第30話
模倣店の一件が片付いてから、十日ほどが過ぎた。工房には以前と変わらない、いや以前よりも賑やかな日々が戻っている。棚に並んだ人形は次々と新しい持ち主のもとへ旅立っていき、アンナと二人で帳面をつける手も、心なしか軽やかになった気がする。
「リゼット様、こちらの反物、そろそろ次の柄を仕入れません?」
「そうね。人気の色から、先に足しておきましょうか」
棚の隅に積んだ端切れを整理しながら、アンナと他愛のないやり取りを交わす。窓から差し込む午後の光が、床に淡い模様を落としていた。開け放した扉からは、通りを行き交う人々の声や、荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音が絶え間なく流れ込んでくる。
昼過ぎに顔を出した常連の女性客に、追加で注文されていた人形用の小物を渡す。出来上がった品を受け取った途端、彼女は頬を緩めて何度も礼を口にしながら帰っていった。そんな一つ一つのやり取りに、私は静かな充実を感じている。
(噂に振り回されていたのが嘘みたい。ようやく、いつも通りの毎日が戻ってきた感じがするわ)
夕方近く、常連客の波が引いた頃を見計らって、アンナが茶を淹れてくれた。湯気の立つカップを両手で包みながら、彼女は思い出したように口を開く。
「そういえば、団長様。今週はまだ一度もいらしていませんね」
「そう、かしら。あまり数えていなかったけれど」
「あら、数えていらっしゃらないんですか? 毎回、扉の音がするたびにちらちらそちらを見ていらっしゃるのに」
からかうような視線を向けられ、私は思わず頬を熱くした。
「そ、そんなこと」
「隠さなくてもいいのに」
くすくすと笑うアンナに、返す言葉もなく、私はそっと視線を逸らした。証拠固めという口実がなくなった今も、カイル様がふらりと立ち寄る頻度は、以前とさほど変わらない。むしろ、理由がなくなった分だけ、その滞在は自然になっているようにさえ思えた。
そう思っていた矢先だった。店番の合間に、アンナが一通の封筒を差し出してきた。
「リゼット様、お母様からお手紙が届いていますよ」
開けてみると、丁寧な字で綴られていたのは招待の知らせだ。
「デルマー侯爵家主催の、園遊茶会……」
「まあ、素敵ですね。お日にちはいつですか?」
「明後日、だそうよ。母がぜひにと」
便箋を目で追いながら、私は小さく息をついた。工房が落ち着きを取り戻した今、社交の場から遠ざかりすぎるのもよくないと、母なりに気を揉んでいるのだろう。ここのところ店にかかりきりで、こうした催しには久しく顔を出していなかった。
「せっかくの機会ですし、良いのではありませんか? フィオナ様もマリー様も、きっといらっしゃいますよ」
「そうね……。少し、気晴らしにもなるかもしれないわ」
答えながらも、胸の奥にはかすかな警戒がよぎった。ああいう場に出れば、また誰かに噂話の種にされないとも限らない。それでも、模倣店の一件が無事に決着した今なら、きっと大丈夫だろう。私はそう自分に言い聞かせ、招待状を胸元にしまった。
その晩、屋敷の自室で、私はクローゼットの前で唸っていた。
(こういう場に着ていくドレス、久しぶりすぎて何が流行りなのか分からないのだけれど……。前世で言うところの、私服迷子ってやつだわ)
結局、淡い水色のドレスを選び、アンナに髪を結ってもらう約束をして、その日は眠りについた。
◇
当日、デルマー侯爵家の庭園は、秋の柔らかな日差しに包まれていた。天幕の下に並んだ白いテーブルには、季節の果実を使った菓子が彩り豊かに盛られている。楽団の奏でる旋律に混じって、令嬢たちの華やいだ話し声があちこちから聞こえてきた。
「リゼット様、こちらですわ」
フィオナ様に手招きされ、私は花壇の近くのテーブルへ腰を下ろした。隣ではマリー様が、運ばれてきた紅茶に口をつけながら、ほう、と小さく息をついている。
「久しぶりに、皆様とこうしてゆっくりできますわね」
