第29話
催しの翌朝、工房の扉を開けると、昨日までとは明らかに違う空気が待っていた。
「リゼット様、見てくださいな、これ」
開店前だというのに、アンナは弾んだ声で帳面を差し出してきた。たくさんの予約が記入されていることに、私は思わず目を丸くする。
「これ、全部……昨日の分?」
「ええ。それに、朝一番でもう三件、注文の申し込みがありましたの。皆様、口を揃えて『昨日の様子を見て、安心しました』と仰っていましたわ」
嬉しさのあまり、帳面を持つアンナの手が小刻みに揺れている。私もその高揚が伝染したように、胸の奥がじんわりと温かくなった。
棚に並んだ人形たちを見回す。昨日、あれほど多くの人に囲まれていたのが嘘のように、今朝は静かにそこに佇んでいる。それでも一体一体が、確かに誰かの元へ届く日を待っているのだと思うと、不思議と誇らしい気持ちが湧いてきた。
開店してほどなく、以前一度注文を取り消していった若い女性が、少し気まずそうな顔で顔を出した。手には、以前見せてもらった控えめな絵姿が、しっかりと握られている。
「あの……。先日は、勝手なことを申し上げて」
「いいえ、お気になさらないでくださいませ」
「昨日の会に伺えなかったのですけれど、友人から様子を聞いて。丁寧に一針ずつ縫っていく様子を、身振り手振りで話してくれましたの。それを聞いて、なんだか急に、自分の判断が恥ずかしくなってしまって」
「そんな……。皆様、噂に振り回されて当然の状況でしたもの」
「改めて、お願いしてもよろしいでしょうか」
差し出された絵姿を、私はそっと受け取った。彼女なりに、迷いながらも足を運んでくれたのだろう。指先がまだ少しこわばっている。
「もちろんですわ。お待ちしておりました」
彼女がほっとしたように頬を緩めるのを見て、私も自然と笑みがこぼれた。噂に流されて離れていった人が、こうして戻ってきてくれる。その一つ一つが、これまでの積み重ねが確かに実を結んだ証のように思えた。
入れ替わるように、今度は近所の花屋の奥方が顔を出す。
「リゼットさん、聞いたわよ。昨日の催し、大盛況だったんですって?」
「おかげさまで。皆様に支えていただきました」
「うちの人ったら、あんな騒ぎがあったのに、あなたの店はびくともしなかったって、感心してたわ。近衛の団長様まで駆けつけたって話だから、そりゃあ本物なんでしょうって」
からかうような口調に、私はどう答えたものかと一瞬言葉に詰まった。
「た、たまたま、いらしただけですわ」
「あら、そう? 娘の分の人形、追加でお願いしたいんだけど、いいかしら」
「はい、喜んで」
賑やかなやり取りが交わされるたびに、工房の中には少しずつ、以前のような温かい空気が戻ってきていた。
「リゼット様、今日は朝からずっと笑顔ですわね」
「そうかしら。まあ、そうかもしれないわ」
誤魔化す気にもなれず、私は素直に頷いた。悪意ある噂に押し潰されそうになっていた日々を思うと、今日という日がどれほどありがたいか、しみじみと噛み締めずにはいられない。
午前の客足が一段落した頃、賑やかな声とともにフィオナ様とマリー様が連れ立って顔を出した。
「リゼット様! 今日の注文の増え方、聞きましたわよ。近くのお店の方からも、少し噂を耳にしましたの」
「フィオナ様、マリー様まで。わざわざありがとうございます」
「昨日は本当に、私たちも鼻が高かったんですのよ。あの厚かましい妨害の連中を、あっという間に追い払ってしまうんですもの」
誇らしげに胸を張るフィオナ様の隣で、マリー様も控えめながら嬉しそうに目を細めている。
「私、昨日は少し怖かったのですけれど……。皆様が落ち着いていらしたので、なんだか安心しましたわ」
「私も、内心はどきどきしていましたのよ。表には出さないようにしていただけで」
