第四章 スケバン登場!
ノーマリータウンでの出会いと、スキルに隠された代償。
それでも善二は、願龍に会うため、てっぺんを目指して進むしかない。
そんな善二たちの前に現れる、新たな人物。
今度の相手は――スケバン⁉
第三章【スケバン登場!】開幕です。
チェリーの背にまたがり、上機嫌に鼻歌を口ずさむピックル。
その旋律は、どこか呑気で調子はずれだ。
「まったく、普通ならスキル鑑定なんて五分とかからないのに。三十分待っても終わらないって……お腹空いてきちゃったわ」
小さく腹をさすりながら、ピックルは不満を垂らす。
《どうでもいいけど、なんでボクの背中に乗ってるのさ。飛べばいいのに》
不機嫌そうに言うチェリーの声は、どこか呆れ混じりだった。
「あんただってあくびしてたじゃない!」
ピックルがムキになって言い返す。
《それは眠くなってきたからで……ピックルに付き合わされるなんて思わなかったよ》後半だけ妙に小声になるチェリー。
「――何か言った⁉」
ピックルの眉がピクリと動き、チェリーの眉間が八の字に歪む。
その空気に微妙な緊張が走った、その時――
「ちょっといいかしら?」
背後から、艶やかな女の声が響いた。
ピックルとチェリーは同時に振り返る。
そこに立っていたのは――セーラー服にロングスカート、髪は燃えるようなオレンジ色。高く結んだポニーテールが風に揺れ、紅の口紅が妖しく光る。その足元、ヒールの音が乾いた石畳に“コツン”と鳴り響いた。
「何かご用かしら?」努めて冷静に返すピックル。
だが、その声音とは裏腹に、彼女の背には冷たい汗が滲んでいた。――感じ取っていたのだ。目の前の女から放たれる、異質な圧。それは理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。
《お姉さん、キレイだね》
チェリーが場の緊張を和らげるように呟く。
「あら? アンタ、ウォッチャーでもないのに喋れるのね。しかも可愛いじゃない」
女は優雅にしゃがみこむと、チェリーの頭をそっと撫でた。その手つきは柔らかい――だが、どこか支配的だった。
「……申し訳ないのだけど、先を急ぐので失礼するわ」
ピックルはチェリーの背を軽く叩き、その場を離れようとする。
だが、女の声がそれを許さない。
「待ちなさい。まだ質問はしてないわよ。なのになんで離れようとするの?」
口角を吊り上げた笑み。その赤い唇が歪むたび、空気がわずかに揺らめく。
ピックルの頬に一筋の汗が伝った。
「そっ、そうだったわね。……それで、私たちに何か? ウォッチャーの存在を知っているってことはあなた――転生者かしら?」
女は一拍置き、唇を歪めて笑った。
「――ふふっ。まぁ、わかるわよね。なぜかこちらの世界では【スケバン】って呼ばれてるんだけど」
その笑みは艶やかで、どこか哀しげでもあった。
次の瞬間、彼女はすっと立ち上がり、ヒールの音を響かせながら光を遮るように二人を見下ろした。
女はピックルとチェリーを見つめたまま、ゆっくりと紅い唇を動かした。
「ねぇ……赤い髪のヤンキーっての、アンタら知らない?」
その一言が、空気を凍らせた。風が止まり、周囲のざわめきが嘘のように消える。
ピックルは一瞬で表情を引き締める。
「あんた……何者?」声を発した瞬間、背中の羽が無意識に震えていた。
女は楽しげに目を細めた。
「何者、ねぇ……そうね。アタシも昔はちょっとした素行不良な女の子だったのよ。けどこの世界に来てからは、こう呼ばれるわね。女の転生者――スケバンってね」
「赤髪のヤンキーを探してる理由は?」
ピックルの問いに、女は首を傾げる。その笑みは柔らかいのに、瞳の奥には獣じみた光が宿っていた。
「借りを返すためよ。彼――前にあたしのケンカを邪魔したの」
一拍置いて、唇を舐める。
「……ま、もっと正確に言えば――助けられた、のかもしれないけど」
ピックルは息を呑む。その一瞬の言葉の綻びの中に、微かな人間らしさが垣間見えたからだ。
しかし次の瞬間、彼女の目が鋭く光る。
「でもね――あの時の借りは、ちゃんと返す主義なの」
女の声が低く響き、ヒールの踵が石畳を強く打ち鳴らす。
ピックルは思わずチェリーの背にしがみついた。
《ピックル……逃げた方がよくない?》
「そうね……だけど――あの目、本気で善二――かはわからないけど、誰かを探してる」
女はふと夜空を見上げた。オレンジの髪が風に揺れ、星明かりに照らされる。
「……咬噛善二。あの男には、まだ――借りがあるの」
静かにそう告げると、彼女は踵を返し、建物の影へと歩み去った。
残されたのは、風に揺れるポニーテールで結われた黒いリボンの残光だけだった。
ピックルは小さく息を吐いた。
「……やっぱり善二だったわね。あいつってほんとに、トラブルを引き寄せる天才だわ」
《う〜ん。悪い人には見えなかったけどな〜》
二人の嘆息が重なる。
善二は噴水広場のベンチにもたれかかり、薄暗い空をぼんやりと仰いでいた。水面に映る月光が揺らめき、彼の赤い髪を淡く照らす。
「……てっぺんか。……興味はねーけど、やるしかないよな」
呟きは風に溶け、遠くの鐘の音と混じって消える。
握りしめた拳には、決意という名の熱が宿っていた。それは、自ら選んだ覚悟を焼きつけるような静かな炎だった。
――その時。
「……見つけた。咬噛善二……」
背後から女の声が降ってきた。
唐突な呼びかけにも、善二の瞳は一切の怯みを見せない。視線を向けた先、そこには一人の女が立っていた。
(――女? 転生者か?)心の中で勘ぐる。
セーラー服にロングスカート、オレンジに染まった髪色。その場違いな姿が、この世界の住人でないことを雄弁に物語っている。
「どちらさんで?」
軽く肩をすくめて返す善二に、女の唇がわずかに震えた。
「――っ⁉ ……忘れたの?」
