第31話
カイル様に「様はいらない」と言われた夜から、まだ一晩しか経っていない。それなのに、揺れる馬車の中で、私はずっとそのことばかり考えていた。
(カイル、カイル……って、口の中で呼ぶ練習してどうするのよ、私。呼びかける相手もいないのに)
窓の外を流れる街路樹は、朝露を含んでしっとりと色を濃くしている。一人で赤面していたことにも気づかず、学園の門をくぐった途端、私はふと違和感を覚えた。すれ違う生徒たちの視線が、いつもより長く私の顔にとどまり、そして早くこちらから逸れていく。廊下の角で立ち話をしていた見知らぬ令嬢たちも、私に気づいた途端、ぴたりと口をつぐんだ。
教室に入っても、その空気は変わらなかった。机に鞄を置くと、斜め前の席の二人が声を潜めて何かを話している。聞くつもりはなかったのに、静かな教室では、ひそめた声さえよく通ってしまう。
「……ねえ、本当に近衛の団長様と?」
「ええ。オクタヴィア様が直接お尋ねになったのに、はぐらかしたんですって」
「まあ。伯爵家のご令嬢が、お店なんて開いて。そのうえ団長様まで手玉に取っていらっしゃるなんて」
斜め前の席の二人の声に、隣にいたマリー様がびくりと肩を揺らした。フィオナ様も眉をひそめ、今にも席を立ちそうな気配を見せる。私は小さく首を振って、二人を目で制した。
手玉に取る、という響きが、耳の奥にちくりと刺さった。振り返って何か言い返したい気持ちを、私は膝の上で握った拳にどうにか押し込める。教師が入ってきて授業が始まっても、黒板の文字がなかなか頭に入ってこなかった。
休み時間になると、いつもなら気軽に声をかけてくれるクラスメイトの令嬢が、今日に限って机の上の教本をわざとらしく整えるふりをして、私と目を合わせようとしなかった。以前、人形作りの相談に乗ってあげたこともある相手なのに、その素っ気なさに、胸の奥がすっと冷える。
(きっと。ただ、関わって面倒に巻き込まれたくないだけよね……。それは分かるけど、分かるだけに、なんだか余計に寂しいわ)
前世でだって、根も葉もない噂話がどれだけ人を傷つけるか、ネットニュースやSNSで何度も見てきたはずだった。実際に自分の身に降りかかると、頭で分かっていたつもりの痛みが、思っていた何倍も重く胸にのしかかってくる。
昼休み、いつもの中庭のベンチに腰を下ろすと、乾いた落ち葉が風に転がって靴先に当たった。追いかけるように、フィオナ様とマリー様が心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「リゼット様、大丈夫ですか」
「あの子たちの言い方、あんまりですわ」
マリー様が隣に座り、そっと私の手を握ってくれる。その温かさに、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。
「平気よ。今のところは」
「今のところ、というのが気になりますわね」
フィオナ様が眉をひそめ、扇の先で自分の肩を軽く叩いた。
「オクタヴィア様、あれから随分と精力的に動いていらっしゃるみたいですのよ。うちの侍女が聞いてきた話では、あちこちの茶会でリゼット様のお名前を出しては、それとなく団長様との仲を仄めかしていらっしゃるとか」
「仄めかす、というと」
「はっきりと悪く言うわけではありませんの。ただ『ずいぶん親しいご様子で』とか、『商売のためにご令嬢が団長様に取り入っているという噂も』とか、そういう否定しにくい言い方ばかりを」
フィオナ様の言葉に、私は思わず息を詰めた。真っ向から悪口を言われるより、そういう曖昧な言い回しのほうが、かえって始末が悪い。否定すればするほど、余計に噂の火に油を注いでいるようにも見えてしまう。
「私、団長様に何かして差し上げたことなんて、お店の仕事以外では……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。名前を呼んでほしいと言われたことまでは、さすがに二人にも打ち明けられそうにない。心の中だけで小さく身悶えしてから、慌てて話を戻す。
「分かっていますわ。でも噂って、本当のことかどうかなんて、誰も確かめようとしないんですもの」
マリー様が静かに言葉を添える。控えめな彼女らしくない、はっきりとした口調だった。
「リゼット様のお人柄を知っている私たちには分かります。でも、知らない方たちにとっては、面白い話のほうが広まりやすいんですわ」
「わたくし、いっそオクタヴィア様に直接、物申しに行ってやろうかしら」
フィオナ様が扇をぱちんと閉じ、物騒なことを言い出す。
「駄目よ、フィオナ様。事を大きくするだけだわ」
「分かっていますわよ、そのくらい。腹が立つだけですもの」
唇を尖らせるフィオナ様に、マリー様がくすりと笑いをこぼす。二人のやり取りに、強張っていた喉の奥から、ようやく小さな笑いが漏れた。
