境界の内側
貴方が、貴方たちが好きだった。前世の両親が、使用人たちが、領地の人たちが、自分を助けてくれた人たちが、先輩が、昔のシエロが。貰った分だけ返したかったから、前世の自分が死んだのは必要なことだった。
助けたいと願ったはずなのに、シエロも先輩も前世で早くに亡くなってしまった。それを自分の責任だと言いはしないけれど、今世の先輩が痩せていることだけは自分の責任だった。
散髪用の使い捨てのケープを巻かれた先輩はそれなりに滑稽だった。家から持ってきた安物の散髪用ハサミで、まずは傷んでいる後ろの髪を短くしていく。
「髪がボサボサになるのはたんぱく質が足りないせいですよ、肉や魚をもっと食べてください。
それに、髪を伸ばすならある程度のケアは必要ですよ」
これが先輩相手じゃなければ口うるさいと言われそうだ。この人は文句は言うけれど、そういうことは言わない。
「なら、適当に短くして。勝手に伸びてただけだし」
「そんなこと言われるとうっかり坊主にしちゃいますよ」
「絶対にやめて」
即答であった。まあ、バリカンを持っていないので安心してほしい。それならと長い髪をばっさりと切ってしまう。
「肩甲骨ぐらいで揃えていいですか? このぐらいの長さなら跳ねないと思います」
「そうなんだ。適当に君好みにしといて」
君好みという言葉にハサミが止まる。
つい前世で初めて会った頃の少年が思い浮かぶ。あれは本当に悪役令嬢が一目惚れしてもおかしくないビジュアルだった。ミレディアに前世の記憶と強い理性がなければ、少年のシエロを猫可愛がりしてしまったことだろう。
まさしく天使のような姿をしていたからこそ、あの頃のシエロは他家に連れ回されていたのだ。その容姿で家に有利な婚約を結ぶための道具として。
「やっぱり鎖骨ぐらいに揃えます……先輩も顔がいいんだから、気をつけてくださいね」
自分の容姿には自覚的であるべきだ。可愛いから、美人だから。そう言って持ち上げられた結果が今世の母の悲惨な現在である訳で。
「どういう意味?」
「そのままの意味です、顔狙いの変質者とかに気をつけてください」
乙女ゲームにおいてビジュアル被りはご法度なので、今のシエロより短い位置に髪を切り揃えていく。
鎖骨ぐらいとなると、ミレディアと似たような長さだが、悪役令嬢と髪の長さが揃っても問題はない!
後ろを切り終わったら、最後は前髪である。そう、前髪は一番切るのが難しいのだ。うっかり切り間違えたら一週間は後悔する。前髪は命のように重いのである。
「目を閉じて、顔を動かさないでくださいね」
慎重に目元を覆い隠す長い前髪を切っていく。短くしすぎたら先輩は泣いてしまうだろうから、目にかからない程度の長さを目指さないと。バランスを考えながら切っていると嫌でもその顔が視界に入る。
イケメンに耐性があってよかった。もし、耐性がなければ後ろに飛び退いていたことだろう。
瞳を閉じた先輩はただのミステリアスな雰囲気のイケメンと化していた。長いまつ毛に、理想形を描いた鼻筋。よく見るとまつ毛だって長いし、切れ長の瞳は二重だ。世の中の女性はみんなこの顔が欲しいと思うだろう。
長い前髪で目元を隠していたのは、人目を避けるという意味では正解だ。こんな顔を曝したら、嫌でも目立ってしまうだろう。
「ちょっと右向いてください」
「これぐらい?」
「向きすぎです!」
前髪の左右差を整えるのは大変なのである。顎に触れて向きを修正させてもらう、触れたらすぐに骨の感触がしたのでやっぱり肉付きが悪い。少し離れて見て、左右のバランスも整えて。
これで完璧ではと思う形になってから鏡を二枚持ってくる。
「どうですか? 前も後ろも結構短くしました」
「髪はいいけど……視界が広くて眩しい」
「これで可愛い」
いつものように言葉を続けようとしたところで、先輩の顔が視界に入る。目にかからない程度の前髪に調節したお陰で、その整った顔立ちが露わになっている。
