4月下旬の兆し
深く暗い場所、痛みと苦しみだけが溢れる場所。その中で、痛みや苦しみよりもずっと深い何かが湧き上がってくる。憎い、憎い、全部が憎い! ああ、だから、全てを滅ぼさないといけない。
違う、これは自分の記憶じゃない! ミレディアは飛び起きる。時計を見れば、針は真夜中の3時を指していた。
「災厄の王?」
薄い布団の上で、自分の指を見る。暗くて見え辛いが、指先は黒く染まっていない。前世で聞きなれたあの声も聞こえてこない。夢で感じたあの絶望、深い憎しみは『災厄の王』に乗っ取られた時に感じていたものに似ていた。
「私の身体の中に、まだいるのかな」
自分で言っておきながら、恐怖で指先が震える。意識的に深呼吸をして、震えた指先を手で抑える。
母は珍しく帰ってきているようで、アルコールの匂いをさせながら大きないびきをかいて寝ている。これなら電気をつけても起きないだろう。
もう一度眠る気にならなかったミレディアは、静かに立ち上がって電気をつけた。部屋には母が散らかしたであろうアルコールの缶が転がっている。ミレディアは母へ軽蔑の視線を送りながら、アルコールの缶をゴミ袋にまとめていった。
睡眠改善薬が必要だったのは、シエロではなくミレディアだったのかもしれない。
結局、シエロのストーカーは治ってない。朝、勝手に迎えに来るのは時間を決めさせてノックをするように言ったし、学校に着いてからは部活の朝練に送り出している。放課後はそのままシエロを部活に放り出している。まあ、部活がない時は引きはがすのに失敗するけれど。
バイト終わりにシエロが勝手に来る時は、店に貢献しろとハンバーガーセットを食べてさせて、店内で待たせている。店長はシエロ目当てで客が増えたと喜んでいた。確かに店内にはシエロが来る時間に合わせて女性客が徐々に増えている、顔がよくて羨ましい限りだ。
もう一つのバイト、週2でやっている古本屋でのバイトでもシエロはよく来ている。まあ、あっちのバイトは割と暇なので別にいい。
老夫婦が営んでいる古本屋にはそれこそ未就学児の頃からお世話になっていて、お手伝いと称してご飯やお駄賃を貰っていた。法律的には児童労働にあたるからアウトかもしれないが、今のミレディアが健全に育ったのは老夫婦のお陰である。
なお、古本屋の老夫婦は前世のスーペルノヴァ家に仕えていた使用人たちにそっくりの顔と名前をしていた……まあ、前世云々とか言われたことはないので、大丈夫だろう。
バイトだらけの生活をしていても、ミレディアは地頭がいいので勉強は何とかなっている。マリアル学園に入学してまだ2週間だが、基礎的な問題で躓くことは減ってきた。一番目の人生で気が狂うほど勉強していたお陰かもしれない。
シエロが朝練に行ってからは、いつも図書館に行って勉強している。図書館は本当にアイツさえいなければ快適なのだ、そうアイツさえいなければ!