「本当に。最近は、リゼット様のお店の話で持ちきりでしたのよ」
「持ちきり、というと……」
「模倣店の件はもちろんですけれど、それ以上に」
フィオナ様が扇の陰でくすりと笑う。
「近衛の団長様が、随分と目をかけていらっしゃるのではという噂ですわ」
その一言に、私は思わず紅茶のカップを持つ手を止めた。周囲を見回すと、少し離れたテーブルでも、こちらをちらちらと窺うような視線が幾つか感じられる。
(噂って……。そんなに広まっているの……? お、恐ろしい速さだわ、社交界の伝達力……)
背筋にひやりとしたものが走った。それでも、努めて平静を装い、私は小さく肩をすくめてみせる。
「団長様は、お仕事でいらしていただけですわ。それだけのことですのに」
「あら、そういうことにしておきますわね」
からかうような口調に、マリー様も控えめに笑いを添える。他愛のないやり取りに紛れて、私は胸を撫で下ろしかけた。
その時、テーブルの向こうから、涼やかな声がかけられた。
「まあ、賑やかですこと。ご一緒してもよろしいかしら」
振り向くと、そこに立っていたのは、艶やかな栗色の巻き毛を結い上げた令嬢だった。深い緑のドレスがすらりとした体つきによく映え、扇を持つ指先まで隙のない仕草には、育ちの良さと同時に、どこか値踏みするような鋭さが滲んでいる。
実を言えば、その名前は先ほどから何度も耳に入っていた。近くのテーブルの令嬢たちが、声を潜めながらも隠しきれない好奇の色を浮かべ、彼女の動向をちらちらと窺っていたからだ。
「オクタヴィア様」
フィオナ様が椅子から立ち上がりかけ、軽く会釈をした。私も慌てて倣う。侯爵令嬢オクタヴィア様の名は、社交界で幾度も耳にしたことがあった。近衛の団長様に想いを寄せていると、まことしやかに囁かれている令嬢だ。
「初めまして、ですわね。オクタヴィア・レイモンドと申します。ヴァランタイン伯爵家のリゼット様」
「はい。お目にかかれて光栄ですわ」
私が頭を下げると、オクタヴィア様は空いていた椅子に優雅に腰を下ろし、こちらをじっと見つめてきた。扇の陰から覗く瞳には、笑みの形をした冷ややかさがある。
「最近、よく耳にしますのよ。あなたのお店の噂」
「ありがたいことに、たくさんの方にご贔屓いただいておりまして」
「ええ、それは存じておりますわ。品物の評判のことも」
言葉を切ると、オクタヴィア様は運ばれてきた紅茶に口をつけた。カップを置く音が、やけにはっきりと耳に届く。
「けれど、それだけではありませんのよ。近衛騎士団長ともあろう方が、わざわざ一介の商店のために動かれた、という話」
声音は柔らかいままだったが、その奥に細い針のようなものが潜んでいるのを、私は感じ取った。
「たまたま、悪質な商行為を見過ごせないという、お立場からのご判断ですわ。団長様には、いろいろとご説明いただく機会がありましたので」
オクタヴィア様の目が、すっと細くなった。私は内心の動揺を押し隠しながら、どうにか笑みを保つ。
「ずいぶんと親しくしていらっしゃるのね。一介の商店主と、王国近衛の団長様が」
言葉の端々に、探るような響きが混じっていた。私は喉の奥が渇いていくのを感じながら、それでも表情だけは崩さないよう努める。
「お仕事上のお付き合いですわ。それ以上のものではございません」
「そう。それなら、いいのだけれど」
オクタヴィア様はそう言って、扇をぱちりと閉じた。その仕草には、こちらの言葉を信じたようには見えない、静かな含みがある。
「団長様は、公務にはとても真面目な方ですもの。商店の一件に本腰を入れられるのも、きっとそのお人柄ゆえなのでしょうね」
「ええ、まさに」
「そういえば、部下の方への誕生日祝いにと、可愛らしい犬の人形をお願いになったとも聞きましたわ。あの方が、そこまで細やかな気遣いをなさるなんて、正直、意外でしたの」
その話まで届いているのかと、私は内心で息を呑んだ。周りに聞かれていた自覚がなかった分、動揺が表に出そうになる。