正直に打ち明けると、二人が顔を見合わせて小さく笑った。アンナが手早く茶器を用意し、四人でひとときの休憩を取ることになる。湯気の立つ茶を口に運びながら、フィオナ様がふと悪戯っぽい目を向けてきた。
「それにしても、団長様。昨日はあれだけ堂々と現れておいて、今日もまた顔をお出しになりましたの?」
「え……。どうしてご存知なのですか」
「表の窓から、後ろ姿をお見かけしましたもの。よほど心配でいらしたのでしょうね」
からかうような口調に、私は思わず耳が熱くなった。マリー様はそんな私を見て、くすくすと控えめに笑っている。
「リゼットさんと団長様、本当に息が合っていらっしゃいますものね。傍で見ていても、なんだか羨ましくなりますわ」
「そ、そんなことは」
「隠さなくてもよろしいのに」
フィオナ様に軽くつつかれ、私はますます言葉に詰まってしまう。それでも、こうして友人たちに冷やかされる時間さえ、今はただ愛おしく感じられた。
棚の整理をしながら、アンナと二人で新しい生地の在庫を数えていく。
「見本用の反物、そろそろ買い足した方がよさそうですわね」
「そうね。注文が増えるなら、なおさら」
数え終えた分を帳面に書き付けながら、アンナがふと手を止めた。
「そういえば、東の通りのお店、今朝方通りかかったら、随分と静かでしたわよ」
「静か……。ゴードンさんのお店が?」
「ええ。看板は出ていましたけれど、人の出入りは目に見えて減っていて。店先に並んだ人形も、朝からずっとそのままでしたわ」
その光景を思い浮かべ、私は複雑な気持ちになった。
(いい気味、なんて思ってしまう自分もいるけれど……)
それでも、こうしてあっけなく人が離れていく様を思うと、胸の奥に静かなやるせなさも残った。
昼過ぎ、控えめな呼び鈴の音とともに、見慣れた長身が工房に入ってきた。
「邪魔する」
「団長様。いらっしゃいませ」
いつもと変わらない挨拶を交わしながら、私は針を置いて向き直った。カイル様の表情には、いつになく落ち着いた色が浮かんでいる。
「筆跡の件、決着がついた」
「まあ……。本当ですか」
「書記官の照合で、市場に出回っていた中傷文と、ゴードンの店で使われていた発注書の筆跡が一致した。妨害に雇われていた三人の証言も揃っている」
淡々と告げられる報告に、私は思わず身を乗り出した。
「では、あの噂も、当日の妨害も」
「すべて、ゴードンの指図だったと立証できる。市の商事を取り締まる筋に、正式な届け出を済ませた。近く、営業許可の一時停止と、公の場での訂正広告が命じられるはずだ」
思いがけないほど手厚い決着に、私は言葉を失った。
「そこまで……。よろしいのでしょうか。私の店のことで、そんなに大掛かりに」
「悪質な商行為を見過ごせば、次の被害者が出る。当然の措置だ」
いつも通りの素っ気ない口調だったが、その奥に確かな誠実さが滲んでいるのを、私はもう十分に知っていた。
「粗悪な品物の方は、どうなりますの」
「回収命令が出る。今後、同じ手口で商売をすることも許されない」
「そう……。それなら、少しは安心ですわね」
私は胸を撫で下ろした。悪意に振り回された日々が、ようやく終わりを迎えようとしている。そう思うと、肩に乗っていた重さが少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「もっとも」
カイル様は工房の棚に視線を移した。
「処分がどうであれ、客の足が戻るかどうかは、また別の話だ。それを取り戻したのは、君自身の仕事だろう」
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。誰かに認めてもらえることが、こんなにも力になるとは思わなかった。
「団長様がそう仰ってくださると、心強いですわ」
「事実だ」
短く言い切るカイル様に、私は小さく笑ってしまった。
