第36話
朝食の席に呼ばれたのは、いつもより早い時間だった。食堂に入ると、父ジェラルドと母クラーラが、すでに席についてこちらを待っている。二人とも、皿にはほとんど手をつけていなかった。テーブルの上で湯気を立てるスープだけが、いつも通りの朝を装っているようだった。
「おはようございます……」
声が、自分でも情けないくらいに小さくなる。父が手のひらで向かいの椅子を示した。
「座りなさい」
言われるまま腰を下ろすと、母がティーカップを両手で包み込みながら、静かに口を開いた。
「昨日も話した通り、先方とお会いしないわけにはいかないの。ただの顔合わせよ。それ以上の意味は持たせないわ。あちらの人柄を確かめて、お断りする理由を、きちんとした形で差し上げるための場だと思ってちょうだい」
「断る、ため……」
その言葉に、強張っていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
「日取りは、まだ決まっていないの?」
尋ねると、母は首を横に振った。
「先方も、急いてはいないご様子よ。今日か明日にでも、こちらから伺いを立てるつもりでいるわ。お前には、決まり次第すぐに伝えます」
母はそこで、扇の先で私の手の甲をそっと撫でた。指先から伝わる温もりに、強張っていた肩が、ほんの少しだけ下りる。
「リゼット。あなたの気持ちを、置き去りにするつもりはないの。それだけは、忘れないでちょうだい」
その言葉に、目の奥がじんと熱くなる。頷くことしかできなかった。
朝食を終え、馬車に乗り込む頃には、外はすっかり明るくなっていた。車輪が石畳を鳴らす規則正しい音を聞きながら、窓の外を流れる街並みを眺める。私は昨夜からずっと頭の中を巡っている問いを、もう一度なぞった。
(顔合わせに応じることが、カイル様への裏切りになるわけじゃない。分かってる。分かってるんだけど……)
それでも、想いを言葉にしたばかりの相手に、別の縁談の話を伝えなければならないという事実が、胸の奥に重くのしかかっていた。膝の上で握った拳を、私は何度も開いたり閉じたりする。
工房に着くと、アンナがいつも通りの明るさで出迎えてくれる。けれどその顔は、すぐに私の表情を読み取って曇った。
「リゼット様、あまり眠れませんでしたか」
「少しだけ」
正直に答えると、アンナは開店準備の手を止めて、こちらへ向き直った。
「今日、カイル様がいらしたら、ちゃんとお話しなさるおつもりですか」
「ええ。昨日、そう決めたもの」
答える声が、自分でも思ったより硬く出た。アンナは何か言いかけて、それでも口をつぐみ、代わりに私の背中をそっと押した。
「大丈夫です。カイル様は、そんなことで揺らぐような御方じゃありませんもの」
その一言に、少しだけ息がしやすくなる。私は針箱を開き、注文帳に目を落とした。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。そう自分に言い聞かせながら、朝からの依頼分の型紙に鋏を入れていった。刃先が布を滑るしゃきしゃきという音だけが、しばらく工房に響いていた。
◇
夜が明けても、俺はどこか浮ついた気分のままだった。詰所に入ると、レイフがすでに机に着いていた。
「団長、今日はまた早いですね」
俺は無言で椅子に腰を下ろし、書類の束に目を通す。それでも、文字よりも、工房で見た彼女の顔ばかりが頭に浮かんできて、なかなか集中できなかった。
「今日は、工房に行かれるんですよね」
「行く」
短く答えると、レイフは椅子の背にもたれ、にやりと笑った。
「相変わらず、分かりやすい人ですね、団長は」
軽口を聞き流しながら、俺は書類を片付ける手を止めなかった。窓の外の空は、雲一つなく晴れ渡っていた。それが、これから待ち受けているものを、まるで予感させない穏やかな朝だった。
◇
昼を過ぎても、常連客の対応や新規の注文で、工房はそれなりに賑わっていた。手を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。けれど客足が途切れるたびに、扉の呼び鈴が鳴るたびに、心臓が跳ねるように反応してしまう自分がいた。
