第41話
拝謁の日取りがまだ知らされないまま、よく晴れたある日の昼下がり、私は新たな忙しさに巻き込まれることになる。
午前の注文をひと通り片付け、窓辺の作業台で繕い物をしていた私は、差し込む陽の暖かさに、思わず針を持つ手を緩めていた。糸巻きの棚を整えていたアンナが、ふと顔を上げる。
「今日は静かでございますね」
「そうね。こういう日は、貴重なくらいだわ」
開け放した窓から吹き込む風には、もうすっかり秋の気配が滲んでいた。
そう答えた矢先、工房の扉が、取り付けたばかりの鈴の音を置き去りにするような勢いで開いた。
「リゼットさん、大変よ!」
息を弾ませて駆け込んできたのはフィオナだった。頬を上気させ、閉じたままの扇子を握りしめている。すぐ後ろから、注文帳を抱えたマリーも、戸惑った顔でついてきた。
「大変って、何が」
繕い物の手を止めて尋ねると、フィオナは息を整える間も惜しむように、身を乗り出した。
「今度、近衛騎士団の演武会が開かれるの。若手の昇級審査を兼ねているんですって。リーベルト様から伺ったのだけれど――」
その名前に、マリーが小さく肩を跳ねさせる。フィオナは気づかないふりをしているのか、それとも意図してのことか、構わず続けた。
「今年の候補に、エドガー様のお名前があるのですって」
マリーの手から、注文帳がわずかに滑り落ちそうになる。慌てて抱え直したその仕草に、私は思わず口元が緩むのを感じた。
「エドガー様が……昇級、審査……」
「ええ。見に行かない手はないでしょう?」
フィオナは扇子の先で、ぱちんと手のひらを打った。
「大勢の令嬢が観覧に来るらしいわ。人混みの中に紛れて遠くから眺めるだけなんて、もったいないと思わない?」
「わ、私は、別に、そんな……」
声を上ずらせながら俯くマリーに、フィオナはにやりと笑いかける。
「あら、それなら私が代わりに応援旗でも作って差し上げましょうか」
悪戯っぽく笑うフィオナに、マリーは俯いたまま、抱えた注文帳をぎゅっと抱き直した。
「『オルコット嬢より』って、刺繍を入れて」
「やめて、フィオナ様!」
悲鳴に近い声を上げるマリーを見ながら、私はふと、工房の隅で糸巻きを整理していたアンナと目が合った。どちらからともなく、小さく笑いがこぼれる。
「マリー、本気で聞くのだけれど」
私は針を置き、椅子ごとマリーの方へ向き直った。
「あなたは、どうしたいの」
からかい半分の空気を取り払って尋ねると、マリーは一瞬だけ、驚いたように顔を上げた。
「……分からないわ。応援したい気持ちはあるの。でも、私が見に行ったところで、何が変わるわけでもないでしょう」
その声には、諦めに似た響きがあった。私は少しの間、言葉を探す。かつての自分を思い出していた。落とし主に名乗り出ることもできず、ただ遠くから見つめるだけで満足しようとしていた、あの頃の自分を。誰かにぶつかって落としてしまったぬいぐるみを、それでも取り返しに行く勇気がなかった、あの日の自分を。
「変わらないかもしれない。でも」
私はマリーの手を、そっと両手で包んだ。
「見に行かなければ、変わる機会そのものがないでしょう。それだけは、確かだと思うの」
マリーは唇を引き結び、しばらく黙り込んでいた。フィオナも、珍しく茶化す言葉を挟まずに見守っている。やがてマリーは、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「行くわ。ただ見ているだけでもいいから……見届けたい」
「それでこそマリーだわ」
フィオナが両手を叩き合わせ、アンナも嬉しそうに目を細めた。私は胸の奥に温かいものが広がるのを感じながら、頭の中で、もうひとつの考えを巡らせ始めていた。
「リゼット様、何か思いつかれましたの」
察しの良いアンナが、こちらを覗き込む。
「ええ、少し。マリーに持たせてあげたいものがあるの」
(ただ見ているだけじゃ、もったいないと思うのよね……せっかくなら、何か気持ちの伝わるものを、持たせてあげたいわ)
◇
演習場の隅で剣を振るエドガーの姿を、俺はしばらく黙って眺めていた。陽が傾き始めても、素振りの手を緩める気配がない。額に浮いた汗が、時折、砂の上に小さな染みを作っていた。
「今年の昇級候補、エドガーも名を連ねてますね」
隣に来たレイフが、腕を組んだまま呟いた。
「入団してまだ日が浅いわりに、思い切ったものだ」
「本人が志願したんですよ。まだ早いんじゃないかって、俺も一度は止めたんですけどね」
レイフは肩をすくめ、素振りを続けるエドガーの方へ顎をしゃくった。
「聞いたら聞いたで、『支えてくださった方々に、恥じない姿を見せたい』なんて、真面目な顔で言うもんだから」
支えてくれた方々――その言葉に、俺は工房でぬいぐるみを受け取った時の、エドガーの生真面目な横顔を思い出していた。あの男は、誰かに親切にされたことを、決して軽く受け流さない。