その声は怒りと悲しみをないまぜにしていた。赤く塗られた唇が、わずかに噛み締められる。
「前の世界で会ったこと、あったか?」
善二の問いかけに、女の表情が一変する。その瞳には確かな憎悪の色が宿っていた。
「――‼︎ オマエ……!」
吐き捨てるような声は、鋼のように低く響く。
「いや、知り合いならごめん! 俺ってすぐ忘れるタチでさ。名前言ってくれたら思い出すかもしれないから教えてくれ」
焦りもなく、むしろ飄々とした善二。その余裕が、女の感情に火をつけた。
「……城之内美柑」
怒りを押し殺しながら、その名を告げる。
「じょうのうち……みかん?」
善二は反復し、記憶を掘り起こそうとするが――
「……わりぃ、やっぱ知らん」
その言葉が決定打だった。
瞬間、美柑の体が閃光のように動く。空気が裂ける音と共に、鋭い蹴りが善二の顔面を襲う。
「うわっ、あっぶね!」
反射的に身を屈め、ベンチを蹴って飛び退く善二。
木製の背もたれが粉々に砕け散った。
「いきなりなにすんだ!」
「忘れたなら――思い出させてあげる!」
美柑が跳躍する。
ロングスカートの裾が風を裂き、回転と共に踵が唸りを上げた。
善二は即座に腕を交差し、直撃を防ぐ。
だが、衝撃は凄まじく――地面を叩く音が炸裂し、噴水の水が宙に散った。
突風が広場を駆け抜け、周囲の木々をなぎ倒す。石畳には深い亀裂が走り、悲鳴を上げた人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
それでも、ひとりだけ逃げずに残った者がいた。
――スキル鑑定士。
皺だらけの顔に、奇妙な笑みを浮かべながら呟く。
「ほぉ……これがヤンキー同士の戦いか。いいもの見せてもらえるねぇ……」
その目は、恐怖ではなく――純粋な興奮に輝いていた。
「ちょっと待てよ! 本気でわかんねーんだって! だから普通に教えてくれ!」
善二は両腕の痺れを振り払うようにぶんぶんと振り回した。
だが、美柑の怒りは一片も収まらない。
「――問答無用ッ!」
咆哮と共に、彼女の身体が風を裂いた。
次の瞬間、疾風のような回し蹴りが善二の脇腹を襲う。
「ぐっ……はっ!」
鈍い衝撃と共に血飛沫が宙を舞い、月光に赤く弧を描く。
(……くそっ、あばらが何本かいったな……)
だが善二は吹き飛ばされながらも、空中で身体をひねり、砂煙を散らしながら片膝をついて着地した。
痛みを堪え、口角を上げる。
「……あのさ、俺は――女には絶対に手を出さねーんだよ。だから気の済むまでやれ」
その言葉と共に、善二は両手をだらりと下げ、完全なノーガードの姿勢を取る。
その無防備な背中には、暴力ではなく覚悟の匂いが漂っていた。
「……甘いわね」
美柑は低く呟く。
「……そこは、私も一緒」
言葉と共に風が静まり、ロングスカートの裾がふわりと落ち着く。鋭かった瞳の炎が、わずかに揺らめいた。
「――アンタ、鷲尾って知ってるでしょ」
その名を聞いた瞬間、善二の表情が一変した。
「……っ! なんでお前が鷲尾を知ってんだ?」
美柑の唇が震える。
「そいつの下っ端と……アタシは因縁があってね」
その声音には、怒りでも復讐でもない――痛みが滲んでいた。
やがて、美柑は静かに過去を語り始める。
――前の世界での出来事。
美柑は【常光詩女子高等学校】通称――ジョシジョシに通っていた。地元でも名門と呼ばれるお嬢様校。そこにいても、彼女はどこか異彩を放っていた。
成績は常にトップ、容姿も非の打ち所がなく、誰もが振り返る美貌。けれど、その完璧さの裏には、閉塞と孤独があった。
周囲と同じであることが何よりも息苦しかった。
与えられた未来を歩かされることが、何よりも恐ろしかった。だから彼女は、髪を染め、制服を改造し、誰も真似できない自分を選んだ。
それが――新たな美柑としての始まりだった。
だが、そんな反逆が一人の男の目に留まる。
鷲尾――隣町の戦草寺高校を支配する不良グループの頭。彼女は知らず、その世界へと足を踏み入れる事件が起きる。
――ある日、美柑の親しい友人の【佐藤いちご】からの電話に怒りを滲ませていた。
しかし、それは彼女の運命を狂わせる夜となる。
いつも明るい親友の声が、その夜だけは違っていた。
電話越しに分かる泣き声に混じる震え――そして言葉『しんちゃんに殴られた……頭から血が出てるの……』
それはいちごの恋人である【更科心時】に暴力を受け、頭から血が出ているとのこと。
受話器を握る美柑の指先が白くなる。
「ふざけんな……!」
次の瞬間にはもう、彼女の足は夜の街を蹴っていた。
――だが、その先に待っていたのは、地獄だった。
埠頭の中――倉庫裏の薄暗い路地。酒と煙草の臭いが混じり合い、そこには十人近い男たちがたむろしていた。くだらない笑い声、缶の転がる音。
その真ん中に、何もなかったかのように笑ういちごがいた。
「――おい! いちご、これはどういうことだよ……」
美柑の声は怒りと困惑で震えていた。
だが、いちごはまるで別人のように口角を釣り上げる。
「あっ、美柑がきたよ〜。おいでおいで〜」
その手には、ビールの缶。アルコールの匂いが辺りに漂う。
「いちご……オマエ――アタシを騙したのか?」
絞り出すような問い。しかし、返ってきたのは無邪気な声だった。
「だって、こうでもしないと美柑来ないでしょ〜。せっかくそんなに可愛い顔してんだから、彼氏作らなきゃダメだよ〜」
「そうそう、こんだけ美人なら鷲尾さんに気に入られるだろ! よくやったな、いちご」
そう言って彼女の頭を撫でた男がいた。
「やだっ、しんちゃん……」
いちごが甘えた声で抱きついた相手――それが、彼女の恋人、更科心時だった。
だが、その心時こそが鷲尾の下っ端。そして、この卑劣な罠の仕掛け人だった。
「――ふざけんなっ! いちご、アンタがそんなヤツだったなんて……!」
美柑の声が夜に響く。怒りとも悲しみともつかぬ叫び。
