第39話
朝の書斎には、昨夜と同じ書状が、同じ場所に置かれたままだった。カーテンの隙間から差し込む光の筋が、机の上の蝋印をうっすらと照らしている。父ジェラルドは椅子に深く腰掛け、私が座るのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「昨夜の続きだ。お前自身は、この縁談を、どうしたいと思っている」
昨夜と同じ問いだった。けれど今朝は、話を明日に持ち越してくれる母の助け舟はない。母クラーラは父の隣で、扇を膝の上に置いたまま、静かにこちらを見つめている。私は膝の上で組んだ指に、一度だけ力を込めた。
「お断りしたいと思っています」
声は震えなかった。自分でも、少し驚くくらいに。
「テオドール様に、何か落ち度があるわけではありません。むしろ、感じの良い方だと思いました。ですが……わたくしには、もう想う方がいるのです」
父の眉が、わずかに動いた。母はすでに知っているというように、静かに目を伏せる。
「その相手というのは」
「カイル・アシュフォード様です」
名を口にした瞬間、部屋の空気が、ほんの少しだけ張り詰めたように感じた。父は書状の端に指を置いたまま、しばらく黙り込んでいる。暖炉の残り火が、小さく爆ぜる音だけが響いた。
(言ってしまったわ……! でも、後悔なんてしていない。むしろ、もっと早く言えばよかったくらい)
胸の内で密かに拳を握りながらも、表向きは背筋を伸ばしたまま、父の反応を待つ。膝の上で組んだ指先が、じんわりと汗ばんでいた。
「近衛騎士団長の、アシュフォード卿か」
「はい」
「いつからだ」
問われて、私は言葉を探した。あの模擬戦の日から、数えきれないほどの積み重ねがあったけれど、それを一言で答えるのは難しい。
「最初にお見かけしたのは、近衛騎士団の模擬戦を見学した日でした。それから、何度かお店にいらしていて。お話しするうちに――気がつけば、あの方のことばかり考えるようになっていました」
「アシュフォード卿は、お前にどう接している」
父の問いは、意外なほど具体的だった。私は少し面食らいながらも、記憶をたどる。
「口では素っ気ないことばかりおっしゃる方です。ですが、わたくしが根を詰めすぎている時には、さりげなく休むよう声をかけてくださったり、困り事があれば、聞かれる前から動いてくださったり――いつもわたくしを気にかけてくださいます」
「評判は、私の耳にも届いている。任務には誠実で、私利私欲がないと」
父はそこで一度言葉を切り、腕を組んで天井の梁をしばらく見上げていた。その沈黙が、私にはひどく長く感じられた。
「何か、アシュフォード卿の人となりが分かるような話はあるか」
問われて、私はしばらく記憶をたどった。数えきれないほどの場面が浮かんでは消えていく中で、ひとつだけ、はっきりと覚えているものがあった。
「以前、部下の方の誕生日に贈る品を、こっそりわたくしの店に頼みにいらしたことがありましたの。口では素っ気ないことばかりおっしゃるのに、生地の色や表情まで、随分と細かく気にかけていらして。不器用な優しさをお持ちの方なのだと、その時に思いました」
父の口元が、わずかに緩んだ気がした。それでも、すぐには何も言わず、また黙り込んでしまう。
「腕も立ち、部下からの信も厚い。人物として非を鳴らす気はない」
母が扇の縁を指先で軽くなぞりながら、静かに口を挟んだ。
「でも、それだけでは足りないのでしょう、あなた」
「その通りだ」
父は私の方へ向き直った。
「アシュフォード卿自身については、近衛騎士団長ともなれば調べようはいくらでもある。だが、アシュフォード家については別だ。どの家系に連なるのか、爵位があるのかさえ、私が調べさせた限りでは判然としなかった」
思いがけない話に、私は目を瞬いた。
「爵位も……?」
「ああ。妙な話だろう。素性の知れない男だと言うつもりはない。王宮で近衛騎士団長を任されている以上、陛下から相応の信を置かれていることは間違いない。だが、娘の将来を託す相手となれば、それだけで済ませるわけにはいかん」
