第27話
朝の光が差し込む工房のテーブルには、市場で拾ってきた例の中傷文と、フィオナ様やマリー様が持ち寄ってくれた噂の詳細が広げられていた。
「こうして並べてみると、随分と念入りにやっているのが分かりますわね」
フィオナ様が紙を指先でつつきながら、眉根を寄せる。
「値段の安さを売りにしながら、裏でうちの評判を貶める噂を流す……。相当、計算高い人物なんでしょうね」
マリー様が静かに呟いた。控えめな口調の中に、確かな怒りが滲んでいる。
「アンナ、注文の取り消しは、今のところ何件?」
「本日の分も含めて、五件ですわ」
数字を聞き、私は思わず唇を噛んだ。丁寧に仕事を続けてきたつもりだったのに、根拠のない噂一つで、積み上げてきたものが揺らいでいく。その理不尽さに、胸が締め付けられる。
「悔しいけれど、噂を否定して回るだけでは、埒が明きませんわね」
「ええ。相手は、こちらの言葉より先に、安さで人の目を引いていますもの」
フィオナ様の言葉に、私は頷いた。値段の安さに惹かれる客の気持ちも、分からないわけではない。だからこそ、品質だけを訴えても、届かない相手がいるのも事実だった。
「では、どうすればいいと思う?」
私が尋ねると、三人はそれぞれに考え込んだ。
「噂を打ち消すために、こちらから反論の紙でも配りましょうか」
アンナが提案すると、フィオナ様が首を横に振った。
「それだと、向こうと同じ土俵に立つことになりますわ。悪口の応酬に見えてしまえば、かえって印象を悪くしかねません」
「確かに……。それもそうですわね」
「相手のやり方を真似るのではなく、こちらにしかできないことで示すべきだと思いますの」
フィオナ様の言葉に、私は深く頷いた。品位を落とさず、けれど確かに伝わる方法――それを見つけなければならない。しばらくの沈黙の後、口を開いたのはマリー様だった。
「実際に見ていただくのは、どうかしら。出来上がった人形を並べるだけでなく、作っている様子そのものを」
「作っている様子、ですか」
「ええ。縫い目一つ、糸の選び方一つにも、手間がかかっていることが伝わると思うの。エドガー様の人形をお願いした時、リゼットさんが真剣に針を運ぶ姿を見て、私、値段以上の価値を感じましたもの」
控えめながらも、実感のこもった言葉だった。私は思わず胸が熱くなる。
「それ、いい考えですわ。工房を少しの間、開放して、興味のある方に作業風景を見ていただくというのは」
フィオナ様が身を乗り出す。
「でも、他のお客様の人形が並んでいるところを見られて、失礼にあたりませんか」
アンナが心配そうに眉を寄せた。もっともな懸念だった。
「そこは、今作りかけの見本だけをお見せすれば大丈夫だと思うわ」
「なるほど、それなら安心ですわね」
「それに、これまで作らせていただいたお客様に、感想を一言いただくというのも」
「お客様の声、ですのね」
「ええ。私からの言葉より、実際に使っている方の言葉の方が、きっと信じてもらえますもの」
マリー様が頷きながら続けた。
「私も、喜んで協力しますわ。エドガー様の人形を、どれだけ大切にしているか、胸を張ってお話しできます」
「私もですわ。リゼット様に作っていただいた人形が、どれほど日々の支えになっているか」
二人の言葉に、私は思わず目頭が熱くなった。
「ありがとうございます……。お二人がいてくださって、本当に心強いです」
「水臭いですわよ。友人ですもの」
フィオナ様が明るく笑い飛ばす。その屈託のない笑顔に、私は少しずつ、沈んでいた気持ちが上向いていくのを感じた。
そんな話をしていると、控えめな呼び鈴とともに、見慣れた長身が工房に入ってきた。
「邪魔する」
「団長様」
「随分と、賑やかだな」
カイル様が室内を見渡しながら、僅かに口の端を上げる。
「フィオナ様やマリー様と、対抗策を考えていましたの」
「対抗策、か」
「ええ。工房の様子を実際に見ていただく機会を作ろうかと。作業風景と、お客様の声をお借りして」
私が説明すると、カイル様は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「悪くない案だ。ただ、人を集める以上、警備の面は考えておいた方がいい」
「警備、ですか」
「噂のせいで、この店を良く思わない人間が全くいないとは限らない。当日、騎士団から何人か、目立たない形で配置させよう」
実務的な提案に、私は思わず驚いた。感情論だけでなく、こうした現実的な視点を持ち込んでくれることが、何よりありがたかった。
「そこまでしていただかなくても」