踵を返し、逃げ出そうとした瞬間――
「おっと、どこ行くんだよ」
目の前に立ちはだかったのは、見上げるほどの巨体の男だった。
街灯の光に照らされたその顔。金のネックレス、タトゥー、そして狂気の笑み。
「へぇ〜、こいつが美柑ちゃんか〜。いいねぇ〜タイプだぜ。へっはっはっ、でかしたな、心時!」
「あざっす! 鷲尾さん」
その名を聞いた瞬間、美柑の心臓が冷たく跳ねた。
鷲尾――地元の不良たちの間で、名を聞くだけで背筋が凍る男。
奈落に突き落とされたような感覚の中で、美柑は唇を噛み締めた。
「……っ」
鷲尾が下卑た笑みを浮かべながら、彼女の腕を掴む。力強く、逃げ場のないほどに。
「――‼︎」咄嗟に飛び退く美柑。
「やめろ! それ以上近づいたら、ぶん殴る!」
「……いや〜たまんねぇな〜。俺ってドMだから、尚更興奮してきたぜ」
その吐息混じりの声に、背筋を這うような嫌悪が走る。鷲尾の眼が、獲物を見つけた獣のそれに変わっていた。
「このっ!」
振り上げた脚が閃光のように走り、鷲尾の顔面を狙う。
しかし――蹴りは空を裂いた。
風だけが残り、夜の闇が再び美柑を飲み込んでいく。
「……でもまぁ、躾はしてやらねぇとなぁ」
鷲尾の口元が歪むと同時に、アルコール息が夜気を濁らせた。
次の瞬間、美柑の身体が宙を舞った。乾いた音と共に頬に焼けつくような痛みが走る。
「――っ!」
左頬を伝う血が、夜の闇に朱を滲ませた。
(コイツ……女でも容赦しねぇのか……)
美柑の胸に冷たい戦慄が広がる。抗えば抗うほど、現実の残酷さが牙を剥いてきた。
「とりあえず、その綺麗な御御足を――拝ませてもらおうか」
鷲尾の手が伸びる。獣のような笑みと共に、美柑の足首が乱暴に掴まれた。スカートが一瞬でたくし上げられ、冷たい夜風が肌を撫でる。
「やめろっ……離せっ!」
必死にスカートを押さえつけようとするが、巨体の腕力の前では、その抵抗など紙のように脆かった。
生地が裂ける音。太腿にまで走る亀裂と、羞恥が心を焼く。
(くそっ……! こんなヤツに……!)
その瞬間――
「ぐっ……ぶはっ⁉︎」
乾いた破裂音が夜を裂いた。鷲尾の身体が、まるで見えない拳に撃ち抜かれたかのように吹き飛んだ。鈍い衝突音が夜の路地に響き、砂煙が舞い、周囲の男たちは一瞬何が起きたのか理解できず、息を呑む。
その中央に、赤髪の男が立っていた。
学ラン。幅広のボンタン。そして、炎のように逆立つ赤い髪。その男は、ただ一言も発さずに――夜風の中、ゆっくりと顎を上げた。
街灯の逆光を背負い、乱れた学ランの裾が風に揺れる。
表情は影に隠れて見えない。だが、その目だけが――確かに怒りの火を宿していた。
「……てめぇ、どこのもんだ」
歯を軋ませながら立ち上がる鷲尾。血の滲んだ口元を拭い、拳を鳴らしながらにじり寄る。
善二は一歩も動かない。その瞳は氷のように静まり返り、拳をゆっくり握りしめるたび、関節が鳴る音が夜に溶けた。
「……そこの女に、何してやがった?」
低く抑えた声。怒鳴りもしない、淡々とした響き――だが、底に潜む熱が異様に重い。その一言で、鷲尾の背筋がわずかに粟立った。
「ハッ、見りゃわかんだろ? 女の――」言葉の続きは、拳で遮られた。
善二の拳が一直線に鷲尾の顎をとらえ、鈍い音とともに、巨体がよろめき、壁へと崩れ落ちる。
「ぐっ……がはっ……!」
鷲尾は歯を食いしばりながら立ち上がろうとするが、テンプルを打ち込まれ、足がふらつき、視界が歪む。それでもなお、唾を吐き捨てるように笑った。
「……てめぇ、いいパンチすんじゃねぇか……!」
善二は静かに近づき、鷲尾を睨み据える。
「俺はな……女を殴る男が、この世で一番嫌ぇなんだよ」
その声には怒鳴りも力みもない。ただ、真っすぐな信念だけがあった。
鷲尾が最後の意地で拳を振り上げた瞬間、善二の体が自然に反応した。半身をひねり、顎を狙って放たれた一撃。空気が裂け、鈍い音が響く。
鷲尾の身体が数歩よろめき、崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。
静寂。
逃げ出していた周囲の不良たちが、息を潜めて見つめている。風が止まり、遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
善二は拳を下ろし、荒い息を整えながらその場に立ち尽くした。手の甲に残る血と痛みが、現実を突きつける。
「……チッ、やっぱ、こういうのは気分わりぃな」
呟きながら、美柑の方へ歩み寄る。
倒れ込んでいた彼女の傍に膝をつき、手を差し出した。
「大丈夫か?」その声は驚くほど優しく、
街灯の下で見上げたその横顔には、確かに光が宿っていた。
だが、美柑は顔を背けるようにして言い放った。
「――だっ、大丈夫だよ! 余計なことしやがって……アタシ一人でも……」
そこまで言うと、言葉が喉に詰まり、声が出なくなった。張りつめた強がりの奥で、何かが崩れそうになっていたからだ。
「……そっか、余計なことしたな」
赤髪の男は静かに差し出していた手を引っ込めた。その仕草には、怒りも後悔もなかった。ただ――少しだけ、寂しさが滲んでいた。
「鷲尾さんっ! 大丈夫っすか⁉︎」
血相を変えて、地面に転がっている男に駆け寄ったのは、いちごの彼氏――更科心時だった。
倒れた鷲尾を見て、怒りの矛先を善二に向ける。
「テメェ! 鷲尾さんにこんなことして、タダで済むと思ってんのか⁉︎」
善二は眉ひとつ動かさず、ただ短く答えた。
「……知らねぇよ。文句あんなら、いつでも相手してやる」
「へぇ……それなら名前、言えるよな?」心時の目が細くなる。
「……和泉高の咬噛善二だ」
名を口にする善二の声音は低く、迷いがなかった。
その名を聞いた瞬間、心時の口元にゆがんだ笑みが浮かぶ。
「余裕ってやつか……。その余裕が命取りにならなきゃいいがな」
