第26話
工房の扉を開けると、朝の光の中で、アンナが浮かない顔をしていた。
「アンナ、どうかしたの?」
「実は、少し気になることが」
言いにくそうに口を開いたアンナの手には、一枚の紙が握られていた。
「これを、市場で見かけまして」
差し出された紙には、乱雑な文字でこう書かれていた。「推し縫い専門店の人形、実は縫製が粗悪だという噂あり。ご注意を」――明らかに、こちらの評判を貶めるための代物だった。
「こんなもの、誰が」
「分かりません。でも、心当たりは、一つしかありませんわね」
アンナの言葉に、私は思わず唇を噛んだ。ゴードンの店が現れてから、こちらの評判に対する当てこすりのような噂が、ちらほらと耳に入るようになっていた。
「うちの品質は、何一つ変わっていないのに」
「ええ。それなのに、こんな根も葉もない噂を流されるなんて」
窓の外を見やると、いつもなら足を止めてくれる通行人が、こちらをちらりと見ては、そそくさと通り過ぎていく。以前なら気にも留めなかった些細な光景が、今は針のように胸に刺さった。
「アンナ、この噂、どこまで広まっていると思う?」
「少なくとも、市場界隈では、ちょっとした話題になっているようです。悔しいですが」
「そう……」
私は棚に並んだ人形たちを見回した。どれも、丁寧に、心を込めて作り上げたものばかりだ。それが、根拠のない噂一つで色眼鏡で見られてしまうことに、やるせなさが募る。
悔しさに拳を握りしめる私の元へ、その日の午後、先日初めて注文をしてくれた若い女性が訪ねてきた。表情はいつになく硬い。
「リゼットさん、少しお話が」
「はい、なんでしょう」
「実は、先日お願いしていた注文なのだけれど……。今回は、見送らせていただこうかと」
思いがけない言葉に、私は言葉を失った。
「何か、粗相がございましたでしょうか」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、少し気になる話を耳にしたもので……。慎重になってしまって」
申し訳なさそうに目を伏せる彼女の様子に、私はそれ以上、無理に引き止めることができなかった。
「承知いたしました。またの機会に、お待ちしております」
彼女が帰った後、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。丁寧に、誠実に仕事を続けてきたつもりだった。それなのに、根拠のない噂一つで、積み上げてきた信頼が揺らいでしまう。その理不尽さに、胸が締め付けられる思いだった。
「リゼット様……」
「大丈夫よ、アンナ。まだ、こんなことで挫けたりはしないわ」
気丈に振る舞いながらも、内心では不安が渦を巻いていた。このまま噂が広がり続ければ、他の常連客たちも離れていってしまうかもしれない。
その日はさらに、二件の予約が取り消しになった。理由を尋ねても、皆一様に言葉を濁すばかりで、はっきりとしたことは言わない。それでも、その歯切れの悪さこそが、噂の影響を如実に物語っていた。
「リゼット様、少し休憩なさっては」
「ありがとう、アンナ。でも、こういう時こそ、手を動かしていたいの」
針を持つ手だけは、止めたくなかった。動き続けている限り、不安に押し潰されずに済む気がした。
そんな折、フィオナ様が息を切らして工房に飛び込んできた。
「リゼット様、聞きましたわ! ひどい噂を流されているって」
「フィオナ様……」
「私、黙っていられませんでしたの。さっそく、知り合いの令嬢たちに、うちのお店の良さを話して回ってきましたわ」
息継ぎもそこそこに捲し立てるフィオナ様の勢いに、私は思わず気圧されてしまう。
「そこまでしてくださらなくても」
「いいえ、友人のためですもの。それに、マリー様も心配して、これから来られるはずですわ」
言葉通り、間もなくしてマリー様も姿を見せた。両手には、見覚えのある人形――以前作った、エドガー様の人形が抱えられている。
「リゼットさん、私、これを見せて回ろうと思うの。本物の出来がどれだけ素晴らしいか、皆に知ってもらいたくて」
控えめながらも、決意のこもった声だった。二人の友人の心遣いに、私は胸が熱くなるのを感じた。
「フィオナ様、マリー様……。ありがとうございます」
「水臭いですわよ、リゼット様。困った時はお互い様と、前にも申し上げたはずです」
力強く言い切るフィオナ様の言葉に、私はようやく、笑顔を取り戻すことができた。一人で抱え込んでいた不安が、少しずつ軽くなっていく。
夕刻、控えめな呼び鈴の音とともに、見慣れた長身が工房に入ってきた。
「邪魔する」
「団長様……」
いつもより弱々しい声が出てしまったことに、私は自分でも驚いた。カイル様は私の様子に気づいたように、眉根を寄せた。
「何か、あったのか」
「実は……」
私は事情を話すことにした。悪意ある噂のこと、注文の取り消しが続いていること――話すうちに、抑えていたはずの不安が、じわりと滲み出てくるのが分かった。
「そうか」
短く相槌を打ったカイル様の表情には、静かな怒りが滲んでいた。
「その紙を、見せてもらえるか」
アンナが差し出した紙を、カイル様は険しい顔で読み込んだ。
「筆跡から、何か辿れるかもしれない。それに、ゴードンの周辺は、既に調べを進めている」
「団長様が、直々にですか」
「騎士団長としての職務の範囲内だ。悪質な商行為は、見過ごせない」
「でも、こんな一介の商店の噂話にまで、団長様のお手を煩わせてしまって……。よろしいのでしょうか」
申し訳なさが募り、思わず口にすると、カイル様は静かに首を振った。
「悪質な噂で商売を妨害する行為は、いずれ他の店にも波及しかねない。個人の問題では済まされない」
