涙が冷やす心
シエロに抱えられたまま家から移動した後、適当なところで降ろしてもらう。久しぶりに踏みしめた地面の感触は硬い。万が一にも追って来られないようにジグザグな経路を選んだから、撒けてはいるだろう。
帰れと言ったのに盗み聞きをして、家へと乱入してきたことを責めるのは道理に合っていない。今着ているワンピースが体裁を保っているのはシエロのお陰だ。
だからといって、お礼を言うにも微妙なところだ。ミレディアは一言も助けてほしいなんて言ってないし、シエロ自身を止めるという面倒まで増えた。
「気にかけてくれたのはありがとうございます。でも、私は殺すなと言ったはずです」
あんな奴ら死んでしまえばいい、そう思うのはいい。けれど、実際に行動するのはこちらの罪になるので駄目だ。法治国家で暮らす限り、ルールを把握して利用しないと損をするだけだ。
スマホを取り出して録音を停止する。これは母への嫌がらせぐらいにしか使えないだろう。
母は今頃、嫉妬に狂っていることだろう。母はミレディアの若さと美しさを羨んで妬む、かつての自分が持っていたものだから。シエロを彼氏かと言ったのは、思考がそういう風に成り立っているからだ。
母が連れてくる男の社会的地位は年月とともに下降している。あの人は付き合う男の価値を自分自身の価値だと勘違いしている。
若さや美しさなんて月日と共に衰えるものだ。反対に、知識だけは積み上げた分だけ積みあがる。
ミレディアは理性と知性だけを信頼している、感情とその場しのぎの言葉で生きる今世の母とは相容れない。
まあ、母があんな性格になったのは環境のせいもあるかもしれないが。どんな事情があっても、ミレディアが今世の母を好きになることはない。あの人の在り方はミレディアの目には醜く映る。何度今からでもやり直せ、自分で立てと言っても。あの母にミレディアの言葉を聞き入れる耳はない。
「ミリア」
未だにシエロへ言葉を連ねるのは、まだこの人には言葉を聞くだけの耳があると思っているからだろうか。シエロは真剣な顔をしている。
「どうしました?」
「あんな、あんなところにいちゃダメだ!」
シエロはまるで自分が傷ついたみたいな顔をして、必死に言葉を続ける。
「なんで君が、ミリアは悪くないのにあんな酷いことを言われて。俺だってあそこまでは言われたことないのに」
どこかが痛むような顔で、今にも泣きそうな顔でシエロは気持ちを形にしていく。反比例にするようにミレディアの指先が冷えていく。
「ごめん、俺がレクスたちに言われて君を探さなかったから。ずっとミリアは独りで苦しんでたのに、危ない目に遭ってたのに。それなのに!」
何てくだらないことだろう。ミレディアはいつだって最善を選んできた。自分の選択を後悔なんかしていない。
「同情されるのは不愉快です」
周りから見たら、多分それが正解だ。今世のミレディアは同情されるべき環境と生活をしている。けれど、苦しいなんて貴方に一言も言ってない。
「違う、そうじゃなくて」
白金の瞳から涙が溢れ出してくる。貴方が嫌いだ、貴方たちが嫌いだ。感情を表にして許されると思っている貴方たちが、少し注意した程度で泣き始めるあの子が嫌いだ。前世のシエロが『アンジュ・セラフ』に恋をしたのは必然だった。だって、彼らは同じ生き物なのだから。
シエロの両手がミレディアの肩を掴む、振り払う気力も起きない。だって、泣いているのは向こうであって、こちらじゃないのだから。
「ごめん、ミリア。ごめん、俺が嫌いでいいから。だから、俺と来て。もう君に怖い思いはさせないから」
「……理解が、できない」
気持ちが分からない、分かることもできない。苦い思いが遠い記憶を呼び起こす。
—――――――――――――――
『実莉愛ちゃん! なんで――ちゃんを泣かせてるの!?』
『ちがっ、私は本当のことを』
『実莉愛がまた泣かせてる!!!』
『悪いことしたんだから、謝れ!!』
『『あーやまれ! あーやまれ!』』
幾人もの子ども声が混ざり合って、頭の中に響く。
—――――――――――――――
またピンポイントで嫌な記憶を呼び起こしたものだ。一度目の人生で子どもだった頃は、よく他人を泣かせたと責められていた。まともに他人と関わったことがなかったのだから、仕方がないことだった。
ある意味、前世で『アンジュ・セラフ』を虐めたとシエロの糾弾されたのも同じような意味合いだった。泣かせたこちらが悪い、以前のシエロはそんな浅い理屈を振り回した。
分かっている。今のシエロはミレディアを心配しているだけだ。理屈としては分かっても、感情としては寄り添えない。心配で瞳を涙で霞ませる前に、ミレディアはやるべきことをやる。
泣いている暇があったら、もっと他にすべきことをする。泣いても、誰も状況を変えてはくれないと身を持って知っている。泣くのがストレスの発散に必要だとは知っているが、人前で泣く必要はない。
いつだって必要なことを、必要な分だけ。
「大丈夫ですよ、別に」
初めから母に期待なんかしてない。だから、傷つくこともない。ミレディアの肩を掴むシエロの手に触れる。
「貴方に泣かれる方が嫌です」
何もこちらは悪いことをしていないのに、責められているみたいだから。
幼いシエロを見て、この子はまだ傷つけるし、泣けるんだと思った。貴方は私と同じ道に来なくていいと思ったし、真っ直ぐに生きられる貴方が眩しかった。
だから、欲しくなった。自分にないものを持っているから、惹かれて焦がれた。その結果が、焦げ付いた不良債権だ。
深く入れ込むから傷つくのだと知っていたはずなのに。
前世のミレディアは失敗した。他人に気持ちを傾けすぎたから、自分自身を追いつめる羽目になった。評価は最悪だったから、改善をした。
もう、それは欲しくない。
