第50話
朝の光の角度が、少しずつ低くなってきている。窓辺に座り、私は昨夜から続けている刺繍の続きに針を落とした。選んだのは紺青でも白でもない、淡い金の糸だった。
針先を布地にくぐらせ、糸を引き抜く。その一連の動きを繰り返すたびに、小さな金の粒が布の上に連なっていく。まだ図案の輪郭をなぞっているだけの段階で、何を象るつもりなのかは、自分でもまだ決めきれていなかった。
(この色にして、正解だったかしら)
布地に浮かぶ糸目を陽にかざして確かめながら、私は小さく息をついた。窓の外では、朝露に濡れた石畳が、通行人の足音を軽く弾き返している。披露目の宴までに仕上げるつもりの品は、まだ形になり始めたばかりだ。焦る必要はないと分かっていても、指先はどうしても急いでしまう。
針を持つ手を止め、私は肩を回した。長く同じ姿勢を続けていたせいで、首の付け根が固くなっている。伸びをしながら見上げた天井の梁に、朝の光がゆっくりと筋を作っていた。
「リゼット様、また根を詰めていますね」
カウンターの向こうから、アンナが呆れたような声をかけてくる。顔を上げると、彼女は朝の配達で届いた麻布の束を抱えたまま、こちらを覗き込んでいた。
「少しだけよ。区切りのいいところまで進めておきたかったの」
「区切りのいいところって、昨日も一昨日も言っていましたよ」
言い返せず、私は針を布の縁に刺して休ませた。棚の隅に置いた見本のぬいぐるみたちが、いつも通りの丸い顔でこちらを見つめている。その隣に、まだ布のままの塊が一つ、完成を待って転がっていた。
「披露目の宴の噂、もうずいぶん広まっているみたいですよ。昨日いらしたお客様も、そのお話ばかりでしたし」
「そんなに……?」
「社交界って、そういうものでしょう。誰と誰がどうなったという話は、あっという間に駆け巡りますから」
アンナは麻布を棚に運びながら、独り言のように付け加えた。
「オクタヴィア様のお耳にも、当然入っているでしょうね」
その名前が出た途端、私は布の上で指先を止めた。ここ最近、オクタヴィア様の話をほとんど聞かなくなっていたことに、今さら気づく。噂話の渦中にいた頃は、彼女の名前を耳にするたびに身構えていたのに。
「最近、姿を見かけないと思わない? 夜会にもあまり出ていらっしゃらないみたいだし」
「そういえば、そうですね。前は必ずどこかの茶会にいらっしゃる方でしたのに」
二人で顔を見合わせ、どちらからともなく口をつぐんだ。街で会った日のオクタヴィア様の横顔が、ふと頭をよぎる。取り澄ました顔の下に隠れていた、あの寂しげな響き。今もまだ、あの言葉の続きを抱えたままでいるのだろうか。
開店の準備を整えていると、扉の鈴が控えめに鳴った。顔を上げると、フィオナが一人で入ってくるところだった。いつもの快活さは変わらないが、表情のどこかに、探るような色が混じっている。
「おはよう、リゼットさん。ちょっと、聞いてほしい話があって」
「どうしたの、改まって」
「昨日、殿下のところに出入りしている侍女から聞いたのだけれど――オクタヴィア様、近いうちに、しばらく領地へ戻られるらしいの」
思いがけない話に、私は手にしていた糸巻きを危うく取り落としそうになった。
「領地に……」
「療養、ということになっているみたいだけれど。本当のところは分からないわ」
フィオナは眉を寄せ、カウンターに片肘をついた。
「わたくしも、あの方のことは好きではなかったけれど。噂を流されたり、嫌な思いをさせられたりしたのは事実だし。でも――」
「でも?」
「なんだか、放っておけない気がして。あなたも、少しはそう思っているんじゃない?」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。オクタヴィア様への複雑な感情は、この数ヶ月ですっかり形を変えてしまっている。憎しみとも違う、けれど手放しに同情するのとも違う、名前のつけにくい気持ちだった。
