第15話 折れた辺境伯旗
鉄槌原の南端で、黒い布が風に打たれていた。
昼前までは、ただの目印だった。
退く兵はここで止まる。
歩ける負傷者は左へ。
運ばなければならない者は右へ。
さらに南へ送る者は白布へ回す。
ヴァイが戦の始まる前に決めただけの、簡単な印だった。
今、その黒布へ人が殺到していた。
北から来る。
一人。
五人。
十人。
次には二十人。
土煙の中から、黒狼の戦士たちが途切れず現れる。
盾をなくした者。
折れた槍を持った者。
血で片目が開かない者。
仲間へ肩を貸したまま走る者。
剣を握っているのに、何度振り返っても後ろしか見ていない者。
鉄槌原の乾いた土は、何百もの足で削られ、細かな砂になっていた。
風が吹くたび、血と汗と馬の臭いを含んだ赤茶色の塵が舞う。
遠く北では、角笛が鳴っている。
黒狼の笛ではない。
赤熊だった。
短い音が三つ。
そのたびに、赤い盾の列が少しずつ南へ動いた。
敗走は始まっていた。
だが、まだ軍は死んでいない。
「止まれ!」
ヴェルドの声が飛ぶ。
「黒布を越えるな! 歩ける奴は左! 担がれてる奴は右だ!」
一人の兵が聞かずに通り過ぎようとした。
ヴェルドが胸倉を掴む。
「離せ! 後ろから熊が来る!」
「知ってる!」
「なら逃げろ!」
「逃げる場所を作ってんだよ!」
兵が一瞬止まった。
ヴェルドは男の肩を南へ向けるのではなく、道の左へ押した。
「槍は?」
「落とした」
「そこに三本ある。一本持て。五人集まったら白布へ行け」
「戻るのか?」
「命令が来るまで戻らねえ。けど一人で逃げもしねえ」
それだけだった。
兵は落ちていた槍を拾った。
ヴァイは少し離れた場所から、それを見ていた。
自分が説明する必要はなかった。
黒布の意味を、ヴェルドが使っている。
周囲の古参兵も、もう「若様がそう言ったから」では動いていない。
走ってきた者の肩を掴み、怪我を見て、左右へ送る。
水を渡す。
武器を拾わせる。
五人を十人にする。
十人になれば、一番落ち着いている者を先頭へ立たせる。
仕組みが動いている。
なら。
ヴァイは北を見た。
土煙の向こうに、黒狼旗が見えない。
先ほどまで時々上がっていた。
今はない。
「ヴェルド」
「何だ!」
「ここを任せます」
ヴェルドが振り返った。
「どこ行く」
「北です」
「は?」
「父上を迎えに行きます」
ヴェルドの顔が険しくなる。
「おまえがここを作ったんだろ!」
「もう動いています」
「だからって――」
「俺がここに残っても、同じ仕事をするだけです」
ヴァイは腰の剣を確かめた。
短めの北方剣。
「今、北で俺にしかできない仕事があります」
ヴェルドは何か言おうとした。
だが、黒布の向こうへ新しい負傷兵が倒れ込んできた。
「ちくしょう!」
ヴェルドがそちらへ走る。
「死ぬなよ!」
「そのつもりです」
ヴァイはヴァナールとともに北へ向かった。
◇ ◇ ◇
敗走する軍へ逆らって走るのは、戦うより難しかった。
道いっぱいに人が来る。
馬が来る。
担架代わりの盾が来る。
壊れた荷車まで引かれてくる。
ヴァイは街道の中央を使わなかった。
右端。
東の裂け谷へ落ちないぎりぎりの場所を走る。
ヴァナールはさらに外側。
黒い巨体を見て、戻ってくる兵が反射的に道を空けた。
途中で一人の伝令を捕まえた。
「父上は?」
「中央! 長兄様も!」
「旗は」
伝令が息を詰まらせた。
「最後に見たときは……低かった」
「赤熊の追撃は」
「軽い奴らが先に来てる! 盾持ちは後ろだ!」
ヴァイの足が一瞬止まった。
軽兵が先。
重装本隊が後ろ。
敗走した敵を追うなら当然だった。
赤熊の重装兵は強い。
だが重い。
勝敗が決まったあと、逃げる黒狼へ追いつけるのは革鎧の猟兵や軽槍兵からになる。
追撃の先端と、本隊の間が伸びる。
グラウスが無能だからではない。
勝った軍なら、誰でもそうなる。
だから使える。
「シグヴァル兄上は?」
「東へ回ったのを見た!」
ヴァイは街道を外れた。
浅い裂け地を一つ越える。
土の縁に手をつき、身体を引き上げる。
正面に矢が刺さった。
赤熊のものだった。
その先で、風が鳴る。
一本。
二本。
三本。
射た場所ではなく、当たった場所から音が聞こえたような矢だった。
赤熊の角笛持ちが倒れる。
次の矢は伝令の馬の前へ刺さった。
馬が立つ。
進路が止まる。
「兄上!」
岩陰からシグヴァルが顔を出した。
「何で来た!」
「軽兵が前へ出ています」
「見ればわかる!」
「何人です」
「百は越えた。二百はいない。後ろの盾列とは離れた」