父の声は厳しかったが、カイルを貶める響きはなかった。
「家柄だけでお前の相手を決めるつもりはない。だが、何も分からないまま認めることもできん。アシュフォード卿が何者で、どのような家に生まれ、これからお前とどう生きていくつもりなのか。それを本人の口から聞く必要がある」
その一言に、胸の奥が落ち着かなくなる。
私も、カイル自身のことなら知っているつもりだった。けれど、彼の家について尋ねたことはほとんどない。思い返してみれば、カイル自身も家のことを語ったことはなかった。
「家柄や後ろ盾が分からなければ、認めていただけないのですか」
「そうは言っていない」
父は静かに、けれどはっきりと言った。
「分からないからこそ、本人に確かめたいのだ。お前が選んだ男なら、なおさらな」
母が、そっと父の腕に手を添えた。
「でしたら、一度お会いになるのが一番でしょう。リゼットから聞いた話だけで決めるより、ご本人とお話しなさった方が、あなたも納得できるのではなくて?」
父は小さく息をつくと、ようやく表情を緩めた。
「一度、彼と会おう。人となりも、アシュフォード家についても、直接本人から聞きたい。それで判じる」
思いがけない一言に、私は顔を上げた。
「お父様……」
「断ったわけではない。ただ、書状一枚の縁談と同じように、軽々に頷くつもりもないというだけだ」
その言葉には、これまでの父らしい慎重さと、それでも私の気持ちを尊重しようとする響きがあった。私は椅子から少し身を乗り出し、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
「今日にでも、屋敷へ来るよう伝えなさい。夕刻がよかろう」
頷きながら、私は胸の内で忙しなく段取りを組み立てていた。工房に着いたら、真っ先にアンナに事情を話し、カイルへ言伝を頼まなければならない。
馬車の中でも、指先の落ち着かなさは治まらなかった。窓の外を流れる街並みを眺めながら、私は何度も同じ問いを繰り返す。カイルは、今日この呼び出しをどう受け止めるだろう。工房に着くなり、扉を開けたアンナが、私の顔色をひと目見て手を止めた。
「リゼット様、何かございましたの」
「アンナ、聞いて。お父様が、カイル様にお会いくださるって」
息を弾ませながら伝えると、アンナは一瞬目を丸くし、それからすぐに頬を緩めた。
「まあ……! とうとうですね」
「今日の夕刻に、屋敷へ来ていただきたいそうなの。すぐに言伝を出さなくちゃ」
私は震える指で便箋を取り出し、急いで文字を綴った。何度もインクを弾ませそうになりながら封をし、店の使いの少年に託す。少年が駆け出していく後ろ姿を見送りながら、私は自分の心臓が、いつもより速く脈打っているのを感じていた。
「うまくいくと、思いますか」
振り返って尋ねると、アンナは糸巻きを棚に戻す手を止め、こちらへ向き直った。
「旦那様は、頭ごなしに人を否定なさる方ではございません。それに、リゼット様がこれほど真剣なお顔をなさるのを、私は他に存じません」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。とはいえ、注文帳に向き直っても、鋏を持つ手はいつまでも落ち着かなかった。客の応対をしながらも、扉の呼び鈴が鳴るたびに、外の様子を窺ってしまう自分がいる。閉店の刻限が近づくにつれて、胸の奥の落ち着かなさは、むしろ増していくばかりだった。
◇
昼を過ぎた頃、詰所に走り込んできたのは、工房の使いの少年だった。手渡された封筒には、リゼットの見慣れた筆致で「本日夕刻、屋敷にてお会いしたいとのこと。父より」とだけ記されている。
「団長、これ」
レイフが横から覗き込み、文面を読むなり口笛を吹いた。
「とうとう来ましたね。伯爵閣下との、ご対面」
「そのようだ」
短く答えながら、俺は文机の書類を脇へ寄せた。想像していたより早い呼び出しだった。心構えをする間もない。
「顔、強張ってますよ」
「そう見えるか」
「見えます。団長にしては珍しく」
レイフは椅子に腰を下ろすと、腕を組んで俺を見上げた。