フィオナは肘をついたまま、しばらく窓の外を眺めていた。通りを歩く人々の影が、ガラス越しに小さく揺れている。
「殿下のところにも、オクタヴィア様の話は伝わっているみたいなの。表立って何かするつもりはなさそうだけれど、社交界からは、しばらく距離を置くおつもりなんじゃないかって」
「そう、なのね」
「わたくしが言えることじゃないけれど――あなたのことだから、何も知らずに宴を迎えるより、心構えはあった方がいいと思って、伝えに来たの」
フィオナらしい、遠回りに見えて筋の通った気遣いに、私は小さく頭を下げた。フィオナは扉に向かいかけて、思い出したように振り返る。
「そうそう、ついでにもう一つ。ゴードンの店、また新しい仕入れ先を見つけたらしいって噂を聞いたわ。懲りない人ね、本当に」
「また、なの……」
「大したことにはならないと思うけれど、一応、耳には入れておこうと思って」
軽い調子で言い残し、フィオナは手を振って店を出て行った。模倣品の騒動はとうに沈静化したはずだったのに、その一言が、思いのほか胸の奥に小さく引っかかった。
◇
演習場の一角、俺はレイフから渡された報告書に目を通していた。近頃、街で起きた小さな諍いの記録が並ぶ、退屈な内容だった。
「団長、聞きました? 南通りの、ゴードンの店の噂」
「なんの話だ」
「また新しい仕入れ先を見つけたらしいですよ。市場の連中が噂してました。前の騒動で懲りたかと思ってたんですけどね」
報告書をめくる手を止め、俺はレイフの方を見た。
「今度は何を売るつもりなのか、まだ分かりませんけど」
「品の中身までは分からんのか」
「そこまでは。ただ、何となく気になるじゃないですか。団長も、前に妙な輩がいるって言ってたし」
その言葉に、俺は短く息を吐いた。披露目の宴を前に口にした「妙な輩」という一言は、明確な根拠があったわけではない。ただ、披露目の噂が広まれば、それに便乗しようとする者が出てもおかしくはなかった。
「噂だけで動くわけにはいかん」
「でも、気にはなるでしょう」
レイフの言葉に、俺はしばらく黙り込んだ。リゼットのことを考えれば、放っておいていい話ではなかった。
「南通りの店に何か動きがあれば知らせろ」
「了解です。にしても団長、最近ずいぶん過保護になりましたね」
「当然のことだ」
迷わず答えると、レイフは肩をすくめて笑った。
「そこまで言い切られると、こっちも何も言えませんね。まあ、団長がそこまで気にかけるってことは、それだけヴァランタイン嬢のことを大事に思ってるってことなんでしょうけど」
「余計な解釈はいらん」
「解釈も何も、見たまんまですよ」
軽く肩をぶつけられ、俺は的の縄を締め直す作業に戻った。木槌を握り直しながら、街の生地屋の店先でリゼットと初めてまともに言葉を交わした日のことを、ふと思い出す。あの頃はまだ、持ち主の令嬢がどんな人物かも知らなかった。今では、彼女の些細な表情の変化ひとつで、こちらの一日の調子まで左右される。
的の向こうに広がる秋の空を見上げ、俺は報告書を懐に収めた。
◇
午後、店番をアンナに任せて、私は裁縫箱の整理をしていた。棚の奥にしまい込んでいた古い端切れを見返していると、扉の鈴が控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げて、私は息を呑んだ。戸口に立っていたのは、供も連れずに一人で現れたオクタヴィア様だった。旅装らしい簡素な外套を纏い、以前のような華やかな装いはどこにもない。頬にはわずかにやつれの色が見えた。
「オクタヴィア様……」
(どうして、ここに……?)
