第32話
朝の光が棚に並んだ人形たちを淡く照らしている。いつもなら心が浮き立つその眺めも、今日はどこか遠く感じられた。昨夜、月を見上げながら固めたはずの決意――オクタヴィア様のもとへ直接向かい、話をつける――は、一晩明けてみると、急に現実味を失っていた。
(行ったところで、何が変わるというの。オクタヴィア様は、表向き何もしていない顔をしていらっしゃるのに)
頭を冷やしてみれば、分かりきったことだった。証拠もなく詰め寄ったところで、はぐらかされて終わる。それどころか、夜分に押しかけたという事実だけが、新しい噂の種にされかねない。自分でも、薄々気づいていたことだった。
帳面を開いていると、アンナが心配そうな顔で近づいてきた。
「リゼット様、あまり根を詰めないでくださいね。顔色、良くないですよ」
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね」
「今日は少し配達を減らしましょうか。無理して倒れられる方が、よっぽど困ります」
珍しく強い口調で言われ、私は思わず苦笑した。
「大袈裟よ、アンナ」
「大袈裟なくらいでちょうどいいんです。リゼット様は、自分のことになると途端に鈍くなりますから」
呆れたように言われて、返す言葉もない。それでも、その率直さに、強張っていた肩から少しだけ力が抜けるのを感じた。
そう答えながらも、昨日届いたカイル様の一文を思い出すと、胸の奥にまだ小さな熱が残っているのが分かる。「無理をするな。一人で抱え込むな」――あの言葉に支えられて、どうにか気持ちを立て直していた。
開店してほどなく、常連の客が数人顔を出した。噂は依然としてくすぶっているものの、品物を信頼してくれている人たちは、変わらず足を運んでくれる。そのことに、じんわりと胸が温かくなった。
「リゼット様、これ、可愛らしくできましたね」
注文の品を受け取った若い女性客が、頬を緩めて何度も礼を言いながら帰っていく。その背中を見送りながら、私は小さく息をついた。
入れ替わるように、幼い娘の手を引いた母親が顔を出した。以前、綻びを直してほしいと預かっていた兎の人形を渡すと、娘は目を輝かせて胸に抱きしめる。
「わあ……! ちゃんと治ってる」
「大事にしてくれていたのね。だから、ちゃんと直したくなったのよ」
しゃがみ込んで目線を合わせると、娘は照れたようにはにかんだ。母親が深々と頭を下げる。
「本当に、いつもありがとうございます。噂のことは存じておりますけれど、私はこれからも変わらず伺いますからね」
その一言に、鼻の奥がつんと痛んだ。噂に振り回されない人が、確かにここにいる。そのことが、何よりの支えになる。
(大丈夫。誠実に、いつも通り続けていくしかないんだもの)
昼を過ぎた頃だった。表で控えめな馬車の音がしたかと思うと、見慣れない使用人が一通の書状を手に工房を訪れた。
「ヴァランタイン様に、レイモンド侯爵家より。オクタヴィア様が、本日これより伺いたいとのことでございます」
突然の知らせに、心臓が跳ねる。断る間もなく、使用人は一礼して立ち去ってしまった。
「リゼット様……。オクタヴィア様が、こちらへ?」
アンナの声が硬くなる。私は震えそうになる指先を、そっと握りしめた。
(向こうから来てくださるなら、好都合だわ。逃げも隠れもしない)
覚悟を決める間もなく、程なくして扉の呼び鈴が鳴った。顔を上げると、艶やかな栗色の巻き毛を結い上げた令嬢が、供の侍女を一人だけ連れて立っている。
「ごきげんよう、ヴァランタイン様。急に押しかけて、失礼だったかしら」
「オクタヴィア様……。いらっしゃいませ」
店内にいた客たちが、貴人の来訪に気づいてざわめく。オクタヴィア様は扇の陰でそれとなく口元をほころばせ、聞こえよがしに声を張った。
「近衛の団長様が、随分と贔屓にしていらっしゃるお店だと伺って。わたくしも、一度は拝見したかったんですのよ」
その一言に、店内の視線が一斉にこちらへ集まる。何気ない言葉のようでいて、団長様との関係を周囲に印象づけようとする狙いが透けて見えた。居心地の悪い沈黙の後、客たちは只ならぬ空気を察したのか、そそくさと会計を済ませて出ていく。扉が閉まる音を合図に、オクタヴィア様は棚に並んだ人形たちを、値踏みするような目で見回した。
「思っていたより、きちんとした店ですのね。もっと粗末なものかと思っていましたわ」
「ありがたいお言葉です」
努めて穏やかに応じると、オクタヴィア様は口元だけで笑い、扇をそっと開いた。
「単刀直入に申し上げますわ。あなた、団長様とどういうおつもりなの」
