第33話
朝、身支度を整えている間も、昨夜のことが頭から離れなかった。頬に触れたカイル様の指先の感触が、まだそこに残っている気がする。
(な、なんでもないことよね。髪を直しただけなんだから)
そう自分に言い聞かせても、鏡に映る顔はどうしようもなく赤らんでいた。馬車に揺られながら、私は何度も頬を両手で押さえる。
(前世だったら、こういうのを「尊い」って言うのかしら。いえ、今は自分のことなんだから、尊いとか言ってる場合じゃないのよね……)
益体もないことを考えては、また一人で赤面する。そんな調子のまま、気づけば工房の前まで来ていた。
「リゼット様、今日はまた一段と機嫌がよろしいですね」
工房に着くなり、アンナが目ざとく指摘してくる。
「そ、そんなことないわよ」
「昨日、カイル様が遅くまでいらしてたじゃないですか。何かあったんですか?」
からかうような視線に、私は思わず視線を逸らした。
「べ、別に。少し、お話をしただけよ」
「ふぅん」
納得していない様子のアンナに、それ以上追及されないよう、私は帳面を開いて仕事に集中するふりをした。それでも、心のどこかで、昨夜の続きを待ち望んでいる自分がいる。
棚の端切れを整理していると、アンナが思い出したように口を開いた。
「そういえば、フィオナ様とマリー様から言付けを預かっていました。今日、また様子を見に来るからって」
「そう、ありがとう」
「お二人とも、リゼット様のことをとても心配していらっしゃいましたよ。オクタヴィア様の件も、噂の件も」
アンナの言葉に、胸の奥が温かくなる。噂に振り回された数日間は決して楽ではなかったけれど、支えてくれる人たちがいることを、改めて実感していた。
開店してからは、いつも通りの一日だった。噂はまだ完全には収まっていないものの、常連客が変わらず顔を出してくれることに、少しずつ安堵が広がっていく。
「リゼット様、これお願いできる? 姪っ子の誕生日に」
「はい、喜んで。どんな人形がお好みか、伺ってもよろしいですか」
注文の女性客は、姪が夢中になっている旅芸人の物語の主人公を挙げ、目を輝かせながら細部まで説明してくれた。話を聞きながら図案を描き留めていると、注文帳を挟んで交わす何気ないやり取りに、じんわりと心が温まる。
「楽しみにしていてくださいね」
「ええ、本当に。リゼット様のお店があってよかったわ」
その一言に、鼻の奥がつんと痛んだ。噂に振り回されていた数日間があったからこそ、こうした一言がどれほど大きな支えになるか、身に染みて分かる。
昼過ぎ、扉の呼び鈴が軽やかに鳴った。顔を上げると、フィオナ様とマリー様が連れ立って立っている。
「リゼット様、お加減はいかが?」
「思っていたより、元気そうで安心しましたわ」
二人とも、心配そうな面持ちで駆け寄ってくる。私は努めて明るく笑ってみせた。
「ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね」
「オクタヴィア様が店に乗り込んだと聞いた時は、生きた心地がしませんでしたのよ」
フィオナ様が扇を握りしめながら、まくし立てるように言う。マリー様も、控えめながら頷いた。
「本当に、何もなくてよかったです」
「ありがとう、二人とも。おかげさまで、今はすっかり元気よ」
二人との他愛のないおしゃべりに、強張っていた気持ちがほぐれていく。フィオナ様が扇の陰でにやりと笑った。
「それにしても、団長様、相変わらずこちらに足繁くいらしているんですのね」
「そ、それは、その」
「隠さなくてもいいのに」
からかうような視線に、私は思わず頬を熱くした。二人の笑い声に包まれながら、客足が落ち着いた合間、私は帳面をつけながらも、頭の片隅にはずっとオクタヴィア様の言葉が引っかかっていた。「わたくしがどれだけ、あの方のために――」あの続きの言葉が、何度考えても答えに辿り着かない。
(考えても仕方ないわよね。今度会う機会があれば、また聞いてみよう)
夕方、店じまいの支度をしていると、控えめな呼び鈴の音が響いた。顔を上げると、扉の向こうに見慣れた長身が立っている。
