第37話
三日後、と母から告げられた翌朝も、工房にはいつも通りの朝が来た。
開店前の掃除を終えたアンナが、扉の鍵を回しながら、私の顔をちらりと窺う。
「今日も、変わらずお客様がいらっしゃいますよ。しっかりなさってくださいね」
「ええ、分かっているわ」
答えながらも、頭の片隅にはずっと「三日後」という言葉が居座っていた。開店してすぐ、常連の子爵令嬢が顔を出し、注文していたぬいぐるみの仕上がりを確かめにやってくる。
「リゼットさん、想像していたよりずっと素敵だわ! 本当にありがとう」
弾んだ声でぬいぐるみを抱きしめる令嬢の姿に、自然と頬が緩んだ。こういう瞬間だけは、頭の中の靄が、ほんの少し晴れる。満足げに帰っていく後ろ姿を見送ると、私は次の依頼の型紙に向き直った。刺繍糸の在庫を数え、注文帳に新しい依頼を書き込み、別の客の相談に耳を傾ける。手を動かしている間だけは、頭の中に居座る「三日後」という言葉から、少しだけ意識を逸らすことができた。
「リゼット様、また手元が疎かになってますよ」
アンナに指摘されて、私は手元の布から顔を上げる。刺しかけの襟元の刺繍が、心なしか歪んでいた。
「ご、ごめんなさい。気をつけているつもりなのだけれど」
「無理もございません。ですが――」
アンナは糸切り鋏を私の手から取り上げると、代わりに手早く解けた糸を始末してくれた。
「三日後になったら、否応なく向き合わなければならないのです。今のうちに、心を落ち着けておいた方がよろしいかと」
「分かっているの。分かっているのだけれど」
言葉を切って、私は窓の外に目をやった。庭木の葉が、乾いた風に小さく揺れている。テオドール・ランドルフという名前を頭の中で繰り返しても、顔も声も浮かばない。それがかえって、じわじわとした不安を煽った。
二日目の午後、カイルが工房を訪れた時も、私たちの間に流れる空気は、いつもより少しだけ張り詰めていた。机を挟んで向かい合っても、交わす言葉はどこか歯切れが悪い。
「日取りは」
「三日後の午後。ランドルフ様のお屋敷で」
答えると、カイルは短く相槌を打ち、それきり黙り込んだ。窓から差し込む午後の光が、机の上に置かれたカイルの手を淡く照らしている。指先が、端切れの端を意味もなくなぞっていた。しばらくして、カイルは思い出したように尋ねた。
「相手の男について、何か聞いているか」
「物静かで、そつがない方だと、お母様が仰っていました。私はお会いしたことがありませんので、詳しいことは何も」
「そうか」
それだけ言うと、カイルはまた黙り込む。何か言いたいことを飲み込んでいるような沈黙が、しばらく机の上に落ちていた。
「カイル様」
「……何でもない」
カイルは首を振ると、いつもの静かな表情に戻った。けれどその手だけが、まだ落ち着かない様子で布の端を摘まんでいる。私はその手に、そっと自分の手を重ねた。
「顔合わせが終わったら、真っ先にお伝えしますわ。どんな方だったかも、何を話したかも」
「ああ」
「だから、そんな顔をなさらないで」
カイルは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「そうは言っても、な」
その一言に、胸の奥が締めつけられる。悪いのは誰でもないのに、誰もがどこかで責任を感じているような、そんな重たさが工房の中に居座っていた。
その夜、私は自室の姿見の前で、明日着ていくドレスを何度も選び直していた。淡い水色の生地に、控えめな刺繍を施したものを衣装箪笥から出す。派手すぎず、地味すぎず。断るための場だと分かっていても、伯爵家の娘として恥ずかしくない装いを整える必要はあった。
「こちらの髪飾りは、いかがでしょう」
アンナが差し出したのは、小さな真珠をあしらった簪だった。受け取って鏡越しに合わせてみると、うっすらと母の面影が重なる。
「お母様が、結婚前に着けていらしたものだと聞いたことがあるわ」
「奥様も、きっとお喜びになります」
アンナはそう言って、私の髪をひとつに結い上げる手を止めなかった。櫛が通るたびに、こわばっていた肩から、少しずつ力が抜けていく。窓の外では虫の声がか細く響き、蝋燭の炎が壁に映る影をゆっくりと揺らしていた。
「お母様は、この簪をつけて、お父様と初めてお会いになったのかしら」
鏡越しに尋ねると、アンナは手を止めずに首を傾げた。
「詳しくは存じませんが、奥様がそうお話しになるということは、きっと何か思い出の品なのでしょうね」
小さな真珠が、蝋燭の灯りを受けてほのかに光る。母もかつて、こうして誰かに嫁ぐ前の晩を過ごしたのだろうか。そう考えると、不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「アンナ」
「なんでございましょう」
「明日、うまく話せるかしら。何を聞かれても、当たり障りのないことしか言えなかったら、どうしよう」
鏡の中のアンナが、ふっと表情を緩めた。