触れたシエロの手はミレディアのそれより大きい。こういう時にどういう言葉をかけるべきか、ミレディアは知らない。乙女ゲームでは心配されたヒロインも同じように泣いているから、参考になんかならない。
いつから自分が違う生き物になったのか、本当は知っている。一度目の人生から、そうだったのだから。泣いたら頬を叩かれた、食事を抜かれた。だから、人前で泣かないようになった。それだけのことだった。
ちなみに一度目の人生はあくまでも教育虐待の範疇であり、反抗しない限り食事や睡眠は確保されていたので今世より少しマシだったりする。
そう考えると前世って自滅しただけですごく恵まれていたのでは。いや、悪役令嬢ルートの時点で死亡フラグは立っていたので、駄目かもしれない。生存年数でカウントすると一度目の人生に負けている。
自分にないものは羨ましい、それは当然の感情だ。だから、綺麗な涙を流す美しい生き物が羨ましくて、恨めしい。
「いいから、さっさと手を離してください。私はおじさんの家、親戚の家に泊まらせてもらうので」
おじさんの家はワンルームで狭い上に、風呂がない。女子高生の姪っ子が長く滞在するのには向いていないが、仕方がない。
「駄目だ、危ない」
「はあ? ああ、おじさんは母と違っていい人ですよ。同じ血が流れていると思えないぐらいに」
ようやっとシエロの涙は止まったようだ。それでも、ミレディアの肩を掴んだシエロの両手はそのままだった。触れた手から伝わる体温が不愉快だった。
「ミリア、俺を信じられないのは分かる。でも、あんな連中が歩いているのに独りで歩くのは危ないし」
「シエロ、そろそろ煩いですよ。大体、他に選択肢が……あったな」
シエロの言うことは一部あっている。おじさんの家に行くまでの道は、結構危ない。ミレディアですらこの時間帯には歩きたくないと思うほどに。
頭の中でピコンといい案を思いつく。そういえば、こういう時は友だちの家に家出するものではないだろうか。多分、一般的にはそのはずだ。
両肩を掴まれたままにスマホを開く。母の連絡先を全てブロックしてから、グリモワ先輩にメッセージで泣き顔スタンプを連打する。家を追い出されたから可能なら泊めてほしい、泊めてくれないなら親戚の家に行く。そう伝えれば、先輩は青ざめた顔のスタンプと共に了承してくれた。スタンプの意図は不明だ。
「お友達が泊めてくれることになったので、心配はいりませんよ」
どうせシエロは勝手についてくる……先輩の家がシエロにバレたらまずい。どうにかしてコイツを撒かないといけないが、あのアクロバティックを見せつけられたら身体能力で勝てる気がしない。
「……その人は、本当に信頼できるのか?」
「当たり前じゃないですか。最初から最期まで、ずっと助けてくれましたから」
シエロはミレディアが言葉にしなかったことを珍しく読み取ったらしい、白金の瞳が曇る。シエロとは違って、グリモワ先輩は前世の終わりまでずっと気遣ってくれていた。ミレディアはそれを知っていて無下にしたのだから、非はミレディアの方にある。騙して利用したのはミレディアだ。
事実や実績は信頼に値する。感情は信頼できない、一時のものだから。
「分かった。でも、近くの駅までは送らせてほしい」
切ない、そう訴えかけてくるシエロの視線が望ましくない。好きだとか、守りたいとか、自分勝手にいつも感情をぶつけてくる貴方が嫌いだ。
「駅までなら、正直助かる部分もありますが……人の家を勝手に調べて、勝手に待ち伏せするつもりはないですよね」
けれど、結局はミレディアだってシエロを利用している。それで迷惑をかけられているのはお相子だと勝手な理屈をつけている。
「しないけど、したい。したいけど、しない」
ものすごくためらっている。ミレディアの両肩を掴んでいた手から力が抜けて、そのまま下へと滑り落ちていく。
「君を怖がらせたくないから」
「えっ、怖がっているように見えました?」
思わず本音が漏れる。そう見える振る舞いはしていないはずだった。
「俺の方が力が強いから、配慮ができてなかった」
シエロはいつも意図を正しく読み取ってくれないから、詳細に伝えない限り求めている答えは得られない。けれど、今のシエロは彼なりに気遣っているのだ。長い付き合いだから、それぐらいは分かっている。
「お前の場合、私ではなく周囲にその気遣いを向けた方がいいですよ」
いつの間にか地面に落ちてしまった荷物を拾い上げて、歩きはじめる。
友だちとお泊り会というと聞こえがいいが、実態は友だちの家に転がり込むという表現が正しい。
「言ったでしょう、都合よく使うと。私は貴方を利用する、それだけです」
台詞だけなら、正当な悪役令嬢に見えるだろうか。他人の好意を利用して、振り回して、使い果たす。
『前世で他人への不信を経験として獲得している』 今更ながらにグリモワ先輩がミレディアへ言ったことを思い出す。前世は経験として沁みつき、思考を偏らせる。人格形成の根っこの部分、感情を解体して理屈で解釈しようとする悪癖。
はじまりから歪んでいるなら、もうどうにもできない。同じ生き物になれることはない。
無条件に他人を信頼することを覚えるべき、か。先輩の言ったことを理解はできる。けれど、それはとても難しいことで。なにより、そうしたいと思えない。
心臓が脈打つ音が嫌に耳につく。それが出来ないなら、自分は死ぬしかないのだろうかなんて。
根拠のない予感には気づいていない振りをした。
お読みいただきありがとうございます。
これでデート編は終了てす。
明日更新の次話は登場人物一覧、
明後日からはレクス編です!
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