第53話
披露目の夜から十日ほどが経った朝、プラッシュ工房の扉を開けると、待合の長椅子はすでに三組の客で埋まっていた。窓から差し込む朝の光は薄い金色で、床に敷いた絨毯の毛足をやわらかく照らしている。表通りから漂ってくる焼きたてのパンの匂いと、馬車の車輪が石畳を鳴らす音が、開け放した扉越しに一度に流れ込んでくる。私は思わず足を止め、それから慌ててエプロンの紐を結び直した。
(なんですって、朝一番でこの人数……! 昨日の分もまだ終わっていないのに)
心の中で悲鳴を上げながらも、表向きは澄ました顔を保つ。奥の作業台から顔を出したアンナが、私に気づいて小さく肩をすくめてみせた。
「おはようございます、リゼット様。実は、開店前から並んでいらした方もいて」
「開店前から……」
「披露目の噂が広まってからというもの、注文帳の予約が二週間先まで埋まってしまいました。今朝は、その予約分の生地選びにいらした方々です」
差し出された注文帳を覗き込むと、見慣れた文字の合間に、これまでよりずっと多くの名前が並んでいた。羊皮紙の匂いのする厚い帳面をめくる指先が、少しだけ震える。
(こんなに……。昔は、注文帳の余白を見て溜め息をついていたのに)
長椅子の一番手前に座っていた年配の男爵夫人が、こちらに気づいて杖を軽く突きながら立ち上がった。
「店主様、いつもお世話になっております。今日は新しいお願いではなく、こちらの子の襟元を繕っていただきたくて」
差し出されたのは、以前この工房で仕立てた、白髪交じりの老騎士を模した推しぬいだった。長年連れ添った夫を模したものだと、以前聞いた覚えがある。襟元の縫い目が少しほつれかけているのを見て、私は指先でそっと生地を確かめた。
「かしこまりました。糸の色も合わせて、綺麗に直しておきますね」
「ありがとうございます。急ぎませんので、ゆっくりで結構ですよ」
夫人は目元に皺を寄せて微笑むと、また杖を突きながら椅子へ戻っていった。新しい客だけでなく、こうして繰り返し足を運んでくれる人がいることも、工房にとって何より嬉しい支えだった。
感慨に浸る間もなく、待合の別の一角から声がかかった。
「あの、店主様でいらっしゃいますか!」
声の主は、見覚えのない若い令嬢だった。薄紫の外套を纏い、連れの侍女らしき女性と共に、興奮した様子で立ち上がる。
「初めまして。わたくし、コーデリア・ラングと申します。実は今日は、少し変わったご相談があって参りましたの」
「変わったご相談、ですか」
私が椅子を勧めると、コーデリア様は腰を下ろしながら、鞄から一枚の刺繍見本を取り出した。淡い水色の糸で縁取られた、小さな指輪の意匠が施されている。丁寧な運針の跡から、彼女自身の手によるものだと分かった。
「フィオナ様とリーベルト殿下の御婚約、月末に正式発表されると伺いました。あのお二方を象った対のぬいぐるみを、婚約のお祝いとして殿下にお贈りしたいのです。もちろん、お二方のお許しをいただいた上で」
思いがけない申し出に、私は瞬きを繰り返す。
(前世でいう、ウェルカムドールみたいなものね)
この国では、婚約の祝いにぬいぐるみを贈る習わしなど聞いたことがないので、変わった相談といえばそうかもしれない。
「そのお気持ち、とても素敵だと思います。ただ、王家への贈り物となると、生地一つにも気を配らなくてはいけなくて」
私は棚から見本布の束を取り出し、机の上に広げてみせた。象牙色、淡い薔薇色、深みのある藍色――光の当たり方で艶の変わる生地を、順に指先でなぞっていく。
「殿下には落ち着いた藍を、フィオナ様には華やかさの残るこちらの薔薇色はどうでしょう? 婚礼の色目に近づけすぎず、けれどお二方らしさが伝わるように仕立てたいんです」
「素敵……! 藍の生地、殿下の瞳の色にも近い気がします」
コーデリア様は見本布に指を伸ばしかけて、はっと我に返ったように手を引っ込めた。
「あの、勝手に決めてしまってよろしいのでしょうか。わたくしはただ、依頼をお持ちしただけの身で」
「せっかく選んでくださったんですもの、参考にさせていただきますね。お二方には、私からお伺いしてみます。もし叶うようでしたら、恥ずかしくない仕立てにしますから」
「本当ですか! ありがとうございます」
コーデリア様が声を弾ませ、隣の侍女と顔を見合わせる。二人の弾んだやり取りにつられて、私も自然と笑みがこぼれた。
ちょうどそこへ、扉の鈴が軽やかな音を立て、当のフィオナ様が姿を見せた。後ろにはマリーの姿もある。二人とも街歩き用の軽い外套を羽織り、頬を上気させていた。
「リゼットさん、聞いてちょうだい――」
言いかけたフィオナ様が、コーデリア様の手元の刺繍見本に目を留めて言葉を止めた。
「あら、それって……」