「リゼット様、そんなに扉ばかり気にしていたら、針が疎かになりますよ」
アンナに指摘されて、私は手元の布に視線を戻す。刺しかけの刺繍が、心なしかいつもより歪んでいた。
「ご、ごめんなさい」
「別に責めているわけじゃありませんから。ただ、気になって仕方ないなら、いっそ表で待っていた方が早いかもしれませんよ」
からかうような口ぶりに、私は思わず苦笑した。それでも、外に出て待つ勇気までは湧かない。私は鋏を置き、糸巻きの糸を丁寧に巻き直しながら、時間をやり過ごした。
夕方近く、ようやく客足が落ち着いた頃、控えめな呼び鈴の音が響いた。顔を上げると、扉の向こうに見慣れた長身が立っている。
「カイル様」
声が、自分でも驚くほど上ずった。カイルは店内に足を踏み入れると、いつものように周囲を一瞥し、それからまっすぐにこちらへ歩いてくる。アンナが心得たように、そっと奥へ姿を消した。
「顔色が悪い」
挨拶より先に、そう言われて、私は思わず頬に手をやった。
「そんなに、ひどい顔をしていますか」
「昨日とは、違う」
短い言葉の奥に、案じるような色が滲んでいる。カイルは机を挟んで椅子に腰を下ろすと、じっとこちらを見つめた。
「何があった」
その問いに、私は俯いた。膝の上で組んだ指先に、無意識に力がこもる。何度も頭の中で繰り返してきたはずの言葉が、いざとなると喉の奥で絡まってしまう。窓から差し込む夕暮れ前の光が、カイルの黒髪に薄い橙色を落としていた。
「あの……昨夜、家に、書状が届いたんです」
「書状」
カイルの声が、わずかに硬くなった。
「ランドルフ侯爵家から。ご嫡男の、テオドール様からの、正式な釣書だそうです」
言葉にした瞬間、カイルの目が、大きく見開かれた。それまでの穏やかな表情が、一瞬にして固まる。
「……釣書」
絞り出すような声だった。机の上に置かれた拳に、力がこもっていくのが分かる。しばらくの沈黙の後、カイルは短く息を吐いた。
「そうか」
その一言だけで、多くを飲み込もうとしているのが伝わってきた。
「顔合わせは、するのか」
問われて、私は小さく頷いた。
「体面上、一度はお会いしなければならないと、両親から。断るための場だと、母は言っていましたけれど……」
「そうか」
カイルは短く相槌を打つと、視線を机の上に落とした。指先で、端切れの端をそっとなぞる仕草に、これまでにない硬さがある。
「侯爵家との縁談を、伯爵家が容易に断れないことくらい、俺にも分かる」
「カイル様……」
「お前を責めているわけじゃない」
顔を上げたカイルの目には、いつもの冷静さの下に、隠しきれない揺らぎがあった。
「ただ、悔しい。それだけだ」
初めて聞くその一言に、私は言葉を失った。氷の騎士団長と呼ばれる人が、こんな風に感情をそのまま口にするのを見たのは、初めてかもしれない。
「悔しい、って」
「昨日、ようやく言葉にできたばかりだった。それなのに、次の日にはもう、こんな話が動いている」
声には出さないまでも、拳を握る力が、少しずつ強くなっていくのが分かった。
「侯爵家の後ろ盾に、俺は何も対抗できない。今の俺には、アシュフォードの姓と、騎士団長の地位しかない」
「そんなこと」
言いかけて、私は言葉を止めた。カイルの表情に、何か言い淀むような、迷いのようなものが見えた気がしたからだ。
「カイル様、何か――」
「いや」
カイルは小さく首を振った。
「今はまだ、言えることじゃない」
その言い方に、何か大きなものを抱えているような気配を感じたけれど、それ以上尋ねるのは躊躇われた。私は代わりに、机の上に置かれたカイルの手に、そっと自分の手を重ねた。指先に伝わる硬い感触に、少しだけ、気持ちが落ち着く。
「顔合わせをしたからといって、私の気持ちが変わるわけじゃありません」
カイルが顔を上げる。
「昨日、お伝えした言葉に、嘘はありませんもの。断るための場だと分かっていて臨むのと、何も知らずに臨むのとでは、まるで違いますわ」
言葉にしながら、自分の中で、少しずつ気持ちが固まっていくのが分かった。怖くないと言えば嘘になる。それでも、隣にこの人がいてくれるなら。
「――お前は、強いな」
