第38話
顔合わせから一夜明けても、庭園でのテオドールの言葉が、頭の隅にこびりついたまま消えてくれなかった。
「私にも、譲れないものが、少しばかりございまして」
あの声の抑揚まで、はっきりと思い出せてしまう。夜のうちに何度も反芻したせいで、寝台に入ってからもなかなか寝つけず、目覚めた時には、いつもより頭が重かった。それでも身支度を整え、いつも通りの時間に工房へ向かう。開店前の掃除を終えたアンナが、扉の鍵を回しながら私の顔をちらりと窺った。
「顔色が優れませんね。よく眠れませんでしたか」
「少しだけ。考え事をしていて」
答えながら、作業台に広げた型紙の束に手を伸ばす。今日仕上げる予定の依頼は三件、どれも急ぎではないが、手を動かしていないと、また昨日のことばかり考えてしまいそうだった。針に糸を通そうとして、二度も通し損ねる。三度目でようやく通った糸を見て、アンナが呆れたように笑った。
「リゼット様、今日も上の空になってますよ」
「ごめんなさい。分かってはいるのよ」
私は針を置いて、小さく息をついた。窓から差し込む朝の光が、作業台の木目を淡く照らしている。開け放した窓の外では、鳥の声がのどかに響いていて、その穏やかさが、かえって自分の中の落ち着かなさを際立たせるようだった。
「テオドール様のことが、まだ頭から離れませんか」
アンナが反物を棚に戻しながら尋ねる。図星を突かれて、私は正直に頷いた。
「悪い方には見えなかったの。むしろ、感じの良い方だったわ。木彫りがお得意で、応接間の飾り棚も、ご自分で彫られたものなんですって」
「まあ、器用な方なのですね」
「ええ。それに、私の店のことも、ちゃんとご存じだったの。詮索するようなことは言わなかったけれど、プラッシュ工房の評判の事も知っていらして」
言葉を切って、私は針を持ち直す。指先が、無意識に糸をきつく引いていた。
「それで、庭を案内していただいた時に――『この縁談を、心から歓迎しているわけではない』と、そうおっしゃったの。『私にも、譲れないものが、少しばかりございまして』とも」
アンナが、棚の反物の上に置いた手を、ぴたりと止めた。
「それは……ずいぶん、含みのある言い方ですね」
「でしょう。私も、あれから何度も考えているのだけれど、答えが出ないの」
窓の外を鳥が一羽横切っていく。その影が机の上を過ぎるのを目で追いながら、私はもう一度、あの噴水のほとりでのテオドールの表情を思い出そうとした。困ったような、それでいてどこか安堵しているような、不思議な微笑みだった。
「詮索はしない、とご本人がおっしゃったのだから、こちらから探るわけにはいかないわね」
「そうですね。ただ――」
アンナは少し考える素振りを見せてから、続けた。
「お相手にも事情がおありなら、こちらから急いで動く必要はないのかもしれません。焦らず、様子を見るというのも、ひとつの手かと」
「そうかもしれないわ」
答えながら、私はようやく針先を布に落とした。一針、また一針と刺していくうちに、強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていくのを感じる。手を動かしている間だけは、頭の中の靄が、わずかに薄れてくれた。
開店してからは、いつも通りの一日だった。予約していた客が仕上がったぬいぐるみを受け取りに来て、頬を紅潮させながら抱きしめる姿に、私もつられて表情を緩めた。新しい依頼の相談を受け、生地見本を並べて色合いを選び、注文帳に細かな要望を書き込んでいく。手を動かし、人と話している間だけは、テオドールの言葉から意識を逸らすことができた。
昼を過ぎた頃、店の扉が控えめに開いて、見覚えのある顔が覗いた。
「リゼット様、少しだけお邪魔してもよろしいかしら」
子爵令嬢のマリーだった。その後ろから、フィオナも顔を出す。
「昨日、ランドルフ様のお屋敷に伺ったのでしょう? どうだったの」
フィオナの遠慮のない問いに、マリーが慌てて肘で小突いた。
「フィオナ様、もう少し言い方があるでしょう」
「いいのよ、気になって当然だもの。私だって気になるわ」
二人を店の奥の椅子へ促し、注いだ茶を差し出しながら、私は当たり障りのない範囲で昨日の様子を話した。テオドール本人の印象、木彫りの趣味、応接間の飾り棚のこと。庭園での一件には、まだ触れる気になれない。
「感じの良い方だったわ。物腰も柔らかくて、悪意なんて欠片もなさそうだったの」
「へえ、意外だわ。侯爵家のご嫡男が、そんな趣味を持っていらっしゃるなんて」
フィオナが目を丸くする横で、マリーは安堵したように肩の力を抜いた。
「悪い方ではなさそうで、良かった。リゼット様が辛い思いをするんじゃないかって、心配していたの」
「ありがとう、マリー」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。だが同時に、この場でカイルのことを話せない自分の立場が、少しだけもどかしくもあった。
