第44話
窓の外に朝靄がまだ薄く残る時間だった。工房の暖炉に薪をくべていたアンナが、通りの方角に目をやって、ふと手を止めた。
昨夜の名残でまだ気だるさの残る体を、温かい紅茶で目覚めさせながら、私は今日一日の段取りを頭の中で並べていた。フィオナのこと、マリーのこと――考えることは、思いのほか多い。
「今朝は、やけに人通りが多いように見えますね」
「収穫祭の疲れが残っているだけかもしれないわ。それより――」
言いかけたところで、工房の扉が勢いよく開いた。取り付けたばかりの鈴が、悲鳴のような音を立てて跳ねる。
「リゼットさん、届いたの……! 昨夜、お父様のもとへ」
息を切らして駆け込んできたのはフィオナだった。頬を紅潮させ、胸の前で手を握りしめている。すぐ後ろから、いつもの注文帳を抱えたマリーが、乱れた裾を気にする余裕もなく続いた。
「本当に……!?」
「ええ。今朝、ようやく中を見せていただけたの」
フィオナは深く息を吸うと、まず父親宛てに届いた正式な書状の文面を語り始めた。
「『昨日の訪問を受け入れられたことに感謝する。今後の面会日程については、追って王宮より知らせる』」
昨日の訪問を踏まえ、今後の面会に必要な手続きを進めるための、事務的な内容だった。けれど、フィオナの頬をこれほど赤く染めている理由は、それだけではないらしい。
「それとね。その書状に、わたくし宛ての手紙も添えられていたの」
フィオナは胸元から、小さな封筒を大切そうに取り出した。王宮からの書状とは違う飾り気のない封筒で、開かれた封蝋の上には、リーベルト殿下の印章が押されている。
何度も読み返したのだろう。便箋の折り目を指先でそっとなぞってから、フィオナは少し上ずった声で、その内容を聞かせてくれた。
「『先日の夜会では、あなたと踊ることができて楽しかった。あなたから声をかけてくれたことも、嬉しく思っている。次に会う時には、もう少しゆっくり話ができればと思う』――ですって」
読み終えたフィオナは、照れを隠すように便箋を胸元へ引き寄せた。作業台を囲んだ私たちの間に、くすぐったいような沈黙が落ちる。
「フィオナ様……!」
真っ先に声を上げたのはマリーだった。フィオナに駆け寄り、その手をしっかりと握りしめる。
「よかった、本当に……! 殿下も、フィオナ様と踊れて嬉しかったのね」
「お父様ったら、読み終えた途端に大きな声を上げて、危うく書斎の花瓶を割りかけたのよ。お母様は隣で、もう次の夜会のドレスの話を始めていたわ」
その様子が目に浮かんで、私は思わず笑ってしまった。棚の陰から様子を窺っていたアンナも、口元を押さえて笑いをこらえている。
「よろしゅうございましたね、フィオナ様。殿下も、夜会のひとときを楽しまれていたのですね」
アンナは胸の前で手を合わせ、やわらかく目を細めた。長年、私の推し活を陰で支えてきた身として、友人たちの恋の行方も、他人事ではないらしい。
「ありがとう、アンナ。でも、まだ何も決まったわけではないのよ。あくまで、これから話をする機会をいただいた、というだけ」
そう言いながらも、フィオナの声には隠しきれない弾みがあった。硬い調子で言葉を選ぼうとしているのに、頬の赤みがそれを裏切っている。
「今夜のうちに、お返事の文をしたためないと。お母様に急かされて、朝から便箋を三枚も無駄にしてしまったわ」
「三枚も? そんなに緊張なさったの」
「当たり前でしょう。殿下ご本人から、あんなふうに書いていただいたのよ」
「フィオナ様がそこまで浮かれているところ、初めて見たわ」
「浮かれてなんて――」
言いかけて、フィオナは自分の頬に手を当て、観念したように肩を落とした。
「浮かれているわね、これは」
その素直な言葉に、工房の中に温かい笑い声が広がった。窓の外では、色づいた葉が一枚、風に舞って通りへ落ちていく。
「それにしても」
ひとしきり笑い合った後、フィオナが不意に、悪戯っぽい目をマリーへ向けた。
「浮かれているのは、わたくしだけではないでしょう」
「え……」
「昇級審査の日から、ずっと言おうと思っていたの。エドガー様との、あのお茶のお誘いは、どうなったのかしら」
マリーは、みるみるうちに顔を赤くした。抱えていた注文帳を、無意識に胸元へ抱き寄せる。
