第52話
窓辺に差し込む朝の光は、十日前よりも幾分白く、冬の気配を含んでいた。息を吐くと、うっすらと白く曇る。私は寝台から抜け出すとすぐに裁縫箱を開き、昨夜のうちに仕上げるはずだった刺繍の続きに取りかかった。
淡い金の糸で象っていたのは、小さく丸みを帯びた剣の意匠。切っ先を尖らせすぎず、鍔の部分にはあえて丸みを持たせて縫い留めてある。針を刺すたびに、糸が布地を擦る乾いた音が耳に心地よい。丁寧に縁を刺し終えると、それを台紙から切り離し、裏に薄い布を当てて縫い留める。仕上げに小さな留め金を付ければ、掌に収まるほどの飾り留めが出来上がった。
(できた……。ぎりぎりだったけれど、ちゃんと間に合ったわ)
光にかざして糸目を確かめていると、扉が控えめに叩かれた。
「リゼット様、そろそろお支度のお時間ですよ」
入ってきたアンナは、私の手元の飾り留めに気づくと、そっと覗き込んできた。
「まあ。ようやく仕上がったのですね」
「ええ。何日もかけて、やっと」
「剣、ですか」
問われて、私は少しだけ言葉に迷った。誰のためとも言わずに作り続けてきたものだけれど、その答えを口にするのは、まだ気恥ずかしい。
「自分へのお守りみたいなものよ。今日は、これを胸元に留めていくつもりなの」
アンナは何かを察したように目を細め、それ以上は尋ねずに、衣装棚から今日のために仕立てさせた一着を運んできた。淡い象牙色の生地に、裾へ向かうほど深みを増す紺青の刺繍が施されている。袖を通すと、生地の重みが肩にしっとりと馴染んだ。
「髪は、いつもより華やかにまとめましょうか」
「お任せするわ」
鏡の前に座ると、アンナの指先が手早く髪を編み込んでいく。鏡越しに映る自分の顔は、いつもより幾分か強張って見えた。
「緊張していますか」
「少しだけ。ほんの、少しだけよ」
髪飾りを留める手を止めて、アンナは鏡越しに私と目を合わせた。
「今日という日を、この工房が始まった頃には、誰も想像していませんでしたね」
「本当に。あの頃は、こっそり愛でるだけで満足していたのに」
支度が整う頃、扉の外から母クラーラの声がした。招き入れると、彼女は私の装いを一目見て、目を潤ませる。
「よく似合っているわ。もう少し早くに生まれていたら、母様の宴でも着せたかったくらい」
「お母様ったら、大げさよ」
「大げさなものですか。今日という日を、どれだけ待っていたと思っているの」
母は私の胸元に飾られた金の留め金にふと目を留め、それが何を象っているのかに気づいたようだった。何も言わずに、ただ目元を緩めるだけに留めてくれたことが、今の私には何よりありがたい。
支度部屋の扉が再び叩かれ、今度は父ジェラルドが顔を覗かせた。普段の書斎姿とは違う、正装に身を包んだ父の姿を見るのは、私にとっても久しぶりのことだった。
「支度は済んだか」
「ええ、たった今」
父はしばらく黙って私の姿を眺め、それから小さく咳払いをした。
「立派になったものだ、と言いたいところだが――お前はもとから、立派だった。今日は、それを皆に知らしめる日というだけの話だ」
不器用な励ましに、私は思わず頬を緩めた。父の後ろで、母がそっと目元を拭っている。
「泣くのは、まだ早いですわ、お母様」
「分かっているわよ。でも、今日くらいは大目に見てちょうだい」
母は袖口で目元を押さえながら、それでも笑みを絶やさなかった。三人でひとしきり笑い合ってから、父が先に部屋を出て行く。扉が閉まる直前、振り返った父の顔に、これまで見たことのない柔らかさが浮かんでいたのを、私は見逃さなかった。
支度部屋を出て馬車に乗り込む間際、私はもう一度、胸元の飾り留めに指を添えた。工房の隅で一人、拾われてしまった推しぬいのことを思いながら針を進めていた頃の自分を思うと、今この瞬間が、どこか遠い夢のように感じられる。それでも、指先に触れる糸の感触は確かで、夢ではないのだと教えてくれた。
◇
用意された正装の襟元を締めながら、俺は鏡の前でしばらく動きを止めていた。普段の団服とは違う布の重みが、肩にまだ馴染まない。
「団長、そんなに睨みつけなくても、鏡は逃げませんよ」
部屋の隅で待っていたレイフが、堪えきれない様子で笑いを漏らす。
「余計な軽口はいらん」
「軽口じゃなくて、心配してるんですよ。今日くらいは、ちゃんと笑った顔を見せてやったらどうです」
「柄じゃない」
「柄じゃなくても、今日だけは頑張ってください。ヴァランタイン嬢が、悲しい顔をするのはごめんでしょう」
その一言に、俺は襟元を締める手を止めた。レイフの言う通りだった。今日という日に、これまでと同じ顔しかできないのだとしたら、それは怠慢というものだろう。