「あの、団長様……。新しい反物が届いていて、一人だと運ぶのに手こずってしまって。少しだけ、お力を貸していただけませんか」
「構わない」
カイル様は上着の袖をまくると、奥の倉から反物の束を軽々と運び出してくれた。武骨な手つきで棚に並べていく様子を、私は横で見守る。
「そこは、色ごとに並べていただけますか。手前が明るい色、奥に行くほど濃い色に」
「これで、いいか」
「ええ、ばっちりですわ。ありがとうございます、団長様」
「礼を言われるほどのことでもない」
照れ隠しのように言い返すカイル様に、私は思わずくすりと笑ってしまった。証拠固めだ、警備だという物々しい理由ではなく、こうしてただ隣で棚を整えている時間の方が、私にはずっと得難いものに思えた。
「そういえば、頼まれていたもの、仕上がりましたの」
作業台の隅に置いていた小さな包みに手を伸ばす。布を開くと、真っ白な起毛の生地で作った子犬の人形が姿を見せた。丸みを帯びた耳、黒糸で表現したつぶらな瞳、ちょこんと揺れる短い尻尾――抱きしめたくなるような、愛らしい仕上がりになっている。
「これは……」
カイル様が僅かに目を見開いた。腕を組んだまま、しばらくじっと人形を見つめている。
「思っていたより、随分と可愛らしいな」
「レイフ様は、犬がお好きだと伺いましたから。特に、耳のあたりに時間をかけましたのよ」
人形を差し出すと、カイル様はそれを受け取った。大きな手のひらの中に、小さな子犬の人形がすっぽりと収まっている。その様子が妙に微笑ましくて、私は思わずくすくすと笑ってしまった。
「今日、レイフ様にお渡しになりますの?」
「ああ。ちょうど、誕生日だと言っていた」
「喜ばれるといいですね。真っ白な子犬、大きな犬を飼いたいと仰っていたのでしょう? せめて、形だけでも叶えて差し上げたくて」
そう言うと、カイル様は一瞬、意外そうな顔をした。
「そこまで、考えて作ったのか」
「当然ですわ。お願いされた品には、一つ一つ、ちゃんと想いを込めておりますもの」
胸を張って答えると、カイル様は僅かに口の端を上げた。
「君らしいな」
その一言に、私は不意を突かれたように黙り込んでしまった。何気ない一言のはずなのに、そこに宿る温かさに、胸の内側がじんわりと満たされていく。
(こういう、何でもないやり取りが……。一番、嬉しいのかもしれないわ)
誰かのために作った物を、こうして受け取ってもらえる。それだけで、これまでの苦労がすべて報われる気がした。
「では、これは持って行く。丁寧に扱う」
「はい、よろしくお願いいたしますね」
人形を布に包み直すカイル様の手つきは、思いのほか慎重だった。その様子を見ているだけで、こちらまで気持ちがほどけていくようだった。
「そういえば、団長様」
「なんだ」
「模倣店の一件、片付いたら、少しはお時間も空きますの?」
尋ねると、カイル様は少し考えるような間を置いた。
「証拠を固める仕事は、ひとまず終わる。それが、何か」
「いいえ。少し、気になっただけですわ」
深い意味などなかったはずなのに、口にした後で、なんだか恥ずかしくなってしまう。カイル様は少しの間、こちらをじっと見ていたが、やがて短く答えた。
「暇になれば、また来る」
「……はい。お待ちしておりますわ」
素っ気ない言葉のはずなのに、そこに滲む確かな約束のようなものに、私は胸の奥がくすぐったくなった。恋人と呼べる間柄ではない。それでも、こうして自然と次を約束し合える距離感が、今の私たちにはちょうど心地よかった。
「では、行ってくる」
包みを小脇に抱えたカイル様が、扉に向かって歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、私はふと、彼が誰かのために丁寧に選んだ贈り物を、大事そうに抱えている姿を思い浮かべた。不器用なくせに、こうした心遣いだけは決して忘れない人なのだと、改めて思う。