背後に漂う不穏な気配。
その中で、美柑は黙って善二の背中を見つめていた。
(……和泉高の、咬噛……)
その名を、そしてその背中を――無意識のうちに心に刻みつけていた。
「おいっ、アンタ……借りは必ず返す」
美柑の言葉に、善二は肩越しに一瞥をくれる。
「別に借したつもりはねぇよ。……とりあえず、ここに長居すんのは危ねぇだろ」そう言って再び手を差し出す。
しばしの沈黙のあと、美柑は俯きながらその手を取った。
力強く引き上げられた瞬間、自分の中の何かが音を立てて変わっていくのを感じた。
二人は無言のまま、背後の喧騒を背に歩き出す。
道中も終始無言の二人。
やがて、車のライトが流れる明るい通りへ出る。夜風が頬を撫で、遠くで信号の電子音が鳴った。
「……ここまでくれば、大丈夫だろ?」
善二がそう言うと、美柑は小さく息を呑み、か細い声で、やっと言葉を返した。
「――あっ……ありがとう」それは、夜風に溶けて消えるほどの声。だが、確かに届いていた。
「じゃあな」短く言い残し、善二は歩き去ろうとしたが、不意の言葉がその足を止める。
「ちょっと待って! あ……アタシの名前は――城之内……みっ……美柑」
「そっか――覚えておくよ」善二はそう告げると、再び歩き出す。
その背中が闇に溶けて見えなくなるまで、美柑はただ立ち尽くしていた。
――これが、二人の最初の邂逅だった。
そして、美柑はその夜、初めて知った。
誰かが本気で怒ってくれることが、こんなにも優しく胸を熱くするのだと。
――それから数日後。
放課後のチャイムが鳴り終える頃、美柑は一人、校門をあとにしていた。
向かう先は、あの日、自分を救った少年――咬噛善二の通う和泉高校。
(もう一度……会って話したい)
その想いだけが、彼女を突き動かしていた。
だが、彼の学校は自分の通うジョシジョシから電車で三十分。
ホームに立ち、夕暮れの風に髪をなびかせながら、彼にかけるべき言葉を何度も心の中で繰り返す。
「……ありがとう」
「……あの時、怖かった」
「……助けてくれて、うれしかった」
どの言葉も、伝えようとするたびに胸が詰まった。気づけば、電車の車輪が止まり、目的の駅名がアナウンスされていた。
外へ出ると、空はすでに夜の帷を降ろしていた。スマホの地図を頼りに、河川敷へと足を進める。川面に映る街灯の光が、揺れながら伸びていた。
その時――。
前方から複数の人影が見えた。
不良グループ。そして、その中心に――見覚えのある金髪頭。
(――あれは……鷲尾⁉︎ なんでこんな所に……)反射的に、美柑は土手の影へと身を潜めた。
風に混じって、連中の低い声が届く。
「おい、心時! さすがにアレはやりすぎだろ! アイツが死んだら、ケジメはテメェがつけろよ!」
(……死んだら?)心臓が一拍、痛みのように跳ねた。
その言葉が、耳の奥で何度も反響する。
彼らの足音が遠ざかるのを待ち、美柑は息を切らしながら、彼らの来た道を辿った。夜の河川敷を駆け抜ける足音が、冷たい風に吸い込まれていく。
そして――見つけた。
「……っ!」
街灯の明かりが照らす草むらに、血に染まった学ラン。
うつ伏せに倒れている咬噛善二。
その傍らには、小さな子犬が寄り添うように横たわっていた。
「――はっ……!」美柑の呼吸が乱れる。目の前の光景を拒むように、足が止まった。
それでも震える膝を押さえ、一歩、また一歩と近づく。
やがて、膝が地を打った。
「……おい……咬噛……返事しろよ……」
その声は、風よりも弱かった。
しかし、どれだけ呼びかけても、返る言葉はない。
夜気が冷たく、川面の音だけが響いていた。
彼女の前にあったのは――すでに事切れた、二つの命の抜け殻だけだった。
やがて風が止む。
ただ、川面を撫でる微かな波音だけが、夜の沈黙を縫っていた。
美柑は震える手を伸ばし、善二の隣に膝をつく。
その顔は穏やかで――まるで、誰かの夢を見ているようだった。
「……なんで、こんな……」喉の奥で押し殺した声が漏れる。
胸の奥が焼けるように痛い。涙は出なかった。ただ、息を吸うたびに心が軋んだ。
ふと、美柑の目に映ったのは、彼の右手だった。血に濡れ、無骨な指先が漢を語る。
――その手が、自分を救った。
――その拳が、あの日、闇を打ち砕いた。
美柑はそっと、その拳を握った。冷たかった。けれど、その奥にまだ、熱が――確かに残っていた。
「……やっぱり、アンタ……馬鹿だよ……」震える唇が、かすかに笑みの形を作る。
頬に一滴、ようやく涙が伝った。それは後悔でも哀しみでもない。
――感謝の涙だった。
彼の拳を包んだまま、美柑は空を仰ぐ。夜空には、無数の星が瞬いていた。まるで、彼の魂がそこに昇っていくのを見送るように。
「アタシ……どうしたら……教えてよ咬噛」
誰に届くでもないその言葉を、夜風が静かに攫っていった。
やがて、美柑の手の中から、善二の拳の温もりが完全に消える。
それでも彼女は、いつまでも離さなかった。
――その拳が、自分の中の何かを、確かに燃やした気がしたから。
だが、その誓いは、あっけなく瓦解した。
背後から冷たい気配が這い上がる。空気が一瞬、凍り付いたように感じられた。
「あれっ? オマエ……美柑って言ってたか?」
振り向くとそこには、忘れ去りたくとも忘れられない顔だった。時間が濃縮されたような表情――それは確かに、あの夜の記憶そのものだった。
「更科心時……」
「おいおい、フルネームで呼ぶなよ。心時――でいいぜ」
不気味に口角を吊り上げるその男は、笑いの隙間に死の匂いを含んでいた。その目は冷たく、まるで他人の運命を弄ぶために生まれてきたようだ。
「オマエ……なんでここに!」
美柑の眉間に深い皺が刻まれる。驚きと怒りと、以前のいちごとの、あの記憶が混じり合っていた。
(こいつは、いちごの……)
美柑にはあの夜の出来事である首謀者が、コイツであるとわかっていた。
