第6話
マリーの人形を渡してから数日、私は落ち着かない毎日を送っていた。
理由は分かっている。フィオナ様だ。
(「私にも作っていただけませんこと?」って、あの勢いで言われたら断れないわよね……。でも、肝心の「推し」が誰なのか、まだ聞けていないのよね……)
あの日以来、フィオナ様は妙にそわそわした様子で私の周りをうろついている。話しかけたそうにしては、誰かが通りかかるたびに、はっと口をつぐんで扇で顔を隠してしまう。よほど言い出しにくい相手らしい。
(もしかして、身分差とか……? それとも、私なんかに話して大丈夫なのか迷ってる、とか……)
昼休み、いつもの食堂の片隅でぼんやりそんなことを考えていた。窓から差し込む光が、テーブルの上の水差しに反射して、きらきらと小さな光の粒を散らしている。
「リゼット様。今日の放課後、少しお時間をいただけまして?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。向かいの席にすとんと腰を下ろしたのは、フィオナ様だった。いつもの快活な声に、けれど今日はほんの少しだけ緊張が滲んでいる。
「ええ、もちろん」
私が頷くと、フィオナ様は周囲をちらりと見回してから、身を乗り出すようにして声をひそめた。
「あの、その……。折り入って、内緒のお話がありますの」
その口調に、私はぴんときた。
(これはもしかして、ついに「推し」を明かしてくれるやつね……!)
「分かったわ。放課後、いつもの中庭でどうかしら」
私が提案すると、フィオナ様はほっとしたように頬を緩め、こくりと頷いた。
放課後、中庭の一角――すっかり見慣れたその場所で、私たちは向き合って座った。今日は誰の姿もなく、頭上の木々の葉擦れの音だけが、さわさわと静かに響いている。夕暮れにはまだ早い、柔らかな午後の日差しが、フィオナ様の栗色の髪をふんわりと縁取っていた。
「それで、フィオナ様。教えていただけるかしら」
からかいすぎないよう、なるべく穏やかな声で切り出す。フィオナ様は膝の上で両手をきゅっと握りしめ、しばらく黙り込んでいた。
「……笑わないでくださいまし?」
「笑わないわ。約束する」
私が真剣な顔で頷いてみせると、フィオナ様は小さく息を吸い込んだ。その頬に、ゆっくりと朱が差していく。
「私が想いを寄せておりますのは……リーベルト殿下ですの」
一瞬、時が止まった。
(り、リーベルト殿下って……。え……。第一王子様……よね……!?)
「フィ、フィオナ様、それって」
「ええ。この国の第一王子、リーベルト殿下です」
開き直ったように、フィオナ様がはっきりと言い切る。
(殿下……! 王子様……! これはとんでもない案件がきちゃったわよ……!!)
前世の記憶が、盛大に色めき立つのが分かった。攻略対象で言えば間違いなくメインルート級、いや、もはや別格の存在だ。心臓のあたりがそわそわと落ち着かない。
「ど、どうしてまた殿下と……。フィオナ様と殿下って、そんなに親しくいらっしゃったの?」
動揺を押し隠しながら尋ねると、フィオナ様の頬がほんのり赤く染まった。
「幼い頃、両家の集まりで何度かお会いする機会がありましたの。その頃から、物怖じせずに接する令嬢は珍しいと、殿下の方から気安く話しかけてくださるようになって」
フィオナ様はそっと視線を落とし、指先で扇の縁をなぞる。かちり、かちりと、小さな音が繰り返し鳴った。
「殿下は、いつも周りに気を遣われて、本音を隠していらっしゃる方ですの。でも、私の前でだけは、少し違うお顔を見せてくださる時があって……」
言葉を続けるごとに、フィオナ様の声はだんだんと柔らかくなっていった。気の強い彼女には珍しく、どこか照れくさそうな横顔だ。
(尊い……!! 王子様の素顔を知ってるの、フィオナ様だけって、それもうヒロインの特権じゃない……!!)
胸の奥がきゅうっと締め付けられる感覚に、私は思わず前のめりになった。
「素敵だわ、フィオナ様……!」
「あ、あの、そんなに詰め寄らないでくださいまし……!」
珍しく慌てた様子のフィオナ様に、私は我に返って居住まいを正した。
「ご、ごめんなさい。つい……」
(いけない、いけない。前世のテンションが出すぎたわ……!)
