第48話
朝の光が工房の窓辺に温かく差し込んでいた。棚に並んだ端切れの色が、心なしかいつもより鮮やかに見える。カウンターの上を丁寧に拭きながら、私はふと手を止めて、ここ数日の出来事を思い返していた。
(マリーもフィオナも、ちゃんと前に進んだわね……)
心の中でそっと呟くと、頬がゆるむのを止められなかった。二人の晴れやかな顔を思い浮かべるだけで、自分のことのように嬉しくなる。
「今朝は、やけに機嫌がよろしいですね」
暖炉の灰を掃いていたアンナが、手を止めてこちらを窺う。私は誤魔化すように布巾を握り直した。
「そう見える?」
「見えますとも。昨日から、ずっとそのお顔ですわ」
アンナはくすりと笑って、灰を集めた小さな箱を脇へ避けた。窓の外では、通りを行き交う人々の足音が、いつもより軽やかに響いている気がする。秋の終わりの澄んだ空気が、街全体をどこか浮き立たせているのかもしれない。
「マリーとフィオナ様のことを考えていたの。二人とも、ようやく自分の気持ちに正直になれたんだもの」
「リゼット様が、ずっと背中を押していらしたからでしょう」
「そんな、大したことは何もしていないわ。二人が、自分の足で歩いただけよ」
そう言いながらも、棚の端に並べた見本のぬいぐるみの列を、私はもう一度目で追った。布地の余り、糸の切れ端、古びた型紙――この一年で積み重ねてきたものが、こうして小さな棚一つを埋めるまでになっている。開業したばかりの頃は、注文帳の余白がいつまでも白いままで、それを見るたびに不安になったものだった。今はもう、その余白を心配する暇もないくらい、日々が埋まっている。
棚の隅に置いた小さな裁縫箱の蓋を開け、私は昨夜のうちに仕上げておいた品を取り出した。小さな巾着に、それぞれに縁のある色の糸で刺繍を入れたものだった。マリーには彼女の瞳に近い榛色、フィオナには殿下の瞳を思わせる藍色の糸を選んでいる。糸を選ぶ間、二人の顔を思い浮かべながら針を進めていたら、いつの間にか夜も更けていた。
「まあ、素敵。お二人へのお祝いですの?」
「ちょっとしたお祝いよ。今度、二人が来た時に渡すつもりなの」
巾着の縁をなぞる指先に、糸のわずかな凹凸が触れる。針を進めるたびに友人の顔を思い浮かべていた時間が、今になって愛おしく思えた。
工房の扉の鈴が、控えめな音を立てて鳴ったのは、そんな矢先だった。顔を上げると、外套の前をかき合わせたマリーと、いつもより幾分軽い足取りのフィオナが、並んで立っていた。
「お邪魔してもいいかしら」
「もちろんよ。ちょうど、二人に渡したいものがあったの」
私が巾着を差し出すと、二人は目を丸くしてから、顔を見合わせた。
「わたくしたちに?」
「ええ。これからも、その調子で歩いていけるように」
マリーは巾着を両手で受け取り、糸の色を確かめるように光にかざした。
「榛色……これ、わたしの瞳の色だわ」
「エドガー様が選んでくださった髪留めの色にも、近いんじゃないかしら」
それを聞いたマリーの頬に、みるみる赤みが差す。フィオナは自分の巾着を胸元に押し当て、満足げに息を吐いた。
(マリーったら、耳まで真っ赤……エドガー様の名前を出しただけなのに)
「相変わらず、こういうところで手を抜かない人よね、リゼットさんは」
「せっかくの機会だもの。少しくらい張り切っても、罰は当たらないでしょう」
「それにしても、フィオナ様の巾着の色、随分と深みがありますのね」
アンナが横から覗き込むと、フィオナは巾着を掲げるようにして笑った。
「殿下の瞳の色に、少し似ているわね。リゼットさん、そういうことなのでしょう?」
「まあ、隠しておくつもりだったのに」
「この色を見れば、すぐに分かるわ」