十分だった。
ヴァイは戦場を見た。
北。
赤熊重装軍。
南。
逃げる黒狼。
その間に、勝ちに酔っているわけではないが、足の速さゆえに先行した軽兵。
西は山裾。
東は裂け地。
街道は広い。
だが人が散れば、広さは意味を失う。
「角笛を落としてください」
「もう二人落とした」
「あと、伝令」
「殺すのか」
「馬を止めればいいです」
シグヴァルの目が細くなった。
「おまえ、何する気だ」
「先頭を折ります」
「本隊が来るぞ」
「来る前だけです」
「何分だ」
ヴァイは距離を見た。
盾列。
歩調。
土煙。
赤熊の重装兵は止まっていない。
それでも、先頭まで届くには少しかかる。
「二十呼吸」
シグヴァルが笑った。
「短えな」
「十分です」
近くに黒狼兵が十数人いた。
完全に逃げている者ではない。
シグヴァルの周囲で弓兵を守っていた者たちだ。
ヴァイは彼らを見た。
「俺について来てください」
年嵩の兵が眉を寄せた。
「何人斬る」
「数えません」
「じゃあ何をする」
「赤熊の先頭に、止まった方がいいと思わせます」
兵の顔が変わった。
「二十呼吸だけです」
「二十で足りなかったら?」
「逃げます」
何人かが笑った。
恐怖の中で出る、乾いた笑いだった。
「いいな」
年嵩の兵が槍を握り直した。
「若様が逃げるってんなら、俺も逃げやすい」
「では、遅れないでください」
ヴァイは剣を抜いた。
ヴァナールが低く身を沈めた。
そして南へ逃げる軍の中から、十二歳の少年が北へ走った。
◇ ◇ ◇
最初に気づいた赤熊兵は、目を疑った。
子供だった。
黒い狼を連れている。
その後ろに十数人。
敗走兵が逆に走ってきたのかと思った。
違う。
列がある。
短い。
だがばらけていない。
「止まれ!」
赤熊兵が叫んだ。
ヴァイは止まらなかった。
槍が来る。
長い。
速い。
真正面から受ければ、十二歳の腕では負ける。
だから受けない。
一歩目。
右足。
気を足裏へ落とす。
身体が槍の外へ半分ずれる。
二歩目。
膝。
腰。
槍の穂先が脇を抜ける。
ヴァイの剣は槍の柄へ当てない。
握っている手へ行った。
浅く斬る。
指が開く。
槍が落ちる。
三歩目には、もうその男を見ていない。
隣から斧。
身体を沈める。
頭上を風が抜ける。
剣の峰を男の肘へ当てる。
斧を振り切った力が、そのまま肩を開く。
ヴァイは脇を抜けた。
背後で黒狼兵の槍が男の胸当てを叩く。
倒す。
殺したかは見ない。
次。
盾。
これは硬い。
赤熊の男が盾を前へ出す。
押し潰すつもりだ。
ヴァイは正面にいなかった。
盾が来る前に左へ出る。
男も向きを変える。
さらに左。
追う。
三歩目で、男の盾は完全に横を向いた。
その背後にいた赤熊兵と肩がぶつかる。
一瞬だけ二人が詰まる。
ヴァイはその隙間へ入った。
剣を振る。
一度。
膝裏。
男が沈む。
二人目が剣を上げる。
その手首を斬る。
終わり。
大きな音はない。
盾も割れない。
人が吹き飛びもしない。
ただ、ヴァイの前へ立った者が次々に戦えなくなる。
赤熊兵の一人がようやく少年の動きを理解した。
「囲め!」
正しい判断だった。
一対一を続ければ追えない。
三人で進路を塞ぐ。
ヴァイは見た。
左に槍。
中央に剣。
右に斧。
三人とも自分を見る。
だから後ろが見えていない。
「ヴァナール」
黒い影が右へ走った。
攻撃しない。
斧の男のさらに外側を回る。
それだけで男の目が動く。
王種の魔狼を無視できる戦士はいない。
一瞬。
ヴァイは中央へ行かなかった。
左。
槍の内側へ入る。
柄を肩で押す。
男の槍が中央の剣士の前へ横切る。
二人の武器がぶつかった。
ヴァイはしゃがむ。
斧が来る。
だが目標が一歩ずれている。
刃は味方の槍を叩いた。
三人の武器が一瞬だけ絡んだ。
ヴァイの剣が走る。
手。
腿。
足首。
三撃。
三人を殺す必要はない。
三人が同時に追えなくなればいい。
「前!」
後ろの黒狼兵へ一言。
槍が出る。
赤熊兵が下がる。
ヴァイは進む。
戦場が変わる。
一息ごとに敵の向きが変わる。
倒れた者が障害物になる。
逃げる味方が横切る。
矢が飛ぶ。
狼が吠える。
地面に剣が落ちる。
ヴァイには、その方がやりやすかった。
平らな訓練場で、相手と自分しかいないなら。
力が強い方が強い。
速い方が速い。
気の多い方が長く戦える。
ローヴェンと正面から打ち合えば、今でも二撃も受ければ腕が痺れる。
イリナの長柄斧を真正面から受け続けることもできない。
父の剣とガンヴァルの硬化へ、力だけで勝つこともできない。