「客の安全は、こちらにも関わることだ。深く考えなくていい」
素っ気ない口調だったが、その配慮の細やかさに、私は密かに胸を打たれた。
「万が一、当日にゴードン側の人間が邪魔をしに来たら、どうしましょう」
アンナが不安げに尋ねると、カイル様は静かに答えた。
「その時は、騎士団の名において注意する。営業妨害は、看過できる話ではない」
「頼もしいですわね」
「当然の職務だ」
抑揚のない声で言い切るその姿に、私は改めて、この方の誠実さを感じた。
「団長様は、いつも頼りになりますわね」
フィオナ様がからかうように言うと、カイル様は僅かに視線を逸らした。
「当然の判断をしたまでだ」
照れ隠しのような一言に、フィオナ様とマリー様が顔を見合わせ、くすくすと笑う。私も釣られて、思わず笑みがこぼれた。
「見せる場所は、この工房のままでいいと思う? それとも、もっと広い場所を借りた方がいいかしら」
私が尋ねると、アンナが少し考えてから答えた。
「工房のままの方が、かえって良いかと思います。普段のお店の様子そのままをご覧いただく方が、取り繕っていない印象になりますし」
「確かに、それもそうね」
「それに、あまり大掛かりにしすぎると、逆に不自然に映りますもの。いつも通りの工房に、少しだけ人をお招きする、くらいの気持ちでいいと思いますわ」
マリー様の言葉に、私は頷いた。飾り立てるのではなく、ありのままを見せる。それこそが、今回の狙いに一番かなっている気がした。
「人数は、どのくらいを想定しているの」
「あまり多すぎても、目が届きませんもの。二十人くらいが、ちょうど良いのではなくて」
フィオナ様が指を折りながら答える。
「招待状のようなものを、一言添えて配りましょうか。特別な機会だと分かるように」
「それはいい考えですわね。私、字を書くのは得意ですのよ」
マリー様が微笑みながら申し出てくれた。細やかな心遣いに、私は改めて友人たちのありがたみを噛み締める。
「それで、いつ頃を予定している」
「早い方がいいと思いますの。噂がこれ以上広がる前に」
「なら、五日後はどうだ。準備の都合もあるだろうが」
「五日……。忙しくなりますが、やってみますわ」
私が答えると、アンナが力強く頷いた。
「準備は、私にお任せください。案内の張り紙も、すぐに用意いたします」
「私は、周りの令嬢たちに声をかけてまわりますわ。人が集まってくれないことには、始まりませんもの」
「私も、微力ながらお手伝いしますわ」
それぞれが役割を申し出てくれる様子に、私は改めて、一人ではないのだと実感した。ゴードンの店が現れてから、ずっと胸の奥にわだかまっていた不安が、少しずつ形を変えていくのが分かる。
そんな話をしているところに、来店の呼び鈴が控えめに鳴った。顔を上げると、以前一度だけ人形を注文してくれた若い女性が、扉の前で躊躇うように立っている。
「あの……。今、大丈夫でしょうか」
「はい、どうぞお入りください」
招き入れると、彼女は工房の中を落ち着かない様子で見回した。
「実は、新しく注文をお願いしようか迷っていて……。でも、最近、良くない噂を耳にしたものだから」
言いにくそうに口ごもる彼女に、私は努めて穏やかに答えた。
「ご心配、おかけしております。よろしければ、少しだけお時間いただけますか」
私は棚から、以前彼女に作らせていただいた人形の控えの絵と、今仕上げている途中の別の人形を取り出して見せた。
「一目一目、こうして手をかけております。時間はかかりますが、それだけ長くお使いいただけるものをお渡ししたいと思っておりますの」
説明しながら、私は針を手に取り、仕上げの一部を彼女の前でゆっくりと縫って見せた。糸の通し方、力の加減――一つ一つの動きに、彼女は次第に引き込まれるように見入っていた。
「まあ……。こんなに丁寧に」
「よろしければ、五日後、工房の様子をご覧いただける機会を設けますの。もしお時間があれば、ぜひ」
「ええ、ぜひ伺いたいですわ。お話を伺って、なんだか安心しました」
彼女はそう言うと、迷っていた注文をその場で決めて帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、フィオナ様が満足げに頷く。
「ほら、ご覧なさい。きちんと伝われば、ちゃんと分かってくださる方はいるものですわ」
「本当ですわね……。ありがとうございます、皆様のおかげです」
小さな出来事だったが、私にとっては大きな励みになった。噂に怯えるだけでなく、一人ひとりに向き合っていけば、きっと道は開ける。そんな確信が、静かに胸の内に芽生えていた。