「それは、そうかもしれませんが」
「それに」
カイル様は一拍置いてから、静かに続けた。
「君の店だから、というのも、当然ある」
率直な一言に、私は言葉を失った。頬が熱くなるのを感じながら、私はどうにか小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
淡々とした口調の中に、確かな決意が滲んでいる。それを聞いて、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ただ、時間がかかるかもしれない。それまでの間、君には辛い思いをさせるかもしれないが」
「いいえ。団長様が動いてくださるだけで、十分心強いですわ」
素直な気持ちを口にすると、カイル様は僅かに目を見開いた後、小さく頷いた。
「必ず、片をつける」
力強いその一言に、私は思わず胸が熱くなった。一人で抱え込んでいた不安が、少しずつ溶けていくのを感じる。
「それに、こういう時こそ、いつも通りにしていることが一番の反撃になる。妙な噂に動じず、堂々と店を開け続けろ」
「はい……。仰る通りですわね」
カイル様の言葉に、私は改めて背筋を伸ばした。俯いてばかりでは、何も変わらない。
「今日は、何か注文をお願いしても?」
ふと尋ねられ、私は驚いて顔を上げた。
「え……。今日は、何かご入用でしたか」
「新しく、レイフの誕生日祝いに、人形を頼みたい」
思いがけない注文に、私は思わず頬が緩んだ。
「まあ、レイフ様のために? 喜んで、お作りいたしますわ」
「日頃世話になっている礼だ。ちょうど、誕生日も近いことだしな」
優しさの滲む理由に、私は改めて、この方の不器用な思いやりに触れた気がした。
「どのような人形がよろしいでしょうか」
「犬が好きだと言っていたな。大きな白い犬を飼いたいと、よくぼやいている」
「まあ、可愛らしいところがおありなのですね。それでは、真っ白な子犬の人形にいたしましょうか」
「頼む」
素っ気ない口調の中に、確かな親しみが滲んでいる。そういう不器用な優しさの表し方を、私はいつの間にか、好ましく思うようになっていた。
短いやり取りのはずなのに、こうして誰かのために意匠を練る時間は、不思議と心を落ち着かせてくれた。悪意ある噂に押し潰されそうになっていた気持ちが、少しずつ和らいでいくのを感じる。
「団長様は、本当にお優しい方ですのね」
「買いかぶりだ」
素っ気なく返しながらも、その耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
夜、工房を閉めた後、私は早速レイフ様への贈り物の意匠を考え始めた。真っ白な子犬の愛らしい姿を思い浮かべながら、糸の色や表情を選んでいく。手を動かしている間だけは、悪意ある噂のことも、不安な気持ちも、少しだけ忘れることができた。
「リゼット様、随分と楽しそうに手を動かしていらっしゃいますね」
様子を見に来たアンナが、くすくすと笑いながら声をかけてくる。
「ふふ、そうかしら。誰かのために何かを作るのは、やっぱり好きなの」
「それに、団長様のためでもありますものね」
「アンナったら」
からかうような口調に、私は思わず頬を赤らめた。それでも、否定する気にはなれなかった。誰かを喜ばせたいという気持ちが、こんなにも自分を前向きにしてくれるとは、改めて実感する夜だった。
(大丈夫。一人じゃないもの)
そう自分に言い聞かせながら、私は夜遅くまで針を動かし続けた。窓の外に瞬く星々だけが、静かにその様子を見守っていた。
◇
「団長、ゴードンの周辺、少し掴めてきましたよ」
執務室に戻るなり、レイフが真剣な顔で報告してくる。
「言ってみろ」
「以前、別の商会相手にも、粗悪品を掴ませて揉めたことがあるようです。示談で済ませているので、表沙汰にはなっていませんが」
「やはりか」
「今回も、同じ手口っぽいですね。品質の悪さを誤魔化すために、逆に相手の評判を貶める噂を流す、という」
レイフの報告に、俺は静かに怒りを募らせた。彼女が丹精込めて築き上げてきたものを、こんな卑劣な手段で貶めようとする人間が、許せなかった。
「証拠は、まだ足りないな」
「ええ、もう少し時間がかかりそうです」
「筆跡の方は、どうだ」
「そちらも、地道に当たっています。市場の書記官連中に、それとなく聞き込みをかけていますが……。時間はかかりそうです」
「構わない。焦って証拠を取り逃がす方が、よほどまずい」
「団長がそう仰るとは、意外ですね。もっと性急に動くかと思ってました」
「証拠を固めるまでは、迂闊に動けない。それだけの話だ」
自分の言葉を思い返しながら告げると、レイフは感心したように頷いた。
「そうですね」
俺は工房での彼女の毅然とした横顔を思い出していた。不安を抱えながらも、決して俯かなかったあの姿に、俺自身も励まされていた。
「構わない。確実に、追い詰める」
俺の口調に、レイフが少し驚いたように目を丸くする。
「団長、本当に本気ですね」
「当然だ」
「まあ、それだけ本気になれる相手がいるのは、いいことだと思いますよ」
からかい半分、それでいて確かな親しみの滲む声だった。
「減らず口を叩く暇があるなら、手を動かせ」
「はいはい」
軽い返事とともに、レイフは席へと戻っていった。俺は何も言い返さず、ただ窓の外の夜空を見上げた。彼女の不安げな表情を思い出すたびに、胸の奥が締め付けられる。早く、この問題を解決してやりたい。その一心で、俺は静かに次の手を練り始めた。
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