「た、たまたまご注文をお受けしただけのことですわ。団長様の部下の方への贈り物を、少しお手伝いしただけで」
「ふふ、そう。ただ――」
わずかな間を置いて、オクタヴィア様は続けた。
「あの方が、公務以外で誰かに目をかけるところなんて、わたくし、これまで一度も見たことがありませんの。ですから、少し……気になっただけですわ」
その一言に、周囲の空気がわずかに張り詰めるのを感じた。フィオナ様が何か言い返そうと口を開きかけたが、私はそっと膝の上で手を握り、先に言葉を継いだ。
「オクタヴィア様のお耳に入るほど、団長様のお仕事ぶりが評判になっているということですわね」
「ふふ。うまく躱しますこと」
オクタヴィア様は小さく笑うと、優雅に立ち上がった。
「今日は、お会いできて楽しかったですわ。またお店にも、ぜひ伺わせていただきますわね」
去っていくその後ろ姿を見送りながら、私は詰めていた息をようやく吐き出した。テーブルに残された空気は、先ほどまでの和やかさとは明らかに違うものになっている。
「大丈夫ですか、リゼット様」
マリー様が心配そうに顔を覗き込んできた。
「え、ええ……。少し、驚いてしまっただけ」
「オクタヴィア様、ああ見えて負けず嫌いなお方ですのよ。団長様のことになると、特に」
フィオナ様が声を潜めて教えてくれる。
「昔から想いを寄せていらっしゃるのは、社交界では有名な話ですもの。今日のあれは、牽制のようなものだと思いますわ」
「牽制……」
その言葉を口の中で繰り返しながら、私は胸の奥がざわつくのを感じた。噂に振り回されるのは、もう十分に経験してきたはずだった。それなのに、今日感じた冷ややかさは、これまでとはどこか質の違うものに思える。
(もし、本当に牽制だとしたら……。この先、どうなってしまうのかしら)
楽団の旋律は変わらず穏やかに流れていたが、私の耳にはもう、その音色がどこか遠く聞こえていた。帰りの馬車に揺られる間も、オクタヴィア様の冷ややかな笑みが、頭の片隅から離れなかった。
◇
次の日。
「団長、なんかまた、令嬢絡みの面倒事の匂いがしますよ」
執務室に戻るなり、レイフが妙な顔で切り出してきた。俺は書類から視線を上げる。
「なんの話だ」
「デルマー侯爵家の茶会に、ヴァランタイン嬢が呼ばれてたそうです。うちの妹が、友人経由で聞いてきたんですけどね」
「それが、何か問題でもあるのか」
「オクタヴィア様も、その場にいらしたらしいですよ」
その名を耳にした瞬間、俺は僅かに眉を寄せた。オクタヴィア・レイモンド侯爵令嬢とは、幾度か夜会で言葉を交わしたことがある程度の間柄だ。それ以上でもそれ以下でもないはずだったが、周囲からは何かと結び付けられがちな相手でもあった。
「妹が言うには、オクタヴィア様、ヴァランタイン嬢にかなり突っ込んだ質問をしてたみたいで。団長との仲について」
「……根拠のない詮索だな」
「根拠がないとは言い切れないから、俺も心配してるんですよ」
レイフが肩をすくめる。
「あの方は、昔から気の強い方ですからね。目を付けた相手には、とことん意地を張るところがある。団長にその気がなくても、向こうがどう出るかは別問題ですから」
レイフは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「レイモンド侯爵家といえば、王家とも縁の深い家柄でしょう。オクタヴィア様ご自身も、幼い頃から団長との縁談を周りに囁かれ続けてきたって話、聞いたことありますよ」
「初耳だ」
「団長、そういう社交界の噂話には本当に疎いですよね……。とにかく、あの方にとっては、意地でも譲れない相手ってことなんでしょう」
俺は答えず、しばらく黙って窓の外に目をやった。オクタヴィアが何を思って動いたのかは、想像に難くない。だが、それがリゼットに向けられたとなれば、話は別だ。証拠固めも、警備の名目も、もう今の自分には要らない。それでも彼女のもとへ足が向くのは、他の誰にも譲れない、確かな理由があるからだ。その事実を、今さら誰かに揺るがされるつもりはなかった。
