第35話
父ジェラルドが手にした書状は、上質な紙特有の鈍い光沢を帯びていた。封蝋に押された紋章には見覚えがない。見慣れない意匠を睨みながら、私は膝の上で指を組み、乾いた喉をどうにか意識の外へ追いやろうとした。
いつもなら書斎に籠もっている時間のはずの父が、わざわざ居間に母と私を呼び出した。それだけで、ただ事ではないと分かる。父は書状を両手で持ったまま、しばらく言葉を選ぶように黙り込んでいた。壁の燭台の炎が、わずかに揺れて父の頬に影を落とす。
「昨日、王都のランドルフ侯爵家より、正式な書状が届いた」
父の声は低く、いつもより重たく響いた。母クラーラは傍らで扇を閉じたまま、じっとこちらを見つめている。暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく居間に響いた。
「ランドルフ侯爵家……」
名前だけは知っている。国王陛下の覚えもめでたい名家で、夜会の噂話にもたびたび名が挙がる家柄だ。けれど、それがどうして我が家に、しかも私宛てに書状が届くというのだろう。
「侯爵家のご嫡男、テオドール様より、お前への釣書だ」
父の言葉が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になった。父は書状を広げ、書かれた文面の一部を、抑揚のない声で読み上げる。
「――貴家のご息女、リゼット嬢の評判、かねてより耳にしており、ぜひ一度、正式なご縁組をご検討いただきたく――」
流麗な筆致で綴られた文言は、儀礼にのっとった隙のない言い回しばかりで、かえって冷ややかに響いた。顔も知らない相手に、こんな風に品定めをされているのだと思うと、背筋がすっと冷える。
「――え」
声にならない声が漏れる。組んだ指先が、じわりと冷たくなっていくのが分かった。
「釣書、ですって……?」
聞き返す声が、自分でも情けないくらいに震えている。父は書状を机に置くと、深く息をついた。
「テオドール様は今年二十四になられる。武芸にも学問にも秀で、社交の場での評判も悪くない。年齢も家格も、申し分のない縁談だ」
母がそっと言葉を継いだ。
「以前、王城の夜会で少しだけお話ししたことがあるの。物静かで、他家のご令嬢方に取り囲まれても、如才なく受け流していらっしゃったわ。悪い噂も聞かないし、家柄だけを見れば、これ以上ないくらいのお相手だと思うわ」
悪い人ではないのだろう。それは分かる。分かるからこそ、余計に断る理由を見つけられない自分が怖かった。
「お父様……」
「お前の気持ちは分かっている」
父は珍しく、私の目をまっすぐに見た。
「お前が、誰かを大切に想っているのだろうということくらいは、傍で見ていれば分かる」
それでも、と続く父の声には、隠しきれない苦さが滲んでいた。
「侯爵家からの申し出を、伯爵家の立場で無下に断ることは容易ではない。角の立たない返答を、慎重に考える必要がある」
母が扇の縁を指先でなぞりながら、静かに口を開いた。
「あちらも急いてはいないご様子よ。すぐに返事を、というお話ではないの。ただ……一度は、先方とお会いする場を設けなければならないかもしれないわ」
「顔合わせを、ということですの?」
言いかけて、自分の声の語尾が上ずっているのに気づく。
「体面上、そうせざるを得ないでしょうね」
母の言葉に、目の前が暗くなるような感覚がした。顔合わせをするということは、少なくとも表向きには、この縁談を検討していると示すことになる。カイルとの想いがようやく言葉になったばかりだというのに。
「わたくし……」
言いかけて、言葉に詰まる。断りたい、と即座に口にすることは簡単だ。けれどそれが、伯爵家としての父の立場をどれほど危うくするか、想像できないほど子どもではなかった。
膝の上で組んだ指に、無意識のうちに力がこもる。爪の先が、手のひらに小さく食い込んだ。
母が私の隣に来て、そっと背中を撫でてくれた。
「大丈夫よ、リゼット。すぐに何もかもが決まってしまうわけではないの。あなたの気持ちを、置き去りにするつもりはないわ」
その言葉に、少しだけ息がしやすくなる。それでも、胸の奥に居座った重たいものは、そう簡単には消えてくれなかった。
「先方には、いつ頃までにお返事を差し上げなければなりませんの」
尋ねると、父は書状の隅に記された日付に目を落とした。
「正式な回答は、二週間ほど先でよいそうだ。ただし、その前に一度、内々の顔合わせをという申し出も添えられている」
二週間。長いようで、あっという間に過ぎてしまいそうな日数だった。その間に、自分はどんな顔でカイルに会えばいいのだろう。
「今すぐに、何かを決めろとは言わない」
父は静かにそう言うと、書状を丁寧に折りたたんだ。
「ただ、こういう話が来ているということだけは、お前の耳に入れておかねばと思った。心構えだけは、しておいてほしい」
頷くことしかできなかった。喉の奥に、言葉にならない不安の塊がつかえている。
「お父様も、お母様も……本当は、応援してくださっているのでしょう?」
尋ねると、父はわずかに目を伏せた。
「お前が幸せになれるのなら、相手が誰であろうと構わない。それが本音だ。だが伯爵家の当主として、無下にできない相手というものもある。すまないと思っている」
その言葉に、父の苦しさがどれほどのものか、初めて実感が追いついた気がした。
「今夜はもう休みなさい。詳しい話は、また日を改めて」