「身構えんなって。……そこの咬噛の様子を見に来ただけだよ」
心時はヘラヘラと薄ら笑いを浮かべ、みるみる距離を詰めてくる。
足音が土へと軽やかに落ちるたび、彼女の背筋に冷や汗が滲む。
「――それ以上来るな! きたらぶっ飛ばす!」
「敵意剥き出しだな〜。野獣かよ――おっかねぇ」そう言い終えるや否や、心時はポケットからバタフライナイフを滑らせ取り出した。
刃先にはすでに赤い痕がこびりついている。
光が反射して、鋭く光る。
「――⁉︎ そのナイフ……まさかオマエが…・」
言葉が走るように吐かれ、血の気が一気に引いていくのがわかった。
「そうだよん。そこに転がってるヤツはオレが刺したのさ――アハハハッ」
狂ったように笑う心時の声が、夜の闇に不気味に冴え渡る。その笑いは、軽薄ながら残酷さを含んでいた。
美柑の胸の中で何かが砕け散った。
「オマエーーーー‼︎」
喉の奥がはち切れんばかりに叫ぶと、彼女は我が身を顧みず飛びかかった。
ヒールを履いたままの跳躍は野性的で、足は鋭く振り抜かれた。
だがその蹴りも心時の頬をかすめる程度に終わる。
「……あぶねーな。テメー……マジで死ぬか?」
心時の声は低く、くぐもっていた。そこには笑いではなく、確かな殺意が宿っていた。
美柑の胸は高鳴り、世界が一瞬だけ狭まる。
夜風が吹き抜け、刃物の冷たさと人の熱が混ざり合った。
――刹那、美柑は低い姿勢から素早く距離を詰めた。
だが、目の前にあったはずの心時の影は、忽然と消えていた。
「残念だったな……オマエもここで終わりだ」
いつの間にか背後に回り込んでいた心時は、ぎらりと冷たく光るナイフを握りしめたまま、美柑の脇腹へ深く突き刺した。刃の冷たさが肉を裂き、鋭い痛覚が全身を貫く。
「なっ、……なんで。いつの間に後ろに」
視界が追っていたはずの存在が、なぜ気づかれずに背後へ回れるのか。理屈が追いつかない恐怖が、彼女の肢体を硬直させる。鼓動が早鐘のように鳴り、世界の輪郭が歪んでいく。
「ぐふっ!」鮮烈な衝撃とともに、喉から血が溢れ出す。オレンジの髪が震え、夜の空気に赤い粒がちらついた。
「そりゃ致命傷だな――クククッ」
心時の笑いは薄ら寒く、残酷な余裕に満ちていた。人の命を弄ぶ彼の声音が、夜の静寂に刺さる。
美柑は悔恨と怒りと無力感に押し潰されそうになりながら、その場に膝をついた。血の温もりが手のひらを染め、足元の世界が遠のいていく。
意識が暗闇に沈む寸前、ひとつの思念だけがはっきりと残った――この巨悪だけは、絶対に許さないという、消えない信念が。
――そして現在。
美柑は、あの日の一部始終を震える声で善二に打ち明け終えた。夜の広場は静まり返り、二人の息づかいだけが柔らかく響く。
「……なるほど――思い出したよ」
善二は静かに頷き、言葉一つひとつを反芻するように耳を傾けた。過去の断片が脳裏でゆっくりと拼ながれていく。
「……でもな……そこに俺を攻撃してくる意味がわからねぇーよ! 恨みがあるならわかる。けど、それは俺じゃなくない?」
善二の声には混乱と苛立ちが混ざる。記憶の齟齬が、今の状況をさらに歪めていた。
「忘れられたのが気に食わない……のよ」
美柑は息を整えながら、言葉をぎこちなく絞り出す。頬は赤らみ、恥ずかしさと強がりが薄く透けて見える。
「だからって、殺気放ちながら攻撃するかよ」
善二は眉を寄せる。彼の口調は多少投げやりだが、その内側には心配と苛立ちが溶け込んでいる。
「アンタなら軽く躱わすと思ったから……つい熱くなって」
美柑の声音は弱く、どこか恥ずかしさを孕んでいた。
「……いや、ギリだったけどね」善二は顔を引きつらせて苦笑する。
あの夜の生々しい痛みが、二人の距離を一瞬だけ縮めた。
「――だが、更科心時……あの野郎、女にまで手を出しやがったのかよ! クソ野郎が……!」
拳をぎゅっと握りしめ、善二の血管が浮き上がる。唇を噛みしめ、今すぐにでもぶちのめしたい欲求を必死で抑え込んでいた。
「アタシだって、アイツの顔面にヒールの痕を残したいわよ。でも今となっては、それも叶わない」
美柑の表情が陰る。復讐の渇望と喪失の冷たさが、その横顔に影を落とす。
「まだあきらめるには早いぜ! なんせなんでも願いを叶えてくる龍がいるみたいだからな」
善二の声が跳ね上がる。言葉は荒くとも、その奥には本気の期待が揺れていた。
「――っ! なんでも願いを叶える龍?」美柑が重ねて繰り返す。語感に驚きが混ざる。
「……って、それ――ドラ◯ンボールじゃん」
不意に二人とも苦笑交じりにツッコミを入れる。緊張の隙間に、ほんの一瞬の軽さが差し込む。
「言ってくれるな――察するんだ」
善二は半ば呆れたように返すが、その瞳は真剣だ。
「だから俺は願う――生き返って現世に戻らせてくれと!」
その言葉は力強く、確かな決意が宿っていた。
「そうか! それならアイツに復讐できる!」
美柑の瞳に、希望の光が戻る。その希望が彼女の内側で小さく瞬いた。
「それで? その龍はどこにいるの?」
美柑は善二の隣に腰を下ろし、まるで戦友と肩を並べたような表情で問いかけた。
善二はベンチの背にもたれ、ピックルから聞いた話を淡々と語る。
「四大陸の番長を倒す……ね」美柑は顎に指を添え、眉をひそめた。
「……あのさ――番長っていつの時代設定なのよ――ここは」
「俺だって知らねーよ! 転生者をヤンキー、女ならスケバンって呼ぶ世界だからな……」
そう言いながら、善二はふと何かを思い出したように言葉を切る。
「そういや〜お前さ――」
「オマエじゃなく、名前で呼んでくんない?」遮るように美柑が言う。
「は? なっ、名前? 城之内?」
「上の名前は堅苦しいから、下でいいよ」
「……みっ……美柑」
「――っ!」
お互い下の名前で呼び慣れていないのか、言葉を交わした瞬間、二人はなぜか同時に視線を逸らした。顔が火照るのを誤魔化すように、互いにまったく別の方向を見る。
