第47話
朝の空気にはまだ、昨夜の靄の名残が残っていた。工房の窓を拭いていた私は、ふと手を止めて、通りの向こうへ視線を投げた。
(お父様、私たちを周囲へ紹介する方法を考えていると仰っていたけれど……いったい、何をなさるおつもりなのかしら)
昨晩の書斎の扉と、母の楽しそうな微笑みを思い出すと、胸の奥がくすぐったいような、落ち着かない心地がする。けれど今日は、それを気にかけている暇はなさそうだった。
「リゼット様、そろそろいらっしゃる頃合いかと」
雑巾を絞りながら、アンナが窓の外に目をやる。私は頷いて、窓拭きの手を止めた。棚に並んだ糸巻きが、朝日を受けてほんのり色づいて見える。開店前のこの静けさが、今日はやけに長く感じられた。
「今日は落ち着かない日になりそうね。フィオナ様のことで」
「殿下が、約束どおりフィオナ様に会いにいらっしゃる日、でしたか」
「ええ。とうとう、その日が来てしまったのよ」
そう言った矢先、工房の扉が控えめな音を立てて開いた。顔を出したのはフィオナだった。いつもの堂々とした足取りではなく、扇子を握りしめたまま、どこか落ち着かない様子で立ち尽くしている。
「フィオナ様、大丈夫? 顔色が、少し」
「大丈夫よ……大丈夫、のはず」
言葉とは裏腹に、声には隠しきれない震えが滲んでいた。すぐ後ろから、心配そうな顔のマリーもついてくる。
「屋敷の前で会ったの。フィオナ様、今にも倒れそうな顔をしていたから」
「大袈裟ね、マリーは」
軽口を叩きながらも、フィオナはカウンターに手をついて、深く息を吐いた。私は椅子を引いて、彼女を座らせる。
「今日の何時に、殿下がいらっしゃるの」
「昼過ぎ、と伺っているわ。お父様もお母様も、朝から落ち着かないご様子で……わたくし、つい工房に逃げてきてしまったの」
「逃げてきたって、それでいいの?」
「いいのよ。少しだけ、深呼吸をする時間が欲しかっただけ」
フィオナは扇子を開き、パタパタと自分の顔を扇いだ。開いた扇には、見覚えのある紅葉の意匠が描かれている。あの夜会の日と同じものだ。
「マリーのことは、聞いたわ。エドガー様、ちゃんと想いを伝えてくださったのね」
「ええ……」
急に話を振られたマリーが、頬を染めて俯く。フィオナは少しだけ表情を緩めた。
「羨ましいこと。わたくしも、そろそろ腹を括らないと」
「腹を括るも何も、フィオナ様はもう、十分すぎるくらい前へ進んでいるでしょう」
私がそう言うと、フィオナは扇子を閉じ、それを両手で握りしめた。
「進んでいるつもりだったけれど、いざその先を前にすると、足が竦んでしまって。夜会の時は、勢いだけでどうにかなったのに」
「勢いだけでどうにかできたのは、フィオナ様だからよ。今日は、ちゃんと自分の気持ちを、自分の言葉で伝える番なんだもの」
私はカウンター越しに、フィオナの手を取った。指先はまだ、小さく冷たい。
「大丈夫。あなたはちゃんと、ここまで自分の足で歩いてきたわ。今更、怖がる必要なんてないと思うの」
フィオナは目を瞬かせ、それから、いつもの調子を取り戻すように口の端を上げた。
「リゼットさんにそう言われると、不思議と勇気が湧くわね」
「わたしも、そう思うわ。フィオナ様がいなかったら、わたしはまだ、遠くから見ているだけだったもの」
マリーが静かに付け加えると、フィオナは照れくさそうに肩をすくめた。棚に並んだ端切れの合間を縫うように、秋の光が三人の足元に淡い縞模様を作っている。
工房の扉の鈴が、また控えめな音を立てて鳴った。振り返ると、団服姿のカイル様が、いつになく改まった様子で立っていた。肩には正装用らしい飾緒が掛けられている。
「カイル様、今日は随分と、装いが」
「今日は殿下の護衛の指揮を執る。ラッセル侯爵邸への随行だ」
言いながら、カイル様の視線がフィオナへ向く。フィオナは背筋を伸ばし、いつもの気丈な笑みを浮かべてみせた。
