第28話
当日の朝、工房の中は静かな緊張に包まれていた。棚の人形たちは丁寧に並べ直され、机の上には仕上げの途中である見本の人形と、針や糸が整然と用意されている。
「リゼット様、そろそろお時間ですわ」
アンナに声をかけられ、私は深呼吸を一つした。鏡に映る自分の顔は、思っていたよりも硬い。
「大丈夫、いつも通りにするだけよ」
自分に言い聞かせながら、私は工房の中をもう一度見回した。棚に並んだ人形たち、机に広げられた道具、壁に飾った小さな花――どれも、いつもと変わらないはずなのに、今日はやけに特別なものに見える。
「フィオナ様とマリー様は、もういらしているの?」
「ええ、少し前に。招待状の返事をくださった方々のお名前も、控えてありますわ」
アンナが手にした帳面を見せてくれる。丁寧な文字で書き連ねられた名前の数に、私は改めて身が引き締まる思いがした。
「緊張していらっしゃいますか」
「少しだけ。でも、悪い緊張ではないと思うわ」
正直に答えると、アンナが柔らかく微笑んだ。
「リゼット様なら、大丈夫ですわ。いつも通りのお仕事を、いつも通りにお見せするだけですもの」
その言葉に、私は小さく頷いた。特別なことをする必要はない。ただ、これまで積み重ねてきたものを、ありのままに見てもらうだけでいい。そう思うと、不思議と肩の力が抜けていった。
自分に言い聞かせるように呟くと、控えめな呼び鈴の音とともに、最初の客が姿を見せた。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
招待状を手にした若い女性が、丁寧に頭を下げる。続いて、二人、三人と客が訪れ始め、工房の中は次第に賑やかさを増していった。フィオナ様の呼びかけに応じてくれた令嬢たちの姿もちらほら見える。
「まあ、思っていたより集まってくださいましたわね」
フィオナ様が嬉しそうに耳打ちしてくる。私も、胸の内の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
やがて時間になり、私は集まってくれた人々の前に立った。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。市場で良くない噂を耳にされた方も多いかと存じますが、まずは私どもの仕事を、実際にご覧いただければと思います」
挨拶を終えると、私は用意していた見本の人形を手に取った。表情を縫い上げる仕上げの工程――一目一目、丁寧に糸を通していく様子を、集まった人々がじっと見つめている。
「まあ……。こんなに細かい作業だったのね」
「一体仕上げるのに、これほど時間がかかるとは、思ってもみませんでした」
感心したような呟きが、あちこちから漏れ聞こえてくる。
「お値段が違うのも、当然ですわね」
「これだけの手間をかけていらっしゃるなんて、驚きました」
小さくざわめく人々の声に耳を傾けながら、針を運ぶ手を止めずに、私は続けた。
「一体一体、お客様の大切な方の面影を、丁寧に写し取ってまいります。時間はかかりますが、それだけ長くお使いいただけるものをお届けしたいと思っております」
説明が一段落すると、フィオナ様が進み出た。
「僭越ながら、私からも一言。私がリゼット様にお願いした人形は、もう何年もの間、私の心の支えになっておりますの。安さだけでは、決して得られない価値がございますわ」
力強い言葉に、集まった人々が頷く。続いて、マリー様も控えめに手を挙げた。
「私からも、少しだけ。エドガー様の人形をお願いした時、リゼットさんが真剣に針を運ぶ姿を見て、値段以上の価値を感じましたの。今日、皆様にもその様子をご覧いただけて、嬉しく思います」
二人の言葉に、集まった客たちの表情が変わっていくのが分かった。値段だけで判断していた人々の目に、少しずつ理解の色が浮かんでくる。
集まった客の中には、腕を組んだまま、値踏みするようにこちらを見ている若い女性もいた。友人に誘われて、半信半疑でついてきたという様子だった。
「悪いけど、丁寧なのは分かったわ。でも、それだけの手間をかけて、この値段は正直高いと思う」