だが、戦場は止まらない。
敵は一人ではない。
目的も一つではない。
一歩ごとに条件が変わる。
なら。
その変化を、先に使えばいい。
赤熊兵が大きく踏み込む。
ヴァイは下がらない。
相手の横へ進む。
剣が空を切る。
男の身体だけが前へ流れる。
背中を押す。
次の敵の盾へぶつかる。
盾兵がよろめく。
そこへヴァナールが低く走る。
噛まない。
足元へ入る。
盾兵が反射的に下を見る。
ヴァイの柄頭が顎へ入る。
一人。
また一人。
誰も二度目のまともな攻撃を出せない。
「何だ、こいつ!」
赤熊兵の声に、恐怖が混じった。
そこでヴァイは止まった。
自分を恐れさせることが目的ではない。
周囲を見る。
赤熊の先頭が止まっている。
後ろの者が前へ進めず、左右へ広がろうとしている。
角笛が鳴らない。
シグヴァルが落としている。
伝令の馬が一頭、前脚を上げた。
矢が足元へ刺さったのだ。
殺していない。
だが走れない。
「あと十!」
シグヴァルの声。
ヴァイは黒狼兵へ言った。
「右へ」
それだけ。
全員が右へずれる。
赤熊兵も追う。
「止まれ」
黒狼兵が止まる。
敵だけが二歩出る。
「左」
戻る。
敵の先頭が乱れる。
複雑な陣形ではない。
十数人でできる動きなど限られている。
だが、追う側は「逃がすまい」と前へ出る。
こちらは最初から二十呼吸しか戦う気がない。
目的が違う。
その差だけで、半歩ずつ相手を崩せる。
北から低い角笛が鳴った。
今度は遠い。
重装本隊。
来る。
ヴァイは即座に剣を下げた。
「終わりです。退きます」
年嵩の兵が目を剥いた。
「今、押してるぞ!」
「だからです」
「あと少しで――」
「盾が来ます」
北の土煙から、赤熊の重装兵が現れる。
赤い盾。
揃った槍。
今度は違う。
あれを十数人で受ける理由はない。
「走って」
ヴァイが先に南へ向いた。
誰も反論しなかった。
二十呼吸前まで追う側だった赤熊軽兵が、今度は追えない。
傷ついた者。
倒れた者。
散った隊列。
そして後ろから来た味方の盾列が、逆に道を塞いでいる。
ヴァイたちはその隙に離れた。
勝ったのではない。
赤熊軍はまだ三千に近い。
鉄槌原も取られた。
ただ。
追撃の先端だけを折った。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
そのころ、ヴァルフラムは右腕の感覚を失いかけていた。
まだ腕はあった。
だが、肩から指までが重い。
何度剣を振ったかわからない。
ガンヴァルの息も荒い。
鉄狼の肩には槍傷が一本。
致命傷ではない。
それでも戦い始めの動きではなかった。
周囲に残っている黒狼兵は少ない。
中央を保っていた隊は、半分以上が南へ下がった。
「族長!」
古参隊長が叫ぶ。
男の手には辺境伯旗があった。
旗竿は半ばから割れている。
黒い狼の布は泥と血で重くなっていた。
「持って下がれ!」
ヴァルフラムが怒鳴る。
「族長が先だ!」
「旗を下げろ!」
「嫌ですな!」
こんなときだけ聞かない。
長く自分の下で戦ってきた男だった。
若いころからそうだった。
命令には従う。
ただし、気に入らない命令は聞こえないふりをする。
「年寄りが!」
「あなたより少し上なだけでしょう!」
赤熊の盾が押してくる。
三枚。
その後ろに槍。
ヴァルフラムは一枚目へ剣を叩きつけた。
ガンヴァルの力が剣身へ走る。
金属が鳴る。
盾は割れない。
だが持ち手がたたらを踏む。
そこへ黒狼兵が入る。
二枚目。
古参隊長が旗竿で槍を逸らす。
旗で戦う馬鹿がいるか。
怒鳴ろうとした。
できなかった。
三枚目の向こうから、長柄の斧が来た。
古参隊長の胸へ入った。
革と金具が潰れる音がした。
男の身体が浮く。
旗が落ちる。
「おい!」
ヴァルフラムが手を伸ばす。
届かない。
古参隊長は地面へ倒れた。
一度だけ息を吐いた。
それきり動かなかった。
黒い旗が、その上へ落ちた。
何かが切れた。
ヴァルフラムは前へ出た。
「父上!」
遠くでローヴェンが叫んでいた。
聞こえた。
だが止まれなかった。
一人目を斬る。
二人目の槍を弾く。
三人目の盾へ肩からぶつかる。
赤熊兵が下がる。
ガンヴァルが横から一人を押し倒す。
強い。
まだ自分は強い。
だから。
自分がここへ立てば、後ろの兵が逃げられる。
その考えが長年、ヴァルフラムを守ってきた。
そして今。
同じ考えが、彼を戦場へ縫い付けていた。
左から槍。
弾く。
右から剣。
受ける。
真正面の盾を蹴る。
その後ろ。