「どうするおつもりですか」
「分からない」
正直な答えだった。ヴァランタイン伯爵が何を懸念しているのか、まだ見えていない。家格の話が出るなら、明かさざるを得ないだろう。だが、それを切り札のように振りかざすやり方は、俺の望むものではなかった。
「まずは、俺自身がどういう男か見てもらう。それで足りないというなら、その時に考える」
「団長らしいですね」
レイフは肩をすくめると、机の上の予備の礼装を指さした。
「せっかくですし、しわのないやつ着ていってくださいよ。第一印象、大事ですからね」
言われるまま、俺は控え室で礼装に着替えた。襟元を整えながら、鏡に映る自分の顔を見つめる。これまで幾度となく戦場や式典に立ってきたが、これほど落ち着かない気分になるのは初めてだった。
「団長」
支度を終えて詰所へ戻ると、レイフが珍しく真面目な顔で立っていた。
「うまくいくといいですね。俺、団長のこと結構、長いこと見てきましたけど」
「らしくないな」
「たまにはいいでしょう」
レイフは軽く笑って、俺の肩を叩いた。窓の外の光が、少しずつ橙色を帯び始めている。俺は剣帯を締め直し、夕刻に向けて詰所を後にした。
石畳の大通りは、仕事帰りの人波で賑わっていた。露店の灯りがひとつ、またひとつと点り始め、焼き栗の匂いが夕風に混じって漂ってくる。普段なら気にも留めない光景が、今日ばかりは妙に目に焼きついた。
ヴァランタイン邸へ向かう道すがら、俺は何度も懐に手をやった。そこには何もない。持っていくべき手土産の類も、後ろ盾となる書状の一枚もなかった。あるのは、これまで積み重ねてきた時間と、口にする覚悟だけだ。それで足りるかどうかは、伯爵が決めることだった。
屋敷の門が見えてきた頃、俺は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。門番に名を告げ、通されるまでの短い間、これまでの巡回や任務の緊張とは違う種類の重みが、胸の底に沈んでいくのを感じていた。
◇
夕刻、玄関の呼び鈴が控えめに鳴った時、私は居間の窓辺で、何度も同じ場所を行き来していた。扉を開けた執事が、来客の名を告げる声が、廊下の奥まで届く。
「アシュフォード卿がお見えです」
礼装に身を包んだカイルが、応接間へ通された。いつもの詰所や工房で見る姿とは違う、きっちりと整えられた佇まいに、私は一瞬、言葉を忘れて見入ってしまった。
「本日は、お招きいただき感謝いたします」
父の前で深く一礼するカイルの声は、いつもより幾分硬い。父は長椅子に座ったまま、しばらく無言でカイルを見つめていた。
「掛けなさい」
促されて、カイルが向かいの椅子に腰を下ろす。母が茶を運んでくると、しばらくは当たり障りのない言葉が交わされた。騎士団の近況、王都の治安、季節の話題。だが父の目には、終始、値踏みするような光があった。
「単刀直入に聞こう」
茶器が下げられた頃合いで、父が切り出した。
「娘が、貴殿を慕っているという。貴殿の方は、どうなのだ」
カイルは一瞬の迷いもなく、父の目をまっすぐに見返した。
「リゼット嬢を、生涯かけて守りたいと思っております」
父はすぐには答えず、カイルを見据えたまま、次の問いを口にした。
「ならば、もうひとつ聞かせてもらおう。アシュフォード家とは、いったい何なのだ」
カイルの表情が、わずかに変わった。
「貴殿自身の経歴は調べれば分かる。だが、家については驚くほど何も出てこない。どの家系に連なるのか、爵位があるのかさえ判然としなかった。娘との将来を考えているというのなら、その理由を聞かせてもらいたい」
部屋に沈黙が落ちた。
私は思わずカイルを見る。
彼はしばらく何も言わなかった。膝の上に置かれた手が、ゆっくりと握られる。
「……お調べになったのですね」
「娘の相手だ。当然だろう」
「もっともです」
カイルは短く息を吐いた。
「これまで、家のことを伏せていたのには理由があります。リゼットにも話しておりません」
カイルがこちらを見る。その目には申し訳なさと、それ以上に、何かを決意したような色があった。