(もう。心配してくれているのに、そんな顔しちゃ駄目よね、私)
それでも、笑った拍子に緩んだ気持ちの奥には、まだ小さな棘が刺さったままだった。膝の上で、両手をそっと組み合わせる。
「私のことより、お父様やお母様のお耳に入ったらと思うと、それが一番怖いのよね……。せっかく商いを応援してくれているのに、変な噂で肩身の狭い思いをさせたくないもの」
「リゼット様のお店は、きちんと結果を出していますわ。少しくらいの噂で、傾くようなものではありませんもの」
フィオナ様がきっぱりと言い切ってくれる。その力強さに背中を押されながらも、私はうまく頷けなかった。伯爵家の娘として、家名に泥を塗るようなことだけは避けたい――その思いが、噂を聞いてからずっと、胸の底に重く沈んでいる。
昼休みの終わりを告げる鐘の音が、いつもより硬く、遠くに聞こえた気がした。
放課後、工房の扉を開けると、いつものように棚に並んだ人形たちが出迎えてくれる。窓から差し込む西日が、彼らの縫い糸の輪郭をやわらかく縁取っていた。それでも今日は、その愛らしい顔を見ても、心が晴れるまでには至らなかった。
開店してほどなく、以前、娘への贈り物にと絵本の登場人物の騎士の人形を注文してくれた男爵家の夫人が顔を出した。扉のところで、何かを言い出しかねるように、手にした鞄の持ち手を握り直している。
「奥様、いらっしゃいませ」
「あの……リゼットさん。実は、少し」
言いよどむ様子に、私は嫌な予感を覚えながらも、努めて穏やかに続きを促した。
「先日お願いしていた、娘への贈り物の品なのだけれど、今回は、少し見送らせていただこうかと」
「何か、不都合がございましたか」
「いいえ、そういうわけでは……」
夫人は視線を泳がせ、それから声を落とした。
「主人が、少し気にしていて。うちはレイモンド家の派閥でして、今この店に出入りするのは、体裁が悪いと……。ごめんなさいね、私自身は、あなたのお仕事をとても信頼しているのだけれど」
申し訳なさそうに眉を下げる夫人に、私はどうにか笑みを作った。
「お気になさらないでくださいませ。またお心が変わりましたら、いつでもいらしてください」
夫人が頭を下げて店を出ていくのを見送りながら、私は小さく息をついた。指先が、少しだけ冷たい。
入れ替わるように、幼い娘を連れた常連の女性が顔を出し、棚の隅にある小さな人形の耳飾りを直してほしいと頼んでくれた。何気ないやり取りに救われる思いがしたものの、彼女が扉を出た後の静けさに、私はまた俯きそうになる。
「リゼット様……」
奥から出てきたアンナが、痛ましそうな顔でこちらを見ている。
「聞こえていたのね」
「ええ。あんな言い方……。リゼット様は、何も悪いことなんてしていらっしゃらないのに」
アンナの声には、珍しく怒りがにじんでいた。それが自分のために憤ってくれているのだと分かるからこそ、私は無理にでも笑ってみせる。
「大丈夫よ。一件、二件、注文が減ったくらいで、店が傾くわけじゃないわ」
「そういう問題じゃありません。リゼット様が傷ついているのが、私、悔しいんです」
まっすぐな言葉に、鼻の奥がつんと痛んだ。ここで泣いてしまったら、余計に心配をかけてしまう。私は俯きかけた顔を上げ、大きく息を吸った。
「ありがとう、アンナ。……今日は、少し早く閉めましょうか」
「そうしましょう。無理は禁物ですよ」
窓の外の光が、橙色から次第に薄闇へと変わっていく。棚に並んだ端切れを一つずつ布で包み直しながら、アンナは何度もこちらの様子を窺うように視線を寄越した。
「オクタヴィア様って、そんなに怖いお方なんですか」
「怖いというより……。何と言えばいいのかしら。刃物を突きつけるんじゃなくて、綿でくるんだ針を、そっと差し込んでくるような感じ」
「まあ、それは厄介ですね」
アンナが顔をしかめながら、布を畳む手を止めた。
「でも、リゼット様が悪いことをなさったわけじゃありませんもの。堂々としていらしていいはずです」
「そうね……。頭では分かっているのだけれど」
棚を整理する手を動かしながらも、頭の中では夫人の言葉が何度も繰り返されていた。噂は、店の評判だけでなく、そこに関わる人の心まで少しずつ削っていく。模倣品の一件を乗り越えた時とは、質の違う重さが、じわりと肩にのしかかっていた。
片付けを終えかけた頃、控えめな呼び鈴が鳴った。顔を出したのは、見覚えのある近衛の制服を着た男だった。
「ヴァランタイン嬢に、団長から」
差し出された小さな封筒を、私はアンナと顔を見合わせながら受け取った。
◇
「団長、また例の噂の話ですけど。今日、随分広まってるみたいですよ」
執務室の扉を開けたレイフが、開口一番にそう告げた。書類から顔を上げ、俺は短く促す。
「詳しく話せ」
「レイモンド嬢が、あちこちの茶会でヴァランタイン嬢の話を持ち出してるらしいです。団長との仲を、それとなく匂わせる形で。あからさまに悪く言うわけじゃないので、余計に厄介なんですよ」