「団長様まで、わたくしの粗相を見張りにいらっしゃるの?」
「粗相を見張るわけではない。ただ、殿下の護衛としての務めだ」
「……ありがとう存じます。正直、少しだけ心強いわ」
素直な言葉に、カイル様は珍しく、わずかに目を細めた。
「昼過ぎには出立する。案ずるな、粗相を見咎める者は誰もいない」
その言葉に、フィオナは大きく息を吸い、ようやく肩の力を抜いたようだった。カイル様は私の方へ一度視線を寄越し、それから小さく頷いて工房を出ていった。外套の裾が、開いた扉から差し込む風にわずかに翻る。
「わたくしも、そろそろお屋敷に戻らないと。お父様たちを、これ以上待たせるわけにもいかないもの」
「フィオナ様、行ってらっしゃい。きっと、大丈夫よ」
マリーが差し出した手を、フィオナはしっかりと握り返した。扇子を胸元に抱え、深く一つ頷くと、フィオナはいつもより幾分ゆっくりとした足取りで、工房を後にした。その背を見送りながら、私は今日という日の行方を、静かに祈るような気持ちで見守ることにした。
◇
ラッセル侯爵邸の門をくぐったのは、昼の鐘が鳴り終わって間もなくのことだった。俺はレイフと共に殿下の馬車の後ろに続き、玄関先で儀礼通りの出迎えを受ける。石畳を踏む馬の蹄の音が、静まり返った前庭に響いていた。
「団長、殿下は随分と落ち着いていらっしゃいますね」
「そう見えるか」
「ええ。俺の方が、よっぽど緊張してますよ」
レイフの軽口に、俺は短く息を吐いた。馬車を降りたリーベルトは、いつもの飄々とした様子を崩さないまま、出迎えたラッセル侯爵夫妻に丁寧な礼を返している。だが、袖口を整える指先の動きが、いつもより幾分か固いことに、俺は気づいていた。
「アシュフォード団長、こちらへ」
案内役の侍従に従い、俺たちは玄関ホールを抜け、応接の間へと進んだ。磨き上げられた床に、天井の高い窓から差し込む光が長く伸びている。侯爵夫妻とリーベルトが先に腰を下ろし、儀礼的な挨拶を交わす。俺とレイフは、護衛として壁際に控えた。
「本日は、あらためてご挨拶に伺いました。先の夜会では、ご令嬢から声をかけていただき、楽しいひとときを過ごせたこと、心より感謝しております」
「殿下にそう仰っていただけるなら、あの子も喜びます」
侯爵の言葉に、リーベルトはわずかに目を伏せ、それから顔を上げた。
「そこで、一つお願いがございます。このあと、フィオナ嬢と少し話をさせていただけないでしょうか。まずは、彼女自身に伝えたいことがございます」
侯爵夫妻は視線を交わし、やがて夫人が頷いた。
「庭に、東屋がございます。人目も少のうございますし、そちらで」
案内された庭には、色づいた木々の下に、小さな東屋が設けられていた。フィオナは既にそこで待っていたらしく、椅子から立ち上がって深く一礼する。扇子を握る手が、かすかに震えているのが遠目にも分かった。
俺とレイフ、それに侍従は、東屋から少し離れた植え込みの陰に控えた。護衛としての務め上、完全に離れるわけにはいかない。二人の会話が聞こえる範囲に留まり、視線は向けすぎないようにした。生垣の葉擦れが、風の抜けるたびに小さく鳴っている。
「フィオナ嬢」
「はい」
リーベルトが、東屋の椅子に腰を下ろしながら口を開いた。普段の気だるげな調子は影を潜め、真っ直ぐにフィオナへ目を向けている。
「先の夜会での振る舞い、驚いたし――正直、胸がすく思いだった。形式ばかりの中で、あなただけが、俺自身を見てくれている気がした」
「殿下……」
「あれから、あなたのことをもっと知りたいと思うようになった。今日こうして話せるのを、楽しみにしていた」
フィオナは扇子を握りしめたまま、じっとリーベルトの言葉に耳を傾けていた。風が木々の葉を揺らし、色づいた葉が一枚、東屋の屋根にはらりと落ちる。
「わたくしも、あの夜、殿下に一言でも、素のままの言葉を届けられたことが、今でも誇らしいくらいですもの」