「リゼット様は、ご自分が思っていらっしゃるより、ずっと芯の強い方です。それに――」
結い終えた髪に、最後の一本を挿しながら、アンナは続けた。
「守りたいものがある方は、案外、いざという時に強くなれるものですから」
その言葉に、枕元の推しぬいへと目をやる。紺青の糸で縫い留められた瞳が、ランプの灯りを受けて静かに光っていた。
◇
巡回の帰り、俺は詰所の窓辺に立ったまま、暮れかけた空を眺めていた。明日の午後、リゼットはランドルフ邸へ向かう。その事実だけが、頭の中で重たく巡っている。
「団長、まだ残ってたんですか」
振り返ると、レイフが書類の束を小脇に抱えて立っていた。
「少し考え事だ」
「明日のことですよね」
図星を突かれて、俺は何も言い返せなかった。レイフは机に書類を置くと、椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「心配なのはわかります。侯爵家のご嫡男が、思ったより出来た人物だったりしたら、それはそれで厄介ですよね」
俺の胸の底には、その可能性が小さな棘のように刺さったまま、抜けてはくれなかった。
◇
当日の朝は、拍子抜けするほど穏やかに晴れていた。庭の噴水が朝日を弾き、鳥の声がのどかに響いている。それがかえって、これから起こることの重たさと不釣り合いに思えて、私は落ち着かない気持ちで身支度を終えた。
「支度は、できました」
鏡の前に立つと、水色のドレスに身を包んだ自分が映る。アンナが結い上げてくれた髪に、母の形見の簪が控えめに光っていた。
馬車には父と母、そして私の三人が乗り込んだ。車輪が石畳を鳴らす音を聞きながら、私は膝の上で手を組み、指先の冷たさを意識の外へ追いやろうとする。
「緊張しているの」
母が扇の陰から、そっと尋ねた。
「少しだけ。いいえ、たくさん」
正直に答えると、母は小さく笑った。
「正直でよろしいわ。無理に平気な顔をする必要は、どこにもないの」
父は窓の外を眺めたまま、しばらく黙っていた。やがて、独り言のように呟く。
「儀礼を尽くせば、それで十分だ。それ以上のことを、あちらも我々も求めてはいない」
その言葉に、私は小さく息をついた。窓の外を流れる街並みが、次第に見慣れないものへと変わっていった。王都の中心部に近づくにつれ、建物の造りも荘厳さを増していく。
ランドルフ邸に着いたのは、約束の時刻ぴったりだった。大理石の柱が並ぶ玄関で、初老の執事が丁重に頭を下げ、私たちを応接間へと案内する。
「ヴァランタイン伯爵閣下、伯爵夫人、リゼット様。お待ちしておりました」
通された部屋は、重厚な調度品で整えられていながら、どこか堅苦しさを感じさせない、落ち着いた空気を纏っていた。壁際の飾り棚には、精巧な木彫りの小鳥や馬の置物がいくつも並んでいる。誰の手によるものかは分からないが、どれも丁寧な仕事だった。長椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組んで待つ間、私は柱時計の振り子が刻む音を、やけにはっきりと聞いていた。しばらくして、扉が静かに開く。
「――ようこそいらっしゃいました」
現れたのは、輝くような金褐色の髪をした、背の高い青年だった。物腰は柔らかく、けれど瞳の奥には、隙のない冷静さが窺える。
「テオドール・ランドルフと申します。この度は、突然のお申し出にお応えいただき、感謝申し上げます」
優雅な礼をとる仕草に、私も慌てて礼を返した。
「リゼット・ヴァランタインですわ。本日は、お招きにあずかり光栄です」
声が上ずらなかったことに、内心で少しだけ安堵する。テオドールは私たちを席へ促すと、自らも向かいに腰を下ろした。
茶器が運ばれてくる間、当たり障りのない話題が続いた。天候のこと、王都の催しのこと、双方の家の近況。テオドールの受け答えは如才なく、けれど機械的な冷たさは感じさせない。母が事前に語っていた通りの人物像だった。
「先ほどの飾り棚の小鳥、素敵な細工ですわね」
間が空くのも気詰まりで、私は思い切って口を開いてみる。テオドールは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに頷いた。
「お気づきいただけましたか。実は、私が彫ったものでして」
「まあ、ご自分で……」
思いがけない答えに、私は素直に声を上げた。テオドールは少しだけ照れくさそうに、口の端を緩める。
「お恥ずかしながら、これくらいしか取り柄がなく」
「ヴァランタイン様の店のことは、私も耳にしております」
不意にそう切り出されて、私は手にしていたカップを、危うく取り落としそうになった。
「プラッシュ工房、でしたか。ご令嬢方の間で、随分な評判だと」
平静を装いながら、私はカップをソーサーに戻す。
「お恥ずかしい限りですわ。ただの、ちょっとした趣味の延長ですの」
「ご謙遜を。ただの趣味の延長で、あれほどの評判が生まれるとは思えません」