「お邪魔ですかしら」
いつもの取り澄ました声とは違う、どこか探るような響きだった。私は慌てて立ち上がり、店の奥へ視線を送る。アンナは黙って頷き、私たちだけになれるよう、控えめに奥の扉の向こうへ下がっていった。
「かまいません。どうぞ、お掛けになって」
椅子を勧めると、オクタヴィア様は静かに腰を下ろした。外套の裾を整える指先が、いつもよりずっとゆっくりと動いている。しばらくの間、彼女は膝の上で組んだ手を見つめたまま、何も言わなかった。窓の外を荷馬車が通り過ぎる音が、やけに大きく響く。
私は湯気の立つ紅茶を淹れ、彼女の前にそっと置いた。オクタヴィア様はカップに口をつけることなく、両手でそれを包み込むように持ったまま、視線を落としている。棚に並んだぬいぐるみたちの丸い瞳が、二人の沈黙を静かに見守っているようだった。
「領地に戻られると、フィオナ様から伺いましたわ」
沈黙を破るように切り出すと、オクタヴィア様は小さく頷いた。
「明日の朝、発つ予定ですの。その前に、一度きちんとお話ししておきたくて」
「わたくしに、ですか」
「ええ」
オクタヴィア様は顔を上げ、まっすぐに私を見た。以前の刺すような視線とは違う、どこか覚悟を決めたような静けさがそこにあった。
「あなたへの噂話も、嫌がらせも――行き過ぎたことをしたと、分かっておりますの。あの日、工房に乗り込んで、あなたを追い詰めるような真似をしたことも」
「オクタヴィア様」
「最後まで、聞いてくださいまし」
珍しく食い下がるような口調に、私は口をつぐんだ。オクタヴィア様は膝の上の手を握り直し、ゆっくりと言葉を続けた。
「街でお会いした時にも申しましたけれど――いずれはあの方と一緒になるのだと、ずっと信じて疑いませんでしたの。好きだという気持ちも、本物だったつもりですわ」
「ええ」
「でも――本当は、ずっと気づいていたのかもしれません。あの方が、わたくしを見る目に、特別なものなんて一度もなかったことに」
わずかに声を震わせながらも、オクタヴィア様は目を逸らさずに続けた。
「家格が釣り合うから。それだけの理由で、いつか振り向いてくださるはずだと信じ込んでいた自分が、今になって恥ずかしくて仕方がありませんの。あなたに何をぶつけても、あの方の気持ちが変わるはずなどないのに」
窓から差し込む午後の光が、オクタヴィア様の頬を薄く照らしている。私は何も言わず、ただ彼女の言葉を受け止めていた。ここで安易な慰めを口にするのは、違う気がした。
「好きだった気持ちは本物でも、それを理由に人を傷つけていい道理は、どこにもありませんでしたわ」
何と答えればいいのか分からず、私はただ小さく頷くことしかできなかった。
「領地で、少し頭を冷やそうと思いますの。父からも、そろそろ良い縁談があると聞かされておりますし。逃げるようで情けないけれど、今のわたくしには、それが必要な気がして」
その言葉に、私はようやく口を開いた。
「逃げる、とは思いませんわ」
オクタヴィア様が、はっとしたように顔を上げる。
「ちゃんと自分の気持ちに向き合って、次に進もうとしていらっしゃるのでしょう。それは、逃げることとは違うと思います」
しばらくの沈黙のあと、オクタヴィア様の口元に、これまで見たことのない種類の笑みが浮かんだ。強がりでも、皮肉でもない、どこか脆さの滲む笑みだった。
「あなたにそう言われると、妙に効きますわね」
「効くだなんて」
「悔しいけれど、本当のことですもの」
オクタヴィア様は小さく笑って、ようやくカップに口をつけた。紅茶を一口含んで、静かに息を吐く。その仕草には、店に入ってきた時にはなかった、わずかな緩みが見て取れた。
「美味しいですわね、これ」
「よろしければ、もう一杯淹れましょうか」
「いいえ、結構ですわ。長居をするつもりで来たわけではありませんの」
オクタヴィア様はカップをそっとソーサーに戻し、立ち上がった。外套の乱れを整えながら、店の中をぐるりと見回す。棚に並んだ見本のぬいぐるみたちに視線を留めて、ほんの一瞬、目を細めた。
「披露目の宴には、出席させていただきますわ。領地に発つ前に、決めておきたかったことの一つですの」
「本当に……よろしいのですか」
「けじめですわ。逃げたまま終わらせては、格好がつきませんもの」
扉に向かいかけたオクタヴィア様は、途中でふと足を止め、こちらを振り返った。
「リゼット様」
「はい」
「あなたが選ばれた理由が、今なら少しだけ分かる気がしますわ。あの方は、飾りのない本音を、きちんと見てくださる方だから」
それだけ言い残すと、オクタヴィア様は静かに扉を開け、午後の通りへ姿を消していった。鈴の音が名残のように店内に響き、それが消える頃、私はようやく詰めていた息を吐き出した。