カイルがぽつりと呟いた。
「強くなんて。震えてばかりですもの」
「震えていても、逃げようとはしていない」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。カイルは重ねた私の手の上に、もう一方の手をそっと添えた。手のひら全体を包み込むような、静かな仕草だった。
「顔合わせの日取りが決まったら、教えてくれ」
「知って、どうなさるんですの」
「何も。ただ、知っておきたいだけだ」
素っ気ない言い方のはずなのに、そこに込められた気遣いが伝わってきて、私は思わず目を伏せた。
「お伝えいたしますわ」
その時、扉の呼び鈴が鳴り、私たちは慌てて手を離した。顔を出したのはアンナで、ばつが悪そうに苦笑している。
「お邪魔してしまって、申し訳ございません。ですが、そろそろ閉店の時間ですので」
「あ……もうそんな時間」
窓の外を見ると、夕暮れの光がすっかり橙色に変わっていた。カイルは椅子から立ち上がり、剣帯を整える。
「今日は、これで帰る」
「はい」
「無理はするな」
短く言い残し、カイルは店を出ていった。その背中を見送りながら、私は胸に手を当てる。重なった手の温もりが、まだそこに残っている気がした。
片付けを終えて工房を出る頃には、空に一番星が瞬き始めていた。馬車に揺られながら、私はカイルの「悔しい」という一言を、何度も思い返す。あんな風に感情をあらわにする人だとは、思っていなかった。それだけ、私のことを真剣に考えてくれているのだと思うと、怖さの中にも、確かな温かさがあった。
屋敷に着くと、玄関先で母が待っていた。その手には、一通の書状が握られている。ランプの灯りに照らされた母の顔は、いつになく張り詰めて見えた。
「お母様……」
「たった今、先方から返事が届いたの」
母は書状を私に差し出しながら、静かに言った。
「三日後の午後、王都のランドルフ邸で、内々の顔合わせをということよ」
三日後。思っていたよりも、ずっと早い。喉の奥が、また小さく詰まった。
「そんなに、急に……」
「あちらも、なるべく早くお会いしたいとのお申し出だったの。お父様とも相談したのだけれど、これ以上先延ばしにする理由も、こちらにはないから」
母の言葉に、頷くしかなかった。三日後。それまでに、自分の気持ちを、どう整えればいいのだろう。
「リゼット」
母が、私の両手をそっと包み込んだ。指先はひやりと冷たく、それでいて力強かった。
「怖がらなくていいの。ただ、会って、話をするだけよ。あなたが誰を想っているか、それはもう、お母様にも分かっているつもりだから」
その言葉に、喉の奥が詰まって、うまく声が出てこなかった。私は何度も頷き、母の手を強く握り返した。
「お母様……ありがとうございます」
「さあ、今夜はゆっくり休みなさい。三日後まで、まだ時間はあるわ」
自室に戻り、私は寝台の端に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。書き物机の隅には、昨夜書きかけて結局しまい込んだ便箋が、そのまま引き出しに眠っている。
(三日後……)
カイルの「知っておきたいだけだ」という素っ気ない一言と、机の上で重なった手の感触を、私は指先でなぞるように思い出す。あの硬い手のひらの感触が、まだそこに残っている気がした。
枕元に置かれた推しぬいへ視線をやると、紺青の瞳が、静かな部屋の中でぼんやりと灯りを映していた。手に取って抱えるかわりに、私はそっと指先でその頭を撫でる。
明日、真っ先にこのことを伝えよう。そう心に決めながら、私は寝間着の上から上着を羽織り、窓辺に近づいた。外では、月が雲の切れ間からゆっくりと顔を覗かせている。まだ何も終わっていない。それでも、一人で抱え込まなくていいのだと思うと、強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
三日後。テオドール・ランドルフという相手と向き合う自分を、私はまだ上手く思い描けずにいる。それでも、逃げるわけにはいかない。窓辺に立ったまま、私は雲間の月をしばらく見つめ続けた。