率直な問いに、私は少し考えてから答えた。
「決して楽ではありませんが、一つ一つに納得していただけるからこそ、次の注文にも繋がっております。目先の値段より、長く信頼していただけることの方が、私には大切なのです」
迷いのない返答に、彼女は僅かに目を見開いた。
「なるほど……。思っていたより、しっかりした考えをお持ちなのね」
そう言うと、彼女は小さく頷き、その場で一つ注文を申し出てくれた。
「あの、以前少し噂を耳にして、注文を迷っていたのですけれど」
声を上げたのは、先日訪ねてきてくれた、あの若い女性だった。
「今日、実際に拝見して、心配は要らないと分かりました。改めて、お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんですわ。ありがとうございます」
彼女の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。一人、また一人と、注文の申し出が続いていく。噂に怯えていた日々が、少しずつ過去のものになっていくようだった。
そんな中、控えめな呼び鈴とともに、見慣れた長身が工房の隅からそっと入ってきた。周囲の視線が、一斉にそちらへ向く。
(あら……)
私は思わず口元を緩めた。カイル様は素知らぬ顔で、棚に並んだ人形を眺めている。
「まあ、あちらにいらっしゃるのは、近衛騎士団長様では」
「本当に。あんな方まで、こちらのお店に」
「氷の騎士団長様が、こんな場所にいらっしゃるなんて」
周囲がざわめき始めるのを見て、フィオナ様が悪戯っぽく笑った。
「団長様も、リゼット様のお店の常連でいらっしゃいますのよ」
わざとらしく声を張り上げるフィオナ様に、カイル様が僅かに眉を寄せる。それでも、その場を立ち去ろうとはしなかった。
「ずいぶんと、繁盛しているようだな」
近づいてきたカイル様が、素っ気ない口調で言う。
「ええ、おかげさまで」
「品質さえ伝われば、悪意ある噂など、じきに消える。そう言った通りだろう」
得意げでもなく、淡々と告げるその言葉に、私は小さく頷いた。
催しが半ばを過ぎた頃、工房の外が急に騒がしくなった。何事かと思い外を覗くと、見知らぬ男が数人、工房の前で声高に何かを言い立てている。心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「こんな店、大した腕もないくせに」
「本当にいい品なら、ゴードンの店より安く出せるはずだろう」
明らかに、こちらの評判を落とそうとする物言いだった。集まった客たちにも、動揺の色が広がる。私が言葉を失っていると、私服姿の男たちが素早く動き、騒いでいた者たちを丁寧に、しかし有無を言わさぬ様子で工房の前から遠ざけていった。
「ご安心を。ただの営業妨害です」
その場を仕切っていたのは、見覚えのある騎士の一人だった。カイル様が事前に配置してくれていた人員なのだと、私はすぐに気づいた。動揺していた客たちも、騎士の落ち着いた対応を見て、次第に安堵の表情を取り戻していく。
「怖い思いをさせて、申し訳ありません」
私が声をかけると、集まった客の一人が首を振った。
「いいえ。むしろ、こうしてすぐに対応してくださって、安心しましたわ」
その言葉に、私は胸を撫で下ろした。騒ぎが却って、こちらの誠実さを裏付ける形になったのかもしれない。
「団長様、ありがとうございます」
「礼はいい。想定の内だ」
短く答えるカイル様の表情は、いつも通り変わらない。それでも、その場にいてくれることが、これほど心強いとは思わなかった。
小さな騒ぎも収まり、催しは滞りなく進んでいった。最後には、想定していた人数を上回る客が集まり、いくつもの新しい注文を頂くことができた。
「リゼット様、大成功ですわね」
片付けをしながら、アンナが晴れやかな笑顔を見せる。
「ええ。皆様のおかげよ、本当に」
私は棚に並んだ人形たちを見回した。丁寧に作り続けてきたものが、ようやく正当に評価される日が来た。その実感が、じんわりと胸に染み渡っていく。
客たちが帰り、静かになった工房で、私はカイル様と二人きりになった。