こほん、と小さく咳払いをして、私は表情を取り繕った。
「それで、殿下のお人形を作らせていただけばいいのね」
「ええ。お願いできまして?」
真剣な眼差しで見つめられ、私は一つ頷いた。
(正直、王族の方の人形なんて前例がないから緊張するけど……。フィオナ様の想いに応えるためにも、絶対にいい物を作りたいわ)
殿下のお姿は、私も夜会や式典で幾度か遠目に拝見したことがある。銀髪に、涼やかな顔立ちだったという記憶はあるけれど、人形にするとなれば、それだけでは心許ない。
「もちろんよ。それじゃあ、殿下の細かい特徴を教えていただける? 遠目に見ただけでは分からないところまで」
私が尋ねると、フィオナ様は待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「殿下の御髪、遠目にはただの銀色に見えるかもしれませんけれど、近くで拝見すると、夜会の灯りの下でまるで月光を集めたように輝いて見えて……」
「うんうん」
「瞳は深い藍色ですわ。普段は涼しげでいらっしゃるのに、ふとした瞬間に見せる笑みが、それはもう……」
語るほどにフィオナ様の目が輝きを増していく。私はその熱量に圧倒されながらも、頭の中では既に髪の生地や瞳の刺繍の配置を思い描き始めていた。
「銀色か……。それなら、少し光沢のあるビロード生地を使った方がよさそうね」
独り言のように呟くと、フィオナ様が不思議そうに首を傾げる。
「リゼット様は、本当にお人形作りがお好きなんですのね」
「え、ええ。まあ、その……。性に合っているというか」
(好きとかいうレベルじゃないのよ、フィオナ様……。前世からの筋金入りのオタクなんだから……)
誤魔化すように笑いながら、私は密かに気合を入れ直した。
その日の晩、寝支度を整えに来たアンナに、私はこっそりと今日の顛末を打ち明けた。
「殿下、ですか……!?」
アンナは持っていた櫛を危うく取り落としそうになり、慌てて両手で押さえ直した。
「声が大きいわ、アンナ」
「も、申し訳ございません。ですが……フィオナ様も、思い切ったことをなさいますね」
アンナは呆れ半分、感心半分といった様子で息をついた。
「リゼット様、王族の方の人形なんて、くれぐれも扱いには気をつけてくださいませね。もし人目についたりしたら」
「分かってるわ。フィオナ様も、その辺りは弁えていらっしゃると思うけれど……」
言いながら、昼間のフィオナ様の悪戯っぽい笑みを思い出し、私は小さく肩をすくめた。
(あの顔、絶対何か企んでたのよね……。まあ、今考えても仕方ないか)
鏡台の前でそんなことを考えながら、私は早々にベッドへと潜り込んだ。
その日の夜から、私は殿下の人形作りに取り掛かった。
銀色の髪を表現するには、いつもの黒や栗色のビロード生地とは勝手が違う。艶を出しつつも軽やかさを損なわないよう、生地の種類を何度も試しては比べる。蝋燭の灯りの下で生地を透かしてみると、確かに月光を思わせる淡い輝きが浮かび上がった。
「これなら、いけそうだわ」
満足げに呟き、私は鋏を手に取った。型紙に沿って生地を裁ち、輪郭に合わせて縫い付けたあと、縁をぐるりと刺繍で縁取っていく。針の先が布を潜り抜けるたび、しゅ、と小さな音が静かな部屋に響いた。
藍色の瞳の刺繍には、特に時間をかけた。フィオナ様が語っていた「涼しげなのに、ふとした瞬間だけ見せる笑み」というのを、どうにか糸の色と重ね方だけで表現したい。何度も糸をほどいては結び直し、少しずつ理想の色味に近づけていく。
(王族の方の人形なんて、下手なものは作れないもの……! いつも以上に気合入れないと)
窓の外では、月が静かに雲間を渡っていた。針を進めるたびに、殿下の輪郭が少しずつ形を成していく。生地を縫い合わせるごとに、指先がじんわりと熱を持つのが分かった。
三日目の夜、ようやく衣装の縫い付けに取り掛かった。フィオナ様の話によれば、殿下は公務の場では華美な礼装を好まれ、飾り気を抑えた中にも品のある佇まいを見せるという。派手すぎず、それでいて安っぽくならないよう、生地選びには特に神経を使った。
「これくらいの光沢が、ちょうどいいのかしら」
手元の布地を灯りにかざしながら、私は何度も角度を変えて確かめた。
そうして数日が経った、ある日の放課後のことだった。
「リゼット様、進み具合はいかがですの?」
中庭で顔を合わせるなり、フィオナ様が待ちきれない様子で尋ねてくる。頬は上気し、瞳はきらきらと輝いていた。
「もう少しよ。あと数日もあれば、きっと」
「まあ……! それは楽しみですわ」
両手を胸の前で組み、うっとりとした表情を浮かべるフィオナ様。その姿を見ながら、私はふと気になっていたことを口にした。
「そういえば、フィオナ様。殿下のお人形のこと、完成したらどうなさるおつもり?」
「もちろん、肌身離さず大切にいたしますわ。それに……」
フィオナ様は悪戯っぽく笑い、扇でそっと口元を隠した。
「これほど心惹かれるものですもの。私、もっとたくさんの方に知っていただきたいと思っておりますの」
(え……。それって……)
その言葉に、私は一抹の不安を覚えた。フィオナ様の行動力を考えると、ただの「広めたい」では済まなそうな予感がする。
「フィオナ様、あの、あまり大々的には」
「ふふ、心配なさらないで。ちゃんと考えておりますわ」
自信満々に言い切るフィオナ様の顔を見て、私は言葉を呑み込んだ。
(この顔は、絶対に何か企んでる顔だわ……。まあ、フィオナ様のことだから、悪いようにはならないはずよね……。多分)
風が吹き、中庭の木々がざわりと揺れる。落ち葉が一枚、フィオナ様の膝の上にひらりと舞い落ちた。それを摘み上げて悪戯っぽく笑う彼女を見つめながら、私は一抹の不安を抱えたまま、また針を手に取る日々に戻っていくのだった。
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