「おはようございます、ミレディア・スーペルノヴァ」
やっぱりいたか陰険眼鏡と睨みつける。この眼鏡を含めた生徒会の全員が前世の記憶を持っていると分かった時点で、ミレディアにとっては敵でしかない。
「どうも」
シエロから前世の話を聞いてからは、入学してすぐの丁寧な態度を纏うことは諦めた。むかつく相手に頭を下げるのはストレスが貯まるのでよくない。
立っている陰険眼鏡の横を通り過ぎようとしたところで、声をかけて引き止められる。
「明後日が期限の物理のレポートを書くなら、必要な資料を渡しましょう」
「結構です、自分で探すのも課題の内です……どうして私がレポートを書こうとしていることに気づいたんですか?」
確かに課題に必要な資料は探していたが、それを悟られるような行動はしていない。陰険眼鏡はわざとらしく眼鏡の弦に触れた。
「少し考えれば分かることです。他の課題は終わらせているのですから」
思わず息を呑む、この眼鏡は何と言った? つい手に力が入って、通学鞄の持ち手を握りしめる。
「どうして、私が終わらせたことを知っているんですか。シエロにでも見張らせましたか?」
「僕には分かって当然のことです。けれど、貴方がシエロにしたことだけは理解できない。
ミレディア・スーペルノヴァ、貴方には記憶があるか分からないとシエロは言っていましたが、それなら何故シエロに薬を渡したのです。記憶があっても、なくても不自然だ……ああ、シエロは薬のことを話していませんよ」
なら、どうして知っているのか。握った手に力が籠っていく、いつでもあの眼鏡を狙って通学鞄を投げられる。
「揃いも揃って貴方たちは常識がない。他人に付きまとうことも、不必要に情報を集めることも、どちらも立派なストーキング、犯罪行為です」
「貴方に僕の違法性が主張できますか? それだけの証拠を集められましたか? それともシエロを使うつもりですか」
いい加減にしろよクソ眼鏡、その眼鏡かち割ってやる。そう怒鳴りそうになったところで、図書館で暴力沙汰は拙いと自分の腕を抑える。シエロは確かに警察のトップの息子ではあるが、どういう神経をしていたら『シエロを使う』なんて言葉が飛び出るのだろうか。本当にこの眼鏡は性根が腐っている。
「シエロから貴方たちは腐ってもお友達だと伺っていましたが、そんな発想をするなんてどうやら一方的な友情だったようですね。シエロといい、貴方たちといい、本当に気色が悪い」
「友人なら利用すべきではないと? ミレディア、貴方はそういう考え方をするんですか」
「誰が私を呼び捨てにしていいと言いました? 気分が悪い、私はこれで失礼します」
戦略的撤退である! 宇宙人と会話をするのは時間の無駄だ。
ミレディアは早足で図書館を背にすると、暫く歩いてから立ち止まる。
そして、周囲に誰もいないことを確認してから、口を開いた。
「こっえーーー!! なにあの眼鏡、怖すぎ。シエロの三十倍ぐらい怖い」
シエロの怖さと種類が全然違う。シエロは言動全てが重い、具体的に言うとミレディアが涙を拭くために渡したハンカチの代わりにと母親の形見のハンカチを渡そうとしてくる程度に重い。いや、形見を手放すなと怒って、別のハンカチを買わせて受け取ったのだけれど。
多分、シエロは亡くなった母に対して感傷を覚えていないのだろう。
というかミレディアが渡したのは税抜百円のハンカチなので、数千円のハンカチは貰いすぎではある。けれど、シエロは真剣にミレディアにはもっと良い物が必要だと悩んで選んでいたので、ミレディアはしょうがなく見守っていた。
シエロは重いが行動自体は理解できる。陰険眼鏡はミレディアと別の言語を使って生きているのだと思う。多分、陰険語とか冷酷語とか、そういうタイプの感情ある人間には理解できない言語だ。
陰険眼鏡ことマイザは、乙女ゲーム『マリアージュ♡ラブ』の攻略対象であったので、ゲームをやっていた時に特徴ぐらいは見たはずなのだけれど。
確か、『他人の感情の機微に疎く、内心ではそういう自分を恥じている。素直で明るいヒロインに関わることで感情を理解する』みたいな……つまり、前世のヒロインことアンジュがマイザルートに行かなかったせいであんな宇宙人になっているのだろうか。
どちらにせよシエロはともかくあの眼鏡はミレディアの管理範囲外だ。
本当に思考回路が気色悪くて鳥肌が立つ、何を食って生きたらあんな性格になるのか。得体が知れないし、関わりたくない。
ミレディアは改めてあの陰険眼鏡と出来るだけ距離をとることを誓った。
次話からグリモワ先輩が登場して、グリモワ先輩に本格的に突入します。