「その……日取りは、もう決めていただいたの。三日後の、昼過ぎに」
「あら、いつの間に」
「フィオナ様のことで頭がいっぱいで、言いそびれていただけよ……!」
声を上ずらせるマリーに、フィオナはにやりと笑った。
「言い訳が可愛らしいこと。それで、何を着ていくかは決めたの?」
「そこまでは、まだ……」
俯くマリーの手が、注文帳の表紙を撫でるように動く。その指先の落ち着かなさに、私はふと、あの日の自分を思い出していた。初めてカイルの前で正体を隠しながら、平静を装おうとしていた頃の自分を。
「マリー、よければ私が一緒に選ぶわ」
「リゼットさんが……?」
「ええ。せっかくの機会だもの、少しくらい気合を入れても罰は当たらないと思うの」
マリーは頬を染めたまま、小さく頷いた。その仕草に、以前よりずっと素直な強さが宿っているのを、私は感じ取っていた。
◇
その日の午後、演習場の一角で、俺は剣の手入れをするレイフの隣に腰を下ろしていた。砥石を滑らせる乾いた音が、静かな空気の中で規則正しく響いている。
「殿下のお話、どうなりました?」
「さあな。上手くいっていれば、もう文の一つも届いている頃だろうが」
レイフは砥石を置き、刃の具合を確かめながら肩をすくめた。
「団長も、ラッセル嬢のことは気になるでしょう。ヴァランタイン嬢の、大事な友人でいらっしゃる」
「そうだな」
短く答えて、俺は自分の剣を鞘に収めた。文が無事に届いていたなら、リゼットが今朝、どんな顔をしていたか――想像するだけで、頬が緩みそうになる。
「それより、エドガーはどうしている」
誤魔化すように尋ねると、レイフは肩をすくめながらも、素直に答えた。
「三日後、オルコット嬢とお茶をする約束を取り付けたそうです。そのせいか、今日は朝から様子がおかしいですよ。稽古中もうわの空で、二度も打たれていました」
「珍しいこともある」
「団長にだけは言われたくないでしょうね、それは」
からかうような口調に、俺は短く息を吐いた。自分がリゼットの店に理由をつけて通っていた頃のことを、こういう時にいちいち引き合いに出されるのは、正直あまり気分の良いものではない。
「何を悩んでいる」
「何を話せばいいのか分からない、と。剣の型なら百でも打てるのに、茶の席の話題は一つも思いつかない、とぼやいていましたよ」
「型どおりでなくていい、と伝えておけ」
「は?」
「取り繕った言葉より、思ったことをそのまま口にした方が、案外伝わるものだ」
レイフは意外そうな顔をして、それから、にやりと笑った。
「団長がそれを言いますか」
「経験談だ」
素っ気なく返すと、レイフはそれ以上茶化さず、砥石を片付け始めた。夕刻に差しかかった空が、少しずつ橙色に染まっていく。エドガーの不器用さが、いつか誰かにきちんと届けばいい――柄にもなく、俺はそう思っていた。
◇
三日後、約束の日。私はマリーと共に、彼女の屋敷の一室で最後の仕上げをしていた。窓辺に置いた姿見の前で、マリーは淡い若草色のドレスに身を包み、落ち着かない様子で何度も裾を整えている。
「変じゃないかしら」
「よく似合っているわ。色も、マリーらしくて素敵」
私は彼女の髪を軽く整えながら、鏡越しに微笑んだ。若草色の生地は、マリーの控えめな雰囲気を柔らかく引き立てている。胸元に添えた小さな刺繍飾りは、私が急ぎで縫い上げたものだった。
鏡の中のマリーは、いつもの学園帰りの格好とは違う、大人びた装いにまだ戸惑っているようだった。控えめな襟ぐりに合わせて、私は小さな真珠のブローチを一つ、そっと留めてやる。
「これくらいで、十分素敵よ」
「本当に、緊張してしまって……ちゃんと喋れるかしら」
「大丈夫。エドガー様だって、同じくらい緊張なさっているはずだもの」
「これは……?」
「お守り代わりよ。あなたがエドガー様に贈った刺繍、あれに合わせた対の柄にしたの」
小さな盾の刺繍を見つめたマリーは、みるみる目を潤ませた。
「泣かないで。せっかく整えたのに、崩れてしまうわ」
「ごめんなさい……嬉しくて」
目元を指先で拭ったマリーは、深く息を吸って、鏡の中の自分と向き合った。
「行ってくるわ」
「ええ。いってらっしゃい」
馬車に乗り込むマリーを見送りながら、私は密かに、その後を追う算段を立てていた。少し離れた場所から見守るくらいなら、罰は当たらないはずだ。