「リゼット様、また見惚れてらっしゃいますよ」
奥から戻ってきたアンナに指摘され、私は慌てて咳払いをした。
「み、見惚れてなんて」
「口元が緩みっぱなしですけれど」
からかうような笑みを向けられ、私は返す言葉もなく、そっと視線を逸らした。それでも、否定する気にはなれない。噂の一件が片付いた安堵と、こうして自然に寄り添える誰かがいる幸せと――今日という日は、そのどちらもが胸に満ちていた。
◇
「団長、随分と大事そうに抱えてますけど、それ何です?」
執務室に戻るなり、レイフが興味津々といった様子で近づいてきた。俺は包みを机の上にそっと置いた。
「お前の誕生日祝いだ」
「は?」
間の抜けた声を上げるレイフに構わず、俺は包みを解いてやった。中から現れた真っ白な子犬の人形に、レイフは目を丸くする。
「これ……。まさか、本当に頼んでくれたんですか」
「言っただろう。前に、飼いたいとぼやいていたのを覚えていた」
「覚えてたって、あれ、酒の席での戯言みたいなもんですよ」
驚きを隠しきれない様子で人形を受け取ると、レイフはしげしげとそれを眺めた。指先で耳のあたりをそっと撫でている。
「耳のところ、やたら丁寧に作り込まれてますね。糸の重ね方まで凝ってる」
「本人が、そこに時間をかけたと言っていた」
「本人って、ヴァランタイン嬢が?」
その名を出した途端、レイフの口元に意味深な笑みが浮かんだ。
「団長のためじゃなくて、俺のために、こんなに丁寧に」
「別に、お前のためではない」
「そうですねぇ、団長が注文したからですもんねぇ」
軽口には取り合わず、俺は黙ったまま執務机に向き直った。事実、彼女が手を動かす様子を思い浮かべると、悪い気はしない。
「ゴードンの件も、片付いたそうですね」
「ああ。届け出は済ませた。近く、正式な処分が下る」
「団長がここまで本腰入れるの、最初は意外でしたけど。今はもう、驚きもしませんね」
レイフは人形を大事そうに抱え直すと、机の端に座り直した。
「それで、団長。片付いたなら、次はどうするんです」
「どう、とは」
「証拠固めだ、警備だって理由がなくなったわけでしょう。それでも、工房には通うんですか」
問われて、俺は少し黙り込んだ。理由がなくとも、足はいずれあの工房へ向くだろう。それは、もはや疑いようのない事実だった。
「暇を見つけて、行くつもりだ」
「はっきり言いましたね、今日は」
レイフが小さく笑う。
「隠す道理がない」
「まあ、それもそうですね」
人形の耳を指先で撫でながら、レイフは窓の外に目をやった。
「団長、いつか本当に、はっきり言葉にする日、来るんですかね」
不意の問いに、俺はすぐには答えられなかった。まだ恋人と呼べる関係ではない。それでも、証拠を追う口実がなくなった今も、あの場所へ向かう理由だけは、少しも揺らいでいなかった。
「まだ、その時ではない」
「まだ、ってことは、いずれはってことですね」
図星を突かれ、俺は黙って書類に手を伸ばした。レイフは追及せず、機嫌よく人形を抱えたまま席を立つ。
「じゃ、今日はこれ、部屋に飾っときます。ありがとうございました、団長」
「大切にしろ」
「言われなくても」
軽い足取りで出ていくレイフを見送りながら、俺は窓の外に広がる午後の空を眺めた。片付いたのはあくまで一つの厄介事に過ぎない。それでも、彼女の店に静けさが戻り、彼女自身が晴れやかな顔で笑っている――それだけで、費やした労力に見合う以上のものを得た気がした。
いずれ、この距離をもう一歩進める日が来る。まだ言葉にはできないが、その予感だけは、確かに胸の奥で育ち始めていた。
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