軽く言い返されて、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。カウンター越しに笑い合っていると、フィオナがふと、思い出したように懐から小さな包みを取り出した。
「実は、わたくしたちからも、渡したいものがあるのよ」
「私に?」
戸惑いながら受け取った包みを開くと、中には小さな刺繍入りのハンカチが入っていた。控えめな花の意匠が、丁寧な針目で縁取られている。
「マリーと一緒に、こつこつ仕上げたの。あなたはいつも誰かのために針を動かしているけれど、たまには自分のために誰かが縫ったものを持っていてほしくて」
「これ……二人で?」
「不格好な出来だと思うけれど」
マリーが恥ずかしそうに言葉を添える。私はハンカチの縁を指先でなぞり、しばらく言葉が出てこなかった。誰かのために縫うことばかり考えてきたこの手が、こうして誰かから受け取る側になる日が来るとは、思ってもいなかった。
針目の一つ一つを目で追うと、二人が慣れない手つきで丁寧に仕上げてくれた時間まで伝わってくるようで、胸が温かくなった。
(だめ、こういうのには弱いのよ……)
「不格好なんて、そんなことないわ。すごく、嬉しい」
声が少し震えているのに気づいて、私は慌てて咳払いをした。隣で様子を見ていたアンナが、涙ぐみそうな顔でそっと目頭を押さえている。
「アンナまで泣かないでちょうだい」
「申し訳ございません。あまりにも、美しい光景でしたので」
その言い草に、工房の中に笑い声が広がった。窓から差し込む秋の光が、カウンターの上に置かれた三つの品を、優しく照らしていた。
◇
演習場の一角で、俺は訓練を終えた隊員たちが引き揚げていくのを見届けながら、レイフの報告に耳を傾けていた。終了を告げる号令が、乾いた空気に響く。
「エドガーの様子、聞きたいですか」
「聞かせろ」
「今日は随分と調子がよかったですよ。組手でも動きに迷いがなくて、教官に褒められてました。本人は、いつも通りの顔をしてましたけどね」
軽口交じりの報告に、俺は短く息を吐いた。気持ちがよい方に働いているのなら、それでいい。視線を演習場へ戻すと、最後まで残っていた隊員が武器を片付けているところだった。
「団長のところは、順調そうで羨ましいですよ。この間もヴァランタイン嬢と、随分楽しそうに歩いていたって、うちの妹が」
「余計な報告だな、それは」
「妹は妹で、団長のことを見かけると必ず報告してくるんですよ。もう半分、私設の見張り役です」
答えに困って黙り込んでいると、演習場の入り口の方から、伝令らしい若い騎士が小走りに近づいてきた。革靴の底が、乾いた土を蹴る音がやけに大きく聞こえた。
「アシュフォード団長、こちらへ書状が」
受け取った書状には、見慣れたヴァランタイン家の紋章が押されていた。差出人は伯爵本人らしい。開いてみると、簡潔な文面で、明日の午後、屋敷を訪ねてほしいという旨が記されていた。用件については一言も書かれていない。
「団長、顔つきが変わりましたね。悪い知らせですか」
「悪い知らせではないはずだ。伯爵から、明日屋敷に来てほしいと」
「それだけですか。用件も書かずに?」
「それだけだ」
レイフは口をつぐみ、珍しく茶化すのをやめた。俺自身、書状を握りしめたまま、しばらく動けなかった。リゼットから、伯爵が俺たちの関係を周囲へきちんと示そうとしていると聞いている。ならば、この呼び出しもその話に関わるのだろう。悪い話ではないと分かっていても、父親から直接、用件も告げられずに呼び出される――二度目とはいえ、慣れるものではなかった。
「ここで考えても、しょうがないでしょう。明日になれば分かることです」
「それはそうだが」
手元の書状にもう一度目を落とした。前に向き合った時の、伯爵の見透かすような目を思い出す。歓迎するつもりだと分かっていても、娘の相手として何を問われるのかまでは分からない。考え始めると、いくらでも身構える理由が浮かんできた。
