16話 欲望
どこかでカラスが鳴いた。
夕方。先に目を覚ましたのは晴だった。
膝が痺れている。動けない、でも動きたくなかった。
規則正しい寝息を立てる晶の顔を見下ろし、そっと前髪をよけた。
綺麗な顔...猫みたいだ。起きている時のあの軽い笑顔が消えると、こんなにも幼く見える。
晴にはそれが、自分と同じ種類のものに映った。
「…ん、おはよう」
微笑む「膝、感覚ない」
「あ!ごめんっ......」ぱっと起き上がり、よろけて壁にもたれた。
「いい。起こしたくなかった」
「...ありがとう」照れ臭そうに晶が笑う。
ぐう、と間抜けな音が響いて、晴がお腹を押さえる
ぐう、晶もお腹を押さえる
──二重奏だった
「へへ」
晴が恥ずかしそうにお腹をさすった。
「買い物、いこっか」
と晶が言い、晴が頷いて言う。
「冷蔵庫もまだないけど」
「あぁ...」
現実に引き戻された。家はある。お金もある。しかし、生活用品が何もなかった。
近所のホームセンターまで徒歩10分。カートを押す晴と、その後ろをふらふらついていく晶。新婚の買い出しみたいだなと、晴は頬を赤らめた。
カゴにフライパンを入れながら晴が言う。
「包丁っている?」
「うん」
そう言った晶の脳裏に、何度か死にたくてそれを取り出した経験が蘇る。
晴は三徳包丁を手に取って刃を見ている。
「よく切れそう」
「そうだね」
(それ使って傷つけてほしい、晴のことも傷つけたい)
.....は、今何考えてた?一瞬、晶の中で何かがぶれた。思考と記憶の境目。包丁の銀色が視界にちらつく。
....幸せに、流されたいはずだと自分に言い聞かせた。
晴が振り返る。
「晶さん?」
「ん?」
何事も無かったように返事する。晶は、取り繕うのが上手すぎた。
晴は、じっと見た。何かを読み取ろうとするように。
けれど、読めなかった。
「大丈夫?」
「うん、いこう~」
と晶が笑う。
それから二人は皿を選び、箸を二膳揃え、バスタオル1枚と、タオルを四枚を買った。カップ麺とパンも買った。歯ブラシのコーナーで、色違いを一つずつ取る。
「ほんとに夫婦みたいだね♩」
と晶が微笑むと、晴はまた赤くなってしまった。
「今日、雨降るかな」
レジで袋詰めしながら晴が言った。
「降ってほしいな...」
晶が変わらない声で言った。まだ降ってもいない雨に、いつも死への希望を託している。
晴にはその言葉の本当の意味が分かる。雨に閉じ込められたいのではない。世界が閉じることを願っている。
いつか、願わずにいられる日が来るのだと、これからの幸せな日々を想像してしまった。
「帰ろう」晴が歩き出そうとする。
「うん、手。」晶が手を差し出した。
お互いの空いた手で、恋人繋ぎをする。
帰り道、空は曇っていた。まだ雨は落ちてこない。
繋いだ手に少し力を込めた。
「ん?」
晶が不思議そうに振り向く。晴が前を見たまま言う。
「どこにも行かない」
「うん。...ずっといっしょ」
消えそうな雰囲気のまま晶がそう応えた。
ぽつり。一滴がアスファルトに落ちる。
二人は空を見上げた。
「降ってきた」
「...うれしい」
と晶が笑う。
傘なんて持っていない、買ったものが濡れてしまう。
「走ろう」
晴は手を離さず走り出す。
晶は手の力を緩め、ゆっくり歩く。
晴は握っていた手に引かれて、足を止めた。
雨が二人を叩く。買い物袋から水滴が落ちている。
何も言わず晶を見ると、晶が口を開く。
「俺...幸せ。なのに、ずっと死にたい...どうしよう....晴くんが幸せに生きられるかもしれないのに、おれ、今もずっと一緒に死にたいままだ....」
濡れながら、晶の声を静かに聞いていた。
雨脚が強くなる。通行人が傘を差して追い抜いていく中、二人だけが立ち止まっている。
晴が一歩近づいて言う。
「一緒に死ぬのは、まだ取っておこう」
晶が首を横に振る。
「おきたい...けど、死んで欲しくないのに、殺しちゃうかもしれない...一緒にいない方がいいかもしれないのに、傍にいないのとか考えられない...これは...愛なのかな」
雨の中で晶に向き合った。
「愛だと思う」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「僕の中にもある。同じ形かはわからないけど」
「きっと、同じじゃ、ない...」
苦しそうな顔で晶が続ける。
「俺のは、ぐちゃぐちゃで、汚くて、晴くんのとは全然違う。だから......逃げて。」
晴は動かなかった。
「逃げない」
「....じゃあ一緒に、雨に打たれたい...」
「うん、ずっと」
そう言って、びしょ濡れのまま晶を抱き締めた。
「うぅううう......」
抱きしめ返せずに晶は泣いた。
雨は二人に平等に降り注いだ。区別なく、差別なく。同じ温度、同じ速度で。
──晶の中の苦しみが、この雨に溶けて流れればいいのに。
そう都合よくはいかないことを、晴も知っていた。
抱きしめ返せない腕を気にせずに、ただ抱きしめている。
「...あいして....」
雨音に消えそうな晶の声を聞き逃さなかった。
「愛してる」
「ぅう"ーーっ..愛して...もっと...いっぱい...俺の中...いっぱいにして.....」
額を合わせる。息がかかる距離
「愛してる。晶。僕の全部で」
「うう"ううううっっすき、晴っだいすきっ」
そう言って抱きしめ返す。
やっと抱き返してくれた腕の力は、痛いくらい強かった。でも離さない。離れたくない。
雨の中、二人は動けなかった。買い物袋が水たまりに浸かっている。通り過ぎる人影はもうない。
「ごめん...びしょびしょ...」
申し訳なさそうに晶が言う。
晴は、自分たちを見下ろした。
「帰ろっか」
「…うん」
と晶は名残惜しそうに頷く。雨との別れを惜しむように。
───
びしょ濡れで帰宅した。鍵を閉めた瞬間、二人同時に笑い出した。玄関に水溜まりができている。
靴下を脱ぎながら
「....一緒に、お風呂」と晶が言う。
それを聞いて、顔に血が上るのが自分でもわかった。




