第49話
朝から、工房の空気がいつもと違って感じられた。棚を拭く手つきも、糸を巻き直す手つきも、いつもより落ち着きを欠いている気がして、私は何度も同じ場所に触れては、そのたびに手を止めていた。
「リゼット様、さっきから同じ棚を三度も拭いていますよ」
「そう、だったかしら」
「そうです。糸巻きも、色の順を間違えたまま戻していましたよ」
指摘されて棚を見返すと、たしかに赤の糸の隣に紫の糸が並んでいた。慌てて並べ直しながら、私は小さく息を吐いた。
「私、そんなに分かりやすい?」
「今日に限っては、誰が見てもわかります」
アンナは苦笑しながら、暖炉の前の椅子を私のために引いた。座るよう促されても腰を下ろす気になれず、私は窓辺に立ったまま外を見つめた。通りを行き交う人々は、いつもと変わらない足取りで歩いている。世界の方は何も変わっていないのに、自分の内側だけが妙に落ち着かない。
昨夜、カイル様が口にした「明日、お前の屋敷を訪ねることになった」という一言が、頭の中で何度も繰り返されていた。用件を書かなかったという父の手紙のことも、思い出せば思い出すほど、心の置きどころが定まらなくなる。
開店してすぐ、常連の子爵令嬢が注文の品を受け取りに訪れた。
「リゼット様、おはようございます。あの子、できあがりました?」
「ええ、お待たせしました」
棚から包みを下ろして、中身を確かめてもらう。垂れた耳に、少しとぼけた丸い目。犬のぬいぐるみを目にした途端、令嬢の顔がぱっと輝いた。
「わあ、そっくり……!」
ところが、包み直そうとした指がうまく動かない。リボンの結び目が歪んで、一度ほどいて結び直す。それでも形が決まらず、もう一度。
「……リゼット様、大丈夫ですか? 今日、なんだかぼんやりしてらっしゃいません?」
「だ、大丈夫です。お代は――」
告げた金額の語尾が、自分でも分かるほど上ずった。令嬢はくすくすと笑いながら包みを抱え、「お大事にしてくださいね」と言い残して店を出ていった。
(お大事にって……病人扱いされたわ……)
「今の様子、絶対に旦那様には見せられませんね」
カウンターの奥から見ていたアンナに指摘されて、私は思わず両手で顔を覆った。
午前も半ばを過ぎた頃、工房の扉が控えめな音を立てて開いた。顔を上げると、外套を羽織った母クラーラが、こちらへ向かって微笑みかけていた。
「お母様。どうしてここへ」
「様子を見に来ただけよ。今日は落ち着かない一日になりそうだと思って」
母は棚の見本のぬいぐるみを一つ手に取り、その丁寧な縫い目を指先でなぞりながら、ゆっくりと工房の中を見て回った。
「お父様は、何を考えていらっしゃるの? 用件も書かずに、明日来てほしいだなんて」
「さあ。あの人は、大事な話ほど手紙に残したがらない性分だから」
「それって、悪い話だから隠しているということ?」
「違うわ」
母は即座に否定して、私の隣に並んだ。
「悪い話なら、あの人はもっと早く、もっと回りくどく前置きをするの。何も書かずに、ただ来てほしいとだけ書くのは――覚悟を決めた時のあの人の癖よ」
その言葉に、少しだけ胸の重さが軽くなる。けれど、完全に不安が消えたわけではなかった。覚悟を決めたという言葉が、どちらの方向を向いているのか、私にはまだ分からない。
「心配しすぎても仕方がないもの。今日はいつも通りに過ごすことにするわ」
「それがいいわ。もっとも――」
母は悪戯っぽく目を細めて、私の肩に手を置いた。
「いつも通りに過ごすと言いながら、その顔では説得力がないけれどね」
からかわれて、私は言葉に詰まった。アンナが横でこっそり笑いを堪えているのが見えて、仕方なく肩をすくめる。棚に並んだ見本のぬいぐるみたちの、丸い顔だけがいつも通りにこちらを見つめていた。
(お母様にまで見抜かれるなんて……そんなに顔に出ているのかしら)
◇
演習場の隅で、俺は剣の手入れをしながら、伯爵からの書状を懐から取り出しては、また戻すということを繰り返していた。刃についた汚れを布で拭う手つきが、いつもより雑になっている自覚はあった。
隣に腰を下ろしたレイフが、俺の手元を一瞥してから、何でもない調子で口を開いた。
「まあ、大丈夫でしょう。ヴァランタイン伯爵は、噂じゃ娘の言うことにはとことん甘い人らしいですし」
「噂を鵜呑みにするな」
「じゃあ団長は、何を根拠に大丈夫だと思ってるんです?」
根拠と言われて、すぐには答えられなかった。根拠などない。あるのは、リゼットと重ねてきた時間と、逃げるつもりはないという約束だけだった。
「根拠はない」
「潔いですね、それはそれで」
レイフは軽く笑って、俺の背中を叩いた。痛みはないが、その気安さに、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「何か、言う言葉は決めてるんですか。伯爵に」
「決めていない」