「前に呼ばれた時より、よっぽど落ち着かない顔してますよ。案外、可愛いところもあるんですね」
「余計な口を挟むな」
睨むと、レイフは肩をすくめ、残っていた隊員たちの方へ戻っていった。俺は書状を懐へ収め、演習場の向こうに広がる空を見上げた。澄んだ青に、高い雲が薄く流れている。
◇
午後になって、工房には思いがけない客がもう一人現れた。団服ではない外套姿のエドガーが、少し緊張した様子で戸口に立っている。
「お邪魔してもよろしいでしょうか。マリー嬢がこちらにいると伺って」
「エドガー様……!」
マリーが椅子から腰を浮かせると、エドガーは持っていた小さな紙袋を軽く持ち上げた。
「稽古の帰りに、市場で見かけたので。焼き栗です、まだ温かいうちに」
「わざわざ、届けに来てくださったの?」
「ついでです。ついで、というほど大した用ではありませんが」
言葉の選び方が不器用なところに、私は思わず口元を緩めた。フィオナも同じことを思ったらしく、こっそりマリーを肘でつついている。
(ついで、を二回も言ったわね……)
「まあ、エドガー様まで。今日はなんだか、この工房に皆様が集まる日ですのね」
「ラッセル嬢……」
「照れなくてもいいのよ。歓迎するわ」
からかわれて赤くなったエドガーを見て、アンナが手早く椅子を増やす。焼き栗の香りが工房いっぱいに広がり、湯気の立つ紅茶と共に、小さな机の上に並べられた。殻を割る乾いた音が、時折会話の合間に混ざる。
「殿下からも、言伝を預かってきました。ラッセル侯爵家への正式な使者は、月末になる予定だとか。それまでは、あまり気を張らずに過ごしてほしい、と」
「殿下ったら、こんなことをエドガー様に頼むなんて」
フィオナは呆れたように呟いたが、その口元は隠しきれない笑みを浮かべていた。誰かに気にかけられている喜びは、身分の上下を問わず同じものなのかもしれない。
「殿下は、エドガー様のことを随分信頼していらっしゃるのね」
「団の中でも、口の堅さだけは評価いただいています。剣の腕は、まだまだですが」
「そんなに謙遜なさらなくても。マリーから聞いたわ、審査でも立派な成績だったって」
「あれは、その、お守りのおかげです」
エドガーがちらりとマリーへ視線を送ると、マリーは頬を染めながら、そっと目を逸らした。二人のやり取りを見ていたフィオナが、机の下でこっそり私の袖を引く。
焼き栗の殻を剥きながら、マリーがおずおずと口を開いた。
「あの、次の街歩きのことなのだけれど……何を着ていけばいいかしら」
「この前の榛色のワンピースはどう? よく似合っていたわ」
「駄目よ、同じ服では」
フィオナがすかさず身を乗り出し、栗をつまんだままの指先で、マリーの髪留めを示した。
「その髪留めに合わせるなら、もう少し落ち着いた色がいいわ。そうね、白いリボンなんてどうかしら。石の色がよく映えるもの」
髪留め、という言葉が出た途端、エドガーが慌てて紅茶に口をつけた。熱かったのか、わずかに眉が寄る。
(エドガー様、しっかり聞いているのね……)
棚に並んだぬいぐるみたちが、賑やかな会話に囲まれて、いつもより温かな輪郭を見せているように思えた。
窓から差し込む午後の光が、四人の影を柔らかく机の上に落としている。焼き栗の甘い匂いと、紅茶の湯気が、工房の空気をいつまでも温かく満たしていた。エドガーが帰る間際、紙袋の底に残った栗をひとつ、マリーの手に押しつけるようにして渡していったのを、私は見なかったことにしておいた。
◇
夕暮れ、工房の片付けを終えた頃、扉の鈴が控えめに鳴った。顔を上げると、いつもより幾分改まった様子のカイル様が立っていた。肩には夕方の冷気がまだ薄く残っている。