見えなかった。
二列目から長柄斧が来た。
大きな刃ではない。
鎧の隙間を砕くための厚い斧だった。
ヴァルフラムは右手の剣を上げる。
間に合う。
そう思った。
その瞬間、別の槍がガンヴァルへ向いた。
身体が反応した。
剣の角度を変える。
槍を弾く。
ガンヴァルは守った。
斧は残った。
右腕へ落ちた。
衝撃。
次に熱。
何かが地面へ落ちる。
自分の剣だった。
手もついていた。
数秒。
理解できなかった。
右の肩から先が軽い。
軽すぎる。
血が噴いた。
「親父!」
ローヴェンの声が近くなった。
イスヴァルが赤熊兵へ飛び込む。
雪狼の体当たりで盾が傾く。
ローヴェンの大剣が横から入った。
一人。
二人。
今度こそ盾が割れた。
正面戦なら、やはり長男は強い。
ヴァルフラムより若く。
速く。
一撃が重い。
「親父! 下がれ!」
「旗……」
「何言ってんだ!」
「旗を……」
視界が揺れた。
血が多い。
ローヴェンが父の身体を支える。
その瞬間、赤熊兵が前へ出た。
「来い!」
ローヴェンが吠える。
大剣を上げた。
怒っている。
古参隊長が死んだ。
父の腕が飛んだ。
その怒りを全部、目の前の赤熊へ返そうとしている。
ヴァルフラムにはわかった。
止めなければ。
この息子も残る。
だが声が出なかった。
そのとき。
赤熊の先頭が、横を向いた。
一人ではない。
二人。
三人。
北側から聞こえていた角笛が、急に途切れた。
次に、東から黒い巨体が走り込んできた。
ヴァナール。
そして、その陰に少年がいた。
「兄上!」
ローヴェンが振り向く。
「何で来た!」
「右へ三歩!」
「は?」
「右!」
声が違った。
家で話す弟の声ではない。
ローヴェンが反射的に動く。
三歩。
直前までいた場所へ槍が二本来た。
空を突く。
「ヴァナール、左!」
黒冠狼が走る。
赤熊兵の視線が引かれる。
「兄上、父上を!」
「おまえは!」
「前を空けます!」
ヴァイが一人で出た。
ローヴェンが怒鳴った。
「馬鹿! そいつらは――」
言葉が止まる。
ヴァイは赤熊の大盾へ向かった。
小さい。
十二歳の身体は、盾の上からなら頭しか見えない。
大盾の男が迷わず押す。
当然だ。
潰せる。
ヴァイは一歩も下がらなかった。
盾が来る。
直前。
消えたように見えた。
違う。
低くなった。
盾の下。
足元。
ヴァイの剣が男の前脚ではなく、踏み込もうとした足の甲へ走る。
男が反射的に引く。
盾が止まる。
その横を抜ける。
二人目が槍を突く。
ヴァイは避けるのではなく、さらに内側へ入った。
槍の柄が脇へ挟まる。
身体を回す。
槍兵の腕が引かれる。
穂先が隣の盾へ当たる。
その瞬間だけ開く。
ヴァイは通った。
三人目。
剣。
受けない。
相手の手首へ自分の柄を当てる。
軌道が外れる。
肩へ掌底。
足を掛ける。
倒れる。
その背中へ乗るように一歩。
四人目の斧が遅れる。
刃が来る前に、ヴァイの剣先が喉元へあった。
斬らない。
男が止まる。
ヴァイも止まらない。
剣先を離し、横へ抜ける。
男は追おうとした。
その前へヴァナールが立った。
黒い牙。
男は踏み込めない。
ローヴェンは父を支えたまま、見ていた。
弟は強くなった。
知っていた。
木剣でも何度も試した。
速い。
気の扱いが異常にうまい。
それでも、自分の方が強いと思っている。
今もそう思う。
平地で一対一。
互いに構えて始めるなら。
大剣の一撃を三度も受ければ、ヴァイの腕は持たない。
だが。
今、目の前で起きているものは別だった。
ヴァイは誰の攻撃も受けていない。
一人を倒し切る前に次へ行く。
敵の武器を、別の敵の邪魔にする。
ヴァナールを攻撃させず、そこにいるだけで進路を変える。
下がる黒狼兵まで壁に使う。
一度も、相手が最も強い形で振らせない。
「……何だ、あれ」
ローヴェンが呟いた。
ヴァルフラムも見ていた。
意識が薄れる中でも、わかった。
あれと訓練場で戦えば、まだ勝てる。
そう思う。
自分の剣は重い。
気も多い。
十二歳の身体には、どうしても越えられない差がある。
だが。
今の場所で追えと言われたら。
敵も味方も動く中で。
ヴァナールがいて。
旗が落ち。
目的が一息ごとに変わる中で。
果たして、ヴァイを真正面へ置けるだろうか。
自分の剣が届く形を、あの子が一度でも作るだろうか。
わからなかった。
それが、少し可笑しかった。
十二歳の息子を相手に。
勝てるかどうかではない。
自分が得意な勝負を、始めさせてもらえるかどうかを考えている。
「父上!」
