↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の騎士団長そっくりの推しぬいを作った結果、正体を探されることになりました  作者: あずきまんま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/44

第43話

 収穫祭の夜会から一夜明けた朝、工房の空気はいつもより浮き足立っていた。


 開店前の掃除を終えたアンナが、雑巾を絞る手を止めて、窓の外を気にするように何度も振り返っている。棚の埃を払う私の手元も、いつもより落ち着かなかった。


「アンナ、さっきから落ち着かないけれど」


「申し訳ございません。実は今朝、市場に買い出しに出た使用人仲間から、面白い話を耳にしまして」


 アンナは声を潜め、手にした雑巾を桶へ戻した。水滴が跳ねる小さな音だけが、しばらく工房に響く。


「昨夜の夜会の件、もう街の使用人たちの間にまで広まっているようです。『ラッセル侯爵令嬢が、自分から殿下を一曲に誘った』と。かなりの評判になっているみたいで」


「思っていたより、広まるのが早いのね……」


 噂になるだろうとは思っていたけれど、一晩でここまで広まっているとは思わなかった。私は昨夜のフィオナの、覚悟を決めたような横顔を思い出しながら、小さく息を吐いた。窓の外では、朝の光を受けた並木の葉が、風に揺れるたびに金色に透けて見える。


(社交界の噂の足の速さは、前世のSNSにも負けていないんじゃないかしら……こういう時ばかり、みんな仕事が早いのよね)


 そんなことを考えながら手を動かしていると、工房の扉が控えめな音を立てて開いた。取り付けたばかりの鈴が、いつもより小さく鳴る。勢いよく飛び込んできた昨日までのフィオナとは違う、静かな足取りだった。


「リゼットさん、おはよう」


「フィオナ様……大丈夫? ずいぶん、静かな登場だけれど」


「今日くらいは、しおらしくしておこうと思って」


 軽口めかして笑ってはいるものの、扇子を握る指先には、いつもより力がこもって見えた。伏せがちな睫毛の陰に、隠しきれない気恥ずかしさがにじんでいる。すぐ後ろから、心配そうな顔のマリーもついてきた。


「フィオナ様のお屋敷に、朝早く伺ったの。一人で来させるのが、心配だったから」


「マリーまで、心配性ね」


 そう言いながらも、フィオナはマリーの気遣いを拒む素振りは見せなかった。三人で作業台を囲むと、フィオナはようやく肩の力を抜いたように、扇子を閉じて息をついた。


「母には、こってり絞られたわ。『あなたという子は』って、三十分は説教されたかしら」


「それは……大変だったわね」


「でも」


 フィオナは声を落とし、少しだけ口の端を上げた。


「お説教の後、二人きりになった途端、『それで、殿下はどんな顔をなさっていたの』って身を乗り出してきたのよ。あの人ったら」


 その様子が目に浮かんで、私は思わず笑ってしまった。フィオナの母親もまた、娘に似て度胸のある人らしい。棚の陰で聞き耳を立てていたらしいアンナも、口元を押さえて笑いをこらえている。


「お父様は?」


「今朝早くに、王宮へ呼ばれていったわ。殿下から、正式にお話があるとかで」


 笑みを引っ込めたフィオナが、扇子の縁を指先でなぞる。骨の継ぎ目に沿って行き来する指先の動きに、彼女の落ち着かなさがそのまま表れていた。


「社交界では、もっぱらの評判になっているみたいなの。驚いているだけならいいのだけれど、中には、はしたないと思う方もいらっしゃるでしょうし」


 その一言に、マリーの表情が曇った。私も、昨夜の柵際で聞こえた、驚きの混じった囁きを思い出す。


「フィオナ様、平気?」


 マリーが、そっと尋ねた。フィオナは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げる。


「平気じゃない、と言ったら嘘になるわ。でも」


 フィオナは扇子をぱちんと開き、いつもの調子で笑ってみせた。開いた扇の絵柄は、秋らしい紅葉の図柄だった。


「後悔はしていないもの。それだけは、確かよ」


 その強がりの下にある不安を、私は見逃さなかった。けれど今、それを暴き立てるのは違う気がして、私は代わりに、棚から小さな包みを取り出した。


「フィオナ様、よろしければ、こちらをどうぞ」


 包みを開くと、木の実の混じった、香ばしい匂いが工房いっぱいに広がる。マリーも手伝って、焼き菓子を皿に並べ始めた。エドガーとの一件以来、マリーは以前よりずっと、自分から動くようになっている。フィオナに助けられた分を、今度は自分が返す番だと言わんばかりに、手つきにも迷いがなかった。