「あとは、私が良い品を、いつも通り丁寧に作り続けるだけですわね」
「それが、一番の武器だ」
カイル様の短い一言に、私は小さく頷いた。飾らない言葉ほど、まっすぐに胸へ届く。
「そろそろ、俺は戻る。あとは頼んだ」
「はい、ありがとうございました」
カイル様はそう言うと、工房を後にした。その後ろ姿を見送りながら、私は密かに、次に会える日を心待ちにしている自分に気づいた。
その日の夕方まで、私たちは細部の段取りを詰め続けた。誰に何を任せるか、当日の流れはどうするか――話し合う時間は、不思議と楽しくもあった。一人で抱え込んでいた重荷が、皆で分け合うことで、いつの間にか軽くなっていく。
途中、カイル様から話を聞いたというエドガー様も、力を貸しに顔を出してくれた。
「団長から伺いました。何かお手伝いできることがあればと」
「まあ、エドガー様まで、ありがとうございます」
挨拶を交わす中で、マリー様の顔を見つけたエドガー様が、僅かに目を見開いた。
「オルコット嬢も、こちらに」
「え、ええ……。リゼットさんの、お力になれればと思いまして」
声を上ずらせながら答えるマリー様に、エドガー様は律儀に一礼した。その微笑ましいやり取りに、私とフィオナ様は思わず顔を見合わせて笑った。
「それにしても、団長様がここまで協力してくださるなんて、思いませんでしたわ」
帰り際、フィオナ様がぽつりと呟いた。
「彼女の店のことだ。放っておけない」
「あら、素直ですこと」
からかわれても、カイル様は表情ひとつ変えなかった。それでも、その耳が僅かに赤くなっていることに、私は気づかないふりをした。
皆が帰った後、私は一人、静まり返った工房で棚の人形たちを見つめた。五日後、この場所に集まってくれる人たちの顔を思い浮かべると、不思議と怖さよりも楽しみの方が勝ってくる。
(大丈夫。今度は、一人で抱え込まなくていいんだもの)
そう自分に言い聞かせながら、私は明日からの準備に向けて、静かに気持ちを引き締めた。窓の外では、夕暮れの光が、工房の棚をやわらかく照らしていた。
◇
「団長、例の一件、準備の方は順調そうですね」
執務室に戻ると、レイフが興味深そうに声をかけてきた。
「ああ。五日後に、工房で品質を見せる場を設けるそうだ」
「へえ、面白そうじゃないですか。俺も見に行っていいですか」
「客として来る分には、構わない」
「じゃあ、休みを合わせておきます」
軽い調子で言うレイフに、俺は小さく息を吐いた。
「それで団長、警備の手配は」
「三人ほど、私服で配置する。目立たないように、周辺の見回りだけでいい」
「了解です。ゴードンの筆跡の件も、そろそろ書記官連中から返事が来る頃です」
「急がせるな。慎重にやれ」
「分かってますって。……それにしても団長、当日は柄にもなく緊張するんじゃないですか」
「なぜ、俺が緊張する必要がある」
「だって、大事な人の晴れ舞台みたいなものでしょう」
的を射た指摘に、俺はすぐには言葉を返せなかった。
レイフが肩をすくめる。窓の外を見やると、夕暮れの光が机の上に長い影を落としていた。
(五日後、か)
彼女が、自分の力で状況を変えようとしている。その姿を思うと、俺の中に静かな熱が灯るのを感じた。守ってやりたいという気持ちと、彼女自身の強さを信じたいという気持ちが、同時に胸の内でせめぎ合う。
「団長、また彼女のこと考えてます?」
「違う」
「顔に書いてありますよ」
からかうような声に、俺は何も言い返せなかった。事実、否定しきれない自分がいた。
「まあ、いいですけどね。当日は、俺も気合入れて見張りますよ」
「頼む」
「ところで団長、当日、団長ご自身は何をするおつもりで? まさか、突っ立って眺めてるだけじゃないですよね」
思いがけない問いに、俺は少し考え込んだ。確かに、警備の指揮を執るだけでは、あまりに味気ない。
「客として、普通に見に行くつもりだ」
「客、ですか。団長が客としてふらっと現れたら、それだけで注目を集めそうですけどね」
「別に、構わない」
「まあ、それならそれで、いい宣伝になるかもしれませんね」
からかい半分の物言いに、俺は小さく息を吐いた。それでも、悪い気はしなかった。
短く答えながら、俺は五日後の光景を思い浮かべた。彼女が、堂々と自分の仕事を示す姿を。その隣に立てることが、今はただ誇らしかった。窓の外に広がる茜色の空を眺めながら、俺は静かにその日を待つことにした。
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