「決めてから行った方がいいですよ、普通は」
「取り繕った言葉を並べて、見透かされない相手だとは思えん」
レイフは意外そうに眉を上げてから、ふっと表情を緩めた。
「団長らしいと言えば、団長らしいですね。それでいいと思いますよ」
的の向こうに広がる空を見上げ、俺は懐の書状をもう一度確かめてから、演習場を後にした。
◇
ヴァランタイン邸の門をくぐるのは、これで何度目になるだろうか。案内された書斎の扉の前で、一度だけ深く息を吸ってから、ノックをした。
「入ってくれ」
扉を開けると、伯爵は執務机の向こうから立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。机の上には書類が几帳面に揃えられ、暖炉の薪が小さく爆ぜている。
「よく来てくれた。かけてくれ」
勧められた椅子に腰を下ろすと、伯爵も向かいに座った。膝の上で組まれた指が、一度だけ組み直される。何を告げられるのか分からない以上、肩の力はまだ抜けなかった。
「用件も告げずに呼び出したことを、まず詫びよう。急な呼び出しに驚かせたのなら、すまなかった」
「いえ」
「先日は、言いにくいことまで打ち明けさせてしまったな。王弟という立場を表に出さず、実力だけで近衛の地位を築いてきた男だということは、よく分かった」
「立場を利用するつもりは、これまでも、これからもありません」
「分かっている。だからこそ今日は、一人の父親として話がしたかった」
伯爵は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。外を眺める背中は、思っていたよりも小さく見えた。
「娘は、伯爵家の一人娘として生まれながら、庶民のような商いを始め、それを誰に恥じることもなく続けてきた。親として、正直に言えば――最初は戸惑いしかなかった」
「存じ上げています」
「だが、あれの店に足を運ぶ客が、皆一様に笑顔で帰っていくのを見た時、戸惑いは別のものに変わった。あれは、自分の力だけで、何かを築き上げたのだと」
伯爵は窓辺から戻ると、机の引き出しから小さな包みを取り出した。開かれた中から現れたのは、金色の髪をした、手のひらほどのぬいぐるみだった。
「先月、人目を忍んで店を覗きに行った。外套の襟を立てて、帽子を目深にかぶってな。しばらく様子を眺めてから、娘が奥に下がった隙に、アンナに頼んで作ってもらった。娘には黙っているよう、口止めしてある」
「伯爵が、直々に……」
「親馬鹿だと笑えばいい。だが、あそこで働く娘の顔を見て、初めて得心がいった。あれは、誰かに与えられた幸せではなく、自分の手で掴み取った幸せの顔だとな」
伯爵は顔を上げ、まっすぐに俺を見た。
「その娘の隣に貴殿がいてくれることを、心から嬉しく思う」
その一言をどう受け止めればいいのか、すぐには分からなかった。何かを言おうとしたが、うまく言葉にならない。
「身に余るお言葉です」
「堅くならなくていい。ただ――」
伯爵の口元に、初めて小さな笑みが浮かんだ。
「これからは、堅苦しい呼び方はよそう。カイル殿と呼んでも構わないか」
名を呼ばれたのは、これが初めてだった。硬く握っていた拳から、知らぬ間に力が抜けていくのが分かる。
「――ありがとうございます」
短く答えた声が、思っていたよりも掠れていた。
◇
書斎の扉が開く音を、私は客間の長椅子に腰掛けたまま、聞き逃さないように耳を澄ませていた。母は涼しい顔で刺繍の続きに指を動かしていたが、その針の運びは、いつもよりずっと遅い。
足音が近づいてきて、扉が開く。姿を見せたのはカイル様で、その表情はいつもと変わらないように見えたけれど、私にはどこか強張りが解けたように映った。
「カイル様……」
立ち上がろうとすると、後から書斎を出てきた父が、静かな声で告げた。
「茶でも出してくれ。堅苦しい話は、もう終わった」
その一言だけで、肩に入っていた力がどっと抜けていく。頷くことしかできずにいると、母がすかさず侍女に声をかけ、手際よく茶器の準備を整えていった。
円卓に着いた四人の間に、湯気の立つ紅茶が並べられる。カイル様は普段とは違う、父の隣の椅子に腰を下ろしていた。その並びだけで、何かが変わったのだと分かる気がする。
「一体、何をお話しになっていたの?」
我慢できずに尋ねると、父はカップに口をつける前に、ちらりとカイル様へ視線を送った。
「大した話ではない。父親として、当然のことを伝えただけだ」
「当然のこと、って」
「お前が心配するようなことは、何一つない。それだけは言っておこう」
はぐらかされた気がして、私はカイル様の方を見た。彼は小さく頷き、それ以上は多くを語らない。
「詳しくは、また今度話す」
「今度っていつ?」
「今度は今度だ」
あまりにそっけない答えに、私は思わず頬を膨らませた。それを見ていた母が、堪えきれない様子で小さく吹き出す。