「私、甘やかされているみたい」


「たまにはいいでしょう。フィオナ様には、いつも助けてもらってばかりだもの」


 私がそう言うと、フィオナは焼き菓子を一つ摘まみ、照れ隠しのように急いで頬張った。合間に、小さく「美味しい」と呟く声が漏れる。窓から差し込む朝の光の中、三人でお茶を飲む時間は、昨夜の騒ぎが嘘のように穏やかだった。それでも、王宮の方角へ向けられるフィオナの視線が、時折落ち着かなく揺れているのを、私は見ないふりをした。


◇


 その日の朝、俺は執務の合間にリーベルトに呼ばれ、控えの間で向き合っていた。窓から差し込む朝の光が、机の上に広げられた書類を淡く照らしている。


「昨夜は、世話をかけたな」


「殿下がお望みになったことです。俺は指示に従ったまでですよ」


 素っ気なく答えると、リーベルトは苦笑した。昨夜の飄々とした様子とは違い、その顔つきには、珍しく落ち着いた色が浮かんでいる。


「ラッセル侯爵家には、今日、俺が直接伺うことにした。正式な礼を尽くしに」


「殿下自らが、ですか」


 控えていたレイフが、驚いたように口を挟んだ。剣の柄に置いていた手を、思わず離している。リーベルトは涼しい顔で頷いた。


「ラッセル嬢の勇気に応えるなら、俺も相応の形を見せなければな」


 その言葉には、礼儀としての計算と、それだけでは片付けられない何かが、同時ににじんでいた。俺はふと、自分がリゼットの店に足繁く通い始めた頃のことを思い出した。あの時の自分もまた、正体を捜すという建前の裏に、別の理由を隠していた。


「団としても、正式な護衛の手配をいたします」


「頼む。それと」


 リーベルトは席を立ちかけて、思い出したように振り返った。窓から差し込む光の加減で、その表情が一瞬だけ年相応の若さに見えた。


「アシュフォード団長。ヴァランタイン嬢には、心配しなくていいと伝えておいてくれ。俺の方で、きちんと話をつける」


「――承知しました」


 短く答えながら、俺は密かに口元が緩むのを感じていた。リゼットが今朝から気を揉んでいるだろうことを、リーベルトも、どこかで察していたらしい。


 部屋を出ていくリーベルトの背を見送りながら、レイフが小さく肩をすくめる。


「殿下も、案外律儀な方ですよね。あんな飄々とした顔をしていて」


「昔からああいう方だ」


 俺はそう答えながら、書類の束を手早くまとめた。窓の外では、中庭の噴水の音が、変わらず穏やかに響いていた。


◇


 夕刻、工房の片付けを終えた頃、カイルが訪ねてきた。団服姿のまま、少し疲れの見える顔をしている。


「カイル様、お疲れですか」


「今日は、慌ただしかった」


 カイルは作業台の椅子に腰を下ろし、大きく息をついた。私は温めておいたお茶を差し出しながら、隣に座る。湯気が細く立ち上り、カップの縁にゆっくりと消えていった。


「フィオナ様のことだが、殿下が今日にも直接お屋敷を訪ねられるはずだ」


「殿下ご自身が、お屋敷まで……」


 思いがけない話に、私は声を上げていた。王族が家臣の屋敷を直々に訪ねるというのは、それだけで大変な出来事だ。


「殿下は、心配しなくていいとお前に伝えるようにと仰っていた」


「そう……よかった」


 安堵に胸を撫で下ろしながら、私はふと、あの日の夜会の光景を思い出していた。自分から進み出たフィオナの背中と、それを受け止めたリーベルトの手。


(あの二人、本当にお似合いだと思うのよね。フィオナ様の勇気に、殿下がちゃんと応えてくださったんだもの……)


「カイル様は、殿下の護衛の手配をなさったのでしょう」


「団として当然のことだ」


 素っ気なく答えるカイルの横顔を、私はしばらく見つめた。表向きはいつもと変わらぬ硬い声だけれど、こうして仕事終わりに真っ先に工房へ足を向けてくれること自体が、彼なりの気遣いなのだと分かっている。カップを持つ彼の指先に、かすかな絆創膏が貼られているのに気づいた。


「その指、どうなさったの」


「稽古で少し切っただけだ。大したことはない」


「ありがとうございます、カイル様。忙しい中、わざわざ知らせに来てくださって」


「お前が気を揉んでいるだろうと思っただけだ」


 カイルはお茶を一口飲み、それきり黙り込んだ。何気ない沈黙の中で、私は彼の手が、いつの間にか私の手にそっと重なっていることに気づいた。指先の絆創膏の感触が、掌越しにかすかに伝わってくる。