「様子を見てくる」
「え、今からですか。もう日も暮れかけてますけど」
「ああ」
立ち上がった俺に、レイフが呆れたような、それでいてどこか安堵したような笑みを浮かべる。
「相変わらず、早いですね」
軽口には取り合わず、俺は上着を手に執務室を出た。
◇
閉店の支度を終え、アンナを見送ったあと、私は一人で作業台に向かっていた。針を持つ手は動いているのに、頭の中では昨日のやり取りが何度も繰り返されている。
(意地を張る相手には、とことん、か……。フィオナ様の言葉、思い出すと余計に落ち着かないわ)
控えめな呼び鈴の音が響いたのは、そんな時だった。顔を上げると、扉の向こうに見慣れた長身が立っている。
「団長様……。こんな時間に、どうなさいましたの」
「近くまで来た。それだけだ」
いつもより口数の少ないカイル様が、店の中へ入ってくる。私はどこか探るような視線を向けられている気がして、思わず針を置いた。
「昨日、デルマー侯爵家の茶会に行っていたそうだな」
「え……。もう、耳に入っておりますの」
「風の噂だ」
素っ気なく答えると、カイル様は少しの間、こちらをじっと見つめた。
「何か、あったのか」
その一言に、私は喉の奥が詰まるのを感じた。昼間の冷ややかな視線を思い出すと、うまく言葉が出てこない。それでも、心配そうにこちらを見るカイル様の様子に、隠し続けるのも違うと思い直した。
「オクタヴィア様と、少しお話をしましたの。団長様のことを、色々と尋ねられて」
正直に打ち明けると、カイル様の眉間に、わずかな翳りが差した。
「不快な思いをさせたなら、俺の責任だ」
「そんな……。団長様のせいでは、ありませんわ」
「原因が俺にある以上、無関係とは言えない」
いつになく強い口調に、私は思わず言葉を失った。それでも、その硬さの奥に滲む案じる色に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「大丈夫ですわ。私、そんなにやわではありませんもの」
精一杯の強がりで笑ってみせると、カイル様はしばらく黙って私を見つめていた。その視線があまりに真っ直ぐで、私は思わず目を伏せそうになる。
「無理はするな」
「していませんわ」
「今、少し無理をした顔をした」
的確に言い当てられ、私は言葉に詰まった。誤魔化しようがなく、そっと肩の力を抜く。
「……少しだけ、驚いていたのかもしれません。あんな風に、面と向かって探りを入れられたのは初めてでしたから」
「それは、当然だ。悪いのは、こちらを詮索する側であって、君ではない」
きっぱりとした言葉に、胸の奥にわだかまっていたものが、少しずつ解けていくのを感じた。
「何かあれば、すぐに知らせろ」
「はい……。ありがとうございます、団長様」
「それと」
カイル様が、少し声を落とした。
「団長様、というのは、そろそろやめないか」
「え……」
「堅苦しいだろう、カイルと呼んでくれ」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。
「……カイル、様」
恐る恐る呼んでみると、カイル様はわずかに口元を緩めた。
「様はいらない」
「そ、それは、さすがに……」
まだ慣れない響きに頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく頷いた。
扉の外はすっかり暮れ、通りには等間隔に灯りが点り始めている。その柔らかな光を背に立つカイル様の姿を見ていると、昼間の不安が少しずつ和らいでいくようだった。それでも胸の奥には、オクタヴィア様の冷ややかな笑みが、まだかすかな棘のように残っている。この静けさが、いつまで続くのか――私はそっと、そんな予感を押し殺した。
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