「今日は、随分と賑やかだったようだな」
「ええ。エドガー様まで、焼き栗を持って来てくださったの」
「聞いている。あの男らしい気の使い方だ」
その一言に、私は思わず笑ってしまう。外套を羽織りながら、私はカイル様と連れ立って通りへ出た。夕闇の迫る空に、橙と紫が滲むように混ざり合っている。街路樹の葉擦れの音が、二人の間に静かに落ちた。
「マリーとフィオナ様から、これをいただいたの」
鞄から取り出したハンカチを見せると、カイル様はしばらくそれを見つめ、それから静かに頷いた。
「お前が誰かのために作るものばかり見てきたが、こういう日もあるんだな」
「そうなの。なんだか、まだ実感が湧かないくらい」
指を絡めて歩き出すと、いつもより力の込もった手のひらの感触が伝わってきた。少しの間、二人分の足音だけが石畳に響く。
「明日、お前の屋敷を訪ねることになった。伯爵から、書状が届いた」
その一言に、私は思わず足を止めた。
「お父様から……? もう、明日なの?」
「用件は書かれていなかった。だが、想像はつく」
カイル様の横顔は、いつもと変わらず静かだった。けれど、握られた手に、わずかな迷いのようなものが滲んでいるのを、私は感じ取った。
「不安ですか?」
「不安がないとは言わない。だが――逃げるつもりはない。それだけは、約束する」
その言葉に、胸の奥がふわりと軽くなる。多くを語らないこの人が、それだけをはっきりと口にしてくれたことが、何よりの答えのように思えた。
「では、わたくしも、明日は落ち着かずに過ごすことになりそうですね」
「一緒に落ち着かないでいてやる。それくらいは、できる」
素っ気ない言い方が、いつもよりずっと優しく響いた。街灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始め、二人分の影を石畳の上に長く伸ばしていく。角を折れた先で、カイル様は歩調を緩め、私の手をもう一度、確かめるように握り直した。
「一つだけ、聞いていいか」
「何かしら」
「マリーやフィオナのことを、自分のことのように喜んでいたな」
「ええ、心からそう思うわ」
「これからも、そうして笑うお前の隣に、俺もいていいのか」
珍しく問いかける形をとったその一言に、私は思わず立ち止まった。カイル様は答えを急かすことなく、じっとこちらを見つめている。
「いいに決まっているじゃない。むしろ、いてくださらないと困るくらいよ」
答えると、カイル様はほんの少しだけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。ただ、繋いだ手に、いつもより長く力が込められていた気がした。
屋敷に着くと、玄関先でカイル様と別れ、私はしばらく自室の窓辺に立って外を眺めていた。
灯りを落とした厨房の窓に、使用人の影がちらりと過ぎるのが見える。マリーとフィオナが受け取ったもの、そして自分が受け取ったもの――今日一日で、両手に抱えきれないほどの温かさを渡された気がする。
それなのに、明日という日を思うと、胸の奥にちりちりとした落ち着かなさが居座って動かなかった。
ベッドに横たわり、ハンカチの刺繍をもう一度指でなぞる。丁寧に重ねられた針目の一つ一つに、二人の手で糸を通した時間が刻まれている気がして、私はそれを胸の上にそっと置いたまま、しばらく目を閉じていた。
明日の午後、書斎の扉の向こうで、父とカイル様は何を話すのだろう。想像しようとするたびに、良い方の想像と悪い方の想像が交互に頭を巡って、まとまりがつかない。
結局、答えの出ない問いを抱えたまま、私はランプの灯りを消した。
窓の外では、月に薄い雲がかかり、庭木の影がゆっくりと形を変えていく。眠りが訪れるまでには、まだしばらく時間がかかりそうだった。