ヴァイの声。
目の前まで来た。
顔に返り血がついている。
「意識は?」
「……ある」
「兄上。肩を縛ってください」
「もう縛ってる!」
「もう一周」
「血が――」
「だからです」
短い。
迷いがない。
ヴァイは地面を見た。
古参隊長。
その身体の下に黒い布がある。
ヴァイが膝をつく。
旗を引いた。
隊長の手がまだ竿を握っていた。
固く。
離れない。
ヴァイは一瞬だけ動きを止めた。
「……ありがとうございました」
指を一本ずつ外す。
旗を取る。
割れた竿を捨てる。
布だけを畳まず、ローヴェンへ渡した。
「持ってください」
「おまえが持て」
「俺は剣を使います」
それで終わった。
「南へ」
ヴァイが立つ。
「父上を連れて走ってください」
ローヴェンの顔が険しくなる。
「おまえは?」
「後ろを閉じます」
「またそれか!」
「今は俺の方が速い」
言い返せなかった。
「行って」
ローヴェンが歯を食いしばる。
父を担ぎ上げる。
「死ぬなよ!」
「兄上も」
「俺は死なねえ!」
「知っています」
ヴァイは背を向けた。
赤熊の盾列が近づいていた。
今度は追撃軽兵ではない。
本隊だ。
ここで受ければ負ける。
だから受けない。
「シグヴァル兄上!」
遠くから矢が一本飛んだ。
ヴァイの前へ刺さる。
聞こえているという返事だった。
「撤収!」
二本目の矢。
今度は南を指すように刺さった。
黒狼兵が下がる。
ヴァイも走った。
最後まで戦うことと、最後まで残ることは同じではない。
今、必要なのは生きて退くことだった。
◇ ◇ ◇
赤熊の先頭が止まった。
イリナはそれを見て、苛立った。
「何をしている!」
ブレイズの背から身を乗り出す。
ついさっきまで、黒狼は崩れていた。
右は完全に割れた。
中央も下がった。
族長旗まで消えた。
あと少し押せば、軍ではなく群れになる。
そのはずだった。
なのに南へ行くほど、逃げる黒狼の形が変わっている。
一人で走る者が減った。
五人。
十人。
小さな塊になる。
そして追撃の一番前が、逆に崩れて戻ってきた。
「冬王の仔です」
古参兵が言った。
イリナは見ていた。
小さな黒い影。
黒冠狼。
十数人。
それだけで先鋒を止めた。
「追う」
ブレイズの肩を叩く。
「待て」
父の声がした。
グラウスだった。
鋼炎熊ヴォルカの横で、大斧を肩へ担いでいる。
鎧には傷が増えていた。
左の肩当てがへこんでいる。
赤熊も無傷ではない。
盾は何十枚も割れた。
担架が北へ向かっている。
「父上、今なら崩せます」
「だから止める」
「何を――」
「前を見ろ」
イリナは睨む。
「軽兵だけが盾より先へ出た」
グラウスが言う。
「黒狼は南で止まっている。あの子供が止めた」
「なら、そこごと踏み潰せばいい」
「今から重装を走らせるのか」
イリナが黙る。
赤熊の盾兵は強い。
だが一日戦った。
鉄と革を背負っている。
追撃のために隊列まで壊して走らせれば、今度はこちらが黒狼の真似をする。
「でも逃げます」
「逃がせ」
イリナが父を見る。
「ここまで勝って?」
「何を取りに来た」
問いだった。
イリナは答えない。
「狼の死体か」
「……食料です」
「なら、食料まで歩ける軍を残す」
グラウスは南を見る。
黒狼は逃げている。
敗北だ。
それでも道の上に黒い印がいくつも見える。
人がそこで止まる。
また動く。
「ヴァルフラムは強かった」
グラウスが言う。
「ローヴェンはさらに強い」
イリナは頷く。
「あの小僧は違う」
「弱いと?」
「逆だ」
グラウスの声が低くなる。
「あれは、強い場所に立たん」
イリナは言葉を失った。
「追えば逃げる。逃げれば追う。盾を向ければ横へ行く。軽兵が出れば噛む。重装が来れば離れる」
グラウスが鼻を鳴らした。
「腹が立つ戦い方だ」
「策でしょう」
「戦だ」
父は短く言った。
「策も斧も、人を殺せば同じだ」
イリナは南を見る。
遠くで、ヴァイが退いていく。
追いつけるなら。
長柄斧を一度、まともに当てられるなら。
自分の方が強い。
そう思う。
だが。
まともに当てさせるだろうか。
その疑問が浮かんだこと自体が、腹立たしかった。
「今日はここまでだ」
グラウスが命じる。
「負傷者を拾え。盾列を戻せ。夜は追わん」
「朝は?」
「南へ行く」
迷いはない。
「黒狼が立て直す前に、食う」
赤熊軍は勝っていた。
だからこそ、勝った形を崩さなかった。
◇ ◇ ◇
日が傾くころ、黒狼軍は鉄槌原から完全に離れた。
南へ下った低い丘の陰に、臨時の集結地ができていた。
砦ではない。