「あなたたち、もうすっかり息が合っているのね」
「お、お母様ったら……」
「あら、褒めているのよ」
母にからかわれて、私とカイル様は同時に目を逸らした。その反応がまた息ぴったりだと、父まで小さく肩を揺らして笑っている。書斎から出てきた時の改まった様子はどこにもなく、いつもの――娘に甘い父の顔が、そこにはあった。
紅茶を飲み終える頃、父が改めて口を開いた。
「近いうちに、正式な場を設ける。二人のことを、親族にも周囲にも、きちんとした形で知らせるための場だ」
「正式な場、ですか」
「披露目の宴、と言えば分かりやすいか。堅苦しいものにするつもりはないが――もう、隠しておく理由もないだろう」
その言葉に、私は思わずカイル様の顔を見た。彼もまた、驚いたようにこちらを見返している。二人の視線が絡み合うと、どちらからともなく小さく笑みがこぼれた。
(披露目の宴……私たちのための、宴……)
「よろしいのですか。わたくしたちの都合だけで、決めてしまって」
「都合ではない。お前たちのために設ける場だ。遠慮せず、楽しみにしていろ」
父の言葉に、母が満足げに頷いている。窓の外では午後の日差しが少しずつ傾き始め、庭の木々の影が長く伸びていた。
控えていた侍女が新しい紅茶を注ぎ足しに来て、カップの縁に湯気が立ち上る。ふと廊下の陰に目をやると、アンナと目が合った。人前では決して崩さない澄まし顔のまま、目だけで大げさに喜んでいる幼馴染の姿に、私は噴き出しそうになるのを堪えた。
「日取りは、月末を考えている。あまり先延ばしにする理由もないからな」
「月末……」
思っていたよりずっと早い話に、私は思わず声を上げそうになった。指折り数えれば、あとひと月もない。
「早すぎると思うか」
「いいえ。ただ、少し驚いてしまって」
「準備は私と母さんで手配する。お前たちは、当日を迎える心構えだけしておけばいい」
あっさりと言い切る父の様子に、これまでの板挟みの日々が嘘のようだと思う。けれど、その軽やかさの裏には、娘の幸せをようやく心から喜べるようになった安堵が滲んでいるようにも見えた。
◇
夕刻、カイル様を見送るために、私は門の前まで付き添った。門の外に控えていた馬の手綱を受け取りながら、彼はふと足を止め、こちらを振り返った。
「披露目の宴か」
「ええ。急に決まって、わたくしもまだ実感が湧かないくらい」
「社交界に知れ渡れば、もう誰も口を挟めなくなる。それでいいんだな」
確かめるような問いに、私は迷わず頷いた。
「ええ。もう、隠す理由なんて、どこにもないもの」
カイル様は小さく頷き返すと、手綱を握る手に力を込めた。馬上に上がる前に、もう一度だけこちらを見下ろす。
「――披露目の日まで、お前の店に妙な輩が近づかないよう、目を光らせておく」
「妙な輩なんて、そうそう現れないと思うけれど」
「油断はしない方がいい。噂は、思わぬところから広まるものだ」
その言葉に、私は小さく首を傾げた。何か気になることでもあるのかと尋ねようとしたが、カイル様はすでに馬に乗り、軽く手綱を引いていた。
「また明日」
短く告げて、彼は夕闇の中へ馬を進めていく。手綱を操る背筋はいつも通り真っ直ぐで、揺らぎの欠片も見当たらない。それなのに、最後に振り返った眼差しには、確かに何かを見定めるような硬さが残っていた。その後ろ姿が見えなくなるまで、私は門の前に立ち尽くしていた。妙な輩、という言葉が、なぜか耳の奥に小さく引っかかったまま離れない。
屋敷に戻ると、母が居間で刺繍の道具を片付けながら、こちらへ柔らかな視線を向けた。
「披露目の宴、楽しみね」
「ええ。でも――」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
「どうかしたの?」
「ううん、何でもないわ。ただ――忙しくなりそうだと思って」
母に向けて微笑みながら、私は窓の外の暗くなり始めた空を見上げた。
自室に戻り、寝台の端に腰掛けて、私は今日一日の出来事を一つ一つ思い返していた。書斎で父が何を告げたのか、カイル様は結局そのままの形では教えてくれなかったけれど、あの日差しの中で交わされた四人分の笑い声だけで、十分すぎるくらいだった。
窓辺に置いた裁縫箱の蓋を開け、私は小さな布切れを取り出した。披露目の宴に向けて、何か特別なものを一つ、自分の手で仕立てておきたい。誰に頼まれたわけでもない、自分自身のための一針を思い描きながら、私はしばらく生地の色を見比べていた。紺青と、白と、迷った末に選んだのは、どちらでもない新しい色の糸だった。
窓の外では、月明かりが庭木の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。月末までの日々が、穏やかなものになるのか、それとも何かが動き出すのか――今はまだ、誰にも分からなかった。