「フィオナ様、突然のお願いで申し訳ございません。実はわたくし――」
コーデリア様が事情を説明する間、フィオナ様は目を丸くしたまま聞き入っていた。やがて話が終わる頃には、頬をほんのり染めて、隣のマリーと顔を見合わせている。
「わたくしと殿下を、ぬいぐるみに……。リゼットさん、これって受けてもいいものなの?」
「フィオナ様さえよろしければ、わたくしは喜んで。ただし、殿下のお許しも必要ですわ」
「殿下なら大丈夫よ。この間だって、わたくしの持っている殿下のぬいぐるみを見て、執務室に飾りたいって仰ったもの」
得意げに言うフィオナ様に、マリーがくすくすと笑いを漏らす。
「殿下ったら、案外可愛らしいところがおありなのね」
「でしょう? あの人、人前では澄ましているくせに」
三人でひとしきり笑い合っていると、コーデリア様が控えめに手を挙げた。
「では、寸法やお色味のご相談は、また日を改めて伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。来週の同じ時間はいかがですか?」
約束を取り付けて見送ると、待合には次の客の姿がもう並んでいる。忙しなく立ち回りながらも、私の胸には温かいものが広がっていた。誰かの推し活が、また新しい誰かの推し活を呼び込む。この工房で始まった小さな流行が、こんなふうに形を変えながら広がっていくのを見るのは、何度目でも胸が高鳴る。
昼過ぎ、ようやく客足が落ち着いた頃、マリーが茶器を運んできてくれた。湯気の立つカップを三つ、そっと作業台の端に置く。
「今日は本当に大盛況ね。手が足りていないんじゃなくて?」
「実はアンナと相談していたところなの。誰か、裁縫の得意な子を見習いとして雇えないかって」
「見習いを?」
「ええ。わたくしとアンナだけでは、そろそろ限界かもしれないわ」
湯気の立つ茶を一口含みながら、私は注文帳をもう一度眺めた。増え続ける名前の列は、喜びであると同時に、これからの工房の在り方を考えさせる重みでもある。
そこへアンナが、一通の封書を手に奥から顔を出した。
「リゼット様、先ほど届いたお手紙です。差出人は――オクタヴィア様」
その名前に、マリーとフィオナ様が揃って手を止める。封を切ると、丁寧な筆致で綴られた文面が現れた。披露目への礼から始まり、領地での近況が続き、最後には新しい縁談の相手と穏やかに歩み寄っている様子が綴られている。文末には、控えめな一文が添えられていた。
『もし差し支えなければ、婚約の記念にと、婚約者の方を象った一体をお願いしたく存じます。今度は、意地でも張り合いでもなく、心からの願いとして』
読み終えて顔を上げると、フィオナ様が少し驚いたように眉を上げた。
「オクタヴィア様が、そんなことを」
「ええ。……お引き受けするわ、もちろん」
便箋を丁寧に畳みながら、私は小さく息をついた。あの日、工房に乗り込んできた彼女の張り詰めた声を思い出すと、今のこの穏やかな文面が、なおさら胸に染みる。
「エドガー様とは、その後どう?」
話を変えると、マリーは持っていたカップをそっと置き、少しだけ視線を落とした。
「来月、正式にご実家へご挨拶に伺うことになったの。父も、思っていたより喜んでくれて」
「よかったじゃない」
「まだ緊張しているけれど……でも、リゼットさんたちの披露目を見ていたら、少し勇気をもらえた気がするわ」
はにかむように笑うマリーの言葉に、私も思わず口元をほころばせた。窓の外へ目をやると、通りを行き交う人々の中に、以前よりも多くの令嬢たちが、小さな包みを大切そうに抱えているのが見えた。あの中の幾つかは、きっとこの工房から生まれたものだ。
◇
夕刻前の詰所で、俺は書類の束に目を通していた。窓の外はすでに橙色に傾き、机上のランプに火を入れる時刻が近づいている。模倣品騒動の後始末として提出された商人組合の報告書は、ようやく最後の一枚を残すのみになっていた。
「団長、それ終わったら今日は上がりでしょう」
向かいの机からレイフが顔を覗かせた。詰所の壁際には、模倣品騒動の証拠品として押収された粗悪な推しぬいが、片付けを待ったまま箱に収められている。縫い目の粗さが、こうして見ても一目で分かるほどだった。
「まだ終わっていない」
「一枚じゃないですか。それより、また工房に顔を出すんでしょう? 早く行ってあげないと」
「勤務時間内は職務が優先だ」
「はいはい。でも、披露目が終わってから団長、前よりよく笑うようになりましたよね」
その指摘に、俺は書類から目を上げた。
「そんなことはない」
「いやいや、絶対にありますって。今だって、口の端がちょっと上がってましたよ」
からかうような口調に、俺は黙って書類へ視線を戻す。反論する材料がないことが、何よりも癪だった。最後の一枚に署名を終えると、書類を束ねて立ち上がる。