その一言に、店内の空気が張り詰める。私は膝の上で拳を握りながら、まっすぐに彼女を見返した。
「団長様には、お仕事の関係でお世話になっているだけですわ」
「お仕事、ね」
扇の陰から覗く瞳が、すっと細くなる。
「団長様が、それだけの相手にあれほど親身になさるとは思えませんけれど」
「それは、団長様ご本人にお聞きになるのが筋かと存じます」
思わず口をついて出た言葉に、オクタヴィア様の眉がぴくりと動いた。挑発するつもりはなかったが、退くつもりもなかった。沈黙が落ちる。アンナが息を呑む気配が、すぐ後ろから伝わってくる。
「今のうちに、身を引いておくことね。あなたのような立場の方が、これ以上団長様に関わらない方がお互いのためだと思うのだけれど」
やんわりとした口調の奥に、退けない圧があった。私は膝の上で拳を握りしめながら、それでも視線を逸らさなかった。
「お客様として、団長様がいらしてくださる分には、お断りする理由がございません。それに、私が身を引くかどうかは、オクタヴィア様に決めていただくことではありませんわ」
「……生意気な口を利くのね」
オクタヴィア様は扇を閉じ、こつん、と音を立てた。
「わたくしがどれだけ、あの方のために――」
言いかけて、彼女は不自然に言葉を切った。目が一瞬泳ぎ、それから取り繕うように顎を上げる。
「いいえ、何でもありませんわ。あなたに、話す必要のあることではなくてよ」
その一瞬の揺らぎを、私は見逃さなかった。噂を振りまく余裕たっぷりの令嬢という仮面の下に、何か別のものが覗いた気がした。
「オクタヴィア様」
「何かしら」
「噂のことで、お店にも、私自身にも、正直申し上げて困っております。ですが、それを差し引いても――オクタヴィア様が、本当は何を望んでいらっしゃるのか、私には分かりかねます」
真正面からの問いに、オクタヴィア様は一瞬、答えに詰まったように見えた。けれどすぐに、いつもの余裕を装った笑みを取り戻す。
「分かる必要なんて、ありませんわ。せいぜい、商売に励むことですわね」
そう言い捨てると、彼女は踵を返した。扉に手をかけたところで、一度だけ振り返る。
「――お店、繁盛しているようで何よりですこと」
皮肉とも本音ともつかない一言を残し、オクタヴィア様は侍女を連れて去っていった。馬車の音が遠ざかるのを聞きながら、私はようやく詰めていた息を吐き出す。
「リゼット様……! 大丈夫ですか」
「ええ……。思っていたより、何ともなかったわ」
そう答えたものの、指先はまだ小さく震えていた。膝から力が抜けそうになるのを堪え、私は近くの椅子に腰を下ろす。
「怖くなかったんですか」
「怖かったわよ、もちろん。でも、逃げたら余計に惨めになる気がして」
「リゼット様らしいです。でも、次からは絶対に私も一緒に立ち会いますからね。今日みたいに、一人で矢面に立たせるのは嫌です」
真剣な顔で言われて、私は思わず目を瞬いた。
「ありがとう、アンナ。頼りにしているわ」
「はい。任せてください」
胸を張るアンナの様子に、張り詰めていた気持ちが少しだけほどける。
アンナが淹れてくれた温かい茶を両手で包みながら、私は先ほどのオクタヴィア様の様子を思い返していた。「わたくしがどれだけ、あの方のために――」その続きが、どうしても気にかかる。
(あれは、何を言おうとしていたのかしら……)
◇
執務室に戻った俺の耳に、その報せが届いたのは夕方のことだった。
「団長、大変です。今日の昼、レイモンド嬢がヴァランタイン嬢の工房に乗り込んだそうですよ」
書類から顔を上げるより早く、レイフの言葉が耳に飛び込んでくる。
「乗り込んだ、とは」
「巡回中の部下が、レイモンド侯爵家の紋章の馬車が工房の前に停まっているのを見かけて、報告してきたんです」
一気に血の気が引いていくのが分かった。それ以上、聞いている暇はなかった。
「今から様子を見に行く」
言うが早いか、俺は上着を掴んで執務室を出た。
工房に着く頃には、空が赤く染まって日が傾きはじめていた。窓から漏れる灯りに、僅かに息をつく。扉を開けると、リゼットが顔を上げ、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「カイル様……。こんな時間に、どうなさいましたの」
「部下から聞いた。オクタヴィア嬢が来たと」
リゼットの表情が、一瞬だけ強張る。それだけで、彼女がどれほどの緊張を強いられていたかが伝わってきた。
「大丈夫でしたわ。少し、驚きはしましたけれど」
「本当に大丈夫なのか?」