「それで、エドガー様とはどう?」
話題を逸らす意味も込めて尋ねると、マリーはとたんに頬を染めて俯いた。
「そ、それは、また今度……」
「あら、逃げるつもりね」
フィオナがからかうように笑い、マリーが小さな悲鳴を上げる。二人のやり取りを眺めているうちに、昨日からの重たい気分が、少しだけ軽くなっていくのを感じた。友人たちが帰っていく頃には、外の光がわずかに傾き始めていた。
◇
巡回を終えて詰所に戻ると、レイフが待ち構えていたように声をかけてきた。
「団長、ヴァランタイン嬢から何か聞きましたか」
「まだだ」
「まだって、昨日の今日ですよ。気にならないんですか」
気にならないはずがなかった。ただ、こちらから急かして聞き出すような真似は、リゼットの負担を増やすだけだと分かっている。前日、彼女は自分から「終わったら真っ先に伝える」と言っていた。その言葉を信じて待つしかない。
「今日、店に行くつもりだ」
「なら早く言ってくださいよ。書類、片付けるの手伝いますから」
レイフはそう言うと、机の上に積まれた報告書の束を手早く分けはじめた。手伝いを口実に、こちらの気を紛らわせようとしているのが分かる。窓の外では、夕暮れ前の空が薄い橙色に染まりつつあった。
書類の処理を終えた頃、レイフがふと手を止めて、こちらを見た。
「団長、侯爵家のご嫡男って、実際どんな人物なんです」
「会ったことはない」
「じゃあ余計に気になるでしょう」
その通りだった。相手がどういう人物かも分からないまま、リゼットが向き合わねばならなかったことを思うと、詰所で書類を捌いているだけの自分が、ひどく歯がゆかった。
「団長」
書類を最後の一枚まで片付けたレイフが、椅子の背もたれに体重を預けながら言った。
「あんまり、思い詰めないでくださいよ」
「分かっている」
「本当ですかね」
疑わしげな視線を寄越されて、俺は短く息を吐いた。表に出す気はまだない。国王陛下との間柄も、アシュフォードの名の裏にあるものも、これまで伏せ続けてきたことに変わりはなかった。だが、その手札が確かに自分の懐にあることを、忘れたことなど一度もない。
「行ってくる」
それだけ言い残し、俺は詰所を後にした。夕暮れの街は、屋台の灯りがぽつぽつと灯り始め、家路を急ぐ人々の足音が石畳に響いている。工房への道を歩きながら、俺は昨日から胸の底で燻り続けている不安を、意識して抑え込んだ。
◇
閉店の支度をしていると、扉の鈴が小さく鳴った。顔を上げると、そこにはカイルが立っていた。
「カイル様」
声を出した瞬間、昨日からの重たい気分の奥で、何かがふわりと軽くなるのを感じる。
(来てくれた……)
こんな時でも、姿を見ただけでこんなふうに気持ちが浮き立ってしまう自分を、少し情けなく思う。けれど、それを表に出す余裕はなかった。伝えなければならないことが、山のようにある。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい。閉店の支度が終わったら、ゆっくりお話ししたくて」
「構わない」
カイルは店の隅の椅子に腰を下ろすと、片付けをする私を、黙って見つめていた。アンナが最後の在庫を確かめて奥へ下がると、店内には二人だけが残る。ランプの灯りが、作業台の上に柔らかな輪を落としていた。私は向かいの椅子に座り直し、昨日のことを、順を追って話し始めた。
ランドルフ邸の応接間の様子、テオドールの人柄、木彫りの趣味の話。ここまでは、昼間マリーたちに話したのと大差ない。だが、庭園での一言に差し掛かったところで、カイルが膝の上の手をわずかに強張らせているのが見えた。
「――『私にも、譲れないものが』と、そうおっしゃったの」
「それだけか」
「ええ。父が呼びに来て、それ以上は聞けなかったわ」
カイルはしばらく黙り込んだまま、窓の外に目をやった。表情の乏しいその横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
「その言葉の意味は」
「分からないわ。でも」
私は膝の上で組んだ手に、少し力を込めた。
「この縁談を心から望んでいるわけではない――とも言われたの。詮索するつもりはないけれど、少なくとも、無理に私を望んでいる方ではないと思うわ」
カイルは何も言わなかった。ただ、その沈黙の中に、これまでとは違う何かが混じっているのが分かる。安堵とも、警戒とも取れない、微妙な揺れだった。
「カイル様」
「……何だ」
「顔合わせが終わって、ずっと考えていたことがあるの」
私は椅子から立ち上がり、カイルの前に立った。膝が触れそうな距離で、まっすぐに彼を見下ろす。
「私、この店を、誇りに思っているわ。ヴァランタインの名を出さずに始めた店だけれど、自分の手で築いたものだと胸を張れる。だから――誰かに嫁ぐことで、この店を手放すような選択は、したくない」
カイルが、わずかに目を見開いた。
「それに」
