第34話
朝、目を覚ました瞬間から、なんだか体がふわふわしていた。夢だったのではないかと、半分本気で疑ってしまうくらいに。
枕元に転がっていた推しぬいを抱き上げると、糸で縫い留められた紺青の瞳が、いつも通り優しく見つめ返してくる。
(夢じゃないわ。ちゃんと、覚えているもの)
昨日、唇に触れた温もりも、抱き寄せられた腕の力強さも、思い出すたびに指先まで熱を持つ。前世だったら、朝からベッドの上で足をばたつかせて叫んでいたに違いない。今はさすがに、伯爵令嬢として押し殺すすべを知っている。知っているつもりだった。
身支度を整えて食堂へ向かうと、母クラーラが茶を片手に、こちらをじっと見つめてきた。
「あら、リゼット。今朝はまた、ずいぶんと機嫌がよろしいこと」
「そ、そんなことありませんわ」
「隠さなくてもいいのよ。母には分かるのだから」
含みのある笑みを向けられて、私は俯くしかなかった。父ジェラルドは新聞から顔を上げず、それでも口の端がわずかに緩んでいるのが見える。
「お父様まで、何がおかしいんですの」
「いや。何でもない」
そう言いながら、父はカップを口に運ぶふりをして、明らかに笑いを堪えていた。この家族には、隠し事なんてできないらしい。私は諦めて、パンにナイフを入れることに集中するふりをした。
馬車に揺られながら、私はもう一度、昨日のやり取りを頭の中で反芻する。「持ち主だからじゃない。リゼット、お前自身に惹かれている」――あの声の低さを思い出すだけで、まだ心が浮つく。窓の外を流れる街並みも、いつもより色鮮やかに見える気がした。
工房に着くと、アンナが待ち構えていたように駆け寄ってきた。
「リゼット様、今日は輪をかけて顔つきが柔らかいですね」
「気のせいよ」
「気のせいで、そんなに口元が緩むものですか。昨夜、カイル様がお帰りになった後、リゼット様ったら、鼻歌まで歌ってらっしゃいましたのに」
「う、歌ってないわ、そんなの」
「歌ってました。私、廊下でしっかり聞いてしまいましたもの」
からかうような目を向けられ、私は諦めて肩を落とした。
「……昨日、色々あったのよ。今度、ちゃんと話すから」
「楽しみにしています。とびきり詳しく、聞かせていただきますからね」
アンナは満足げに頷くと、開店準備に取りかかった。棚に並んだ人形たちを整えながら、私はふと、朝の光の中で埃がゆっくり漂うのを眺める。何でもない朝のはずなのに、今日はやけに輝いて見えた。
開店してほどなく、顔なじみの老紳士が杖をつきながら訪れた。亡き奥方の生前の姿を模した人形を、大切に持ち続けてくれている常連だ。
「ヴァランタイン様、少し、ほつれが出てしまいましてな」
「まあ、お預かりしますね。すぐにお直しいたします」
老紳士から預かった人形を丁寧に検めながら、私は針を手に取った。ほつれた袖口を数針で縫い直すと、老紳士はほっとしたように目を細める。
「いつもすまないね」
「いいえ。大切になさっているのが伝わって、こちらこそ嬉しいですわ」
そう答えると、老紳士は柔らかく笑い、深々と頭を下げて帰っていった。その背中を見送りながら、私は針を持つ手にそっと力を込める。誰かの大切な記憶を形にする仕事の重みを、こうして改めて思い出す瞬間が、時々ある。
昼を過ぎた頃、糸と生地が心もとなくなっていることに気づき、私は買い出しに出ることにした。
「アンナ、少し出てくるわね。大通りの生地屋まで」
「お一人で大丈夫ですか?」
「近いもの。すぐ戻るわ」
外套を羽織って表に出ると、通りは午後の柔らかな光に満ちていた。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音、露店の呼び込みの声、すれ違う子どもたちの笑い声。人混みを縫うように歩きながら、私は久しぶりに肩の力が抜けているのを感じる。噂の渦中にいた数日間は、外を歩くだけで身構えていたのに。
生地屋で紺色の起毛地と刺繍糸を見繕い、包みを抱えて店を出たところで、ふと見覚えのある後ろ姿が目に留まった。
通りの端、小さな贈答品の店の前。艶やかな栗色の巻き毛を結い上げた令嬢が、店先の陳列棚を前に立ち尽くしている。
(オクタヴィア様……?)
