第42話
昇級審査の日から数日が経った、ある日の午後。工房の窓辺には、色づき始めた並木の葉が、風に乗って時折舞い込んでくるようになっていた。
注文帳を整理していたアンナが、ふと窓の外に目をやって呟く。
「今年は、色づくのが早うございますね」
「そうね。もうすっかり秋だわ」
答えながら、私は棚に並んだぬいぐるみたちの埃を払っていた。マリーとエドガーの一件以来、工房の空気は心なしか浮き立って見える。マリー自身も、あの日を境に、以前より少しだけ表情が柔らかくなった気がしていた。
そんな穏やかな午後を破ったのは、勢いよく開かれた扉だった。
「リゼットさん、聞いて!」
弾む声とともに飛び込んできたのはフィオナだった。頬を紅潮させ、握った扇子を大きく振っている。すぐ後ろから、いつものように注文帳を抱えたマリーがついてきた。
「決めたの。今度の収穫祭の夜会で、わたくし、リーベルト様に自分から一曲申し込むわ」
あまりにあっさりと告げられた宣言に、私は埃払いの手を止めた。
「自分から、って……フィオナ様、本気なの?」
「もちろんよ。声をかけていただけるのをただ大人しく待っているなんて、性に合わないの」
フィオナは扇子をぱちんと閉じ、肩をすくめた。
「それに、当たり障りのない一言二言を交わすだけなんて、つまらないでしょう。あの方はきっと、そういうやり取りにうんざりしているはずよ」
「だからって、自分から殿下をお誘いするの?」
思わず尋ねると、フィオナはにやりと笑った。
「待っているだけでは、何も始まらないでしょう?」
マリーも心配そうに眉を寄せている。
「フィオナ様、それは危ういのではなくて……後で何か言われたりしたら」
「大丈夫よ、マリー。わたくし、何か言われるのは慣れているもの」
あっけらかんと笑うフィオナに、マリーは何も言えずに口をつぐんだ。
その屈託のない横顔を見ながら、私は自分の中に、かつて覚えのある感覚が疼くのを感じていた。落としたぬいぐるみを取り返しに行く勇気が出ないまま、遠くから見つめるだけで満足しようとしていた、あの頃の自分。フィオナは、私が越えるのに長い時間がかかった一歩を、たった一言で決めてしまえる人なのだ。
「フィオナ様らしいわ」
気づけば、そう零していた。
「あら、リゼットさんも味方してくれるの?」
「味方というか……あなたが決めたのなら、私は止めないという意味よ」
そう答えながら、私は当日カイルと連れ立ってその夜会に出席することになっているのを思い出していた。縁談の一件が丸く収まってから、二人で人前に立つ機会も、これから少しずつ増えていくのだろう。今度の収穫祭の夜会は、その最初の機会だった。
(フィオナ様の一大事の隣で、私にも、私なりの緊張することがあるのよね……)
誰に言うでもなく、私はそんなことを考えながら、埃払いの手を再び動かし始めた。
◇
演習場の端で剣の手入れをしていた俺のもとへ、リーベルト殿下がふらりと現れたのは、その二日後のことだった。供の姿もなく、いつもの華やかな装いを崩した簡素な上着姿で、疲れた顔をしている。
「アシュフォード団長。少し、付き合ってくれないか」
「珍しいですね。護衛もつけずに」
「たまには息抜きがしたい」
リーベルト殿下は近くの木箱に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「収穫祭の夜会が近いだろう。今年も、いくつかの家が、それとなく娘を売り込んでくる。父上や重臣たちの思惑も絡んでいるとなれば、なおさら気が滅入る」
「毎年のことでは」
「毎年、その手の駆け引きが増えているんだ」
自嘲気味に笑うリーベルト殿下の声には、隠しきれない疲労がにじんでいた。俺はしばらく手入れの手を止め、その横顔を見やる。
「毎回、当たり障りのない挨拶と世間話を交わすだけだ。誰も、俺自身の話などしない。俺という肩書きの話ばかりだ」
「それは……」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。うまく言葉が見つからなかったからだ。
「ラッセル嬢だけは、少し違うがな」
ふと、リーベルト殿下が名を口にした。
「あの令嬢は、俺の肩書きになど興味がなさそうに話しかけてくる。退屈な儀礼の合間に、唯一気が抜ける時間だ」
「……そうですか」
俺は短く答えたが、内心では、その名を聞いて工房で交わした会話をふと思い出していた。フィオナ・ラッセルという令嬢について、リゼットが時折、頼もしそうに語ることがあったからだ。
そこへ、稽古を終えたレイフが汗を拭いながら歩み寄ってきた。
「殿下がいらっしゃるとは、珍しい」
「息抜きだそうだ」
「そうですか」
リーベルト殿下は小さく笑うと、木箱から立ち上がり、乱れた上着の裾を払った。
「――邪魔をしたな。だが、少しは気が晴れた」