続けようとして、私は一瞬、言葉に詰まった。それでも、ここで飲み込むわけにはいかない。
「想う相手が、もういるもの。お父様には、まだきちんとお伝えできていないけれど……この縁談を、このまま進めるつもりはないと、近いうちにはっきり言うつもりよ」
カイルは椅子から立ち上がると、私の手を取った。指先が、いつもよりわずかに冷たい。
「その相手が、俺だと言ってもらえるのか」
「今さら、確かめるようなことでもないでしょう」
少し拗ねた声で返すと、カイルは珍しく、はっきりと口元を緩めた。
「そうだな」
握られた手に、力がこもる。痛いほどではない、けれど確かな重みだった。ランプの灯りに照らされた彼の表情は、いつもの硬さが少しだけ解けていて、その変化を見られたことが、今日一日の疲れを忘れさせてくれるようだった。
「テオドール殿の言葉は、気にかかる。だが、お前が父君に話すというなら、俺も黙って待っているだけのつもりはない」
「カイル様……何か、考えがあるの」
「まだ言えることは少ない。ただ――使える手が、俺にもある」
それが何を指すのか、私には見当もつかない。ただ、カイルの声には、これまでとは違う、静かな覚悟のようなものが滲んでいた。
窓の外では、宵の色がすっかり濃くなっている。カイルが帰り支度を整え、扉に手をかけたところで、店の奥からアンナが顔を出した。
「リゼット様、旦那様から使いの方が」
差し出された手紙には、父の几帳面な筆跡で、短く「至急、屋敷へ戻るように」とだけ記されていた。ランドルフ家から、何か知らせが届いたのだという一文が、その下に小さく添えられている。
昨日の今日で、いったい何があったのか。手紙を握りしめたまま、私はカイルと顔を見合わせた。
「送っていく」
「でも、カイル様がヴァランタイン家の馬車に同乗なさったら、それこそ余計な噂を立てられてしまうわ」
「では、馬車には乗らない。乗るところまで見送らせてくれ」
有無を言わせない口調に、私は小さく頷くしかなかった。アンナに戸締まりを任せ、二人で工房の裏口から表通りへ出る。夜風が思いのほか冷たく、私は肩をすくめた。その気配に気づいたのか、カイルがマントの端を私の肩に軽く掛けてくれる。
「ありがとう」
「大したことじゃない」
素っ気ない返事だったが、マントに残る温もりに、強張っていた気持ちが少しだけほどけていく気がした。カイルは宣言通り、表通りで待っていたヴァランタイン家の馬車に乗るところまで付き添ってくれた。
「何かあったら、すぐに知らせろ」
「ええ。心配してくださって、ありがとう」
軽く頭を下げると、カイルは短く頷き、踵を返して夜の街へ戻っていった。その背中が見えなくなるまで見送ってから、私は馬車に乗り、屋敷へと急いだ。
屋敷に到着し、父の書斎に通されると、ジェラルドは机の上に広げた書状を前に、難しい顔をして座っていた。母クラーラもすでに隣の椅子に腰掛けている。
「お呼びと伺いました。何かございましたの」
「座りなさい」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、父は書状を持ち上げ、私の方へ向けた。ランドルフ家の紋章が、蝋印にくっきりと押されている。
「ランドルフ侯爵家より、先ほど使者が来た。この縁談について、正式な返答は今しばらく待ってほしいとの申し出だ」
「待ってほしい、とは……」
「先方の事情により、との一文しかない。理由は明かされていない」
父の声には、困惑と、それを上回るわずかな安堵が同居しているように聞こえた。母が扇を閉じたまま、静かに口を挟む。
「昨日のご様子で、何か気づいたことはなかったの、リゼット」
庭園でのテオドールの言葉が、また耳の奥で蘇る。『私にも、譲れないものが、少しばかりございまして』――あの一言と、この急な申し出は、無関係とは思えなかった。
「テオドール様は、この縁談を心から歓迎していらっしゃるわけではないと、そうおっしゃっていました。詳しい事情までは、お聞きできませんでしたけれど」
「そうか」
父は書状を机に置き、深く息をついた。
「あちらに事情があるなら、こちらが無理に急かす話でもない。だが――」
父は言葉を切り、私をまっすぐに見た。
「お前自身は、この縁談を、どうしたいと思っている」
その問いに、私は膝の上で手を組み直し、まっすぐ父の目を見返した。今夜、カイルに伝えたのと同じ言葉を、今度は父に伝える番だった。だが、それを口にする前に、母が扇の先で軽く机を叩いた。
「お父様、今夜はもう遅いわ。リゼットも疲れているでしょう。話の続きは明日になさって」
助け舟のような一言に、父は渋々といった様子で頷いた。
「そうだな……明日、改めて話そう」
書斎を出て、自室へ向かう廊下を歩きながら、私は胸の奥に渦巻く問いを持て余していた。テオドールの「譲れないもの」とは何だったのか。そして、この急な引き延ばしの先に、何が待っているのか。答えの出ないまま、夜はますます更けていった。




