グリモワ・メルクリーオの罪 ⑥
秋になって積み上げられた資料が少し減ってきても、資料の翻訳と要約は続いた。資料の信憑性を考証したいところでもあったけれど、古い記録はすり合わせられるだけのものがない。
「ほぼ確定でいいと思うんですけどね」
「『災厄の王』は器になる人間に憑りついて、絶望へと誘う。器になった人間はその影響で悪行を重ねる? その結果、周囲との関係が断絶していく?
最終的に器が『災厄の王』に乗っ取られたら顕現するはいいとして、途中は未確定だろ」
「まあ、そうですけど。『救世の乙女』と『災厄の王』が同時期に現れるは確定しているので、『災厄の王』の器が乗っ取られたら『救世の乙女』が機能しない限り、世界は滅びる」
そう言いながら、彼女の手は止まってない。未だに資料を読み続けている。
グリモワは世界なんて滅びてもいいので怖いとは思わないけれど、ミレディアはそうじゃない。
『災厄の王』が本気で出現すると考えているのはグリモワとミレディアだけだった。人脈があると自称しながらミレディアはグリモワ以外を研究に誘わない、誰に手伝わせたところで大して役に立たないと思っているのだろう。
そして、それは正解だ。大抵の人間は自分たちのように賢くはないし、『災厄の王』を伝承だけの存在だと思っている。
「その手袋は舞踏会に備えでもしてるの?」
繊細な模様が施された白い手袋を両手に嵌めているミレディアに聞けば、自分を恥じるような声を出した。
「指が荒れちゃって。公爵家の人間としてあるまじき指になってしまったので」
「へぇ、僕は気にしないけど。舞踏会なんてサボれば?」
「グリモワ先輩じゃあるまいし、私が欠席なんてしたら駄目に決まってるじゃないですか」
そう言いながらも、舞踏会の言葉を出した途端にミレディアの声は深く沈んだ。婚約者と上手くいっていないことは知っている。基本的にああいうのは婚約者にエスコートされるものだから、気が重いのは分かる。
それでも、ミレディアには舞踏会サボるなんて選択肢がない。部室の外で、彼女はグリモワに声をかけてこない。それをありがたい気遣いだと思っていた、そういう人間だから認めていた。だって、ミレディアのような有名人に声をかけられたら周囲の視線はグリモワにだって集まってくる。
けれど、今は。独りで真っ直ぐに歩く姿を見ると、少しだけ胸が痛くなる。いつだったか、人気のない場所で女生徒に縋られていた彼女は、その両肩を抱いて慰めていた。私が守るから大丈夫だとか、貴方は幸せになれるとか、そういう言葉を紡いで。
グリモワはそれを見なかったことにして、その言葉を聞かなかったことにした。
他人を守る、他人を救う。そう言う彼女はきっと誰にも守られず、誰にも救われないのだろう。それを何となく分かっていた。
生徒会が主になって開く舞踏会にはほぼ全ての生徒が参加する。そう、ほぼであって強制的に参加させられる訳ではない。だから、グリモワは一度も参加したことがなかった。
婚約者がいない生徒は、そこで踊った相手と婚約することが多いらしい。踊ることの何が楽しいのかさっぱり分からないが、縁談をまとめるという明確な利益はあるのだろう。社交を最初から捨てているグリモワには関係のないことだった。
夏休みの間に手に入れた魔法道具、それの使い方に仮説が立った。舞踏会の晩は満月で空が晴れていたから、条件としては最適だった。グリモワは仮説を試すために大型の魔法道具を部室から廊下へと持ち運んでいた。
そこで、いないはずの人を見かけた。
「ミレディア嬢?」
赤と黒を基調とした豪奢なドレスを身にまとっているし、長い髪は多分頑張ってごちゃごちゃしたのだろう、髪飾りもつけられてくるくると派手になっていた。高いヒールの靴を履いているせいで、グリモワより背が高く見える。その両手には最近いつも着けている白い手袋があった。
「げっ」
「人の顔を見て、失礼すぎない?」
「舞踏会をサボるのなんて先輩ぐらいですよ、全く」
いつもと同じはっきりと通る強い声に反して、その目元には涙の痕があった。流し終えた涙が、化粧で隠した血色の悪い隈の出来た顔を露わにしていた。