「隠し続けるつもりはなかった。ただ、自分の口から話すべき時を決めかねていた」
そして再び父へ向き直る。
「ですが、リゼットとの縁を望む以上、もう伏せておくべきではないと判断いたしました」
カイルは一度言葉を切った。
「俺は現国王陛下の異母弟にあたります。母は身分の低い出自でしたが、陛下ご自身が、そのことをご存じの上で、内々に俺を認めてくださっています」
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。
母が息を呑む気配がする。
父でさえ、すぐには言葉を返さなかった。
私自身も、カイルの言葉を理解するまでに時間がかかった。
「……国王陛下の、弟……?」
「ああ」
カイルは私を見た。
「黙っていて、すまなかった」
冗談を言っているようには見えない。
これまで家についてほとんど語らなかったことも、父が調べても何も分からなかったことも、その一言で意味を変えていく。
「アシュフォード家について外から分からないようになっているのも、そのためです。俺の出自を知る者は限られています」
父がようやく口を開いた。
「陛下が、意図して伏せておられるということか」
「はい」
カイルは静かに頷いた。
「これまで公にせずにいたのは、地位を利用したくなかったからです。功績もないまま、血筋だけで信頼を得るようなことはしたくなかった。ですが、リゼットとの縁を前にしてまで隠したままでいることの方が、不誠実だと思い至りました」
父はしばらく、口を開かなかった。組んだ指の上に額を乗せ、深く考え込んでいる。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、長い沈黙の合間に響いた。私は膝の上で震える手を、もう片方の手でそっと押さえる。
「――そうか」
ようやく顔を上げた父は、椅子から立ち上がり、カイルの前に立った。
「地位や血筋を聞いて、態度を変えるつもりはない。ただ、貴殿がそれを隠したまま生きてきた理由と、今日それを明かした覚悟は、確かに受け取った」
「閣下……」
「本音を言えば」
父の口元に、これまで見せたことのない、柔らかな笑みが浮かんだ。
「娘が、あれほど強い目で誰かを想うのを見たのは、初めてだった。相手が誰であれ、その気持ちを引き裂くような真似は、したくなかったのだ」
母が扇の陰で、そっと目元を拭う。私は膝の上で、震える手を強く握りしめた。
「アシュフォード卿。娘との交際を、正式に許そう」
カイルが深く頭を下げる。顔を上げた時、その目には、これまで見たことのない安堵の色が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
その一言に込められたものの重さを、私は誰よりも近くで感じ取っていた。母が立ち上がり、カイルの手をそっと両手で包み込む。
「リゼットがあなたを想っていること、実は少しだけ気づいていましたのよ」
「気づいて……?」
「娘が、あなたにそっくりのぬいぐるみを抱いて寝ているのですもの」
母の悪戯めいた一言に、私は思わず頬が熱くなった。カイルもまた、珍しく視線を泳がせている。長椅子越しに目が合うと、どちらからともなく、小さく笑い合った。応接間の窓の外では、夕焼けが少しずつ、藍色の夜へと溶けていく。長かった縁談の影が、ようやく晴れていくように思えたその時、廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「旦那様、火急のお報せが」
執事の声には、これまでにない切迫した響きがあった。差し出された書状の封蝋には、王家の紋章が押されている。父は書状を受け取ったまま、しばらく封を切ろうとしなかった。ランプの灯りに照らされたその横顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「お父様……?」
問いかけても、返事はない。父は封蝋にそっと指をかけたまま、まだ動かずにいた。