父に促されて、私は椅子から立ち上がった。膝に力が入らず、一瞬よろけそうになる。母が心配そうに手を伸ばしかけたけれど、私は「大丈夫ですわ」と小さく答え、居間を後にした。
廊下を歩く足取りが、自分でも分かるくらいに重い。灯りを落とした廊下の窓から、月の光が縞模様になって床に落ちていた。
自室の扉を開けると、控えていたアンナが、私の顔を見るなり表情を曇らせた。
「リゼット様、顔色が……何かございましたか」
「アンナ……」
答えようとして、喉が詰まる。アンナは何も聞かずに、私の背中にそっと手を添え、椅子に座らせてくれた。温かい湯を張った盥を運んできて、私の手を取り、指先を丁寧に湯につけてくれる。冷えきっていた指先に、じんわりと温もりが染み込んでいった。
窓の外では、虫の声がか細く響いている。アンナは私の背後に回ると、丁寧に髪を梳かし始めた。櫛が通るたびに、こわばっていた肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かる。しばらく無言でその手を動かしていたアンナが、鏡越しに私と目を合わせた。
「侯爵家から、私宛てに釣書が届いたそうなの」
ぽつりと零すと、アンナの手が一瞬止まった。鏡の中のアンナの表情が、驚きから戸惑いへと移り変わっていくのが分かる。
「……それは」
「ランドルフ侯爵家。ご嫡男から、正式に婚約の打診があったの」
湯の中で、アンナが私の指先を優しく揉みほぐしながら、静かに続きを促す。
「リゼット様は、どうなさりたいのですか」
その問いに、私は俯いた。
「分からないの。分からないけれど……昨日、あんなに嬉しかったのに。カイル様のお気持ちを、やっと信じられたのに」
声が震えて、最後まで言い切れなかった。アンナは盥から私の手を上げると、清潔な布でそっと水気を拭った。
「カイル様には、まだお伝えになっていないのですね」
「どう伝えればいいのか、分からなくて」
「早い方がよろしいかと思います。噂というものは、当人の口から出るより先に、風に乗って広まってしまうものですから」
アンナの言葉に、私ははっとした。もし噂が先にカイルの耳へ届いたら――そう考えるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「明日、工房にいらしたら、ちゃんとお話しするわ」
「それがよろしいかと」
アンナは櫛を置くと、少しだけ悪戯っぽく口の端を上げた。
「リゼット様がこれほど誰かを想っていらっしゃるところ、私としては、なんだか嬉しくもございます。だからこそ、簡単に諦めてほしくありません」
「アンナ……」
その一言に、じんわりと目の奥が熱くなる。アンナは私の肩に薄い毛布をかけると、静かに一礼して部屋を出ていった。
一人になった部屋で、私は枕元の推しぬいを抱き上げる。糸で縫い留められた紺青の瞳が、いつも通り、変わらずこちらを見つめ返してきた。
(カイル様……)
人形の頭を、そっと自分の頬に押し当てる。昨日の今日で、こんな話が舞い込んでくるなんて。運命というものが、こんなにも意地悪だとは思わなかった。
ベッドに横たわり、天蓋の陰を見上げながら、私は何度も昨夜の言葉を思い返す。「持ち主だからじゃない。リゼット、お前自身に惹かれている」――あの声が、まだ耳の奥に残っているのに。
あの時、カイル様の指先が私の頬に触れた感触も、「様はいらない、カイルと呼べ」と告げられた時の声も、昨日の私は宝物のように何度も反芻していたはずだった。それなのに今は、同じ記憶を辿るたびに、その先に立ちはだかる侯爵家の紋章がちらついてしまう。
(カイル……照れてしまって、なかなか呼ぶことができないわ)
気を抜くと、つい心の中でも「カイル様」と呼んでしまう自分がいる。名前だけで呼ぶことに、まだ慣れていないだけ。そのはずなのに、今夜はそれすらも、うまくいかない予感がしていた。
(大丈夫。まだ、決まったことは何もないもの)
自分に言い聞かせるように呟いても、胸のざわめきは収まらなかった。窓の外で、梢を揺らす風の音がする。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、天蓋の縁をぼんやりと照らしていた。
起き上がって机に向かい、便箋を一枚取り出す。カイル様に宛てて、今夜のうちに手紙で伝えてしまおうか――そう思ってペンを取ったものの、書き出しの一文すら浮かんでこない。何度か文字を綴っては、途中で手を止め、結局は白紙のまま便箋を引き出しにしまい込んだ。
(こんな大事なこと、手紙で済ませるものじゃないわ。ちゃんと、顔を見てお話ししなくちゃ)
人形を抱きしめたまま、私はしばらく、闇の中でじっと目を開けていた。
◇
詰所に戻ったのは、日がすっかり沈んだ後だった。書類仕事を片付けていると、レイフが書類の束を抱えて入ってきた。
「団長、来月の新人組の剣術稽古なんですが、合同稽古の回数を増やそうと思うんですが」
「構わない」
「じゃ、そっちで話進めときますね」
俺は差し出された書類に目を通し、頷いて判を押した。それだけのやり取りを終えると、レイフは書類を抱え直しながら、ふと窓の外に目をやった。
「今日も静かな夜ですね」
「そうだな」
短く答えながら、俺は工房で見た彼女の横顔を思い出していた。針を握る指先の動き、こちらを見上げて笑う時の癖。ここのところ、ずっとこんな調子だ。
明日も、また顔を出そう。そう心に決めながら、俺は書類の最後の一枚に判を押した。今日という日が、ごく平穏な一日として終わっていくことに、俺はまだ何も気づいていなかった。