「カイル様?」


「――ラッセル嬢のことも、他人事とは思えなくてな」


 珍しく、独り言のような呟きだった。窓の外では、夕陽が沈みかけ、工房の壁に長い影を落としている。


「かつて似たような立場だった俺には、分かる。誰かと真正面から向き合うことが、どれほどの覚悟を要ることか」


 その言葉に、私はカップを持つ手を止めた。彼が言っているのは、フィオナのことだけではないのかもしれない。かつて名乗り出る勇気が持てなかった自分と、それでも待ち続けてくれた彼のことを、私は思わずにいられなかった。


「私も、似たようなものでしたわ」


「ああ」


 短く頷いたカイルの手に、私はもう片方の手を重ねた。窓の外では、夕陽が並木の葉を赤く染め始めている。遠くから、通りを行く馬車の車輪の音が、かすかに聞こえていた。しばらくの間、私たちはただ黙って、その光景を眺めていた。


「フィオナ様のこと、心配ですね」


「大丈夫だ、心配ない」


 その一言に、私は小さく頷いた。(カイル様のそういうところが、好き……)そう思いながら、私はもう一度、彼の手を握り直した。


◇


 翌日の昼過ぎ、工房を訪れていたカイルと隣り合ってお茶を飲んでいた時だった。工房の扉の鈴が、けたたましい音を立てて揺れたかと思うと、当のフィオナが自ら駆け込んできた。


「リゼットさん、大変なの……!」


 息を切らしたフィオナの顔は、昨日の落ち着きが嘘のように上気していた。何事かと身構える私の隣で、カイルもまた、驚いたように振り返る。フィオナはそんな私たちの様子にも気づかない様子で、震える声で続けた。


「殿下が、お父様に会いにいらしたの。正式な礼を尽くすためだと仰って……その場で、わたくしにも直接お声がけくださって」


「まあ……! それで、何と?」


「今度、あらためてゆっくり話がしたい、と」


 フィオナは扇子を握りしめたまま、頬を赤く染めていた。いつもの余裕たっぷりな彼女からは想像もつかないほど、その声は上ずっている。


「わたくし、どうしたらいいのか分からなくて……こんな顔、リゼットさんにしか見せられないわ」


 予想外の答えに、私は思わず笑みをこぼした。あれほど大胆に一歩を踏み出したフィオナが、いざその先を前にして、こんなにも心もとない顔をするとは思わなかった。作業台の向こうで様子を見ていたマリーも、頬を緩めて、嬉しそうに目を細めている。


「大丈夫よ、フィオナ様。あなたはちゃんと、自分の足で踏み出したんだもの」


 私はフィオナの手を取り、そっと握りしめた。指先が、まだ小刻みに震えている。


「それに、カイル様も昨日仰っていたわ。殿下がきちんと話をつけてくださるからと。今度は、フィオナ様が自分の気持ちに向き合う番なのかもしれないわね」


「向き合う、って言われても……」


 フィオナは言葉を濁し、そっと視線を落とした。あれほど大胆に踏み出した令嬢が、こんなふうに戸惑う姿を見せるのは、初めてのことだった。棚に並んだぬいぐるみたちが、静かにその様子を見守っているようにも見える。


「今夜、正式な文が届くかもしれないって、お父様が仰っていたの。どんな顔をして受け取ればいいのか、見当もつかなくて」


「その時になったら、きっと自然と分かるわ」


 私がそう言うと、フィオナは小さく頷いた。それでも、扇子を握る手の力は、まだ緩まないままだった。


「フィオナ様」


 それまで黙って聞いていたマリーが、静かに口を開いた。


「わたし、審査の日、フィオナ様に背中を押してもらわなければ、きっと今でも遠くから見ているだけだったと思うの。だから今度は、わたしの番」


 いつもは控えめなマリーの、思いがけずはっきりとした物言いに、フィオナは目を瞬かせた。


「マリーったら、すっかり頼もしくなって」


「フィオナ様のおかげよ」


 戸口近くで話を聞いていたカイルが、静かに口を開いた。


「団としても、殿下のお申し出を軽んじる者が出れば、黙ってはいない。お前が思っている以上に、味方は多いということだ」


 その硬い声に、フィオナは少し驚いた顔をしてから、いつもの調子で口の端を上げた。


「アシュフォード団長にそう言っていただけると、百人力ですわ」


 マリーとフィオナが顔を見合わせて笑い合う様子に、私は注文帳を閉じるのも忘れて、しばらくその光景に見入っていた。


 奥の部屋から顔を覗かせたアンナが、三人の様子に目を丸くする。


「まあ、また賑やかなことになっていますね」


 アンナの声に、フィオナは照れくさそうに肩をすくめ、マリーはそんな彼女の背をそっと撫でた。三人分の視線が自然と窓の外へ向かう。色づいた葉がまた一枚、風に舞っている。まだ何も終わってはいない。けれど確かに、何かが動き始めているのを、私はそこに感じていた。


 王宮からの正式な文が、この夜どんな言葉を運んでくるのか――それは、まだ誰にも分からないことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。