「今日は、ありがとうございました」
「礼を言われることでもない。君が積み上げてきたものが、認められただけだ」
素っ気ない言葉の中に、確かな温かさが滲んでいる。私はその言葉を、静かに胸の内で反芻した。
「これで、噂も少しは収まってくれるでしょうか」
「一朝一夕にはいかないだろうが、今日の様子を見た人間の口から、良い評判も広がっていくはずだ」
「そうだといいのですけれど」
「心配するな。この調子で行けばいい」
短い励ましの言葉に、私は小さく笑みを返した。
「それにしても、団長様がいらしただけで、あれほど場が沸くとは思いませんでしたわ」
「俺のせいだと言いたいのか」
「いいえ、むしろありがたく思っておりますわ。おかげで、噂を打ち消す何よりの話題になりましたもの」
からかい半分に言うと、カイル様は僅かに眉を寄せた。それでも、まんざらでもなさそうな様子に、私は思わず笑ってしまった。
「今日みたいな日が、これからも増えるといいですわね」
「そうだな」
短く相槌を打つカイル様の横顔を見つめながら、私はふと、この穏やかな時間がいつまでも続けばいいと願わずにはいられなかった。窓の外では、夕暮れの光が、片付いた棚をやわらかく照らしていた。
◇
「団長、今日の首尾はどうでした」
執務室に戻ると、レイフが待ちかねたように尋ねてきた。
「上々だ。新しい客も、何人か獲得できたようだ」
「そりゃよかった。俺が見た限りでも、随分と盛況でしたよ」
「妨害があったのは、聞いているな」
「ええ、配置していた奴らから報告を受けました。手際よく片付いたようで、何よりです」
「客に、怪我はなかった。それだけが救いだ」
俺の言葉に、レイフは僅かに表情を引き締めた。
「見ていたのか」
「客として、って言ったじゃないですか。しっかり見物させてもらいました」
悪びれもせずに言うレイフに、俺は小さく息を吐いた。
「妨害の連中は、どうだ」
「三人とも、身元は割れました。案の定、ゴードンの店で以前雇われていた男たちですね」
「証拠には、なるか」
「これだけでは弱いですが、筆跡の件と合わせれば、そろそろ動けそうです」
レイフの報告に、俺は静かに頷いた。着実に、追い詰めるべき相手の輪郭が見えてきている。
「書記官の方の返事は、いつ頃になる」
「早ければ、明日中には。筆跡が一致すれば、言い逃れはできないはずです」
「その時は、正式に立件できるよう手続きを進める。証拠は、一つも取りこぼすな」
「了解です。団長がそこまで本腰入れるの、正直意外でしたけどね」
レイフの物言いに、俺は小さく息を吐いた。仕事だと割り切ればそれまでだが、彼女の店が理不尽に貶められる様を見て、平静ではいられなかったのも事実だった。
「団長、今日、随分と楽しそうでしたね」
「そんなことはない」
「顔には出てませんでしたけど、なんとなく分かるんですよ、俺には」
からかうような口調に、俺は何も言い返さなかった。事実、彼女の店に人々が集まり、素直に感嘆する様子を見ていた時間は、悪くないものだった。
「それにしても、団長がわざわざ客として顔を出すなんて、皆さぞ驚いたでしょうね」
「別に、構わない」
「まあ、噂を吹き飛ばすには、ちょうどいい話題になったんじゃないですか。氷の騎士団長様お墨付きの店、ってね」
軽口に、俺は僅かに口の端を上げた。悪くない響きだと、素直にそう思った。
「証拠が揃い次第、一気に片をつける」
「了解です。あと少しですね」
「団長、そういえば、今日の催しで一番驚いたのは何です?」
不意に尋ねられ、俺は少し考えた。
「客の一人が、彼女の考えを聞いて、その場で態度を変えたことだ。値段だけを見ていた人間の目が、変わる瞬間を見た」
「へえ、団長らしくない感想ですね。でも、分かる気がします」
レイフが珍しく神妙な顔で頷く。窓の外に広がる夜空を見上げながら、俺は静かに、次の一手を思い描いていた。彼女の築き上げてきたものを守るためなら、労を惜しむつもりはなかった。
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