「そっ、それで? 何を言おうとしたのよ」
美柑が咳払いを一つ挟み、話を戻す。
「あぁ、――こっちに来たってことは美柑にもウォッチャーがいるんじゃないか?」
「監視者のことね。――いるわ。アンタの後ろに」
「……え?」善二は思わず振り返る。
そこにはてんとう虫を彷彿とさせるような生物が、ふわりと羽ばたいていた。
「うわっ! いつの間に」善二は反射的にベンチから跳びのいた。
「ごめんなさい、ビックリさせるつもりはなかったのです」
柔らかな声で話すそれは、上品な仕草でお辞儀をする。
「はじめまして、私は美柑のウォッチャー――禍虫族のテンテンと申します」
善二の顔ほどの小さな体ながら、姿形は人間の女性のようだった。白いワンピースに赤い羽根、その羽には黒い斑点が淡く光を反射している。
「あっ、あぁ……ずいぶんと礼儀正しいウォッチャーだな」
「アタシとは正反対なヤツだろ? 清楚で女の子らしい感じでさ」
「そっ、そうだな。真逆だ」
その瞬間、美柑の視線が鋭く突き刺さる。
「はぁ⁉︎ 誰が粗暴な女だよ!」
「誰もそんなこと言ってないだろ⁉︎」
二人のやり取りを、テンテンは口元に手を当てながら優しく微笑んで見ていた。
「 まるで夫婦漫才みたいですね」
『――どこが!』
声を揃えて反論する二人に、テンテンの羽音だけが軽やかに響いた。
「で、これからどうすんだ? 目的が同じなら一緒に行くか?」
思いがけない善二の提案に、美柑の肩がわずかに跳ねる。頬がじわりと赤みを帯び、大きく見開いた目が彼を映す。
「なっ! ……あっ、アンタがどうしてもって言うんだったら――アタシは別にかまわないけど」
精一杯の強がりとは裏腹に、声の端には緊張が滲む。
「どうしてもってわけじゃねーけど、一人で行くより、その方が楽しいだろ」
善二は曇りのない笑顔で、ごく当たり前のように言ってみせた。
美柑はほんの一瞬、言葉を失う。その自然体が、妙に胸をざわつかせた。
「それなら――」
「善二―‼︎」甲高い声が広場の入り口付近から響き渡った。
振り返ると、チェリーの背に乗ったピックルがこちらへ向かってくる。
「おーピックル――どこ行ってたんだ?」
「どこって、スキル鑑定が長かったから、チェリー連れて散歩に行ってたのよ」
《ボクは別に行きたいって言ってないんだけどね》
ピックルがふわりと降り立つと――
『――⁉︎ あーー‼︎』
美柑とピックルが同時に叫んだ。
「オマエたち、もしかして善二のウォッチャーだったのか?」美柑の目が見開く。
「そうよ。あんたが途中で振り返って行っちゃったから。……べっ、別に隠してたわけでもないし」ピックルは口を窄めてそっぽを向く。
それを見た美柑は、「チッ」と小さく舌打ちした。
「なんだ――お前らすでに会ってたのか。なら話は早い! ピックル、これからこの美柑が同行することになった」
「――はぁ⁉︎」ピックルの声が見事に裏返り、広場全体に響いた。
「なっ、アタシはまだなにも――」言い終える前に、善二は「腹減った」の一言を残し、さっさと歩き出す。
「……まっ、あいつの決断したことなら、ウォッチャーの私は別にかまわないわ」ピックルが肩をすくめる。
「……ん〜」美柑は腕を組み、にらみつつ天を仰ぐ。
「別にいいんじゃないかしら? 彼の言ったように目的は一緒なんだし」テンテンが穏やかに補足する。
「あら? あんたがこの女のウォッチャーなの? 見たところ禍虫族みたいだけど」
「はじめまして。可愛らしい妖精族のウォッチャーさん」
「可愛らしいなんて……ホントのこと言われても〜」ふにゃりと頬を染めるピックル。
《――ねぇ、善二行っちゃうよ》すかさずチェリーが冷静な一言を放つ。
「それでは、意見がまとまったところで、私たちもいきましょうか?」
テンテンは小さく羽ばたきながら促した。
「おいっ、アタシはまだ……」言いかけた瞬間、既に全員が善二の背を追って歩き出していたことに気づく。
「……あ〜くそっ! ……まぁ、いいか」頬を染めつつも、どこか嬉しげに美柑は溜息をつき、小走りでその背中を追いかけた。
――レストラン【バーミガストン】
磨き込まれた床と整然と並ぶテーブル席。宿場町には似つかわしくないほど洒落た雰囲気が漂っていた。
「なんだ――あんな居酒屋みたいのより、まともな店あんじゃねーか」
席に腰を下ろすなり、善二がぽつりと呟く。
「ここは新しくできた店ね。前回のヤンキーの時にはなかったから」
ピックルは興味深そうに店内を見まわし、壁の装飾や照明に目を泳がせている。
全員がメニューを一通り確認し、呼び鈴を鳴らす。
「んじゃ、俺はハンバーグステーキの照り焼きソースで」
先陣を切るように、善二が店員へ告げる。
「それじゃー私は……キノコとスライムのドリアにしようかしら」
「スライムって、あのスライムか? それって食べて大丈夫なのか?」思わず目を丸くする善二。
「当たり前でしょ。食えない物出してどうするのよ。これは食用スライムを使ってるから大丈夫なのよ」
「スライムに食用とかあんのかよ……」善二は呆れ顔で目を細めた。居酒屋で食した物が前世と変わりなかったため、こちらの世界でもそれが当然と思っていたからだ。
続いて美柑の番。
「アタシは――グリーンスネークの蒲焼御膳、ブルースネークの茶碗蒸し付きで」
「おめーはゲテモノ好きか⁉︎」
予想外のチョイスに善二は椅子ごとひっくり返りそうになる。
「それでは私は――“俊敏なる怪鳥のダンスはそよ風のごとく”でお願いいたします」
テンテンはまるで詩でも紡ぐかのように優雅な口調で告げた。
「一人だけ優雅だな! そんなもの載ってたか? 天天のそれは何なんだ?」
「簡単に言いますと、バジリスクのもも肉をミントで味付けしたものになりますね」テンテンは柔和に微笑む。
それを聞いた瞬間――善二の中で嫌な予感が再燃した。