声をかけるべきか迷って、私は足を止めた。彼女は供の侍女も連れず、一人だった。棚に並んでいるのは、男性向けの革小物や、剣の手入れ道具の並ぶ一角だ。オクタヴィア様は手袋の指先で、そっと一つの小さな革製の小箱に触れている。
「……こんなもの、今更」
独り言のような呟きが、風に乗って耳に届いた。彼女はすぐに手を引っ込め、店の主人が近づいてくると、何事もなかったかのように顔を上げる。
「気が変わりましたわ。結構よ」
突き放すように言い残し、オクタヴィア様は踵を返した。その拍子に、こちらへ視線が向く。
「――リゼット様」
目が合ってしまい、私は慌てて会釈した。オクタヴィア様の表情に、一瞬だけ動揺のようなものがよぎる。けれどそれもすぐに消え、いつもの取り澄ました顔に戻った。
「奇遇ですこと。買い出しかしら」
「ええ、糸を切らしてしまって」
当たり障りのない返事をしながら、私は先ほどの小箱のことが気にかかっていた。あれは、誰かへの贈り物だったのだろうか。踏み込んでいいものか分からず、言葉を選んでいると、オクタヴィア様の方から口を開いた。
「先日は、失礼なことを申し上げましたわね」
思いがけない一言に、私は目を瞬く。
「オクタヴィア様……」
「謝るつもりはありませんけれど。少し、言い過ぎたとは思っておりますの」
扇を握る指先に、わずかな力がこもっているのが見えた。彼女は視線を店先の棚へ戻し、小さく息をつく。
「あの方とのことは、物心つく前から、もう決まっているようなものでしたの」
「……決まっている、とおっしゃいますと」
尋ねると、オクタヴィア様は一瞬、答えるかどうか迷うように黙り込んだ。それから、独り言のように続ける。
「幼い頃から、いずれはあの方と、というお話が周りであって。両親からもそれとなく言われて育ちましたの。好いてもおりましたし、それが当たり前の道なのだと、疑ったこともありませんでしたわ」
オクタヴィア様は自嘲するような、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「お断りされていたことくらい、存じておりましたわ。それでも、いつかは、と心のどこかで思っていたんですの。愚かしいですけれど」
その声には、これまでの棘のある物言いとは違う、静かな響きがあった。何年も信じて疑わなかったものが崩れていく戸惑いが、ふっと滲んだような気がする。
「わたくしがどれだけ、あの方のために――」
先日と同じ言葉を口にしかけて、オクタヴィア様は今度も途中で止めた。けれど今回は、力なく笑って続きを結ぶ。
「――なんて、もう言うだけ野暮ですわね。あなたが選ばれたのなら、それが答えなのでしょう」
思いがけない一言に、私は何と返せばいいのか分からなかった。オクタヴィア様は扇を開き、それで表情を隠すようにしながら、静かに背を向ける。
「今日のことは、忘れてくださいまし。柄にもなく、みっともないところをお見せしましたわ」
答える間もなく、彼女は足早に去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私はしばらくその場に立ち尽くす。
(あんな顔、初めて見たわ……)
勝ち気で隙のない令嬢だとばかり思っていた。けれど今のオクタヴィア様には、噂を振りまいていた時の勢いがどこにもなかった。長年抱えてきたものを、行き場もなく持て余しているような、そんな寂しさだけが残っていた気がする。
包みを抱え直し、私は工房への道を歩き出す。すれ違う人々の中に、彼女の後ろ姿はもうどこにも見当たらなかった。
◇
巡回の合間、詰所に立ち寄ると、レイフが書類を片手に待ち構えていた。
「団長、なんか物思いに耽ってません? 珍しいですね。それに、なんていうか」
「なんだ」
「以前より、纏ってる空気が柔らかいっていうか……。俺の見間違いですかね」
窓辺の書類机に肘をついて、レイフがしげしげとこちらを覗き込んでくる。俺は視線を逸らし、羽根ペンを取り上げた。
「気のせいだ」
「またそれですか。団長のその返事、もう三回目ですよ」
レイフが呆れたように肩をすくめる。俺は書類の束を手に取り、話を打ち切った。それでも、頭の片隅には、レイモンド嬢の抱える事情が、まだ引っかかったままだった。彼女が何を思って動いていたのであれ、リゼットがこれ以上、あの牽制に苦しめられることだけは避けたい。それだけは、はっきりしていた。
◇