「善処する」
「団長がそう言うと、逆に不安になりますけどね」
レイフは肩をすくめながら、馬車の用意ができたことを告げに部屋を出て行った。一人残った鏡の中には、見慣れた自分の顔が映っている。だが、その奥にある感情は、これまでのどんな任務の朝とも違っていた。
馬車に揺られながら、窓の外を流れていく街並みを眺める。街路樹の葉はすでに半分ほど落ち、石畳の隙間に赤茶けた色を落としていた。あの生地屋の前を通り過ぎた時、ふと足を止めたくなる衝動に駆られたが、今日はその余裕もない。俺はヴァランタイン邸へと続く道を進んだ。
◇
ヴァランタイン邸の庭園に設けられた会場は、午後の日差しを受けて白く輝いていた。並べられた円卓には秋の名残の花――赤や黄に染まった小菊と、まだ蕾のままの白い花とが一緒に活けられ、控えめな楽団の弦の音色が、招待客たちの話し声に混じって響いている。給仕たちが運ぶ銀の盆の上で、焼き菓子と果実酒の杯が涼やかな音を立てた。
「リゼットさん、こっちよ!」
声をかけてきたのはフィオナだった。隣にはリーベルト殿下が並び立ち、彼女の首元には、以前見せてもらった青い石のペンダントが光っている。
「フィオナ様、殿下も。今日はお越しくださって、ありがとうございます」
「決まっているでしょう、あなたの晴れの日だもの。それに――わたくしたちの方も、近いうちに正式な発表になるの」
誇らしげに告げるフィオナの隣で、リーベルト殿下がいつもより幾分か柔らかい表情を浮かべていた。
「アシュフォード団長には、世話になっている。今日は素直に祝わせてくれ」
「殿下……そんな、こちらこそ」
挨拶を交わす間に、マリーとエドガーも並んでやって来た。マリーは控えめな微笑みを浮かべ、エドガーはいつも通り言葉少なに、けれど真っ直ぐな眼差しでこちらを見ている。
「リゼットさん、とても綺麗だわ」
「マリーもよ。その髪飾り、この間わたくしが縁取りを直したものね」
「ええ。今日のために、大事に取っておいたの」
「エドガー様も、今日はいつもより凛々しく見えますわね」
フィオナがからかうと、エドガーは襟元を軽く引っ張りながら、困ったように視線を泳がせた。
「団の礼装は、こういう場でしか着る機会がないので、少し落ち着かなくて」
「よく似合っているわ」
マリーが小さく囁くと、エドガーの耳が見る間に赤く染まった。それを見ていたフィオナと私は、思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
しばらくして、給仕の合間を縫ってアンナが近づいてきた。手には、私の分と自分の分、二つの杯を携えている。
「リゼット様、少しだけよろしいですか」
友人たちに断りを入れて離れると、アンナは杯の一つを私に手渡した。
「一年前、開店したばかりの頃を覚えていますか。注文帳の余白を見ては、二人で溜め息をついていましたね」
「覚えているわ。あの時は、こんな日が来るなんて、想像もしていなかった」
「わたしは、少しだけ想像していましたよ。リゼット様が、いつか誰かにその真心を見つけてもらえる日が来るだろうと」
アンナは照れ隠しのように早口でそう言うと、杯をそっと掲げた。
「おめでとうございます、リゼット様」
「ありがとう、アンナ。ずっと隣にいてくれて」
二人で杯を軽く合わせると、乾いた小さな音が響いた。友人たちに囲まれて言葉を交わしていると、庭園の入り口に、旅装ではない正装姿のオクタヴィア様が現れたのが目に入った。以前よりも幾分肌の色艶がよくなり、頬にあったやつれの色も薄れている。私と目が合うと、彼女は迷いのない足取りでこちらへ近づいてきた。
「リゼット様。本日はお招きいただき、ありがとう存じます」
「オクタヴィア様。領地からわざわざ……」
「けじめは、きちんとつけると申し上げたでしょう」
オクタヴィア様はそう言って、口元にこれまで見たことのない、穏やかな笑みを浮かべた。
「それに、父から新しい縁談の話が進んでおりますの。今日はその方も、ご一緒に」
少し離れた場所で控えていた、見覚えのない青年に軽く手を上げると、彼は困ったような、それでいてまんざらでもなさそうな笑みを返す。フィオナが横から小さく肘を寄せてきて、私は思わず笑いを噛み殺した。
「今日は、心から祝わせていただきますわ。あなたが選んだ道を」
その言葉に、私は深く頭を下げるしかなかった。半年前には想像もできなかった光景が、今、目の前に広がっている。
オクタヴィア様と入れ替わるように、見覚えのある顔がいくつも近づいてきた。プラッシュ工房に何度も足を運んでくれた常連の子爵令嬢が、連れの友人たちと共に、はしゃいだ様子で駆け寄ってくる。
