相手と戦うなら、なおさらです」


窓の外では、春のはずの雪がまた降り始めていた。

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