第40話
父の指先は、封蝋にかかったまま止まっていた。ランプの灯りの下で、その横顔から次第に血の気が引いていくのが、私には手に取るように分かった。
「お父様、いったい――」
言いかけた声を、父が小さく手で制した。長い沈黙の後、ようやく封を切る乾いた音が、静まり返った応接間に響く。厚みのある紙が擦れる音は、驚くほど大きく耳に届いた。中から出てきたのは、一枚の書状だった。父はそれを広げ、目を落とす。その表情が、みるみるうちに強張っていく。
燭台の炎が小さく揺れ、父の顔に落ちる影も一緒に揺らいだ。目を通す速さが、途中からぐっと遅くなる。一行ずつ、確かめるように読み進めているのが分かった。
「お父様? どうなさったの」
母も立ち上がり、父の隣から書状を覗き込んだ。私は膝の上で拳を握りしめたまま、その場を動けずにいる。カイルもまた、立ち上がったまま、じっと父の様子を見つめていた。
しばらくして、父は書状から顔を上げた。その目には、先ほどまでの緊張とは違う、戸惑いに近い色が浮かんでいる。
「陛下からの、直筆の書状だ」
その一言に、部屋の空気が再び張り詰めた。私は思わずカイルの方を見た。彼もまた、驚いたように目を見開いている。
(いったい、今日一日でどれだけのことが起こるのよ……)
心の中で悲鳴に近い呟きを上げながらも、表向きは背筋を伸ばしたまま、続きを待つ。
「陛下から……お父様にですか」
「そうだ。アシュフォード卿宛にも、別に一通あるそうだ」
執事が恭しく進み出て、カイルにもう一通の書状を差し出した。カイルは戸惑いながらそれを受け取り、封を切る。中の文面に目を通すうちに、彼の眉間に、これまで見たことのない表情が浮かんでいった。
「……そういうことか」
小さく呟いたカイルの声に、私は堪えきれず尋ねた。
「何が書かれていましたの」
カイルは書状を父に差し出した。父はそれを受け取り、声に出して読み上げ始める。
「――アシュフォード卿より、先だって内々に、ヴァランタイン伯爵令嬢との縁を進めるにあたり血筋を明かす旨、報告を受けていた。王として、また兄として、この決断を歓迎する。ヴァランタイン伯爵家におかれては、卿の後ろ盾について懸念があることだろう。よって、正式に王家として卿を認知し、その身分を後押しする用意があることを、ここに申し添える」
父の声が、少しずつ掠れていく。私は膝の上で、震える指をきつく組み合わせた。
「後日、両家そろって拝謁の機会を設けたい。此度の縁、心より祝したい――」
読み終えた父は、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。母が、その背にそっと手を添える。
「あなた……」
「まさか、こんな形で片がつくとは」
父は書状を持つ手を下ろし、大きく息を吐き出した。それから、カイルの方へ向き直る。
「卿は、先に陛下へ話を通していたのか」
「はい」
カイルは短く頷いた。
「血筋を明かす以上、陛下のお許しなくして進めるわけにはいきません。夕刻のお召しをいただく前、今朝のうちに使いを出しておりました」
「それで、このタイミングで返答が」
「まさか、これほど早いとは思っておりませんでした」
カイルの声にも、わずかな驚きが滲んでいる。私は父と母、そしてカイルの顔を順に見比べながら、強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じていた。
(国王陛下ご本人が、後押しになってくださるなんて……)
胸の奥から込み上げてくるものを堪えきれず、私は目頭が熱くなるのを感じた。父は書状を丁寧に折りたたむと、それを胸元にしまい込む。
「――ヴァランタイン家としては、このお申し出、謹んでお受けする。陛下直々の御書状となれば、否やを唱える者もおるまい」
「お父様」
「よかったな、リゼット」
父の口元に、これまでとは違う、柔らかな笑みが浮かんだ。母が私の肩をそっと抱き寄せる。その手のぬくもりに、張り詰めていた気持ちがようやくほどけていくのが分かった。カイルは私の方を見て、ほんのわずかに口の端を上げた。それは、これまで見たことのないくらい穏やかな表情だった。
私は椅子から立ち上がると、父のもとへ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。うまく言葉にならないまま、「お父様、ありがとう」と、何度も繰り返していた。
窓の外では、藍色の夜がすっかり街を覆っていた。遠くで馬車の車輪の音が響き、それが少しずつ遠ざかっていく。長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
◇
王宮の廊下を歩きながら、俺は懐に収めた書状のことを考えていた。陛下への使いを出したのは、今朝方、屋敷を発つ前の、ほんの短い時間だった。返答があるにしても、数日は要すると踏んでいた。石造りの廊下に、自分の足音だけが規則正しく響く。窓の外では、近衛の新兵たちが朝の訓練に汗を流していた。普段なら気にも留めない光景が、今日はやけに遠く感じられた。