柵もない。
ただ街道から荷車を外し、負傷者を寝かせ、馬を繋いだだけの場所だった。
夕日が低く、地面に長い影が伸びている。
風が冷たくなってきた。
昼の血は乾き始めていた。
その匂いだけが残る。
「次!」
治療師が叫ぶ。
一人が運ばれる。
腿の傷。
「右!」
次。
腕。
歩ける。
「左!」
次。
腹。
返事がない。
治療師の顔が変わる。
それでも手を止めない。
「奥へ!」
誰も「助かる」「助からない」と大声では言わなかった。
言わなくてもわかる。
少し離れた場所では、武器が積まれていた。
折れた槍。
落ちていた剣。
矢筒。
盾。
持ち主が戻らないものもある。
ヴァイはそれを一つずつ数えさせた。
死者を武器の数で数えるためではない。
明日、何人へ渡せるかを知るためだ。
「若様」
家令補佐の男が木札を持ってくる。
「戻った人数、千六百を越えました」
「歩けない人は」
「三百近い」
「軽傷は?」
「まだ混じってます」
「分けてください」
「戦える者を?」
「今すぐ戦える者です」
似ているようで違う。
明日なら剣を持てる。
三日あれば歩ける。
一月かかる。
二度と同じようには戦えない。
今、必要なのは希望ではない。
今日の数字だった。
ヴァイは父のいる天幕を見た。
入口にはガンヴァルが伏せている。
鉄狼の鼻先に血がついていた。
自分のものではない。
主人の匂いだ。
中ではミウレイアの縁者にあたる白兎の治療師が止血を続けている。
右腕は戻らない。
その事実だけは変わらない。
ヴァイは天幕へ入らなかった。
入りたい。
だが中で自分が立っていても血は止まらない。
「種子倉は?」
「北の二村から移送を始めています」
「全部運ばないでください」
男が顔を上げる。
「赤熊に取られます」
「荷車が足りません」
「なら焼くか?」
「焼きません」
即答した。
「俺たちが戻るかもしれない土地です」
焦土にすれば敵も食えない。
だが自分たちも食えない。
戦争に勝つため、自分の領地を先に殺す必要はない。
「種子を先。次に人が食べる穀物。家畜は歩けるものだけ南へ」
「老人は?」
「人を荷と一緒にしないでください」
「いや、そういう意味じゃ――」
「村ごとに避難させます。歩けない人へ荷車を回す。穀物より人です」
「わかった」
男が走る。
別の兵が来た。
「若様! 北の斥候!」
「通してください」
泥だらけの男が膝をつく。
「赤熊、止まりました」
周囲の空気が少し緩む。
ヴァイは緩めなかった。
「どこで」
「鉄槌原の南縁。追撃の軽兵を戻してる。夜営に入ると思います」
「明日は」
「来る」
短い答えだった。
ヴァイは頷いた。
グラウスなら来る。
夜に無理をしない。
勝った軍を崩さない。
負傷者を拾う。
盾を揃える。
朝になれば南へ来る。
合理的だった。
「距離を測り直してください」
「はい」
「何時間でここへ来られるか」
「すぐ戻ります」
斥候が去る。
ヴァイは夕暮れの北を見る。
敵が止まった。
こちらも止まれる。
一晩。
たった一晩。
だが一晩あれば、できることは多い。
◇ ◇ ◇
辺境伯旗は折れていた。
布は残った。
だから、二本の槍を添えて結び直した。
まっすぐではない。
中央で少し曲がっている。
それでも夕暮れの風を受けると、黒い狼が開いた。
兵たちは何度もそれを見た。
旗そのものに戦う力はない。
食料にもならない。
傷も治さない。
それでも。
旗がある。
父が生きている。
軍がまだここにいる。
その三つを、一目でわからせる。
ヴァイは昼に父から聞いた言葉を思い出した。
誇りも兵站。
あのときは、半分だけ理解したつもりだった。
今は少しわかる。
人が動くものは、全部戦力なのだ。
数字にできるかどうかは後でいい。
使えるか。
失えば困るか。
それが先だ。
「ヴァイ」
声がした。
ローヴェンだった。
血まみれだった。
本人の血は少ない。
他人のものが多い。
大剣の刃が欠けている。
イスヴァルも脚を少し引きずっていた。
「兄上。怪我は」
「かすり傷だ」
「見せてください」
「後だ」
「今です」
「親父と同じこと言うな」
「父上なら『大丈夫だ』と言います」
「……それもそうだな」
ローヴェンは諦めて腕を見せた。
浅い裂傷。
出血は止まっている。
「大丈夫です」
「だから言った」
ヴァイはイスヴァルの脚も見る。
深くない。
雪狼は嫌そうに顔を背けた。
「おまえ」
ローヴェンが言った。
「何人斬った」
「わかりません」
「数えてねえのか」
「必要がなかったので」
「おまえが?」