テオドールの声には、皮肉めいた響きはなかった。むしろ、どこか純粋な感心の色さえ滲んでいる。それでも、私は膝の上で組んだ手に、無意識に力を込めていた。彼がプラッシュ工房の名を、どこまで詳しく知っているのか――そこに思い至ると、口の中がひどく渇いていくのが分かった。
「テオドール様、その話はまたの機会に」
父が、やんわりと口を挟む。テオドールは軽く頭を下げ、話題を変えた。
「失礼しました。私も、手先を使う仕事には多少の心得がありまして。つい、興味が先に立ってしまいました」
「手先を、ですか」
母が興味深そうに問うと、テオドールはわずかに口元を緩めた。
「木工細工です。子どもの頃から続けている、ささやかな道楽でして」
その答えに、応接間の空気が、少しだけ和らいだ。父と母が相槌を打つ間、私はテオドールの横顔を、そっと窺う。物静かで、如才なく、悪意の欠片も見当たらない。それなのに、先ほどプラッシュ工房の名を口にした時の一言だけが、頭のどこかに引っかかったまま離れなかった。
やがて話題は、双方の家の近況や、来月の夜会の予定へと移っていった。テオドールの言葉遣いは終始丁寧で、けれど熱を帯びることもなく、儀礼という枠から一歩も踏み出そうとしない。それが、かえって彼の本心を測りかねさせた。
(この方は、この縁談を、どう思っていらっしゃるのかしら)
考えても、答えは出なかった。ただ、少なくとも自分と同じように、この場に何かしらの緊張を抱えているのかもしれない――そんな予感だけが、胸の底にかすかに残る。
一通りの歓談を終え、そろそろお暇の頃合いという段になって、テオドールが静かに立ち上がった。
「せっかくですので、庭を少しご案内させていただけますか」
父と母が顔を見合わせる。断る理由も見当たらず、私は小さく頷いた。
「よろしくお願いいたしますわ」
案内された庭園は、幾何学的に整えられた植木と、季節の花々が調和した、手入れの行き届いた場所だった。噴水のほとりを歩きながら、テオドールはしばらく無言だった。
不意に、彼が口を開く。
「先ほどは、失礼なことを申し上げました」
「プラッシュ工房のことです。あまり詮索がましいことを申し上げるべきではなかった」
「いいえ……」
「ですが」
テオドールは足を止め、私の方へ向き直った。夕暮れには早いはずの午後の光が、彼の金褐色の髪を淡く照らしている。
「気になったのは事実です。なぜ店の名に、ご自分の家名を一切出さないのか」
その問いに、私は一瞬、返す言葉を見失った。平静を装おうとしても、膝の上で組んだ指先が小さく震えるのを止められない。
「それは……色々と、事情がございまして」
「詮索はいたしません」
テオドールは静かに首を振った。
「ただ、ひとつだけ申し上げておきたいのです」
彼の視線が、まっすぐに私を捉える。
「私は、この縁談を、心から歓迎しているわけではありません」
思いがけない言葉に、私は言葉を失った。
「テオドール様……?」
「誤解なさらないでください。あなたに、何の不満もございません。ただ――」
彼は言葉を選ぶように、一度目を伏せた。
「私にも、譲れないものが、少しばかりございまして」
その言い方には、どこか含みがあった。だが、それ以上を尋ねる前に、噴水の向こうから父の声が聞こえてくる。
「リゼット、そろそろお暇しよう」
「はい、ただいま」
答えながら振り返ると、テオドールは既にいつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。まるで、今しがたの言葉など口にしなかったかのように。
「本日は、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
礼儀正しく頭を下げる彼に、私も同じように礼を返す。それでも、彼が最後に見せた表情の奥にあったものが何なのか、馬車に乗り込んでからも、ずっと頭から離れなかった。
帰りの馬車の中で、母が扇を閉じながら、こちらを見た。
「思っていたより、感じの良い方だったわね」
「ええ……」
相槌を打ちながらも、私の意識は、庭園でのあの一言に囚われたままだった。「私にも、譲れないものが」――あれは、いったい何を意味していたのだろう。
屋敷に着き、自室に戻ってからも、私は寝台の端に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。窓の外では、宵の空に一番星が瞬いている。
枕元の推しぬいを引き寄せ、紺青の瞳をじっと見つめた。
(カイル……)
今日あったことを、早く伝えたい。けれど同時に、テオドールの最後の表情が、なぜか頭の片隅から離れてくれない。
あの人は、いったい何を隠しているのだろう。そしてそれは――この縁談そのものを、揺るがすことになるのだろうか。
窓の外で、風が庭木の葉を揺らす音がする。答えの出ない問いを抱えたまま、私はしばらく、闇に沈んでいく空をじっと見つめ続けていた。