「団長」
背後から声をかけられ、振り返る。詰所の入り口に、レイフが立っていた。
「昨日はどうでした。ヴァランタイン伯爵閣下との対面」
「どうにかなりそうだ」
「は?」
レイフが眉を寄せる。俺はそれ以上を語らず、話を変えた。
「近く、陛下に拝謁することになった」
レイフの表情から、からかいの色が消える。
「陛下に……? 団長が、ですか」
「そうだ」
「なんの用件かは、聞いてもいいんですか」
「今は言えん」
レイフはしばらく黙って俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「いいです。深くは聞きません」
そう言った彼の目には、からかいとは違う、気遣うような色があった。この男なりに、俺の捜索に付き合い、気にかけてくれていたのだと、今更ながらに思い至る。
俺は懐に収めた書状を、もう一度指先で確かめた。これまで陰でしか許されなかったものが、日の当たる場所へ引き出される。喜ばしいはずのその感覚に、まだどこか慣れずにいる自分がいた。
「陛下への謁見の日取りが決まり次第、知らせる」
「はい、はい。あ、そうだ団長」
立ち去りかけた俺を、レイフが呼び止めた。
「例の侯爵家の縁談の方は、どうなるんです?」
その問いに、俺は足を止めた。ヴァランタイン伯爵から交際を許された以上、テオドール卿からの縁談は、正式に断りが入るはずだった。だが、その先方がどう受け止めるかまでは、俺の預かり知らぬところだ。
「伯爵が、しかるべき形で断りを入れると仰っていた」
「揉めなきゃいいですけど」
「揉めるとしても、それは伯爵家の領分だ。俺が口を出す話ではない」
そう言いながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。リゼットが今、どんな思いでその後始末に向き合っているのか。詰所への道を歩きながら、俺はしばらくその横顔を思い浮かべていた。
◇
テオドール侯爵家への返書は、翌日の朝一番に出された。父が自ら机に向かい、丁寧な言葉を選びながら筆を進める様子を、私は隣の椅子に座って見守っていた。
「先方には、失礼のないようにしたためている。テオドール殿には何の落ち度もない縁談だ。断る以上、こちらの誠意は尽くさねばならん」
「お父様……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。先方の返答次第では、もう一悶着あるやもしれん」
羽根ペンの先が便箋の上を滑る音だけが、しばらく部屋に続いた。時折、父は書き損じた一枚を脇へどけ、また新しい便箋に向き直る。そのたびに、私の胸の内も一緒に揺れた。
「陛下の書状のことは、先方に触れるのですか」
「触れる必要はない。うちの娘には想う相手がいる、それだけで十分な理由だ。血筋の話は、公になってから然るべき形で伝わればいい」
父はそう言うと、便箋から顔を上げないまま続けた。
「順序を違えれば、あちらの体面を潰すことにもなりかねん。急ぐことはない」
そう言いながらも、父の筆致には迷いがなかった。書き終えた便箋を封筒に収め、蝋を垂らして家紋の印を押す。その一連の動作を見つめながら、私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
数日後、テオドール侯爵家から届いた返書は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。開封する父の指先を、私と母は固唾を呑んで見守った。「ご息女の御心を無理に曲げるつもりはない。此度は良縁とはならなかったが、いずれかの機会にまたお付き合いを願いたい」――そう記された文面を読んで、父はほっと息を吐き、椅子の背にゆったりともたれかかった。
「テオドール殿は、器の大きな方だ。無理を通す御仁ではないと思ってはいたが」
「よかった……本当に、よかったですわ」
母が胸に手を当てて呟く。私も、ようやく胸のつかえが取れていくのを感じていた。
工房に戻ってその話をすると、アンナは針を持つ手を止め、大きく目を見開いた。
「まあ! それでは、もうどこからも横槍が入らないということですね」
「ええ。あとは、陛下への拝謁を待つだけ」
「リゼット様が王宮に……」
アンナは想像しただけで緊張するというように、両手で頬を包み込んだ。
「わたくしまで、心臓が縮み上がりそうです」
「私はもう、この何日かで縮み上がりすぎて、これ以上どうにもならない気がするわ」
思わず零れた本音に、アンナは吹き出した。
「リゼット様がそんな顔をなさるところ、初めて見ましたわ」
「そうかしら」
「ええ。いつも、思い立ったらすぐ動くお方なのに。今日ばかりは、ずっと落ち着かなそうにしていらして」
言われてみればその通りで、私は思わず自分の頬に手を当てた。アンナはくすくすと笑いながら、糸巻きの束を棚に戻していく。
「でも、それだけ本気ということなのでしょう。よろしゅうございました」
「ありがとう、アンナ」