影のある表情は美しさを際立たせてしまう。真正面から見るとつい顔を逸らしたくなる、自然と比較してしまう。
「どうかした?」
「顔面偏差値で負けている相手に、自分が可愛いと言えるほど厚顔無恥ではない……ので」
自分で言っていて悲しくなる。シエロといい、グリモワ先輩といい、乙女ゲームの攻略対象というのは本当に理解しがたいほどの美形だ。二次元をそのまま三次元に引っ張ってきたのだから、あり得ないほどの美しさになってしまう。
「あー、そこで比較するんだ。自分の顔の美醜って興味なかったけど」
「それは先輩が鏡をあまり見ないからですよ。私は顔立ちがキツい、吊り目で怒っているように見えやすいし。どこにでもいる美人であって、先輩たちみたいな数百万人に一人の美形ではないんですよ」
悲しきかな、生まれ持った顔というのは整形でもしない限り変えられない訳である。そして、変えたところで彼らのような最初から完成された顔に勝てる訳もない。
「別に、今まで通りでいいというか」
髪を切ったお陰で以前よりも表情が読みやすくなった。気まずげに顔を逸らして言葉を濁した先輩を見つめて、続きを促す。
「君は可愛いし、綺麗でいいよ。僕にとってはそうな訳だし」
つい本当に?と聞きそうになってしまう。いや、ここで嘘をつくメリットはないのだけれど。
「なら、私はこれからも可愛い後輩として自覚しておきます!」
誰だって好意をもっている相手の容姿は現実以上に良く見えるものである。つまり、先輩はそのぐらい友だちとしてミレディアを好いてくれているという訳だ。
ぴょんぴょんと飛び跳ねたくなる程度には嬉しいのを笑顔だけで表現する。マンションで飛び跳ねるのはご法度だ。
「ああ、うん。そうして。こっちは現在進行形で前髪を切らなきゃよかったって思ってるけど」
先輩の顔についた髪を払って、下に落ちている髪たちを箒で掃いてゴミ袋に捨てていく。
「どうしてですか? 髪を切ったお陰で、モテモテになっちゃうのに」
せっかく髪を切って目が合いやすくなったのに、以前よりも先輩と目が合わない。むしろ、目が合わないように顔を逸らしてくる。
「人と目を合わせるのが苦手だから、こっちは髪を伸ばしていたんだけど」
「じゃあ、私と目を合わせるのも嫌ですか?」
日本人は元々あまり目を合わせない。前世や今世では目を合わせて話すのが当然のことだけれど、グリモワ先輩はそうじゃない。彼に出会って最初の方は、ミレディアも目線を合わせないように注意していた。研究に没頭するうちに、そんな注意は忘れていたのだけれど。
「君は迂闊なセリフを言いすぎ。そんな態度で接してたら人を勘違いさせるから僕以外には気をつけなよ。
そのうち慣れるから、目線に注意しなくていいよ」
「なら、早く慣れてくれるようにいっぱい見るようにします」
「一周回って嫌がらせなんだけど」
ミレディアの瞳は赤い、血のように赤いから顔立ちも相まって他人を威圧しがちだ。
ミレディアは真っ直ぐにグリモワ先輩の顔を見る。
「私みたいな可愛い後輩に見つめられるのはとっても嬉しいことでしょう」
「あー、そうだね。掃除機かけるから、そこどいて」
扱いが雑すぎると文句を言いながら、ミレディアは散らばった髪を捨てた。
グリモワ先輩は初めて会った頃から当時は公爵令嬢であったミレディアへ躊躇なく悪態をついた。
だから、前世でこの人といるのは気が楽だった。
仮初の偉さ、貴族なんてものは血統によるもので、自分自身の能力ではない。権力は振りかざすものだが、かざした後に犠牲になった人を踏みつけるだけの覚悟が必要だ。
恨まれる覚悟をもって生きて、頭を下げられても当然のことだと振舞う。
偉そうな振りを身につけて、自分の表面だけを取り繕って、本質と中身は剥離していく。
前世ではグリモワ先輩に自分の中身を見透かされる度にぎくりとして、同じだけ。
それを言いふらさないでくれるこの人に安心していた。
それは今だって変わらない。同情や恐怖に畏敬、そういったものを向けてこない先輩に安心していた。