いつもの華やかな表情を取り戻すと、リーベルト殿下は歩き去っていった。その背を見送りながら、レイフが俺の肩を軽く小突く。
「団長も、当日はヴァランタイン嬢とご一緒なんでしょう」
「ああ」
短く答えて、俺は剣の手入れに戻った。夜会の当日、リゼットの隣に立つ自分を思うと、剣を握る手にわずかな力がこもるのが分かった。
◇
収穫祭の夜会は、王宮の大広間で開かれた。天井から下がる無数の燭台が、磨き上げられた床に幾重もの光を落としている。楽団の奏でる調べに合わせ、色とりどりのドレスが行き交い、会場全体が甘い香油と花の匂いで満ちていた。
「今夜も、綺麗だな」
迎えに来たカイルにそう言われ、私はいまだに慣れない気恥ずかしさを覚えながら、彼の腕に手を添えた。濃紺の礼装に身を包んだ彼の姿は、いつもの騎士団の制服とはまた違う端正さがあって、隣に立つだけで、周囲の視線が集まるのが分かる。
「カイル様も、その装いは新鮮ですわ」
「窮屈でかなわない。だが――」
カイルは一度言葉を切り、私の方へ視線を落とした。
「隣にお前がいるなら、我慢のしがいもある」
さらりと告げられた一言に、私は思わず言葉を失った。人前でこういう軽口を叩くようになったのは、つい最近のことだ。慣れない甘さに、心の中だけで小さく悲鳴を上げる。
(こういうの、まだ全然慣れないわね……! でも、嬉しい)
広間の奥では、リーベルト殿下が集まった貴族たちと言葉を交わしていた。いつもの華やかな微笑みを浮かべてはいるものの、どこか気だるさが滲んでいるように見えるのは、私の気のせいだろうか。
少し離れたところに、フィオナの姿があった。扇子で口元を隠しながらも、その目だけは、リーベルト殿下の様子をじっと見据えている。隣に立つマリーが、心配そうにこちらへ視線を寄越した。
「フィオナ様、本当にやるつもりかしら」
「あの顔を見る限り、やめそうにないわね」
答えながら、私もフィオナから目を離せずにいた。
やがてリーベルト殿下の周囲から人が途切れた、その時だった。
フィオナが真っ直ぐに進み出た。
「――失礼、殿下」
凛とした声に、近くにいた人々が振り返る。リーベルト殿下も、わずかに目を見開いてフィオナを見た。
「ラッセル嬢?」
「今夜は、わたくしからお願いしたいことがありますの」
フィオナは臆する様子もなく、まっすぐにリーベルト殿下へ言葉を続けた。
「一曲、お相手いただけますか」
周囲の空気が、一瞬だけ静まった。
扇子の陰でひそひそと交わされる囁き、驚きに目を見張る令嬢たち。自分から殿下へ歩み寄り、堂々とダンスを申し込んだフィオナに、いくつもの視線が集まっていく。
「フィオナ様、なんて大胆な……」
隣でマリーが、息を呑むように呟いた。私も、思わず胸の前で手を握っていた。
リーベルト殿下はしばらくフィオナを見つめていたが、やがて、その表情に楽しげな笑みを浮かべた。
「面白い」
そう言って、彼はフィオナへ向かって手を差し出した。
「踊っていただけますか、ラッセル嬢」
「喜んで」
フィオナは扇子を畳み、ためらいなくその手を取った。楽団が奏でる曲に合わせ、二人はごく自然に広間の中央へと進み出ていく。
その光景に、周囲のざわめきはしばらく収まらなかった。フィオナの大胆な行動に驚いている者もいれば、興味深そうに二人を見つめている者もいる。
「まったく、大胆なお嬢さんだ」
「でも、殿下のあんなに楽しげなお顔、久しぶりに拝見しましたわ」
そんな声が聞こえてくる。マリーはまだ落ち着かない様子で、踊る二人を見守っていた。
「リゼット様、フィオナ様は、大丈夫かしら」
「少なくとも、殿下は嫌がっていらっしゃらないわ」
私がそう答えると、マリーも少しだけ肩の力を抜いた。
広間の中央では、フィオナとリーベルト殿下が一曲を踊り終えたところだった。曲が終わると同時に、リーベルト殿下が何かを囁き、フィオナが弾けるように笑う。その様子に、周囲から再び小さなどよめきが起こった。
踊り終えたフィオナが、興奮の収まらない足取りで、私たちのもとへ戻ってくる。
「見た、リゼットさん! やったわ、わたくし」
「見たわ。ずいぶん思い切ったことをしたわね」
「だって、待っているだけなんて、やっぱり性に合わないもの」
そう言って笑うフィオナに、マリーが胸を押さえた。
「見ているこちらの方が緊張したわ……」
「ごめんなさい、マリー。でも、後悔はしていないわ」
フィオナはそう言って、広間の奥へ視線を向けた。
リーベルト殿下も、ちょうどこちらを見ていた。目が合ったらしいフィオナが、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細める。
「明日には、きっと社交界中の話題ね」
小さく呟いたフィオナの声には、不安よりも昂揚の方が強く滲んでいた。
楽団が次の曲を奏で始める。ざわめきの残る広間で、フィオナは満足そうに扇子を開いた。