「こっち見ないでください」
気まずそうに口元を歪めた彼女に一瞬だけどう返すか迷って。それから、いつものように声を出す。
「今から魔法道具を試すけど、くる? 裏の森に行くから着替えた方がいいとは思うけど」
赤い瞳が驚いたように丸くなって、それからいつもの自信に満ちた笑顔を形作った。
「このまま行きます、えいっ!」
軽い掛け声とともに、ミレディアは履いていた靴のヒールを床で叩き折った。それから、どこに隠し持っていたのかナイフで長いドレスの裾を切り取る。
「乱暴すぎるでしょ」
「護身のために持ち歩いてるんですよ。ドレスを仕立ててくれた方々には申し訳ないですが、流石にもう着られないですしね」
せっかく綺麗にしてもらったのにな、そう残念そうに言いながらも彼女は廊下のゴミ袋へヒール部分やドレスの切れ端を捨てる。ナイフを持ち歩く公爵令嬢なんて、絶対に普通ではないと思う。
「護身って、誰と戦ってるわけ?」
「護衛をつけているとはいえ、私は危ない場所に行くことも多いですからね。それに、最近だと暗殺も警戒してみたり」
そう言いながら、ミレディアは一緒に持ちましょうかと近寄ってくる。聡いグリモワは、その姿で何があったか分かってしまった。
「婚約、なくなったんだ」
「全く、見る目のない男たちですよ」
彼女は肩をすくめてみせた。そこまで重くない、そう言ってグリモワは歩き出す。折られたヒールの靴に裾を切り取ったドレスで、ミレディアが隣を歩く。
「危ない場所なんか、行くのやめれば。腐っても君は公爵令嬢でしょ」
「鮮度が高い私になんてことを。現地に行かないと根本的な原因を誤認する上に、そこで生きる人たちの気持ちも理解できませんから」
それは君が知る必要のないものだった。公爵令嬢という立場にある癖に、仕立てられたドレスが使えなくなったことを残念に思う。身の危険を感じてまで、一番貧しい人たちの気持ちを知ろうとする。
「だから、護身道具だって増やそうと思って」
「増やす前に危険なことをするのをやめた方が早いけどね」
それは言わない約束ですよねとか、そんな約束した覚えがないとか。そんな風に詮無い話を続けながら歩く。
そして、辿り着いたのは校舎の裏にある森、その中でも小さな泉がある場所だった。
一番月が近い場所、その光を強く浴びる場所へ魔法道具を置く。
「月の光、魔法道具の動力源ですか」
「正解。満月で開けた場所だから、動くかと思って。神秘に満ちた時代、月は魔法と親和性が高かった」
「けれど、神秘は薄れ、魔法を行使する術はなくなった。今の私たちに残されたのは僅かな魔法道具のみ、ですね」
今の自分たちに出来ないことを魔法道具は実現する。
錬金術は今の時代を生きる人々が生活に役立てるために研究する学問であるのに対して、魔法道具は失われた技術を体感しているに過ぎない。
「君は、再現性のない魔法道具より、錬金術の方に興味がありそうだけど」
「どちらも専門外だから興味深いですけどね。グリモワ先輩の錬金術の実績ぐらいは知ってますけど」
つらつらと並べられた実績に知ってたんだと返す。ミレディアは用意周到なので、出会う前から事前に調べていたのかもしれない。
他愛ない話をしていたところで、持ち込んだ魔法道具が青く輝き始めた。
二人揃って口を開くのを止め、じっと光る魔法道具を見つめる。この魔法道具は何かを記録するために使われた、今はそういう情報しかない。
『この記録が後世に役立つことを願って残す』
低い男の声は耳を澄ませば何とか聞き取れる程度の声だった。それは魔法道具から聞こえていたから、紙とペンを取り出して記録する。
『最悪は、『災厄の王』は少女の形をしていた。ああ、違う、『災厄の王』が少女の内に入ったのだろうか』
魔法道具の反対側にいるミレディアが息を呑む声が聞こえた。よりにもよって『災厄の王』について記録した魔法道具だったなんて、運がいいと言っていいのだろうか。
『意地が悪いと有名だった少女は、その身を黒く染めていった。指先から始まったそれは、遂には心臓へと至り、その身体は災厄へと変質した。