俺は椅子の背にもたれ、窓の外へ目をやった。夕方の光が、石畳の上に長い影を落としている。
「工房の商いにも、影響が出ているという話です。巡回中の部下から聞いた話では、注文の取り消しが何件か出ているとか」
その一言に、俺は無言のまま拳を握った。証拠固めという名目はとうに失われている。それでも足を運ぶのをやめなかったのは、他でもない自分の意思だった。その結果が、彼女の商いを傷つける形で返ってくるとは。
「今日は、様子を見に行かないんですか」
「行きたいのは山々だが」
机上に積まれた書類に目を落とす。夜通し詰めるべき警邏の割り振りが、今日に限って重なっていた。副団長のドレイクにも既に相談したが、この時期に穴を空けるわけにはいかないという判断は変わらない。団長という立場は、時に自分の望みよりも先に果たすべきことを課してくる。
「今夜は無理だ。明日の朝一番で顔を出す」
「珍しく大人しいですね」
「行っても、状況が変わるわけじゃない。今、俺にできることは、噂の出所を正確に押さえることだ」
レイモンド嬢とは、これまで夜会の場で言葉を交わしたことが数度あるきりだ。当たり障りのない挨拶と、社交辞令の域を出たことはなかったはずだった。それがなぜ、ここまでリゼットに矛先を向けるのか。心当たりがないわけではないが、確かめたところで詮のないことだった。
レイフが小さく肩をすくめ、それから真顔になった。
「団長がそこまで割り切れてるなら、俺は何も言いませんけど。……ヴァランタイン嬢、今頃、一人で抱え込んでそうな気がしますよ」
その言葉が、思いのほか長く耳に残った。彼女は弱音を吐くよりも先に、笑って取り繕おうとする性分だ。困っていても、それを表に出さずに一人で抱え込む姿が、容易に思い浮かんだ。
「せめて、一筆したためておく。届けてもらえるか」
「お、珍しい。分かりました、すぐ手配します」
机の端に置いた便箋を引き寄せ、俺は短く言葉を綴った。多くを書くつもりはない。ただ、一人で思い詰めるなという、それだけを伝えられればよかった。窓の外はいつの間にか、藍色に染まり始めている。
◇
屋敷に戻り、自室で一人になると、私は昼間受け取った封筒をそっと取り出した。見慣れた几帳面な文字で、短い言葉が綴られている。「無理をするな。一人で抱え込むな」――たったそれだけの、飾り気のない一文。それなのに、目にした途端、張り詰めていた気持ちがふっと緩んで、代わりに涙が滲みそうになる。
(もう。こんな短い手紙で、こんなに嬉しくなるなんて……。単純すぎるわ、私)
封筒を胸に抱くようにしまい、私は一人、静かに息を吐いた。それでも、この温かさに寄りかかってばかりではいけない、という思いも同時に湧いてくる。カイル様が気にかけてくれるたびに、彼まで巻き込んでしまう。今度は、自分の力で乗り越えなければ――そんな思いが、胸の奥で静かに固まりつつあった。
気を紛らわせようと、私は机に向かって針を手に取った。それでも思うように手は動かず、膝の上に広げた端切れは、さっきから同じ場所を縫っては解いての繰り返しだ。
(駄目ね、これじゃ。集中できていないの、丸わかりだわ)
窓の外はすっかり暗く、庭木の輪郭だけが月明かりに滲んで見える。虫の音が絶え間なく響く中、私は針を置き、膝を抱えるようにして俯いた。
夫人の言葉、教室でのひそひそ話、フィオナ様の教えてくれたオクタヴィア様の動き――一つ一つは小さな棘でも、積み重なると、思った以上に重くのしかかってくる。何より苦しいのは、誰かにこの重さを訴えたところで、噂そのものが消えるわけではないという、その事実だった。
ふと、枕元に置いていたカイル様の推しぬいに目が行った。あの日、彼から返してもらった人形だ。指先でそっと撫でると、あの頃の高揚が微かによみがえった。
(あの時は、ただ好きだから作っただけだった。誰かに何かを言われるなんて、考えもしなかったのに)
カイル様の顔が浮かぶと、昼間感じていた重さの奥に、また別の痛みが疼いた。彼が公務の合間を縫って店に足を運んでくれるたび、周りにどんな目で見られているか、想像するだけで胸が締めつけられる。それでも「もう来ないでほしい」とは、口が裂けても言えそうになかった。
自分の弱さを持て余しながら、私は窓辺に立ち、月を見上げた。
(このまま黙って耐え続けるだけじゃ、何も変わらない。誰かに守ってもらうんじゃなくて、私自身が何とかしないと……)
胸の奥で、小さな決意が芽生えかけている。オクタヴィア様に直接会って、話をつける。そう考えた途端、ひやりとした怖さが背筋を伝った。それが賢い選択なのかどうか、この時の私には、まだ判断がついていなかった。
月明かりだけが、静まり返った部屋を青白く照らしていた。
お読みいただきありがとうございました!
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