「あの……店員さん――ハンバーグの肉ってなんの肉なの?」
「そちらで使用されております肉は、国産ミノタウロスの胸肉にございます」
「…………」善二は両手で頭を抱え、ぐらりとテーブルへ突っ伏した。
(なんで俺だけファンタジーらしからぬメニューを選んだ気でいたんだ……)
――数分後。
テーブルに彩り豊かな料理がずらりと並び、立ち上る香気が食欲を一気に加速させていく。
仲間たちは早速舌鼓を打つ中――ただ一人、善二だけがミノタウロス製のハンバーグを凝視していた。
「……これ、美味いのか?」
未知の肉に対する警戒心が、眉間に深い皺を刻ませる。
その隣で、美柑が盛大に感嘆の息を吐いた。
「なにこれ……! 旨すぎる! 噛んだ瞬間に香りが広がって、身がとろける! ほら善二、アンタも早く食え、世界の色が変わるぞ!」
蒲焼――というより芸術的な鰻重のような蛇重を貪欲に頬張りながら、至福の表情を浮かべる美柑。
(……少しは女らしく食い方を考えろよ)善二は心の中でだけツッコんだ。
一方のピックルも負けじと夢中だった。
「はぁぁ〜っ……っんまい! このスライムドリア、濃厚クリームの奥から野草の旨味がふわ〜っと来るのよっ。無限に食べられるわね……!」
妖精とは思えぬ勢いで小さなスプーンを躍らせる姿を横目に――善二は観念したようにナイフを持ち上げる。
刃が肉へ沈む瞬間――”じゅわり”と音を立てて、琥珀色の肉汁がとろりと溢れ出す。
香ばしい匂いを前に、思わず生唾が喉を鳴らした。
一片を口へ運び――目を閉じた瞬間。
「……ふんぐっ‼︎」その表情が弾ける。
「こっ……こいつぁ――とんでもなく旨ぇ……! 肉が舌に触れた瞬間に溶けやがる! 濃厚なのにくどくねぇ! こんな化け物級ハンバーグ、人生で初めてだぁぁぁ!!」
店内中が振り返るほどの爆音リアクション。
「ちょっと! 恥ずかしいじゃない! 静かに食べなさいってば!」
制止しようとしたピックルは慌てすぎてスプーンを取り落とし、皿の端にクリームを散らした。
善二の雄叫びがレストランの空気を震わせた瞬間――周囲のテーブルが一斉にざわめき始めた。
「おい……ミノタウロスの肉であんな顔できるか?」
「普通あれ、筋張って硬いはずだろ……」
「噂のヤンキーじゃねーか? あの食べっぷり……只者じゃねぇ」
店全体が一瞬で緊張と好奇心に包まれる。ひそひそ話しながらも視線だけはこちらへ突き刺さり、中にはスマホ――に似たこの世界独自の録画板【ルクスプレート】を向けてくる客までいた。
ピックルは頭を抱え、耳まで真っ赤にしながら言葉を噛みしめる。
「だから恥ずかしいって言ってるでしょ……あぁもう、目立ちすぎよあんた!」
しかし当の本人――善二はというと、そんな視線すら気にする素振りもない。
むしろハンバーグをもう一切れ運びながら頬を緩ませる。
「……いやマジで幸せだなこれ。食った瞬間、人生の疲れが溶けてく……」
呆れと感服が半々に混ざった美柑が、箸を止めて肩を竦める。
「褒め方がもう告白レベルなのよね……」
テンテンは微笑みながらグラスを手にし、柔らかく頷いた。
「生命を奪う戦いだけがこの世界の全てではなく、こうして舌鼓を打つ時間もまた旅の祝福……ということですね」
「……悪くねぇな。この世界の飯」
善二がぽつりと呟いたその一言は、ひとつの宣言のように響いた。
全員が食事を終え、まったりと余韻を味わっていた頃。別卓の客たちの盛り上がっている声が耳へと届く。
「おい、知ってるか? 今年も例のヤンキー同士の戦い【ボンタン狩り】が始まるらしいぜ」
「マジか⁉︎ 場所はどこだよ?」
「クレイジータウンだ」
「ってことは……別名【体育館裏】って呼ばれてる、あのイかれた町か」
「ああ、ひと月後には腕に自信のあるヤンキー共が集まるだろうな。あそこは元々スラム化してて、壊そうが燃やそうが文句言う奴はいねぇしな」
善二は耳をそばだて、目を閉じて考え込む。
「……なぁ、なんでクレイジータウンが別名――体育館裏なんだよ」
「それも察し――じゃないの?」
美柑は追加注文していた、ホワイトスライムのパフェを嬉々として頬張りながら答える。
陰鬱に聞こえる俗称が、妙に生々しい。
さらに噂話は続いた。
「しかも今年はよ――番長四天王のひとり、【鴉丸狂人】が参加するらしいぜ」
「アイツか……人間をサンドバッグにする趣味のぶっ飛んだヤツだろ」
「見に行きてぇけど……巻き込まれて死ぬのはゴメンだな」
「どうせアイツの一人勝ちだ」
その一言に、善二の眉がぴくりと跳ね上がり――次の瞬間、勢いよく立ち上がる。
「面白そうだな。早速、番長の一人をブッ倒せるってわけか! なぁ、その続き詳しく聞かせろや」赤髪を揺らしながら、善二は噂話の卓へと突っ込む。
突然の乱入に客が目を丸くした。
「あん? なんだ兄ちゃん。やっぱヤンキーか。ってことは参加する気か」
「その前にひとつ聞く。四天王って、本当にそんなに強ぇのか?」
「強ぇなんてもんじゃねぇ。一つの大陸を治めた怪物級だ」
背後から美柑が追いつく。
「アンタ――まさか参加するつもり?」
「もちろん! 面白そうじゃねーか! お前はやらないのか?」
「アタシは女よ。そもそもボンタンを履いてないでしょ」
「あぁ、たしかに」まるで合点がいったとばかりに頷く善二。
「――よっしゃ、ワクワクしてきたな! 早速行こうぜ!」
鼻息荒く退店する善二。
光の速さで置いて行かれた会計係と化したピックルは、伝票を掴んで慌ててレジへ。
他の面々は半ば呆れ顔のまま善二の背を追う。
「――善二! 本当に場所わかってんの⁉︎」
美柑の指摘に、善二はようやく足を止める。
「あっ……」と間抜けな返答。
支払いを終えたピックルが、戻ってきて頬をわずかに引きつらせる。
「まったく……クレイジータウンはこの町から東よ。考え無しにも程があるわ」
「……東か。悪ぃ、案内頼む」