災厄の声が響き、恐怖が満ちる。それに『救世の乙女』が立ち向かった。『救世の乙女』がその最愛と繋がる。乙女から放たれた光は、災厄を打ち払った』
それを最後に声が止まり、青い光は収まっていく。周辺を照らすのは月明りだけに戻る。
一言一句を書き記した紙を精査のためにミレディアへ見せようとしたところで、やっと彼女の異変に気付いた。
「だっ、大丈夫?」
気丈な赤い瞳は震えていた。瞳だけじゃない、誰が見ても分かるぐらいに白い手袋を嵌めた両手が震えていた。
「あ、ああ。もしかして、『災厄の王』を『救世の乙女』以外で止める方法って」
ミレディアの言葉で、グリモワの思考がその方法へと至る。
「『災厄の王』に成り果てる前に、器になった人間の心臓を刺せば……って!」
同じ思考に辿り着いて言葉にした、それだけなのに彼女の震えは酷くなった。咄嗟にグリモワはその震えた両手を握った。
「君が、君が誰かを刺すことになんてならない! 『救世の乙女』は君じゃないし、君に世界を救う義務なんかない!」
「えっ?」
いつもは触れられない距離にいた彼女の手を握る。手袋越しに触れた柔らかなそれの震えが止まっていく。
「世界が、滅ぶかどうかは確定してないけど。アンジュを囲っているのは生徒会だから、必要ならあの人たちが何とかするだろうし。それに、滅ぶなら全員同じで、君だけじゃなくてその……僕も一緒だし」
必死に紡いだ言葉は要領を得てない、自分らしくもない。けれど、言いたいことは伝わったらしい。
恐怖で震えていた赤い瞳が真っすぐにグリモワを見つめる。
「ふ、ふふっ。何ですかそれ。まあ、私がえいって刺すより、もっと力がある人の方が適正は高いでしょうけど」
そう言いながらも、ミレディアはグリモワの手を握り返した。
「でも、ありがとうございます。いつだって出来ることをやるだけだって、勇気が出ました」
赤い瞳が星に負けないほどの輝きを灯す。そして、離れていった両手はグリモワが書き込んでいた紙へと伸びていく。
「別にそんなこと言ってないんだけど。大体、世界なんて滅びればいいし」
「それは酷くありません? 最初の最悪って、災厄の言葉遊びですかね」
「婚約破棄されたくせに、世界の滅びも願わないわけ? あの意味深な語りは、最悪と災厄を同意義で使ってたんだろうけど」
「なら、これまでに出た最悪が、災厄を示していた可能性もあるんですけど」
「うわっ、それは嫌すぎる」
そうやって言葉にしながらも、ミレディアを見る。月明りの下で、化粧も服もボロボロで、それなのに美しさを失わない。深い知性に強い意思、他者を導いてしまう異様な善意。
「僕にしとけばよかったのに」
「えっ、それは婚約の方ですか? 先輩が長男である以上、無理ですよ」
ミレディアは自分を察しがいいとか、賢いとか言うくせに、自分に向けられる気持ちにだけは全然気づかない。
「まあ、誇り高いスーペルノヴァ家の長子として相応しい行動をとるこの私が、思わず婚約を申し込みたくなるほどの人間だということは否定しませんが!」
「あーはいはい、とりあえず今日は寮に戻って着替えなよ」
グリモワにとって、彼女の家格なんてどうだっていいし、誇り高い家なんて全然知らない。
知らないから、ミレディアはグリモワへ“それらしくない”振る舞いをしている。
そうでもないと、ミレディアはきっと泣いた痕なんて見られそうになった時点が走って逃げているだろう。
「うっ、この格好は拙いですしね」
そう言ってから、ミレディアは真っ直ぐにグリモワを見た。その顔は少し笑っていた。
「今日は、ありがとうございました。一人じゃなかったお陰で、その……色々と気が晴れました」
「別に、僕は嘘なんか言ってないし。正面から言われると気まずいからやめて」
目線を逸らしてグリモワが言うと、ミレディアはボロボロのスカートの両端を持って丁寧な礼をした。グリモワは去っていくその背中を見送った。
気づく機会なんて幾らでもあったのに、気づけなかった。
だから、君は死んだ。