つられて私も、久しぶりに声を立てて笑うことができた。
◇
その日の夕刻、工房の裏口を静かに叩く音がした。扉を開けると、そこに立っていたのはカイルだった。詰所帰りらしく、まだ団服姿のままだ。
「急にすまない。近くまで来たので」
「いいえ、ちょうどよかったですわ。お茶でも……あ」
言いかけて、私は口をつぐんだ。すでに閉店の札を下げた店内には、アンナの姿もない。二人きりだと気づいた途端、うまく次の言葉が続かなくなる。
カイルは店の隅の椅子に腰を下ろすと、少しの間、黙って作業台の上を眺めていた。そこには、繕いかけの布地や糸巻きが、いつも通り雑然と置かれている。窓から差し込む夕陽が、切りかけの布地の縁を橙色に染めていた。
「片付いていなくて、お恥ずかしいですわ」
「いつも通りだ。気にするな」
そう言って、カイルは机の端に置かれた小さな端切れを一つ手に取った。指先で生地の厚みを確かめるように撫でてから、そっと元の場所へ戻す。その仕草を、私はしばらく見つめていた。
「テオドール卿からの返答は、聞いた」
「ええ。あっさりと、身を引いてくださいました」
「それは良かった」
短く答えたカイルの声に、私はふと、彼の横顔を見つめた。いつもの硬い表情の中に、隠しきれない安堵が滲んでいる。
「陛下からのお話、まだ実感が湧かなくて」
私が呟くと、カイルはこちらへ視線を向けた。
「俺もだ。数年前まで、名乗ることすら考えていなかった身の上だ」
「怖くありませんの? 血筋のこと、これから公になっていくというのは」
その問いに、カイルはしばらく黙り込んだ。窓の外を眺めるように視線を逸らし、それから、ゆっくりと口を開く。
「怖くないと言えば嘘になる。だが」
彼はまっすぐに私を見た。
「隠したまま、お前のそばにいる方が、よほど怖かった」
その一言に、私はうまく言葉を返せなくなった。乱れた鼓動を悟られたくなくて、両手をぎゅっと握りしめ、俯くことしかできない。
「なによ、それ……ずるいです」
「そうか」
カイルは短くそう言うと、立ち上がって私の傍らに寄った。作業台に片手をつき、少しだけ身を屈める。
「拝謁の日取りが決まったら、お前にも知らせが行く。仕立て屋の手配も、伯爵家を通して進めておいた方がいい」
「まあ、そんなことまで」
「王宮に不備な格好で上がらせるわけにはいかない」
真顔でそう言われて、私は思わず笑ってしまった。
「カイル様がそういう心配をなさるなんて、意外ですわ」
「意外か」
「ええ。いつも、そういうことにはお構いなしという顔をなさっているのに」
カイルは少しの間、決まり悪そうに視線を逸らした。それから、絞り出すように言う。
「お前に、みっともない思いをさせたくないだけだ」
その不器用な言い方に、胸の奥がじんわりと温かくなる。私は椅子から立ち上がり、彼のすぐそばに立った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「言わせてくださいまし。今日一日で、何度助けられたか分かりませんもの」
カイルは何も答えず、ただ、私の頭に軽く手を乗せた。その手のひらの温かさに、私は目を閉じて、しばらくその感触を味わっていた。
「拝謁が済むまでは、気を抜くな」
「はい」
「その後は――少し、休め。お前は働きすぎだ」
その言葉に、私は思わず目を開けて彼を見上げた。
「カイル様にだけは言われたくありませんわ。誰よりも働き詰めなのは、そちらでしょう」
「否定はしない」
あっさりと認めるカイルに、私はまた小さく笑った。笑いながら見上げた拍子に、カイルの手がまだ私の頭の上にあることに気づく。慌てて身を引こうとすると、その手はするりと離れ、代わりに彼の指先が私の手に軽く触れた。
「――今日は、よく頑張った」
ぽつりと落とされた一言に、うまく返す言葉が見つからなかった。視線が絡み合ったまま、カイルは何かを確かめるように、しばらく私の目を見つめていた。それから、迷いを振り切るように、ゆっくりと顔を近づけてくる。触れるだけの、短い口づけだった。離れた後も、その温もりだけが頬に残っていて、私はしばらく目を開けられずにいた。
「……カイル様」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。彼は何も言わず、もう一度そっと私の頭を撫でると、名残惜しげに、もう一度そっと唇を重ねた。窓の外では、夕焼けの最後の色が、藍色の夜へと沈んでいくところだった。工房の中には、糸と布の匂いに混じって、二人分の静かな呼吸だけが満ちている。
王宮への拝謁という、これまでにない大きな山を前にして、それでも今はただ、この穏やかな時間を惜しむように、私はカイルのそばに立ち続けていた。
このやすらぎも束の間、数日後には、店の扉を勢いよく開けて飛び込んでくる友人の姿に、私はまた別の忙しさへと引きずり込まれることになる。
けれど、その時の私は、まだそれを知らない。今はただ、カイルの手のぬくもりと、糸巻きの並ぶ静かな工房の空気を、少しでも長く覚えていたいと思うだけだった。