「エドガーの相手は、もう決まっているのか」
レイフはそこで一拍置き、少し声を落とした。
「ええ、去年の首席候補ですよ。楽な勝負にはならないでしょうね」
「実力は足りている。あとは、場に呑まれないかどうかだ」
エドガーが素振りを止め、木剣を握り直して息を整えている。その姿に、入団したばかりの頃の危うさは、もうほとんど見当たらなかった。
「令嬢方の見物も、今年はかなり多いみたいですよ」
思い出したようにレイフが付け加える。俺は素振りの手を止めないエドガーを見やった。
「昇級審査当日は、俺も検分役として立ち会う」
「ヴァランタイン嬢もいらっしゃるんですよね、きっと」
「――そうだろうな」
短く答えると、レイフは意味ありげに笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。夕暮れの光の中、剣を振り続けるエドガーの背に、俺はしばらく視線を留めていた。
(あの生真面目さが、いつか報われればいい)
柄にもなく、俺はそんなことを思っていた。
◇
その日の夕方、工房に残った私とマリーは、作業台に白い麻の布を広げていた。窓の外では、通りを行き交う人々の影が、夕陽に長く伸びている。
「刺繍の図案は決まった?」
尋ねると、マリーは持参した紙切れを差し出した。そこには、たどたどしい線で、小さな盾のような紋様が描かれている。
紙の上に描かれた図案は、線一本一本が、マリーなりの緊張を映しているようだった。それでも、丁寧に描かれた盾の角の丸みには、彼女の几帳面さがにじんでいる。
「エドガー様のお家の紋なの。詳しくは知らないのだけれど、以前、何かの折に見せていただいたことがあって……覚えていたから」
「いいわね」
私は図案を布の端に写し取りながら、針と糸を選び分けていく。紺色の糸を手に取ったところで、マリーが不安げに私の手元を覗き込んだ。
艶のある紺の糸は、エドガーの団服の色によく似ていた。指先で撚りを確かめながら、私は針に糸を通していく。
「私、刺繍はあまり得意ではないの。リゼット様に任せてしまっていいのかしら」
「いいえ」
私は首を振り、針をマリーの手に握らせた。
「これは、マリーが渡すものでしょう。だったら、マリーの手で縫った方がいいと思うの。下手でも、不格好でも――その方が、きっと伝わるわ」
マリーは息を呑み、それから、布に向き直った。最初の一針は、驚くほどおぼつかない手つきだった。糸が絡まり、何度もやり直す。それでも私は口を挟まず、隣で自分の繕い物を進めながら、時折、糸の張り方だけをそっと教えた。
「痛っ……」
指先を針で突いたマリーが、小さく声を漏らす。慌てて布巾を差し出すと、彼女は苦笑いを浮かべた。
「不器用なところ、見られてしまったわね」
「大丈夫。誰だって、最初はそうよ」
私は自分の指先に残る、数えきれないほどの針跡を思い出しながら答えた。前世から数えれば、いったいどれほどの回数、同じように指を刺してきただろう。それでも今、こうして誰かのために針を持つ手が増えていくことが、たまらなく嬉しかった。
お茶を運んできたアンナが、二人の手元を覗き込んで目を丸くする。
「まあ、マリー様がご自分で刺繍を。素晴らしいですわ」
「まだ、始めたばかりよ。笑わないでね」
「笑うなんて、とんでもない。心のこもった贈り物というのは、こういうものでございますもの」
アンナの言葉に、マリーは照れくさそうに肩をすくめながらも、針を持つ手を止めなかった。
私はその横で、自分がカイルのぬいぐるみを縫っていた頃のことを、ふと思い出していた。あの時も、こんな風に、誰にも言えない気持ちを、一針ごとに込めていた気がする。
窓の外がすっかり暗くなる頃、盾の紋様は、拙いながらも確かな形を結んでいた。糸の始末を終えたマリーは、出来上がったばかりの布を、両手で大事そうに包み込む。
「これを、渡せるかしら」
「渡せるわ。ここまで縫ったんだもの」
私がそう言うと、マリーは布から顔を上げ、初めて、迷いのない目でこちらを見た。
「ありがとう、リゼット様」
その笑顔に、私は針を持つ手を止めて、静かに頷き返した。
◇
昇級審査の当日、演習場の周りには、思っていた以上の人だかりができていた。柵の向こうに広がる砂地には、若手の騎士たちが整列し、緊張した面持ちで開始を待っている。旗が風にはためく音と、観覧席のざわめきが混じり合い、いつもより気忙しい空気が漂っていた。露店から漂う焼き菓子の匂いさえ、今日はどこか浮ついて感じられる。
柵際には、見覚えのある顔もちらほら見えた。学園の同級生らしき令嬢たちが、扇の陰でひそひそと言葉を交わしている。誰の視線も、多かれ少なかれ、砂地に立つ若手騎士たちへ向けられていた。
「すごい人ね……こんなに見物の方がいらっしゃるなんて」
隣に立つマリーが、胸元で両手を握りしめながら呟いた。フィオナは既に、柵の前列に場所を確保して手を振っている。