方向すら知らなかった善二に、一同は揃って深いため息。
「――あれ? チェリーは?」
ピックルの一言で皆の視線が散る。
「そういやぁ、飯の最中から見なかった気が……」
善二がそう呟いたところへ――レストラン脇の路地からひょっこりとチェリーが姿を見せた。
《ごめん、ちょっと可愛い女子犬がいたから、つい追いかけちゃった》
「……やっぱお前、雄だな! 飯より女とは」善二はいやらしい目つきでにやりと笑う。
「まったく……善二といい、チェリーといい、本気で手がかかるわね」ピックルは腕を組み、わざとらしく肩を落とした。
その様子を意味深に見つめているテンテン。
「そんじゃ、行くぞ! ボンタン狩りへ!」
勢いのまま歩き出す善二を先頭に、一行は町の東へ進み始める――。
――道中。
夜風を切りながら歩く一行の中で、美柑がふと善二へ問いかける。
「そういえばアンタのそのスカジャン、それって最初から着てんのか?」
「ああ、これか。これはでっけー三つ首の犬を倒したら手に入ったんだ」
「――⁉︎ アンタそれ……ケルベロスじゃないの?」
「――確かそんな名前だったな」
美柑の足取りが止まる。その眼差しに驚愕と、わずかな戦慄が混じった。
「……四大獣禍族の一体じゃん! アンタよく倒せたね」
「う〜ん……俺の力ってより、出会った時にはすでに弱ってたらしい。上代龍平とかってヤツがそんなこと言ってたわ」
「――‼︎ 上代龍平……」
その名を聞いた瞬間、美柑の表情から血の気が引く。
ようやく合点がいった――善二の羽織るスカジャンの禍々しい格の正体。
あの獣を追い詰めたのが――上代龍平であること。
「ん? なんだ? ヤツのこと知ってんのか?」善二も異変に気づき、訝しげに眉を寄せる。
「知ってるさ……アイツと戦ったからね」
「――マジか⁉︎ あの野郎、女に手を出したのか」
「先に手を出したのはアタシの方だから」
「だからって――」言いかけた言葉を、美柑が切り裂くように遮った。
「アンタも甘いこと言ってんじゃねーよ! アタシが女だからって弱いとでも思ってんのか⁉︎ もしそうなら、それは優しさじゃなく舐めてるってことだよ!」
怒りを孕んだ瞳が、真正面から善二を射抜く。
感情よりも――誇りだった。
善二は短く息を吸い、眉根を寄せたまま言葉を選ぶ。
「……そんなつもりじゃなかったんだが、気を悪くしたなら謝る――悪ぃ」
真正面からの謝罪。それは回避でも弁解でもない。一度噛み締めた上で差し出したものだった。
美柑の瞳がわずかに揺れる。
「……いいさ。それがあんたの性格なんだろ」視線をそらし、息を吐く。怒気は消えたが、胸の奥の棘だけがまだ燻る。
善二は話を戻した。
「で、上代とやってどうなったんだ?」
「……まぁ~正直、手も足も出なかった。鳩尾に一発くらって気絶さ」
「一発……」善二は眉を潜め、先ほどの広場での一戦を脳裏に再生する。
――美柑は弱くない。避けるのに精一杯だった自分が、その実力を誰より知っている。
(それを一撃で沈めた……上代龍平……)
好奇心とも違う。単なる敵意でもない。ぐつぐつと煮え立つ得体の知れない感情が、善二の内側でうねりを上げた。
それは――この世界で初めて感じた明確な格の差だった。
そして、善二の闘志が静かに、だが確実に燃え始める。
「そういえば善二――あんたメンチ切りはできるのよね?」
唐突な問いに、善二は当然だろと言いたげな顔を返す。
「ちょっとアタシとやらない? これは喧嘩の初手として当たり前のことだから」
「……ん〜、まぁ美柑がいいなら」
気乗り半分でボンタンのポケットに手を突っ込み、足を少し開く善二。
一方で美柑は数歩後ろへと間合いを取った。
それを見て、善二は首を傾げる。
「おいっ、メンチ切るんだったら普通近づくだろ? 逆に距離取ってどうすんだよ」
「――はぁ? アンタ死にたいの? 避けれる自信でもあるの?」
「避けるって――そんなダセぇことするわけないだろ」
「なら始めるわよ――」宣告と同時、美柑の瞳が妖しく光芒を放つ。
次の瞬間――
“ビシュンッ!”
一条の閃光が鋭利な弾丸のように善二の顔面を掠めた。
「――んなっ!」
横っ飛びの勢いで避けた善二の頬には冷や汗が伝い、顔色は一瞬で蒼白になる。
「……なんだこりゃー!」
地面に正座させられた善二の前で、美柑は呆れ顔を隠そうともしない。
「まさかメンチビームを使えないなんて……アンタ、上代龍平以外のヤンキーと出会わなくてよかったわね」
「メンチビームって……ゲームじゃあるまいし……」
「――あん? 何かいった?」
「いえ……なにも」(今の直撃してたら顎ごと吹っ飛んでたな……)
そこからしばらくの間――説教が落雷のように降り注いだ。
どうやらメンチビームは、この世界でのヤンキーの初歩スキルであり、ウォッチャーが転生者に最初に叩き込むべき基礎中の基礎らしい。
テンテンも眉を顰めて言う。
「ピックルちゃん――教えなかったの?」
「……あ、うっかりしてました」
転生導入のマニュアルすら完全に忘れていたらしい。
《はぁ〜、呆れるね》
「コラ! バカ犬! 殴るわよ」
チェリーとの犬猿の仲は、こうして今日も健在である。
「ちなみに実力差が歴然の場合、もうメンチの時点で勝負がつくわ」
美柑が言うと、善二はなるほどと言わんばかりに、赤べこよろしく首を上下に揺らすしかなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
ついに登場しました、スケバン!
ヤンキーが異世界でてっぺんを目指すなら、こういう存在もいてほしい……ということで登場してもらいました。
善二とはまた違う信念を持つ彼女が、今後どんな形で物語に関わってくるのか。
バトルなのか、共闘なのか、それとももっと厄介な関係になるのか。
次回以降も楽しんでいただけたら嬉しいです!




