冷めた心に伝わる温度
いつものガタついた玄関扉を押し開ける、鍵はかかっていなかった。家に帰る安心感なんてものは到底ない。
鍵をかけずに、少し迷った上で靴を脱いで玄関に上がる。キッチンを通り過ぎて、居間の扉を開ける。
「おかえり、ミレディア」
珍しい母の上機嫌は、隣にいる男が原因だった。畳に座って我が物顔で母の肩を抱く小太りの男は、帰り道に遭遇した男たちと変わらない。
「家に男を入れるなって何十回も言ったよね。契約書だって書かせた、録音だってした。
あと何回言えば、空っぽなその頭に入る訳?」
「もう、この娘ったら本当に生意気でごめんなさいね」
畳の上に置かれたテーブルには焼酎やワインといったアルコールが並んでいる。常の母なら選ばないラインナップだから、男の趣味だろう。
年齢は恐らく四十代程度、黒い髪は端的にいって禿げている。体重があるから力もそれなりにありそうだが、素早さはない。酔っているなら思考は単純だけれど、激昂しやすい。
「ミレディアちゃんだっけ? 本当にかわいいね」
男の刺青はワンポイント、恐らく本当にやばい男を引っ掛けた訳ではない。危ない薬を持っているなら既に出しているだろうし、刺青も全身に入っているはずだ。
ジロジロとこちらを舐めまわすように見てくる男の視線は本当に気持ちが悪いし、母の敵意の視線も同じぐらい吐き気がする。
「やだ、ミレディア! 色目を使わないの」
「母さんって本当に気色悪いね」
独りになったら泣きついてくるくせに、男がいる間だけ母はミレディアを敵だと思い込む。その思考回路はおぞましい。
二人の横を通り過ぎて居間の奥にある塗装が剥げた衣装箪笥を開く。通学鞄にしまっていたエコバッグを開いて、その中に下着や肌着に制服の予備を詰め込んでいく。これだから家では私物を増やせないのだ。
「そんなことしてないで、一緒にこっちで飲もうよ。お酒以外もあるよ」
「結構です」
男の猫撫で声を一蹴して、荷造りを手早く済ませる。
男の舌打ちが聞こえた、そろそろ手を出す準備をしておいた方がいい。
「じゃ、暫く帰らないから電気止まっても知らないよ」
ミレディアが振り向いて玄関へ向かおうとしたところで、男が立ち上がった。進行経路を塞がれたのは面倒だ。
「ミレディア!! やめなさい」
「母さんって本当に学習しないよね。貴方が連れて来た人を何回殴ればいいんだろう。
母さんを殴った方が早いのは分かってるんだけど、それで学習しないもんね。母さんより猿の方が賢いよ」
母を殴ったのは一度きりだ。彼女がミレディアに物を投げるに飽き足らず、殴ろうとした時だけだ。殴られて怯えた母は一見したところ可哀そうに見えたが、実態は小学生に手を挙げる畜生だった。
暴力で支配されなければ従えないなんて、人間ですらない。言葉を交わす意味すらなくなってしまう。そして、そういうレベルの人間がこの地域には多い。
「母親に向かって何て口の利き方してんだ。生意気な女は俺が躾けてやる!」
「豚に躾けられる覚えないんですけど。ブヒブヒ鳴かれても耳障りなだけですし」
ミレディアの前に立って通路を塞いだ男が振り下ろそうとしているのは酒瓶だった。畳は簡単に交換できないので汚すのをやめてほしい。
動きが遅い、酒瓶を避けて男を殴るのは問題ないはずだった。玄関からの足音がこちらに近づいていなければ、の話だけれど。
「死亡フラグが立ったってこの人たちが気づく訳がないしな」
仕方なくミレディアは畳を蹴って、低いテーブルを飛び超えて斜め前へ着地する。酒瓶はミレディアがいたはずの場所で割れた。
「ミリア!」
シエロが帰るようにかけた誘導は、失敗したようだ。陳腐な部屋に飛び込んできた白金の髪と瞳は、相も変わらず一等品の宝石に勝るとも劣らない輝きを放つ。
ちょっとしたアクロバティックでワンピースの裾が嫌な音を立てる。破れていないことを切に願いながら、シエロが入ってきたばかりの居間の扉に走って、その手を掴む。
「こいつらは俺が殺す」
「やめなさい、曲がりなりにも片方は母親ですから本当にやめて」
シエロは一体どこから話を聞いていたのだろう。ここは壁もドアも薄いボロアパートなので、廊下で耳を澄ませば大声ぐらいは聞こえる。ドアに耳をつければ、小声でも耳がよければ聞こえるだろう。
「豚はさっさと養豚場に帰ってください。ここは人間の私が家賃を半分払っているので、ハゲちらかした豚に汚されては堪りません」
「このクソアマが!」
「ミレディア、その人アンタの彼氏!?」
完璧に殺意に溺れているシエロの手を力強く握って、強引に玄関に走る。ミレディアはうら若き女子高生なので、酔った豚に追いつかれるほど遅くはない。
シエロは靴を履いたまま玄関に上がったらしい、今回ばかりは状況判断を褒めるべきだろう。
速やかに靴を履いて、廊下へ出る。
やっと逃げることを了承したのだろう、シエロの抵抗がなくなった。それと同時に身体がいきなり浮いた。
膝から抱きかかえられたようで、とっさにシエロの肩に手を回す。いわゆるお姫様だっこの態勢で、手から荷物が滑り落ちていく。
「ひゃっ、荷物! 鞄!」
「大丈夫、全部持ってる。この方が早い」
シエロは手品師か何かだったのだろうか、本当にミレディアの背中と膝を支えながら全ての荷物を持っていた。
「危ないからじっとしてて」
そう言うなりシエロは廊下の手すりを飛び越えて、2階から1階へ飛んだ。着地の衝撃についシエロの肩へ回した腕に力が入る。
「足!? 足痛めてません!?」
「このぐらいなら大丈夫」
コイツ、本当は屋上から飛び降りても無事だったのではないだろうか。2階から荷物と人を抱えて無事って、本当に同じ人間とは思えない。
あっちへと指さした方へシエロが走る。本当に速い、なんで人を抱えているのにこれだけの速さが出るのか全然分からない。
これが乙女ゲームで体力系の攻略対象として出ただけの実力……ついそんなことを考えてしまう。
後ろから人が追いかけてくる気配はない。意味不明な状況だけれど、ミレディアはつい息を吐いた。
冷たくなっていたものが、やっと温度を取り戻した。分かっている、これは安心だった。




