第51話
朝の光が窓辺の作業台にまっすぐ差し込んで、埃の粒がその中でゆっくりと漂っているのが見えた。私は昨日の続きの刺繍に針を落とし、淡い金の糸を布地の裏から表へ通す。糸が布を擦る、かすかな音が耳に心地よい。図案の輪郭をなぞっているだけの段階で、何を象るつもりなのかは、自分でもまだ決めきれていなかった。
(そういえば、油断はしない方がいいって言っていたわね)
先日のカイル様の言葉が、針を運ぶ手の中でふと蘇る。妙な輩、という一言と、ゴードンの新しい仕入れ先という噂話。二つが結びついているという確証はないけれど、胸の奥に引っかかったままの小さな棘は、一晩経っても消えていなかった。窓の外では、通りを掃く箒の音が、いつもと変わらない朝の調子で響いている。
「リゼット様、お顔が難しいことになっていますよ」
カウンターの向こうから、麻布を仕分けていたアンナが手を止めて覗き込んでくる。私は慌てて針を布の縁に刺し、表情を整えた。
「何でもないわ。少し、考え事をしていただけよ」
「昨日の、ゴードンの話ですか」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。アンナは棚の埃を拭う手を止め、布巾を握ったままこちらへ寄ってくる。
「フィオナ様の口ぶりでは、大したことにはならないだろう、という調子でしたけれど」
「そうね。私も、そう思いたいのだけれど」
棚に並んだ見本のぬいぐるみたちの丸い顔を見つめながら、私は小さく息をついた。模倣品の騒動はもう半年近く前に沈静化したはずだ。品質の差を示すことで自然に淘汰されたはずのものが、また形を変えて戻ってくるのだとしたら――どんな形で戻ってくるのか、今の私には見当もつかなかった。
開店から一刻ほど経った頃、扉の鈴が忙しなく鳴った。顔を上げると、常連の子爵令嬢が、いつもより早足で入ってくるところだった。息を切らせ、外套の裾も乱れたままだ。
「リゼット様、お聞きになりました? 街の南通りの、あの模倣品を売っているお店のこと」
「南通りの……ゴードンさんのお店のことでしょうか」
「ええ、そこです。今朝方から、殿下を模したお人形を店先に並べているそうなんです」
殿下、という一言に、私は針を持つ手を止めた。
(殿下のぬいぐるみを、ゴードンさんが……?)
「リーベルト殿下、ということですか」
「ええ。しかも、素材も縫いも粗雑な出来だそうで。それを堂々と店先に飾って、殿下に似せた品として売り始めたって聞いて、驚いて飛んできたんです」
令嬢は息を整えながら、カウンターに置かれた見本の一つを見て、ふと表情を緩めた。それでも、すぐに元の険しさを取り戻して続ける。
「こちらのお店の品と並べて見たら、一目で分かる差だと思うんですけれど。知らない人が見たら、勘違いしてしまうかもしれませんし」
令嬢が語る話に、私は返す言葉を探せなかった。
「ありがとうございます、教えてくださって。すぐに確かめてみます」
令嬢を見送ってすぐ、私は棚の裏に立てかけていた台帳を取り出そうとした。けれど手が止まる。確かめるといっても、自分に何ができるのかは、まだ分からなかった。
その時、扉の鈴がまた勢いよく鳴った。フィオナが、いつもの快活さをかなぐり捨てたような険しい顔で駆け込んでくる。息が乱れ、裾を踏みそうな早足のまま、カウンターに両手をついた。
「リゼットさん、大変なの」
「フィオナ様も、その話……」
「殿下から直接、聞いたのよ」
息を切らせたフィオナは、乱れた前髪を手の甲で払いながら、言葉を継いだ。
「今朝、殿下のところに使者が来て、南通りの店で殿下を模した人形が売られているって報告があったの。殿下、初めは笑って済ませようとしていたのだけれど、実際に見に行った侍従が持って帰ってきた品を見て、顔色が変わったって」
「そんなに、酷い出来だったのですか」
「酷いどころじゃないわ。縫いはほつれかけているし、髪の色も殿下の実際の色と全然違う。しかも――」
フィオナは一度言葉を切り、周囲を窺うように声を落とした。
「殿下の許可を得ているような口ぶりで、客に売っていたらしいの。『王族お墨付き』なんて、勝手な札まで立てて」
その一言に、私の中で何かがはっきりと形を持った。ただの模倣品騒動とは、次元が違う話になっている。王族の許可を装って商いをするのは、ゴードンの店の評判どころではなく、罪に問われかねない行為だった。
「殿下は、どうなさるおつもりなのでしょう」
「今、内々に近衛騎士団へ話を通しているところだと思うわ。この手の話は、殿下ご自身が表に出て動くより、そちらに任せる方が収まりやすいから」
近衛騎士団、という言葉に、私は自然とカイル様の顔を思い浮かべた。彼が今この件をどう受け止めているのか、想像するだけで胸の奥がざわめく。フィオナは落ち着かない様子で店内を一往復し、棚に並んだ見本のぬいぐるみの列をぼんやりと眺めた。