「はい」
ローヴェンが変な顔をした。
「何です」
「おまえ、何でも数えるだろ」
ヴァイは少し考えた。
「倒した人数を増やしても、食料は増えません」
「そういう話じゃねえ」
「では?」
ローヴェンは答えなかった。
北を見る。
「親父を助けに来たとき」
声が少し低くなる。
「あれ、いつからできる」
「何がです」
「人の間を抜けるやつだ」
「前から練習しています」
「違う」
ローヴェンはヴァイを見る。
「訓練じゃねえ」
少し間があった。
「俺なら、あの場で全部ぶち割る」
「兄上ならできます」
「親父もそうする」
「はい」
「おまえはしなかった」
ヴァイは何も言わない。
「俺より弱いくせに」
「そうですね」
「腹立つな」
「すみません」
「謝るな!」
久しぶりに兄らしい声だった。
だが笑ってはいない。
「なのに、あの場じゃ……」
ローヴェンが言葉を切った。
ヴァイは待った。
「俺がおまえを追ったら、たぶん当たらねえ」
「兄上は速いですよ」
「そういう返しすんな」
「では、当てさせません」
ローヴェンの口元がわずかに上がった。
「それだ」
「何がです」
「そういう顔して言うところが腹立つ」
今度は少しだけ笑った。
それで終わった。
まだ認めたわけではない。
兄は兄だ。
黒狼最強の大剣使い。
その位置は変わらない。
変える必要もなかった。
◇ ◇ ◇
夜になって、ヴァルフラムが目を覚ました。
右肩には厚く布が巻かれている。
なくなった腕の位置を確かめるように、何度か視線が落ちた。
だが何も言わなかった。
最初に聞いたのは。
「何人だ」
だった。
ヴァイは父の横へ座る。
「戻った者は、まだ増えています」
「戦えるのは」
「今すぐなら、千二百余りです」
ヴァルフラムは目を閉じた。
二千百。
出た数。
千二百余り。
戻っていない者すべてが死んだわけではない。
散っている者。
負傷者。
別の道へ下がった者。
それでも大きな損害だった。
「隊長は」
ヴァイは答えなかった。
必要な沈黙だった。
父が理解する。
「そうか」
一言。
長かった。
ガンヴァルが天幕の外で低く鳴いた。
ヴァルフラムは左手を伸ばす。
鉄狼が頭を入れてくる。
「旗は」
「立っています」
「折れただろ」
「槍を添えました」
父の口元がわずかに動いた。
「おまえらしい」
しばらくして。
「前へ出たな」
「必要になったので」
「後ろは」
「ヴェルドが動かしています」
「任せたのか」
「はい」
ヴァルフラムが天幕の天井を見る。
「平らな訓練場で、俺とやったら」
唐突だった。
ヴァイは父を見る。
「今なら父上が勝ちます」
「即答か」
「気の量も、腕力も違います」
「今日みたいな場所なら」
少し考えた。
「正面にしません」
ヴァルフラムが笑った。
笑った拍子に傷が痛んだらしく、顔をしかめる。
「そうだろうな」
「父上?」
「おまえ、嫌な戦士になった」
「褒めていますか」
「半分な」
どこかで何度も聞いた言い方だった。
父は目を閉じる。
「俺なら、おまえを追う」
「はい」
「追えば横へ行く」
「たぶん」
「横を塞げば戻る」
「空いていれば」
「俺が一番強い場所に、おまえがいない」
ヴァイは黙った。
「強くなったな」
父の声は小さかった。
「まだです」
「それも腹が立つ」
目を開ける。
「だが」
顔から笑いが消えた。
「会戦は負けた」
「はい」
「次は」
ヴァイは答えなかった。
まだ決めるための数字が足りない。
父はそれを見て、もう一度目を閉じた。
「数えてこい」
「はい」
「今度は全部だ」
ヴァイは立った。
それが今夜の命令だった。
◇ ◇ ◇
夜半。
小さな天幕へ、残った指揮官が集まった。
ヴァルフラムは寝台のまま。
ローヴェン。
シグヴァル。
数人の古参兵。
治療役。
荷駄を預かる者。
そしてヴァイ。
机はない。
木箱をひっくり返して地図を載せた。
灯りは獣脂のランプ二つだけ。
風が吹くたび布が鳴る。
外では負傷者の呻き声が途切れない。
遠くで馬が鳴く。
誰も戦が終わったとは思っていなかった。
「千二百残った」
ローヴェンが言った。
「夜が明けたら返す」
ヴァイは首を振った。
「やりません」
「何?」
「鉄槌原へ戻りません」
「負けたまま下がるのか」
「はい」
「ヴァイ」
シグヴァルが弟を見る。
ローヴェンの声が低くなる。
「親父の腕を取られた」
「はい」
「隊長も死んだ」
「はい」
「それで逃げる?」
ヴァイは木箱の横に袋を置いた。
中から小石を出す。
一つ。
二つ。
三つ。
ローヴェンが眉を寄せる。