「カイル様……」
「近くまで来た」
いつもの短い言葉に、それでも胸の奥がじんわりと温かくなる。アンナが気を利かせたように、そそくさと奥へ引っ込んでいった。
「今日は、何か御用でしたの?」
尋ねると、カイル様は珍しく言葉に詰まったように黙り込んだ。夕暮れの光が、その横顔を橙色に染めている。
「……昨夜のことだが」
「昨夜、というと」
わざと聞き返すと、カイル様の耳がわずかに赤くなった気がした。
「髪に触れた。断りもなく」
「あ……」
思い出して、私も頬が熱くなる。
「気にしていませんわ。驚きはしましたけれど」
「俺は、気にしている」
きっぱりとした声に、私は顔を上げた。カイル様は真っ直ぐにこちらを見つめている。その瞳の奥に、いつもの冷静さとは違う、何かを堪えるような色が滲んでいた。
「言っておきたいことがある」
「はい」
私は針を置き、姿勢を正した。カイル様は一度深く息を吸い、それから、静かに言葉を紡ぎ始める。
「最初は、落とし物の持ち主を捜していただけだった。人形を作った人間が誰なのか、それだけが知りたかった」
「ええ」
「だが、途中からもう、何のために工房に通っているのか分からなくなっていた。人形の持ち主を捜しているのか、それとも、ただお前に会いたいだけなのか」
その一言に、心臓が大きく跳ねる。カイル様は言葉を選ぶように、一度言葉を切った。
「お前が正体を明かした後も、俺の気持ちは冷めなかった。むしろ、強くなる一方だった」
「カイル様……」
「持ち主だからじゃない。リゼット、お前自身に惹かれている」
初めて名前だけで呼ばれた瞬間、息が止まりそうになった。飾り気のない、それでいて確かな響き。
「最初に工房を訪ねた時のことを、よく覚えている。事務的な受け答えのはずが、お前の言葉の端々に、妙に惹きつけられた。理由も分からないまま、また会いたいと思うようになっていた」
カイル様の声は、いつになく静かで、それでいて熱を帯びていた。
「園遊会で再会した時、既視感が確信に変わりかけていた。それでも、お前の口から聞くまでは、確かめないと決めていた。焦って壊したくなかったから」
「そんな風に、考えてくださっていたんですね……」
知らなかった心の内を明かされて、胸の奥がじんと痺れる。
「不器用な言い方しかできないが……。お前と、これから先も一緒にいたい。そう思っている」
真っ直ぐな告白に、私は言葉を失った。それでも、胸の奥から込み上げてくるものを、もう抑えられなかった。
「私も……。私も、カイル様のことが好きです」
カイル様の目が、わずかに見開かれる。
「工房で何度も顔を合わせるうちに、いつの間にか、氷の騎士団長様としてではなく、一人の男性としてのカイル様に惹かれていたんです」
言葉にしてしまうと、これまで抱え続けていた想いが、堰を切ったように溢れてくる。
「正体がばれたら、嫌われるかもしれないと思っていました。それでも、変わらず来てくださって……。本当は、ずっと嬉しかったんです」
言葉にするたびに、これまで胸の奥に押し込めていた想いが、次々と溢れ出してくる。
「模倣店の一件の時も、噂に振り回された時も、カイル様が気にかけてくれるだけで、どれだけ救われていたか分かりません。それなのに、これ以上巻き込みたくないだなんて、格好つけていました」
「格好つけなくていい。俺も、お前に同じだけ助けられている」
静かな声で返され、私はふるふると首を振った。
「リゼット」
名前を呼ばれ、気づけばカイル様の腕の中にいた。硬い胸元に頬を寄せると、規則正しい鼓動が、いつもより速く跳ねているのが分かる。
「ようやく、言えた」
その一言に、安堵と喜びが入り混じった響きがあった。しばらくの間、どちらも動けずにいた。夕暮れの光が徐々に薄れ、工房の中に淡い橙色の灯りだけが残る。
「これから先も、色々あるかもしれない。噂も、まだ片付いていない」
顔を上げると、カイル様は私を見つめながら、静かに続けた。
「それでも、お前の隣にいる。その覚悟は、もうできている」
きっぱりとした言葉に、胸の奥が熱くなる。私は小さく頷き、もう一度その胸に顔を埋めた。