奥からアンナが顔を出し、心配そうにこちらを窺う。
「大丈夫ですか、リゼット様」
「ええ。少し、驚いただけよ」
椅子に座り直すと、膝の上に置いた手が、まだ小さく震えているのに気づいた。安堵なのか、別の感情なのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、長い間胸の奥に引っかかっていた棘が一つ、静かに抜け落ちたような感覚だけが残っていた。
◇
夕刻、工房の片付けを終えた頃、扉の鈴がいつもより控えめに鳴った。顔を上げると、団服のままのカイル様が立っている。
「カイル様。今日は早いのね」
「近くまで来る用があった」
いつもの素っ気ない言い訳に、私は小さく笑った。カイル様は椅子には座らず、カウンターに軽く肘をついて、こちらの顔を覗き込んでくる。
「何かあったのか。顔色が、いつもと違う」
(どうしてこの人には、すぐに分かってしまうのかしら)
見抜かれていることに驚きながら、私は今日の出来事を順に話した。オクタヴィア様が一人で訪れたこと、領地に戻る前に伝えに来たという言葉、そして最後に見せたあの笑み。カイル様はしばらく黙って耳を傾け、最後まで聞き終えると、静かに息をついた。
「そうか」
「それだけ?」
「他に言いようがない。あの人が、自分の言葉でそこまで言えるようになったのなら――それでいい」
窓の外では、夕暮れの光が通りをゆっくりと橙色に染め始めていた。カイル様は懐から小さな紙包みを取り出し、机の上に置く。
「差し入れだ。近くの店で買った」
開けてみると、蜂蜜漬けの木の実が、小さな瓶に詰められている。私は思わず頬を緩めた。
「相変わらず、口では素っ気ないのに、こういうところは律儀なのね」
「腹が減っていると、機嫌が悪くなるだろう、お前は」
「そんなことないでしょう」
「いいや、そうだ」
迷いのない返事に、私はおかしくなって吹き出してしまった。カイル様はふと、私の手元に置かれたままの刺繍布に目を留める。
「それは、何を作っている」
「披露目の宴に向けて、少しずつ。自分のために作るものなの」
金糸の縫い目を指でなぞると、カイル様はしばらくそれを見つめ、それからいつになく柔らかな声で言った。
「楽しみにしている」
その一言だけで、私は頬が緩むのを抑えられなかった。差し出された木の実を一つ摘まむと、蜂蜜の甘さが口の中に広がった。カイル様は帰り際、扉の前で一度足を止め、こちらを振り返る。
「明日、南通りの店に何か動きがあれば、知らせが入る手筈になっている。何かあれば、すぐに俺のところへ来い」
「もう、大きな心配はいらない気がするけれど」
「念のためだ」
用心深いカイル様らしい言葉に、私は頷くしかなかった。カイル様は馬の手綱を受け取りながら、思い出したように口を開いた。
「今日、レイモンド嬢の相手をしたのは、お前だ。よくやった、とは軽々しく言えないが――一人で抱え込まなくて、それでよかったと思っている」
不器用な言い回しの奥に滲む労いを受け取って、私はしばらく言葉を探せずにいた。
「一人で抱え込むつもりなんて、なかったもの。カイル様がいてくださるって、知っていたし」
その一言に、カイル様は一瞬だけ言葉を探すように黙り込み、それから短く頷いた。馬上に上がる背筋は、いつも通りまっすぐだった。
夕闇に染まる通りへ消えていく背中を見送りながら、月末の披露目の宴が、少しずつ現実味を帯びてくるのを感じていた。
◇
その夜、寝台に横たわりながら、私は今日一日の出来事を思い返していた。オクタヴィア様が見せた、あの脆さの滲む笑み。長い間、意地と思い込みの後ろに隠れていた本音が、ようやく形になった瞬間だったのかもしれない。
窓辺の裁縫箱に目をやると、金糸で縁取られた刺繍布が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。披露目の宴までの日々は、もう波乱もなく穏やかに過ぎていくのだろうか。そう思いかけたところで、ふと昼間のフィオナの一言が頭をよぎった。ゴードンの店が、また新しい仕入れ先を見つけたらしいという、あの軽い調子の噂話。
聞いた時は聞き流していたはずのその一言が、今になって小さな棘のように引っかかる。模倣品の騒動はとうに沈静化したはずだった。けれど噂というものは、思わぬところでまた顔を出す。カイル様が口にした「油断はしない方がいい」という言葉が、耳の奥で静かに繰り返されていた。
月明かりの下、私はしばらく天井を見つめたまま、眠りが訪れるのを待っていた。披露目の宴までの日々に、まだ何かが静かに動き出そうとしている気配だけを残して。




