第10話
夕食の席で、私はずっと切り出すきっかけを窺っていた。
スープの湯気が立ち上る中、父はいつも通り、寡黙にカトラリーを動かしている。向かいに座る母は、時折私にちらりと視線を寄越しては、優しく微笑んでみせた。
(今日こそ、言わなくちゃ……)
膝の上で、指先がじわりと汗ばむ。何度も頭の中で練習した言葉が、喉のあたりでつかえて出てこない。
メインの皿が下げられ、食後の紅茶が運ばれてくる頃、私はようやく意を決した。
「お父様、お母様。少し、お話ししたいことがあるのですけれど」
「何だ、改まって」
父が眉を上げ、こちらに視線を向ける。私は深く息を吸い込み、応接間に場所を移す父と母のあとに続いた。
暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが、しばらくの間、室内に響いていた。父はソファに深く腰掛け、脚を組む。母はその隣に、静かに腰を下ろした。
「それで、話とは」
「はい……。私、お店を持ちたいのです」
「お店、だと?」
父の眉間に、ゆっくりと皺が刻まれていく。手にしていた紅茶のカップを、かちゃり、と静かにソーサーへ戻した。
「推しぬい――もとい、人形をお作りする専門のお店を、街の外れの別邸で始めたいと思っております」
「伯爵家の娘が、商売だと……?」
低い声が、応接間に重く響いた。私は膝の上で組んだ手に、知らず力を込める。
「令嬢の身で商いを興すなど、聞いたこともない。世間体を、いったいどう考えている」
「ですが、お父様。人様に喜んでいただける、立派なお仕事だと思っております」
「立派な仕事、とお前は言うが」
父は苦々しげに顔をしかめ、扇子で膝をぱん、と打った。
「良からぬ噂が立てば、家の評判に傷がつく。ひいては、お前の縁談にも障る。それが分かっていて言っているのか」
縁談、という言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。
(縁談……。私、いずれ誰かに嫁ぐことになるのよね……)
ふと脳裏をよぎったのは、あの日、街角でぶつかった瞬間の、困惑したような紺青の瞳だった。
(って、私ったら、何を考えているの……! こんな時に……!)
湧き上がった動揺を必死に押し隠しながら、私は父の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「お父様のご心配は、分かっているつもりです。それでも、私は」
「大体、商売など、うちの家格に相応しくない。噂を聞きつけた他家が、どんな顔をすると思っている」
「お父様」
「それに、危険はないのか。見知らぬ客が出入りするのだぞ。お前一人で、対応できるとでも」
矢継ぎ早に投げかけられる懸念に、私は一つずつ言葉を返そうとしたけれど、うまく間に合わなかった。
「あなた」
張り詰めた空気を割るように、母が静かに口を挟んだ。ゆったりとした声音が、室内の空気を少しだけ和らげる。
「せっかくですもの。一度、リゼットの話をきちんと聞いて差し上げては?」
「クラーラ、お前まで」
「あら、頭ごなしに否とおっしゃる前に、ですわ」
母はにこりと微笑み、扇の先で軽く父の腕に触れた。
「リゼット、続けてちょうだい。お父様が心配していらっしゃるのは、危険と外聞のことなのでしょう? そこをきちんとお話しすれば、きっと分かってくださるわ」
母の言葉に背中を押され、私は改めて口を開いた。
「まず、お店は目立たない別邸を使います。看板も控えめにいたしますし、お客様は事前にご紹介いただいた方のみお迎えする形にするつもりです。それに、最初はアンナと二人だけで始めますから、危険なことにはならないよう、十分に気を配ります」
「ふむ……」
「それに」
私は一度言葉を切り、父の目をまっすぐに見つめた。
「これは、ただの思いつきではありません。友人たちに、心から喜んでいただけた経験があります。その喜びを、もっと多くの方に届けたいのです」
父はしばらくの間、腕を組んだまま黙り込んでいた。蝋燭の灯りが、その険しい横顔を静かに照らしている。暖炉の薪が、ぱちりと小さく音を立てて崩れた。
「……好きにするといい。ただし」
やがて、絞り出すような声が返ってきた。私は思わず息を止める。
「浮ついた噂の種になるような真似は、断じて許さん。それだけは、肝に銘じておけ」
「はい、お父様。ありがとうございます」
深々と頭を下げながら、私は胸の内でほっと息をついた。完全な賛成ではないけれど、頭ごなしの否定でもない。今はそれで、十分だった。
応接間を辞し、廊下を歩いていると、母がそっと隣に並んだ。石造りの廊下に、二人分の足音が控えめに響く。
「お父様も、本当は応援したい気持ちがあるのよ。ただ、不器用な言い方しかできないだけで」
「分かっています、お母様。ありがとうございます」
「昔からそうなの。あの人、素直に気持ちを言葉にするのが、驚くほど苦手でいらっしゃるから」
くすりと笑う母につられて、私も自然と頬が緩んだ。
自室に戻り、寝支度を整えながら、私はふと窓辺に腰掛けた。カーテンの隙間から、星の瞬く夜空が覗いている。
(誰かに嫁ぐ、か……。今はまだ、考えたくもないのだけれど)
先ほどの「縁談」という言葉が、また胸の奥にちりりと蘇る。脳裏に浮かぶのは、やはりあの困惑した紺青の瞳だった。
(別に、深い意味なんてないのに。どうして、あの方の顔ばかり浮かんでくるのかしら)
自分でもよく分からない感情を持て余しながら、私はしばらくの間、星空を眺め続けていた。やがて小さくかぶりを振って、私はカーテンを引いた。今夜のところは、深く考えるのはやめておこう。
◇
執務室の扉が控えめに叩かれたのは、日が傾き始めた頃だった。
「団長、暇そうですね」
顔を出したのは、いつものようにレイフだった。俺は書類から顔を上げもせずに答える。
「暇なわけがあるか」
「まあまあ。ところで、くだらない話なんですけど」
レイフは向かいの椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。
「妹が、学園のお友達から妙な話を聞いたらしくて。なんでも、誰が作ったのかは分からないけど、びっくりするくらい可愛い人形を持ってる令嬢がいる、とかなんとか」
「……それだけか」
「それだけです。噂というより、女の子同士のおしゃべりの又聞き程度の話ですよ」
レイフは苦笑しながら肩をすくめた。
「まあ、令嬢とはいえ人形なんて、団長の探し物とは関係ないかもしれませんけどね」
軽い調子でそう言うと、レイフは椅子から立ち上がった。俺は手を止めたまま、しばらく黙り込んでいた。
「……妹御に、詳しく聞けそうか」
「え。本気にしてます?」
レイフが片眉を上げる。
「暇な時にでも、でいい」
「はいはい。まあ、聞くだけ聞いてみますよ」
からかうような笑みを残し、レイフは執務室を出ていった。扉が閉まる音が、静かな室内に小さく響く。
俺は机の端に置かれた人形に目をやった。灯りを受けた紺青の瞳が、静かにこちらを見つめ返してくる。
「可愛い人形、か」
こんな細い噂話が、あの令嬢に繋がる保証などどこにもない。それでも、頭ごなしに切り捨てる気にはなれなかった。
ペンを取り直し、俺は報告書の続きに取り掛かった。だが、その手はいつもより幾分か、落ち着かないようだった。
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