第9話
「お店を、ですか……!?」
寝支度の途中、私の話を聞いたアンナが、手にしていたブラシを危うく取り落としそうになった。
「そんなに驚くこと?」
「驚きもしますわ……! でも」
アンナは少し考え込むように黙り、それから、ふっと表情を緩めた。
「リゼット様らしい、とも思います。思い立ったら即行動、というところが」
「もう、その言い方だと、私がいつも無鉄砲みたいじゃない」
「事実ですもの」
澄まし顔で言い切るアンナに、私は思わず苦笑した。けれど、幼馴染らしい遠慮のなさが、今はなんだか心強くもある。
「それで、何から始めるおつもりですか?」
「実はまだ、何も。お店を持とう、って思いついただけで」
正直に打ち明けると、アンナは呆れたように肩をすくめた。
「思いつきだけで突っ走るのは、いつものことですけれど……。それでも、順を追って考えましょう」
アンナは指を折りながら、一つずつ数え上げていく。
「まず、場所。次に、資金。それから、職人の手配」
「うっ……」
どれも簡単には片付かない問題ばかりだ。私は思わず呻き声を漏らした。
「場所については、心当たりがなくもないですけど」
「本当?」
「街の外れに、伯爵家が昔使っていた小さな別邸があります。今はほとんど使われていませんし、目立たない場所ですから、ちょうどいいかもしれません」
「アンナ、あなた本当に頼りになるわ……!」
思わず両手を握りしめると、アンナは満更でもなさそうに目を細めた。
「資金の方は……。幸い、この別邸が使えるなら、大きな出費にはならなそうね。生地や道具は、これまで通りヴァランタイン家の伝手で仕入れさせてもらえばいいだけだもの」
「たしかに、最初は最低限の設備さえ整えば、十分始められそうですね」
アンナの言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。大掛かりな準備を覚悟していただけに、思いのほか現実的な話に思えてくる。
「あとは、職人の手配ですけれど……。これは、正直申し上げて簡単ではないと思います」
「そうよね……。それに、腕を信頼できる方でないと、大切な依頼を任せられないもの」
一針一針に込める想いまでは、誰にでも真似できるものではない。中途半端な仕事をされては、依頼してくださる方にも申し訳が立たなかった。
「最初は、私とリゼット様の二人だけで、こっそり始めるのがよろしいかと」
「そうね。慣れてきたら、少しずつ人を増やしていけばいいわものね」
二人で額を突き合わせ、あれこれと計画を練っていくうちに、夜はどんどん更けていった。蝋燭の灯りが、二人分の影を壁に長く伸ばしている。
「なんだか、こういうの……。即売会の前日準備みたいだわ」
思わず呟くと、アンナが不思議そうに首を傾げた。
「そくばいかい、というのは?」
「あ……。ええと、なんでもないの。忘れて」
(つい口が滑ったわ……! 気をつけないと)
誤魔化すように笑いながら、私は手元の紙に視線を戻した。
計画を練るその合間、ふと手が止まる瞬間があった。
(こういう時、あの子がいてくれたら、話し相手になってくれたのに……)
窓辺に目をやっても、そこにはもう何も座っていない。カイル様に拾われてしまった、あの最初の一体。相談事があるたび、そっと膝に乗せて話しかけていた、あの静かな時間が、今は無性に恋しかった。
(会いたい、なんて言っても、仕方ないのだけれどね)
小さく息を吐き、私はまた計画表に目を落とした。今は、前に進むしかない。
「リゼット様? どうかなさいました?」
「ううん、なんでもないわ。続けましょう」
アンナに向き直り、私は努めて明るい声を出した。
◇
「団長、こちらの書類にご確認を」
差し出された書類に目を通しながら、俺は執務室の椅子に深く腰掛けていた。
「例の件は、進展なしですか」
書類を渡し終えたレイフが、当然のように尋ねてくる。
「ああ」
「街の職人にも聞き込みしたんですよね?」
「一通りは」
短く答えながら、俺は先日訪ねた織物商の店主の顔を思い出していた。手掛かりと呼べるほどのものは、結局何一つ得られなかった。
「金色の髪の令嬢、なんて、この街にどれだけいると思ってるんですか」
「分かっている」
苦々しく答えると、レイフは肩をすくめた。
「まあ、焦らず気長に行きましょうよ。団長らしくないですけど」
「……お前に言われたくない」
「ひどいなあ」
軽口を叩き合いながらも、俺の視線は自然と、机の端に置かれた人形へと向いていた。灯りを受けて、紺青の瞳がわずかに光る。
――手掛かりが増えるまで、待つしかないか。
そう自分に言い聞かせ、俺は再び書類の束に向き直った。窓の外では、夕暮れの空が静かに色を変えていった。
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