「わたくしも、殿下のところへ様子を見に行ってくるわ。何か分かったら、すぐ知らせに来る」
そう言って、フィオナは扉から出て行った。鈴の音が消えるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
棚に並んだ見本のぬいぐるみたちを見つめていると、初めてカイル様のぬいぐるみを仕立てた頃のことが思い出された。あの頃はまだ、こっそり愛でるだけで満足していた。誰かに見つかったらどうしようと怯えながら、机の下に隠すようにして針を動かしていた日々を思うと、今の自分がずいぶん遠くまで来たものだと思う。それでも、店の評判が誰かの都合で歪められることには、今も昔と変わらず、静かな怒りが胸の底からせり上がってくるのを感じた。
私は台帳から手を離し、代わりにアンナと一緒に、今日届いたばかりの注文の生地を並べ直すことにした。手を動かしていなければ、落ち着かない気持ちを持て余してしまいそうだった。
◇
演習場から戻ってすぐ、俺は執務室でレイフから報告を受けていた。手渡された紙には、南通りの店の様子を記した簡素な文言が並んでいる。粗悪な人形。王族を騙る売り文句。読み進めるうちに、握った紙の端に力が入っていくのが分かった。
「殿下の使者が、直接ここへ来たんですよ。よほど困っていたんでしょうね」
「当然だろう。無許可で王族の名を使った商いは、それだけで見過ごせる話じゃない」
「以前の模倣品騒動とは、話の重さが違いますね」
レイフの言う通りだった。品質の悪さだけなら、市場の道理が自然と裁く。だが今回は、王族の権威を偽って利用しているという点で、明確に法に触れる。
「ゴードンの店を、今すぐ調べる。証拠を押さえた上で、動く」
「了解です。俺も付いていきますよ」
街の南通りに向かう道中、俺の頭の片隅には、先日リゼットに口にした「妙な輩に気を付ける」という言葉があった。あの時はまだ、漠然とした予感でしかなかった。今になって、その予感の正体が思っていたよりも大きかったことに気づく。石畳を蹴る足音だけが、二人分並んで響いていた。
ゴードンの店に着くと、店主は客の応対の最中だった。俺たちの姿を見た瞬間、その顔から一切の色が抜けた。応対していた客も、只事ではない空気を察して、そそくさと店の外へ出て行く。
「団長……どうして、こちらに」
「店先に並んでいる品を見せてもらう」
有無を言わさぬ声で告げると、ゴードンは震える手で人形を差し出した。銀色の髪のはずが、安っぽい灰色の糸で作られている。縫い目は粗く、目元と口元の刺繍は歪んでいて、片側の腕は綿の詰め方が均らされないまま、いびつに膨らんでいた。台の脇には「王族お墨付き」と書かれた札が、堂々と立てられている。
「これは、殿下の許可を得た上での品か」
「い、いえ、その……評判が良さそうな言葉を、少し借りたと言いますか」
「借りたのではない。騙ったのだ」
俺の声に、ゴードンは肩を縮めた。店の隅に控えていた店員たちも、目を合わせようとしない。棚の奥から、糊の匂いと、質の悪い染料の匂いが薄く漂っていた。
「新しい仕入れ先とやらは、今回もろくな話ではないようだな」
「安く仕入れられると言われて……。ただ、品質のことは、私も薄々気づいてはいたんです。でも、評判を落としたくない一心で……」
言い訳を並べるゴードンに、俺はそれ以上何も言わなかった。この場でどれだけ責めても、状況が変わるわけではない。必要なのは、この行為に相応の裁きを下すことだった。
「店の営業を、しばらく差し止める。その間に、王族の名を騙った件について、正式な聴取に応じるように」
「そんな……お店を閉められては……」
「自分の招いた結果だ」
短く告げて、俺は懐に押収した人形と札を収めた。レイフが背後で小さく息を吐く。
「これで、さすがに懲りるでしょうね」
「懲りるかどうかは知らん。だが、二度目は容赦しない」
演習場へ戻る道、俺は懐の人形の重さを一度確かめた。粗い糸の感触が布越しに指先へ伝わってくる。この件を、どんな形でリゼットに伝えるべきか――そればかりが、頭の中を占めていた。
◇
午後、工房で落ち着かない時間を過ごしていた頃、扉の鈴が静かに鳴った。姿を見せたのは、団服のままのカイル様だった。いつもより歩調が速く、外套の裾が乱れているのが見て取れる。
「カイル様……! どうなったの」
いつもより早口になった自分の声に驚きながら、私はカウンターから飛び出す勢いで彼の前に立った。カイル様は懐から小さな包みを取り出し、机の上に置いた。開かれた中には、くすんだ灰色の髪の粗雑な人形と、「王族お墨付き」と書かれた札が収まっている。
「これが、店に並んでいた品だ」
「これは……」
人形の出来を目にして、私は言葉に詰まった。丁寧に作られたものとは、似ても似つかない代物だった。縫い目からわずかに綿が覗いている。何より、この札の文言が、ただの模倣品騒動とは違う重さを持っている。