「随分と、余念がないな」
背後から届いた声に振り返ると、外套姿のカイルが立っていた。
「カイル様、いつからそこに」
「今しがただ。お前が誰かの後を尾けようとしているのが、遠目にも分かった」
「尾けるだなんて、人聞きの悪い……見守るだけよ」
言い訳がましく答える私に、カイルはわずかに口の端を上げた。
「俺も、丁度エドガーの様子を見てくるようにと、レイフに頼まれていたところだ」
「あら、示し合わせたみたいですわね」
「そうだな」
あっさりと頷くカイルに、私は思わず笑ってしまう。差し出された腕に手を添え、私たちは連れ立って、マリーたちの向かう庭園の茶屋へと歩き出した。
◇
茶屋の庭には、色づいた蔦が絡む生垣の向こうに、小さな丸テーブルがいくつか並んでいた。少し離れた木陰から窺うと、既にエドガーが席についているのが見えた。団服ではない、簡素な上着姿の彼は、落ち着かない様子で何度も襟元を直している。
馬車を降りたマリーが歩み寄ると、エドガーは弾かれたように立ち上がった。椅子が軽い音を立てて後ろへ傾ぎ、慌てて片手で支える。
「オルコット嬢。今日は、来ていただいて」
「こちらこそ、お誘いいただいて嬉しかったです」
二人が向かい合って座る様子を、私は生垣の陰からそっと見守った。隣に立つカイルも、腕を組んだまま、静かに視線を向けている。
運ばれてきた紅茶に口をつけながら、エドガーは何度か話しかけようとしては、言葉を飲み込んでいるようだった。マリーもまた、俯きがちにカップの縁を指でなぞっている。
「今日は、天気に恵まれましたね」
「ええ、本当に。空が高くて、気持ちがいいです」
当たり障りのない言葉を交わしながらも、二人の間には、まだぎこちない間があった。運ばれてきた焼き菓子に、どちらからともなく手を伸ばしかけては、互いに譲るように引っ込める。
「あの、先日はありがとうございました。あの刺繍のお守り、審査の間、ずっと懐に」
「本当ですか……! 役に立ちました?」
「はい。おかげで、落ち着いて型を披露できました」
その言葉に、マリーはぱっと表情を明るくした。けれど、続くエドガーの一言に、私はわずかに息を詰めた。
「あの日は、本当に――皆に支えられているのだと、実感しました」
皆。その中に自分も含まれているだけなのだと受け取ったのか、マリーはわずかに表情を曇らせた。カップに視線を落としたまま、それきり動かせずにいる。
「そう、ですよね。わたしも、その中の一人ですものね」
小さく呟いたマリーの声に、寂しさが滲んでいた。エドガーは何かに気づいた様子で、慌てて言葉を継ぐ。
「い、いえ、そうではなく――違うんです、その」
言葉に詰まったエドガーが、カップを持ち上げようとして、指先を滑らせた。かちゃん、と乾いた音を立てて、カップが受け皿の上で跳ねる。零れた紅茶が、白いテーブルクロスに小さな染みを作った。
「申し訳ありません……! こんな、大事な場で」
慌てて布巾を取ろうとするエドガーの手が、マリーの手とかすかに触れる。二人とも弾かれたように手を引っ込め、気まずい沈黙が落ちた。木陰から見ていた私の隣で、カイルが小さく息を吐く。
「危ういな、あの二人は」
「ええ、本当に」
私も同意しながら、じっと成り行きを見守った。エドガーは俯いたまま、耳の先まで赤くしている。何か言おうとしては口を開き、また閉じる――その繰り返しに、マリーもまた、どう応じていいのか分からない様子だった。
「オルコット嬢は、その」
ようやくエドガーが、絞り出すように言葉を継いだ。
「皆と同じ、というわけではありません」
「では……?」
マリーが顔を上げ、まっすぐにエドガーを見つめた。エドガーはその視線を受け止めきれないように、一度目を逸らし、それからもう一度、意を決したように視線を戻す。
「それは――今すぐには、うまく言えません。ただ、今日ここにお誘いしたのは、お礼のためだけではないんです」
「エドガー様……」
エドガーは赤くなった顔を上げ、何かを続けた。けれど、声を落としたため、遠く離れた木陰までは届かなかった。
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