「エドガー様、緊張なさっているかしら」
「大丈夫よ。今まで稽古を重ねていらしたんだもの」
私がそう言うと、少し離れた場所から、聞き覚えのある低い声が届いた。
「きたのか」
振り返ると、検分役の装いをしたカイルが立っていた。団服の上から羽織った上着の襟には、見慣れない徽章が付いている。
「カイル様……検分役でいらしたのですね」
「ああ、それもだが、お前たちを見かけたので、少し様子を見に来た」
カイルはそう言うと、マリーの方へ一度視線を向け、それ以上は何も尋ねずに柵の内側へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は密かに、彼なりの気遣いを感じ取っていた。
短く言葉を交わす間にも、審査の開始を告げる角笛が鳴り響いた。若手騎士たちが、一人ずつ名を呼ばれて中央へ進み出る。エドガーの番が来た時、マリーが、無意識のように私の袖をきつく掴んだ。
剣を構えるエドガーの姿は、これまで工房で見てきた穏やかな彼とはまるで違って見えた。振り下ろされる一撃ごとに、乾いた砂埃が舞い上がり、刃が風を切る音が、離れた場所まではっきりと届く。相手の一撃を受け流し、体勢を崩したところへ踏み込む――その動きに、観覧席からどよめきが上がった。息を切らした相手が、それでも笑みを浮かべて健闘を称えるように小さく頷く。エドガーもまた、剣を引きながら短く頭を下げた。型を終えて構えを解いた瞬間、審査官の一人が小さく頷くのが遠目にも分かった。
「――やったわ」
マリーが、掠れた声で呟く。見物人の間から、ぱらぱらと拍手が起こった。
柵の向こうでは、レイフがエドガーの肩を勢いよく叩いているのが見えた。何かを言われたエドガーが、照れたように首の後ろを掻いている。
他の候補たちも、それぞれの成果に一喜一憂しながら、汗を拭ったり健闘を称え合ったりしている。長く張り詰めていた空気が、少しずつほどけていくのが分かった。
審査を終えた騎士たちが柵の内側に集まり、家族や知人からの声を受ける時間になると、マリーは布の包みを胸に抱いたまま、しばらくその場を動けずにいた。
「今よ、マリー」
背中をそっと押すと、マリーは一度だけ大きく息を吸い、柵の切れ目へと歩き出した。私はフィオナと並んで、少し離れた場所からその様子を見守る。
汗を拭っていたエドガーが、駆け寄ってくるマリーに気づいて目を見開いた。
「オルコット嬢……見に来てくださったのですか」
「え、ええ。素晴らしい型でしたわ、とても」
マリーは震える手で、布の包みを差し出した。
「あの、これ……お守り代わりに。下手な刺繍で、恥ずかしいのだけれど……」
エドガーは包みを受け取り、丁寧な手つきで開いた。拙い紋様の刺繍を見つめる横顔に、驚きと、それ以上の何かが浮かぶのを、私は柵越しに見ていた。
「これを……オルコット嬢が、ご自分で」
「リゼット様に教えていただきながら……その、下手なりに、一生懸命」
「嬉しいです。今日、一番の贈り物です」
エドガーの率直な言葉に、マリーは何も言えないまま、包みを渡した後の両手を、所在なさげに絡め合わせていた。それでも、その口元には、これまで見たことのないくらい柔らかな笑みが浮かんでいる。
「今度、お礼にお茶でもご馳走させてください。よろしければ」
「……はい。喜んで」
二人のやり取りを見守っていたフィオナが、私の袖を軽く引いた。
「よかったわね」
「ええ、本当に」
検分の務めを終えたらしいカイルが、いつの間にか隣に戻ってきていた。私は頷きながら、隣に立つ彼を見上げた。彼は何も言わず、ただ静かに、エドガーとマリーの方を見つめている。その横顔に、私はふと、初めて工房を訪れたあの日の彼を重ねた。
「私たちも、似たようなものでしたわね」
小さく呟くと、カイルは視線をこちらへ移し、わずかに目を細めた。
「そうだな。どちらが先に音を上げるか、危ういところだった」
「それを言うなら、カイル様の方が」
「否定はしない」
あっさりと返されて、私は思わず笑ってしまう。柵の向こうで、エドガーとマリーが並んで歩き出すのが見えた。二人の間には、まだぎこちなさが残っているけれど、それでも隣を歩く距離は、以前よりずっと近い。
「拝謁の話は、まだ届かないのですか」
「ああ。だが急かすつもりはない。今日のような、こういう時間の方が、俺には大事だ」
その一言に、私はしばらく何も言えないまま、隣に立つ彼の横顔をそっと見つめていた。少し離れた場所では、フィオナが早速マリーをからかい始めていた。
「次は私の番、かしらね」
「え、フィオナ様、まさか」
「さあ、どうかしら」
思わせぶりに笑うフィオナの横顔には、悪戯を企む時特有の光が宿っていた。その言葉の意味を、私はまだ深く考えていなかった。けれど数日後、その一言が思いのほか大きな騒動の予兆だったことを、私はまだ知らない。