十三個。
ヴァイはそこで止めた。
「十三日です」
「何がだ」
「軍が食える日数です」
誰も口を挟まなかった。
説明は短くてよかった。
今残っている穀物。
干魚。
豆。
乾燥肉。
馬の飼料。
負傷者。
御者。
治療師。
これから南へ逃がす住民。
明日から増える荷車。
全部を今の配給で動かせば十三日。
種子へ手をつければ伸ばせる。
だがそれを食べれば、勝っても秋が死ぬ。
「兵だけ減らせば?」
ローヴェンが聞く。
「軍が動きません」
「戦わない奴も食う」
「食べない御者は荷車を引けません。食べない治療師は兄上の傷も縫えません」
そこで止めた。
長く説明する必要はなかった。
ローヴェンは黙った。
シグヴァルが地図を見る。
「赤熊は?」
「向こうも減っています」
ヴァイが答える。
「ただ、こちらより多い」
「追ってくる」
「はい」
「どこで止める」
ヴァイは地図の一点を指した。
鉄槌原より南。
黒狼領北中部。
「ここまで下がります」
ローヴェンが目を見開く。
「凍川?」
「はい」
「また下がるのか」
「はい」
「川を守るのか」
「守りません」
「じゃあ何をする」
ヴァイは兄を見る。
「渡る時間を奪います」
短い沈黙。
「……どれくらい」
「半日でいいです」
ローヴェンが眉を寄せる。
「半日?」
「三つの倉を南へ動かせます」
ヴァイは地図を指でなぞる。
「北の二村を下げられる。今日の重傷者をもう一つ南へ送れる。種子も動く」
シグヴァルが理解した。
「勝つ必要がないのか」
「ありません」
「川を取られても?」
「構いません」
ローヴェンが地図を睨む。
「土地を渡し続けたら、最後は黒牙砦だ」
「その前に赤熊が食べられなくなれば止まります」
「なら倉を焼くか」
「焼きません」
今度も即答した。
「帰る場所です」
「じゃあどうする」
ヴァイは十三個の石を見る。
「運べる分を運ぶ。運べない分は減らす。渡す場所を選ぶ」
「敵に食わせるのか」
「全部奪われるよりましです」
ローヴェンが何か言いかける。
ヴァイは先に続けた。
「グラウスの目的は黒狼の死体ではありません」
それはもう全員が知っている。
「食料です」
だから今夜、追ってこなかった。
軍を崩してまで殺す必要がないから。
そして明朝は来る。
食料が必要だから。
敵の目的が変わっていないなら。
こちらの戦い方も、まだある。
「兄上」
ヴァイが言う。
「父上の腕を取り返すことはできません」
ローヴェンの顎が動く。
「隊長も戻りません」
空気が硬くなる。
「だから、次の百人まで同じ場所で払わないでください」
ローヴェンは長く黙った。
拳を握っている。
殴られるかもしれない。
ヴァイはそう思った。
それでも目を逸らさなかった。
やがて。
ローヴェンの拳が開く。
「半日で」
「はい」
「本当に変わるのか」
「変えます」
「できなかったら」
「次の方法を使います」
「そこは『できます』って言えよ」
「まだ見ていないので」
ローヴェンが大きく息を吐いた。
「腹立つな」
それだけだった。
寝台から、父の声がした。
「ヴァイ」
「はい」
「凍川を見ろ」
「明朝、先に出ます」
「シグヴァル」
「はい」
「ついて行け」
「わかりました」
「ローヴェン」
長兄が父を見る。
「おまえはここをまとめろ」
ローヴェンは一瞬だけ不満そうな顔をした。
だが。
「……わかった」
従った。
ヴァルフラムは左手で胸元の毛布を直した。
右手を使おうとして。
途中で止まる。
ほんの一瞬だった。
全員が見た。
誰も何も言わなかった。
「黒牙砦へ戻ったら」
父が言う。
「家族と長老を集める」
ローヴェンが顔を上げる。
シグヴァルも。
ヴァイだけは黙って父を見た。
「次を決める」
それ以上、ヴァルフラムは言わなかった。
だが意味は十分だった。
右腕を失った族長。
鉄槌原で敗れた軍。
長兄。
兄姉。
十二歳の末子。
誰が次に群れを率いるのか。
もう、いつか考えればいい話ではない。
外へ出ると、折れた辺境伯旗が夜風に鳴っていた。
槍を添えた竿は歪んでいる。
それでも倒れてはいない。
ヴァイはその下で十三個の石を掌へ載せた。
一つずつ袋へ戻す。
最後の一つを入れて、紐を締めた。
北には赤熊。
南には黒牙砦。
その間に凍川がある。
鉄槌原は取られた。
父の右腕も失った。
多くの兵を失った。
それでも。
軍は残った。
道も残った。
食料も十三日残った。
時間も、まだ残っている。
ヴァイは北を見た。
次に奪うのは、土地ではない。
時間だった。