「そう言ってくれると、嬉しい」
「フィオナ嬢。あらためて、あなたに求婚したい。もちろん、返事は今すぐでなくていい。だが――」
リーベルトは、そこで一度、らしくない硬さを覗かせた。
「俺は、肩書きではなく、俺自身を見てくれるあなたが欲しい」
フィオナは、しばらく言葉を失っていた。木陰から見ていた俺の位置からは、その横顔しか窺えなかったが、握りしめた扇子が、静かに震えているのが分かった。
「……お返事は、今すぐでも構いませんか」
「ああ」
「でしたら」
フィオナは顔を上げ、まっすぐにリーベルトを見た。
「謹んで、お受けいたします。殿下の肩書きにではなく――あなた自身に、惹かれておりましたから」
リーベルトは、一瞬だけ呆けたような顔をして、それから、これまで見たこともないような、素直な笑みを浮かべた。
それから懐に手を入れ、小さな箱を取り出した。開いた蓋の中には、澄んだ青の石をあしらった小さなペンダントが収まっている。石の面が、午後の光を受けて小さく瞬いた。
「婚約の指輪を渡すのは、正式な手続きを終えてからになる。代わりに、今日はこれを受け取ってほしい」
箱を差し出す手が、わずかに震えているのが、離れた場所からでも分かる。フィオナはペンダントの収められた箱を受け取ると、大切そうに胸元へ抱いた。
「正式な婚約の挨拶は、また日をあらためてさせてもらう。だが、これだけは今、この場で」
リーベルトはそう言うと、フィオナの手を取り、その甲に軽く口づけた。フィオナの頬に、見る間に赤みが差していく。
木陰でその一部始終を見届けながら、俺は、言葉にして伝えることの難しさを思った。リーベルトほど弁の立つ男でも、箱を差し出す手は震える。それでも、伝えたいという気持ちは、確かに届いていた。
「団長、感慨深そうな顔してますね」
「そんな顔はしていない」
「していますよ。フィオナ様たちに感情移入しすぎです」
レイフの軽口を無視して、俺は東屋の方へ視線を戻した。夕暮れには、まだ間のある午後の光が、二人の姿を淡く照らしていた。
◇
その日の夕方、工房の扉が弾かれるように開いた。飛び込んできたフィオナは、胸元を両手で押さえながら、息を切らしている。
「リゼットさん……! 聞いて、聞いてちょうだい」
「フィオナ様、その顔……上手くいったのね」
「ええ、ええ……!」
言葉にならない様子で頷くフィオナに、私はカウンターを回り込んで駆け寄った。奥から様子を見に来たアンナも、湯を沸かす手を止めて近づいてくる。
「殿下が、正式に求婚してくださったの。今すぐに婚約というわけではないけれど、その気持ちを、まず伝えたいからと」
フィオナは震える指先で、小さな箱の蓋を開いた。中には、青い石をあしらったペンダントが収められている。
「まあ……! なんて綺麗な石なのかしら」
「婚約の指輪は、正式な手続きが整ってからいただくことになっているの。これは、その代わりにって。でも――」
フィオナはペンダントをそっと握りしめ、それから、これまで見たことのないくらい柔らかな表情で笑った。
「それでも、今こうして手元にあるだけで、十分に嬉しいのよ」
マリーが駆け寄り、フィオナの手をしっかりと握る。
「本当によかったわ、フィオナ様。あなたの勇気が、ちゃんと報われたのね」
「マリーにそう言われると、余計に嬉しいわ。お互い様、ということかしら」
二人が笑い合う様子を見ながら、私は胸の奥に、温かいものが広がるのを感じていた。開業したばかりの頃、たった一人で注文をこなしていたこの工房が、今ではこうして、友人たちの喜びを分かち合う場所になっている。
「アンナ、今日は特別な茶葉を出しましょう。フィオナ様のお祝いに」
「かしこまりました。とっておきの蜂蜜も添えて」