「私も、精一杯頑張りますわ。カイル様の隣に立てるように」
どちらからともなく、そっと顔を上げる。触れそうな距離で視線が絡み、どちらも動けなくなった。カイル様の指先が、そっと私の頬に触れる。
「様はいらない。カイルと呼べ」
返事をする間もなく、カイルの顔が、ゆっくりと近づいてくる。そっと重なった唇は、ひどく優しく、そして温かかった。
◇
工房を出た後も、俺はしばらく夢見心地だった。手綱を握る手に、まだ彼女の温もりが残っている気がする。
(ようやく、言えた)
これまでどれだけ言葉を選びあぐねていたか、自分でも呆れるほどだった。だが、口にしてしまえば、驚くほど簡単なことだったのかもしれない。
執務室に戻ると、レイフが書類を片手に待ち構えていた。
「団長、遅かったですね。何かあったんですか」
「……いや、何でもない」
素っ気なく答えたつもりだったが、レイフは訝しげに俺の顔を覗き込んでくる。
「団長、なんか、機嫌よくないですか?」
「気のせいだ」
「絶対、気のせいじゃないですよ。何ですか、その顔」
しつこく食い下がるレイフを無視して、俺は書類に目を落とした。それでも、口元が緩むのを止められない。
「まさか、ついに」
「……仕事に戻れ」
「いやいや、これは聞かせてもらわないと。何年、団長の片想いを見てきたと思ってるんですか、俺は」
レイフが身を乗り出してくるのを、俺は書類の山で視界を遮るように押し返した。
「……もう、片想いじゃない」
「は」
珍しく素直な返答に、レイフが目を丸くした。
「団長、今、さらっとすごいこと言いましたよね」
「うるさい」
これ以上追及されないよう、俺は話を打ち切った。それでも、心の中では、先ほどの温かな時間が、何度も繰り返し蘇っていた。
◇
カイルを見送った後、私は工房の椅子に座り込んだまま、しばらく立ち上がれずにいた。唇に残る感触が、まだ信じられない。
(本当に、両想いになれたのね……)
棚に並んだ人形たちを見回すと、その中にひときわ大切な一体がある。私の推し活が、いつの間にか本物の恋になっていた。前世の自分が知ったら、きっと信じられないと騒ぐだろう。
(推し活から始まった恋だなんて、我ながら変わった始まり方をしたものだわ)
それでも、後悔は少しもなかった。前世の情熱がなければ、あの人形も、この工房も、そしてカイルとの出会いも、何一つ生まれなかったのだから。
閉店の片付けをしながら、私はふと、明日からのことを考えた。噂はまだくすぶっているし、オクタヴィア様の抱える事情も、はっきりとは分かっていない。伯爵家の娘としての立場も、これから先どうなるか分からない。それでも、隣に彼がいてくれるなら、きっと乗り越えていける気がした。
(見ていてね。私、ちゃんと自分の想いを、伝えられたわよ)
窓の外には、星がまたたき始めていた。夜風が心地よく頬を撫でる中、胸の奥はまだ温かい余韻でいっぱいだった。灯りを消し、工房の扉に鍵をかける手つきさえ、いつもより軽やかに感じられる。
帰り道の馬車に揺られながら、私はもう一度、そっと唇に指先を当てた。まだ夢のような心地だったけれど、確かに感じたあの温もりだけは、紛れもない現実だった。
屋敷に着くと、アンナが玄関先で出迎えてくれた。私の顔を見るなり、彼女は目を丸くする。
「リゼット様、何かいいことでもありました? なんだか、いつもと顔つきが違いますよ」
「え、そんなに分かりやすいかしら」
「ええ、もう丸わかりです」
くすくすと笑うアンナに、私は誤魔化しようもなく頬を緩めた。
「今度、ゆっくり話すわね。今日は、ちょっと疲れたから、先に休ませてもらうわ」
「はい。おやすみなさいませ、リゼット様」
自室に戻り、寝台に腰掛けると、私は枕元の推しぬいをそっと抱き寄せた。糸で縫い留められた紺青の瞳が、いつもと変わらず優しく見つめ返してくる。
(ねえ、聞いて。今日、両想いになれたのよ)
誰にともなく囁きかけながら、私はしばらくの間、幸福な余韻に浸っていた。
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