「はい。言葉のやり取りをしただけですもの」
俺は改めてリゼットの顔を覗き込んだ。気丈に振る舞ってはいるが、目の下にはうっすらと疲れが滲んでいる。椅子を引き寄せ、俺は彼女の向かいに腰を下ろした。
「座って話せ。立ち話で済ませる内容じゃないだろう」
「そんな、大したことでは」
「俺が、大したことだと思っている」
有無を言わせぬ口調に、リゼットは観念したように小さく肩を落とし、椅子に腰掛けた。
気丈に答えるリゼットに、俺は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。それでも、彼女が一人でその重さを引き受けたという事実は、胸の奥に重く残る。
「悪かった」
「カイル様のせいでは、ありませんわ」
「俺のことが原因で、お前がこんな目に遭っている。それを、俺のせいじゃないと言うな」
思ったより強い声が出て、俺自身、少し驚いた。リゼットが目を丸くする。
「……すみません」
「謝る必要はない」
言葉を選びかねて、俺はしばらく黙り込んだ。彼女を守りたいという気持ちと、それを言葉にする不器用さの間で、もどかしさだけが募っていく。
「今度、こういうことがあったら、すぐに知らせろ。一人で抱え込むな」
「はい……。ありがとうございます」
リゼットが小さく微笑む。その笑顔に、ようやく肩の力が抜けた。窓の外はすっかり暗くなり、工房の灯りだけが、通りにぽつりと橙色を落としていた。
「レイモンド嬢は、何か言っていたか」
尋ねると、リゼットは少し考えるような素振りを見せた。
「途中で、何かを言いかけて、やめてしまわれましたの。『わたくしがどれだけ、あの方のために――』と」
その一言に、俺の中で小さな引っかかりが生まれる。レイモンド嬢とは、社交辞令程度の付き合いしかなかったはずだ。それでも、彼女がここまでリゼットに執着する理由が、何か別のところにあるような気がしてならなかった。レイモンド侯爵家といえば、王家とも縁の深い家柄だ。幼い頃から縁談を囁かれ続けてきたと、以前レイフから聞いたことを思い出す。だが、それだけで説明のつく執着とも思えなかった。
「気にするな。お前が気に病むことじゃない」
「そう、ですわね」
完全には納得しきれない様子のリゼットに、俺はそれ以上何も言わなかった。夜風が工房の扉を小さく揺らす。しばらくの沈黙の後、リゼットがぽつりと呟いた。
「カイル様が来てくださって、少し安心しました」
その素直な一言に、胸の奥が温かくなる。何か言葉を返したかったが、うまく形にならず、俺は代わりにそっと手を伸ばし、リゼットの頬にかかっていた髪を耳にかけてやった。触れた指先に、リゼットが小さく息を呑む気配が伝わってくる。しばらくして、自分のしたことに今更ながら気づき、俺は慌てて手を引っ込めた。
誤魔化すように咳払いをすると、俺は名残惜しさを振り切るように立ち上がった。
「遅くまで悪かった。戸締りは、しっかりしておけ」
「はい。送っていただいて、ありがとうございました」
工房を出ると、夜風が頬を撫でた。馬に跨り、一度だけ振り返る。窓越しに見えるリゼットの姿は、もう先ほどまでの張り詰めた様子ではなく、どこか穏やかに見えた。それだけで、来た甲斐があったと思えた。
◇
カイル様を見送った後、私は戸締りを終え、灯りを一つだけ残して椅子に腰を下ろした。今日一日の出来事が、どっと押し寄せてくる。
(オクタヴィア様、結局何が言いたかったのかしら……)
棚に飾った人形たちを眺めながら、私は先ほどの一幕を何度も思い返していた。「わたくしがどれだけ、あの方のために――」あの続きの言葉が、どうしても気にかかる。ただの嫌がらせにしては、あまりに必死すぎる響きがあった気がする。
それでも、今日一日を乗り越えられたのは、確かだった。震える足で立ち向かい、そして退かずにいられた。前世の自分なら、きっと部屋に閉じこもって終わっていただろう。
(少しは、強くなれているのかしら)
そう思うと、不思議と口元が緩んだ。灯りを消して工房を出る前に、私は棚に並んだ人形たちを一つずつ見回した。どれも、誰かの大切な想いを形にしたものだ。その一体一体に、そっと心の中で語りかける。
(明日は、きっと大丈夫よね)
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに工房の扉を閉めた。夜空には、雲一つない月が、静かに街を照らしていた。
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