「今日はもう戻らない」
「了解です。土産話、明日聞かせてくださいね」
軽口を背中に受けながら詰所を出ると、外はすでに薄暗くなり始めていた。石畳を打つ靴音だけが、静かな通りに響く。
工房へ向かう道すがら、生地屋の店先を通り過ぎる。店主が軒先の明かりを灯すところで、こちらに気づいて小さく会釈をよこした。以前この店で聞き込みをして、何の手掛かりも得られなかったことを思い出すと、今の状況が不思議なほど遠く感じられる。あの頃探していた相手が、今は当然のように帰りを待っている。
◇
工房の片付けを終え、アンナを先に帰した頃、扉の鈴が控えめに鳴った。顔を上げると、いつもの団服姿のカイル様が立っている。夜風に少し乱れた前髪を、彼は無造作に手で払った。
「お疲れ様でした。今日も遅くまで?」
「大した用事じゃない。書類が少し多かっただけだ」
カイル様は工房の中を軽く見回し、机の上に積まれたままの注文帳に目を留めた。
「随分と増えたな」
「ええ、おかげさまで。今日なんて、フィオナ様と殿下の婚約祝いにって、お二人を象った対のぬいぐるみのご相談まで頂いたのよ」
「あの二人を?」
「殿下、ご自分のぬいぐるみを執務室に飾りたいって仰ったんですって」
思わず笑いながら告げると、カイル様は片方の眉をわずかに上げた。
「初耳だ」
「わたくしも、今日聞いたばかりよ」
椅子に腰掛けたカイル様の前に、冷めかけた茶を淹れ直して差し出す。湯気越しに向き合うと、彼はしばらく無言のまま茶器を傾けていた。カップの縁に触れる指先の仕草一つにも、外での凛とした佇まいとは違う、くつろいだ気配が滲んでいる。
「見習いを雇う話が出ている、とアンナから聞いた」
「もう耳に入ったの? まだ相談し始めたばかりなのに」
「ここへ来る途中で、帰り道のアンナに会った」
情報の早さに苦笑しつつ、私は椅子を引いて隣に座る。窓の外では、通りの灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
「本当に、手が足りなくなってきたの。でも、良い人が見つかるまでは、わたくしとアンナでどうにかするしかないわ」
「無理はするな」
短い一言に、いつもの心配がにじんでいる。私は頷きながら、胸元にそっと手を添えた。披露目の日に留めていた、あの金の飾りはもう仕舞ってあるけれど、指先はまだその感触を覚えている。
「そういえば、来週の休みはどうするの? お互い久しぶりに、丸一日空くのでしょう」
「その件だが」
カイル様は茶器を置き、少し改まった調子でこちらを見た。ランプの明かりが、彼の輪郭を静かに縁取っている。
「街に出ないか。人目を気にせず、二人で」
「……それは、正式にお披露目した後だから、堂々と歩けるということ?」
「そうだ」
あっさりとした返事に、じわりと嬉しさが込み上げてくる。これまでも並んで歩くことはあったけれど、どこかで周りの目を気にしていた。堂々と並んで歩けるということが、こんなにも新鮮に感じられるとは思わなかった。
「楽しみだわ。どこへ行くか、少し考えさせてね」
「行き先は、任せる」
「それじゃあ、とびきり楽しい一日にしてみせるから。覚悟しておいて」
冗談めかして言うと、カイル様はふっと短く息を漏らすように笑った。滅多に見せないその表情を、私は目に焼き付けるように見つめた。
「一つ、行きたい場所があるの」
「聞こう」
「初めて正面衝突した、あの通りよ。今度はぶつからずに、ちゃんと並んで歩いてみたくて」
カイル様は一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「悪くない」
「でしょう? あの日拾ってもらった子にも、恩返しをしないといけないもの」
懐かしさに指先を軽く組み合わせながら、私はあの日の動揺と、今のこの穏やかさを、同じ通りの記憶の上に重ねた。あの日手から離れてしまった一体は、今は私の枕元で、毎晩変わらずこちらを見つめている。あの日は逃げるように立ち去った道を、今度はきっと、急ぐ理由もなく歩いていけるはずだ。
窓の外はすっかり日が落ち、通りには灯りが連なっている。店じまいをした工房の中で向き合う時間は、いつも通りでありながら、少しずつ形を変えながら積み重なっていく。次の休みに何を見せようか、どこへ連れて行こうかと考えるだけで、胸の奥がくすぐったくなる。明日からもまた、注文帳と向き合う忙しない日々が続くけれど、その合間に待っている小さな約束が、今の私には何よりの楽しみだった。
お読みいただきありがとうございました!
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