夕方、私が工房の帳簿をつけていると、扉の呼び鈴が控えめに鳴った。顔を上げると、見慣れた長身がそこに立っている。
「カイル様」
「近くまで来た」
いつもの短い言葉に、それでも今日は少し違う響きがある気がした。カイルは店内に足を踏み入れると、周囲に客がいないことを確かめるように一瞥し、それからまっすぐに私のそばまで来た。
「顔を見に来た。それだけだ」
「まあ……」
素っ気ない言葉のはずなのに、頬が緩むのを止められない。アンナが心得たように、そっと奥へ引っ込んでいく。カイルは椅子に腰を下ろすと、机の上に置かれていた端切れの山を、興味深そうに眺めた。
「今日は、何を作っている」
「注文の追加分ですわ。姪御さんのお誕生日に、物語に出てくる登場人物の人形を」
説明しながら図案を見せると、カイルは真剣な顔で聞き入る。不器用ながらも、こうして興味を持って耳を傾けてくれる姿に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「昼は、食べたのか」
唐突な問いに、私は返答に詰まった。
「その、忙しくて、少し後回しに」
「駄目だ」
カイルは眉をひそめ、懐から小さな紙包みを取り出した。開くと、街角の菓子屋でよく見かける焼き菓子が二つ、行儀よく並んでいる。
「詰所からの帰りに寄った。腹に何か入れてから続きをやれ」
「これは……買ってきてくださったんですの?」
「たまたま、目についただけだ」
目を逸らしながら答えるカイルに、私は思わず笑ってしまった。たまたま、と言うわりには、私の好みそうな木の実入りのものを選んでくれている。
ふと、カイルが手を伸ばし、私の髪にかかっていた糸くずをつまみ取った。
「ついていた」
「あ……ありがとうございます」
昨日のことを思い出して、私は思わず身を強張らせる。カイルもまた、自分のしたことに気づいたのか、耳のあたりをわずかに赤くしながら、それでも今日は手を引っ込めなかった。
「――遠慮しなくていい。もう、隠すつもりもない」
きっぱりとした一言に、私は目を瞬いた。表向きは氷の騎士団長のまま通すのだろうと思っていたのに、彼のその声には、隠さない覚悟のようなものが滲んでいる。
「団の者たちの前では、今まで通りだ。だが、お前の前でまで取り繕う理由はもうない」
「カイル様……」
何と返せばいいのか分からないまま、口元だけがどうしようもなく緩んでいく。それを誤魔化すように、私は菓子を一つつまみ、口に運んだ。木の実の香ばしさが、口の中にふわりと広がる。
「そういえば、今日、街でオクタヴィア様とお会いしましたの」
「……何かあったのか」
カイルの声が、わずかに緊張を帯びる。私は先ほどの出来事を、順を追って話した。贈答品の店先での様子、静かな声、そして途中で止めてしまった言葉のことも。
「幼い頃から、いずれはあの方と、というお話が周りであったそうです。好いていらしたのもあって、それが当たり前の道なのだと、一度も疑ったことがなかったと仰っていました」
カイルはしばらく黙り込んだまま、窓の外へ視線を向けていた。何か、記憶を辿るような表情だった。
「……そうか」
短い相槌の奥に、何か思い当たる節があるような響きがあった。それが何なのか、この場で問い詰めるつもりはなかったけれど。
「オクタヴィア様、今日は今までと違って見えました。もしかしたら、何か事情がおありなのかもしれません」
「かもしれないな」
カイルは静かに頷き、それ以上は語らなかった。ただ、その横顔には、これまでの警戒とは違う、少し柔らかな色が浮かんでいる気がした。
カイルが帰った後、片付けを終えて工房の扉に鍵をかける頃には、夕闇が濃くなっていた。馬車で屋敷に着くと、アンナと共に玄関をくぐった。屋敷の中には、普段とは違う張り詰めた空気が漂っているのに気づいた。
居間に入ると、父ジェラルドが一通の書状を手に、難しい顔で座っていた。母クラーラも、その傍らで珍しく口数少なく控えている。
「お父様……?」
「リゼット、座りなさい」
いつになく硬い声に、私は言われるまま椅子に腰を下ろした。窓の外では、夕暮れの光が徐々に薄れ始めている。今日一日の出来事を振り返りながら、私はふと、明日という日が、これまでとは何かが違って始まる予感を覚えていた。
お読みいただきありがとうございました!
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