「リゼット様、今日は本当におめでとうございます! 団長様と、こんなに素敵な日を迎えられるなんて……」
「ありがとう。皆様にお越しいただけて嬉しいわ」
「当然ですわ。あんなに丁寧な仕事をなさる方ですもの、幸せになって当たり前です」
連れの一人が笑いながら言い添えると、周囲からも同意するような笑い声が上がった。商人組合の紋章を襟元につけた壮年の男性が、少し離れた場所から会釈をよこす。模倣品騒動の折に世話になった組合の担当者だと気づいて、私は慌てて礼を返した。彼は満足げに頷き、隣の客と何やら言葉を交わしながら、また人混みの中へ戻っていった。
庭園の奥、招待客の視線が一斉に一方へ集まったのは、それからしばらく経った頃だった。壇上に立った父ジェラルドが、静かに声を張り上げる。
「本日は、お集まりいただき感謝する。ヴァランタイン家の一人娘リゼットと、近衛騎士団長カイル・アシュフォード殿との縁組みについて、この場を借りて正式にお披露目したい」
拍手が広がる中、父は懐から一通の書状を取り出した。羊皮紙には、見覚えのある王家の封蝋が施されている。
「陛下より、両名への祝いの言葉を賜っている。読み上げさせていただく」
父の声が、静まり返った庭園に響く。
「――近衛騎士団長カイル・アシュフォードが、真心を尽くして選んだ相手であるならば、朕はそれを心より祝福する。血筋の重さに惑わされることなく、己の力で歩んできた者にこそ、確かな幸せが訪れるべきである」
短く、しかし確かな筆致で綴られた祝いの言葉が読み上げられると、招待客のざわめきが一段と大きくなった。近衛騎士団長という立場だけでなく、その血筋までもが公に祝福されているのだと、その場にいる誰もが理解した様子だった。
父は書状を丁寧に畳み直し、杯を高く掲げた。
「では、二人の門出に」
招待客たちが一斉に杯を掲げる。果実酒の澄んだ色が、夕暮れ前の光を受けて赤く揺れた。乾杯の声が庭園いっぱいに響き渡り、その余韻が消えるまで、拍手はしばらく鳴り止まなかった。
私の隣に立つカイル様は、いつもと変わらず背筋を伸ばしたままだったが、握られた手には、確かな力がこもっていた。
「緊張しているの?」
小声で尋ねると、彼はわずかに口の端を上げた。
「柄じゃないが、今日ばかりは仕方がない」
その言葉に、私は思わず笑ってしまう。拍手が鳴り止まぬ中、カイル様がふと、私の胸元に留められた金の飾りに目を留めた。
「それは」
「気づいた? ずっと、こっそり作っていたものなの」
私はそっと胸元の飾り留めに指を添えた。
「あなたにそっくりな推しぬいを、初めて作った時のことを思い出しながら仕立てたの。あの子は部屋でお留守番だけれど――今日は、何か形にして身に着けていたくて」
カイル様は飾りをしばらく見つめ、それから、その上にそっと指先を添えた。周囲の招待客の視線をよそに、二人の間だけに、静かな時間が流れる。
「よく似合っている」
短い一言に、胸の奥が温かく満ちていく。楽団の音色が新しい曲に変わり、招待客たちが思い思いに歓談を始めた。庭園の隅、少しだけ人目を離れた場所で、カイル様は私の手を取り、まっすぐにこちらを見た。
「披露目は、これで終わりだ。だが――」
「だが?」
「これからの方が、長い」
その言葉に、私は迷わず頷いた。窓辺で針を進めていたあの静かな朝から、こんなにも賑やかな場所に立つ日が来るとは、思ってもいなかった。
「明日も、工房を開けるつもりか」
「もちろんよ。お客様との約束が、もういくつも入っているもの」
「披露目の翌日から仕事とは、相変わらずだな」
「あら、休んでいたら針の腕が鈍ってしまうわ」
軽口を返すと、カイル様は片方の眉を軽く上げ、それから短く息を漏らすように笑った。
「俺も、明日から通常の任務に戻る。夜になれば、また顔を出す」
「毎日じゃなくても、いいのに」
「毎日でなければ、困る」
あまりに真剣な声で返されて、からかうつもりだった私の方が、かえって言葉に詰まってしまう。工房に戻れば、明日からもまた同じように針を持ち、同じように客を迎える日々が続く。何も特別なことなど起こらない、いつも通りの日々こそが、これから二人で積み重ねていくものになるのだと、私は静かに実感していた。
夕暮れが庭園を橙色に染め始める頃、招待客の笑い声はまだ絶えることなく続いていた。カイル様と並んで見上げた空に、一番星が、まだ淡く滲むように瞬き始めていた。明日からまた始まる、いつも通りの日々が――今は何よりも、待ち遠しかった。