「王族の名を騙った商いだ。店の営業は、すでに差し止めた」
「そんなことになっていたなんて……」
「わたくしの店にも、迷惑が及ぶのではないかと思っていたけれど」
「むしろ、逆だ」
カイル様は、懐からもう一枚の紙を取り出した。目を通すと、街の商人組合からの通達だった。
「今回の件で、模倣品と正規の品を見分ける基準を、組合の側で正式に定める話が進んでいる。プラッシュ工房の仕事ぶりが、その基準の見本になった」
「見本、ですか。わたくしの店が」
「丁寧な仕立てと、モデルとなる本人への敬意を欠かさない方針――それが、この業界で守るべき道理だと、組合の側も認めた形だ」
その言葉に、私はしばらく声が出なかった。半年前の模倣品騒動から今日までの間、自分の店がやってきたことは、ただ目の前の依頼に丁寧に応えることだけだった。それが、こんな形で誰かの目に映っていたなんて、想像もしていなかった。窓から差す光の中で、棚のぬいぐるみたちの縫い目が、いつもより誇らしげに見える気がした。
「胸を張っていい話だ」
カイル様の短い言葉に、ようやく実感が追いついてくる。込み上げるものを堪えるように、私は小さく頷いた。
「ゴードンさんは、これからどうなるの」
「聴取の後、店を続けられるかどうかは分からん。少なくとも、王族の名を騙った件については、相応の罰を受けることになる」
「悪い人ではなかった気がするのだけれど……ただ、欲が先に出てしまう人だったのね」
「情けをかけるだけの余裕がある話ではないが――お前がそう思うのは、お前らしい」
その言い方に、私は思わず笑ってしまった。カイル様は机の上の粗雑な人形をもう一度手に取り、しばらくそれを見つめてから、静かに包み直した。
「これは、証拠として一旦こちらで預かる。お前が気にする必要はもうない」
「ありがとう、カイル様」
それだけでは足りない気がしたけれど、それ以上の言葉が今すぐには見つからなくて、私はただ深く頭を下げた。窓の外では午後の光がゆっくりと橙色に変わり始めている。
「披露目の宴まで、あと十日ほどだ」
ふと呟かれた一言に、私は針箱の上に置いたままの刺繍布へ目をやった。淡い金の糸で縁取られた図案は、まだ半分も進んでいない。
「そうね。今度こそ、穏やかに迎えられそう」
「油断はしない、と言ったつもりだったが」
「今日は、油断していなかったからでしょう」
軽く言い返すと、カイル様はわずかに目を細めた。それが、彼なりの笑みだということを、私はもう知っている。
「宴には、その布で作ったものを纏うつもりか」
「まだ秘密よ。当日まで、内緒にしておきたいの」
「なら、当日まで聞かないでおく」
その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。カイル様は懐に人形の包みを収め、扉の方へ足を向けた。
「また明日来る」
短く告げて、カイル様は扉を出ていった。夕暮れの通りへ消えていく背中を見送りながら、私は今日一日で起きたことを、もう一度胸の中で数え直していた。
奥からアンナが顔を出し、扉の外へ視線を投げた。
「今日は、ずいぶん忙しい一日でしたね」
「ええ、本当に。けれど――終わってみれば、悪いことばかりではなかった気がするの」
アンナは片付けの手を止め、棚の見本を一つ手に取って、埃を軽く払った。
「ゴードンさんのお店も、これで一区切りですね」
「そうね。ずっと引っかかっていたものが、ようやく片付いた気がする」
アンナは見本のぬいぐるみを棚に戻しながら、少し悪戯っぽく肩をすくめた。
「組合の見本にされるだなんて、開店した頃には考えもしなかったことですね。あの頃は、わたしも半信半疑でお手伝いしていましたけれど」
「私も、まさかここまで続くとは思っていなかったわ」
「これも、リゼット様が毎日きちんと針を動かしてきたからですよ。ずるをせず、一つ一つ丁寧に仕立ててきたから」
真正面から言われて、私は少し気恥ずかしくなり、視線を逸らした。窓の外はすでに夕闇の色を深めていて、通りを歩く人影も少なくなっている。
ゴードンの騒動は、思っていたよりずっと大きな形で幕を閉じた。けれどその結末は、私の店にとっては、決して悪いものではなかったらしい。丁寧に積み重ねてきたものが、誰かの目にきちんと届いていたという事実だけで、今はもう十分だった。
窓辺に戻り、私は刺繍布を膝の上に広げた。淡い金の糸で象ろうとしているものの輪郭が、少しずつはっきりしてくる気がする。図案の一部――小さく丸みを帯びた輪郭は、剣を模した意匠になるつもりだった。誰に見せるためでもない、自分の手元に残るものを作りたかった。
披露目の宴まで、あと十日。今度こそ、何にも邪魔されずに、その日を迎えられるはずだった。