湯気の立つ紅茶を挟んで、フィオナは東屋でのやり取りを、何度も同じ場面を繰り返しながら語った。頬を染めてはペンダントに触れ、また語り出す――その繰り返しに、私たちは飽きることなく耳を傾け続けた。窓の外では、色づいた葉が一枚、また一枚と、夕風にさらわれて通りを流れていく。
「殿下ったら、小箱を持つ手が震えていらしたのよ。あれほど堂々としていらっしゃる方なのに」
「意外ですわね。殿下にも、そういう不器用なところがおありなのね」
アンナが目を丸くすると、フィオナは得意げに笑った。
「団長様も、その場にいらしたのよ。あとで知ったのだけれど、木陰からずっと見守ってくださっていたんですって」
「まあ、それは……見られていたのですか」
マリーが口元を押さえると、フィオナはにやりと笑って私の方を見た。
「リゼットさんのところと同じね。見守り役の騎士団長様、というのは」
「フィオナ様ったら」
そのやり取りがおかしくて、私は笑いながら紅茶のお代わりを注いだ。棚に並んだぬいぐるみたちが、夕陽を浴びて、いつもより柔らかな輪郭を見せている。
夕暮れの光が、窓越しに橙色の帯を落とす頃、工房の扉がまた控えめな音を立てた。顔を上げると、迎えに来たらしいカイル様が、外套姿で立っていた。
「賑やかだな、今日も」
「ええ。フィオナ様に、嬉しいことがございましたの」
「聞いている。俺も、あの場に立ち会っていた」
その一言に、フィオナが扇子を取り落としそうになった。
「団長様、やはり聞こえていらしたのね……! 恥ずかしいこと」
「護衛としての務めだ。他意はない」
素っ気なく答えるカイル様に、私は思わず笑ってしまう。とはいえ、その口元がわずかに緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
「そろそろお開きにしましょうか。フィオナ様、今日は家族とゆっくり過ごすといいわ」
「ええ、そうするわ。ありがとう、リゼットさん、マリー」
フィオナとマリーを見送ったあと、私はカイル様と連れ立って、屋敷への帰り道を歩き出した。夕闇の迫る通りに、街灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始めている。二人分の足音が、静かな石畳の上に並んで響いていた。
「マリーに続いて、フィオナも決まったな」
「ええ、本当に。見ていて、こちらまで胸がいっぱいになりましたわ」
そう答えながら、私はカイル様の手にそっと指を絡めた。指先に触れる感触が、いつもより少しだけ温かい。
「お前の家のことは、案じているのか」
昨夜のことを、いつの間にか気づかれていたらしい。私は小さく頷いた。
「お父様、私たちの関係を周囲へきちんと示したいと仰っているの。ただ、詳しいことはまだ教えてくださらなくて」
「そうか」
カイル様は短くそう言っただけで、それ以上は追及しなかった。ただ、握った手に、いつもより少しだけ、力がこもるのを感じる。
「案じるな、とは言わない。だが、一人で抱え込む必要もない」
その言葉に、私は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。繋いだ手のまま、しばらく黙って歩く。通りの向こうから、夜警の交代を告げる鐘の音がかすかに響いてきた。
「随分と、賑やかな秋になったものだな」
「ええ。あとは――」
「あとは、お前の番だと言いたいところだが」
カイル様は珍しく、言葉を濁すように口をつぐんだ。私はその横顔を見上げる。
「伯爵がそこまで考えてくださっているのなら、俺も応えたい。どんな場を設けられても、逃げるつもりはない」
「カイル様……」
どこまでも律儀なその物言いが、いかにも彼らしくて、私は繋いだ手にそっと力を込めた。友人たちの恋が、それぞれの形で実を結んでいくこの季節に、私とカイル様の関係もまた、新しい形を得ようとしている――それがどんな場で、どんなふうに示されるのか、この時の私はまだ知らなかった。




